TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る   作:雅媛

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62 日本ダービー

 五月下旬の東京レース場は、初夏の眩い陽光と、十五万人を超える観衆が放つ地鳴りのような熱狂に包まれていた。日本ダービー。それはすべてのウマ娘が一生に一度の栄誉を懸けて挑む聖域であり、かつてボクも挑んだレースだった。ボク、ロールフィヨルテは、その熱気の中心であるパドックで、愛弟子の姿を待っていた。

 

 周囲の視線は、レジェンドであるボクに向けられるのと同等、あるいはそれ以上に、前例のない無謀な挑戦を選んだ一人の少女に集中していた。パドックに姿を現したウオッカは、ボクとドーベルが絶句した、あのロックでカッコいい勝負服を纏っていた。彼女の肉体美をこれでもかと強調する大胆な露出。しかし、今の彼女からは羞恥心や雑念をすべて焼き尽くすほどの、凄まじい覇気が立ち昇っていた。一歩踏み出すたびに、鍛え上げられた太ももの筋肉が生物のように蠢き、観客を威圧する。

 

『素晴らしい仕上がりね、ロール。心拍数、筋緊張度、すべてがこの二四〇〇メートルのために研ぎ澄まされているわ』

 

 脳内でアーモンドアイが冷静に、けれど高揚を隠さずに告げた。ボクはその言葉に頷きながらも、意識の片隅にある奇妙な空白を感じていた。アストンマーチャンのトレーナーに協力すると宣言し、強制的にあちら側の意識へと繋ぎ変えたジェンティルドンナの気配が、あれから全く戻ってこないのだ。

 

(ジェンティルさんは、本気なんだね)

 

『ギャハハ! あの女、一度言い出したら聞かねぇからな。マーチャンの野郎の運命を管理して、全人類にその名前を刻み込んでやるって息巻いてたぜ。マスター、あいつはもう戻ってこねぇよ。自分の美学を貫く場所を見つけちまったんだな』

 

 ゴールドシップが面白そうに笑う。ボクは少しだけ寂しさを覚えたが、今は目の前の戦いに集中しなければならなかった。ドンナさん以外にもグランアレグリアは全く帰ってこないし、ウオッカなどすでにウマ娘として旅立っていくウマソウルもある。

 残念ながらボクの前世の知識は2020年過ぎで止まっているから、今後も減ることはあれ増えることはないだろう。

 

(アイちゃんも、ゴルシも、ウマ娘に産まれたら会いに来てよ?)

 

『考えておくわ』

 

『気が向いたらな』

 

 ちょっとしんみりした気持ちになりながらもパドックに目線を映す。

 

 パドックを周回するウオッカが、ボクの前で足を止めた。彼女は一言も発さず、ただ不敵な笑みを浮かべて拳を突き出してきた。ボクはその拳に、自らの拳を強く合わせた。

 

「行ってきなよ、ウオッカ。君が一番カッコいいことを、この十五万人に教えてあげて」

 

「ああ。歴史だのジンクスだの、そんなカビの生えたもん、俺の脚で全部粉々にしてやんよ」

 

 彼女の瞳には、一切の迷いも恐怖もなかった。あるのは、巨大な障壁を目の前にした時だけに見せる、子供のような無邪気で残酷なまでの高揚感だった。

 

 

 

 

 ファンファーレが響き渡り、十五万人の手拍子が大地を揺らす。ゲートが弾けた瞬間、ウオッカのスタートは五分であった。二四〇〇メートルという長丁場。マイルで女王となった彼女にとって、スタミナへの不安は周囲が最も指摘する懸念材料であったが、ボクは知っている。彼女がこの日のために、どれほど泥臭く、執念深く、坂路を駆け上がり続けてきたかを。

 

 レースは平均ペースで進んだ。先行勢が激しくハナを争う中、ウオッカは中団のやや後ろ、内ラチ沿いでじっと息を潜めていた。一ミリも無駄な距離を走らず、風を避け、体力を温存し、牙を研ぐ。

 

第四コーナーを回った瞬間、最大の危機が訪れた。先行勢が横に広がり、外側からは有力ウマ娘たちが蓋をするように押し寄せてきたのである。

 

「囲まれた……!」

 

 実況の声が悲鳴を上げた。前には壁、横には絶望。進路が完全に断たれた。普通ならここで終わりだ。だが、ウオッカはそんなものに屈しなかった。前のウマ娘たちがスパートをかけ、わずかに外へヨレた、人一人がやっと通れるかどうかの針の穴のような隙間。ウオッカはその死地に、迷わず突っ込んだ。

 

「らぁぁぁぁぁ!!」

 

 咆哮と共に、漆黒の稲妻が爆発した。内ラチとバ群の間、物理的に不可能と思われるような狭い空間を、彼女は猛獣のように力ずくですり抜けた。

 

(ああ、やっぱり君はウオッカなんだね)

 

 あの時、彼女と一緒に東京の直線を駆け抜けた時を思い出す、幽霊のようなすり抜け。

 一瞬で視界が開ける直線、残り四百メートル。ウオッカの前には、もう誰もいなかった。

 

 彼女の自慢の末脚が炸裂した。大地を砕き、空気を切り裂くような、暴力的な加速。彼女自身が選んだカッコよさへの執着が、一つの光となって府中の直線を駆け抜けていく。

 

「行け! ウオッカッ!!」

 

 ボクは叫んだ。現役時代の自分でも、これほど熱くなったことはなかった。残り二百メートル。坂を登りきったところで、ウオッカは後続を突き放した。彼女は今、その背負ったものを、すべて置き去りにして走っていた。最後の一歩までその脚色は衰えず、彼女は誰よりもカッコよく、そして誰よりも速く、ゴール板を駆け抜けた。

 

 一着、ゴールイン。三バ身差の完勝であった。

 

 静まり返るスタンド。そして、一拍置いてから湧き上がったのは、もはや言葉にならないほどの、天を衝くような大喝采だった。ウオッカはゴールを過ぎた後も、しばらくの間、天に向かって拳を突き上げ続けていた。その姿は、紛れもなく歴史を破壊し、新しく作り直した、一人の王のそれであった。

 

 地下道で汗だくになり、呼吸を荒くしながら戻ってきたウオッカを、ボクは全力で抱きしめた。

 

「やったね、ウオッカ。君は……本当に、最高にカッコいいよ」

 

「はぁ、はぁ……。けっ、……言ったろ、トレーナー。歴史なんて、ぶち壊すためにあるんだってよ」

 

 ウオッカはボクの肩に顔を埋め、少しだけ、本当に少しだけ、肩を震わせていた。

 

「なぁ、ロール。……俺を、今日まで信じてくれて、ありがとうな」

 

「ああ。君が世界で一番のカッコいいになるまで、ボクはどこまでも付き合うよ」

 

 五月の風が、誇らしげに吹き抜けていく。ボクたちの物語は、ここで一つの大きな区切りを迎えた。

 

 だが終わりではない。秋には、さらに成長したダイワスカーレットとの再戦が待っている。そして、ジェンティルさんに託したアストンマーチャンのその後も気にかかる。ボクたちの前には、まだ誰も足を踏み入れていない、眩いばかりの未来が広がっていた。

 

「さて。次は、何をぶち壊しに行こうか、ウオッカ?」

 

「決まってんだろ。……世界、全部だ!」

 

 破壊者の物語はまだ続いていく。




ひとまずここで一区切りです。
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