TS転生ウマ娘、才能が空っぽだったので歴代競走馬の魂を借りて伝説を作る 作:雅媛
知らない天井だ。
……と言いたいところだが、この白い天井を見るのは何度目だろうか。
「……痛ってぇ」
意識が覚醒すると同時に、全身を万力で締め上げられるような痛みが襲ってきた。
只の筋肉痛なんて生易しいものではない。体の芯まで軋んでいる。
「目が覚めたかね、無茶な新人くん」
白衣を着た医師が、呆れたような、それでいて少し安堵した顔で覗き込んできた。
「診断結果を言うよ。全身の重度な筋炎症だ。筋繊維が断裂する一歩手前で、なんとか耐えている状態だよ。……あと一歩、限界を超えて踏み込んでいたら、君の足は再起不能になっていたかもしれない」
ボクは青ざめた。
8年間、ゴールドシップの「頑丈さ」の資質を借りて、鍛え上げたこの体を持ってしても、ゴールドシップにキタサンブラックの出力を加え、さらにマンハッタンカフェの呪術を同時に乗せるのは無理があったらしい。
幸い、致命的な故障には至っていない。だが、医者曰く、全治2週間の絶対安静だそうだ。
『ケケケッ! 無茶しやがって。アタシが言う通り鍛えてなけりゃ、今頃スクラップだったぜ?』
脳内でゴルシが笑っているが、こっちは笑えなかった。
そして、4月23日。日曜日。
ボクは病室のベッドの上で、備え付けのテレビを見上げていた。
今日は天皇賞(春)。
ボクとの勝負に負けたサクラローレル先輩は、当初の予定通り「調子が万全ではない」として強度の高いトレーニングを控え、慎重な調整で本番に挑んだ。
一方、あの「黒い刺客」は――。
『第4コーナーを回って、直線! 先頭はライスシャワー! ライスシャワーだ!』
画面の中で、小柄な黒鹿毛のウマ娘が、鬼気迫る表情で走っている。
ライスシャワー
かつて「ヒール(悪役)」と呼ばれた彼女が、スランプを乗り越え、復活を懸けて走る。
『外からサクラローレル! サクラローレルも来ている! だが届かない! ライスシャワーだー!!』
大歓声の中、黒い小柄なウマ娘がゴール板を駆け抜けた。
私の、そして多くのファンの記憶に残る「復活の勝利」。
その背後、半バ身ほど遅れて、サクラローレルがゴールした。
無理をしなかった分、最後の一伸びが足りなかった。だが、その足取りはしっかりしている。
史実にあった「骨折」は回避されたのだ。
(……よかった。ローレル先輩は守れた)
ボクは安堵の息を吐いた。
だが、スタジアムを包む「ライスシャワー」コールを聞いた瞬間、心臓が冷たく収縮した。
画面の中、ウイニングランを行うライスシャワー。
涙を流し、観客に手を振るその姿。
美しい。誰もが感動する光景だ。
けれど、ボクには見えてしまった。彼女の体にまとわりつく死の気配が。
【1995年6月4日。宝塚記念。京都競馬場。第3コーナー。予後不良】
この勝利によって、歯車が噛み合ってしまった。真っ黒な靄が彼女の足元からあふれ出ていた。
ファン投票1位。宝塚記念への出走。
そして――悲劇の第3コーナーへ。
(……止めなきゃ。彼女もすぐに限界を超えかねない)
ボクは包帯で固定された自分の足を握りしめた。
今のボクには、走って止めることはできない。
なら、言葉で、想いで、周りを動かすしかない。
5月中旬。
驚異的な回復力で退院したボクは、その足で学園のカフェテリアへと向かった。
昼下がりのテラス席。
そこで優雅に紅茶を嗜んでいる人物を見つけた。
「……あら? お久しぶりです。また無理したと聞いてますけど大丈夫ですの?」
メジロマックイーン
この世界では高等部の最上級生であり、メジロの有力なウマ娘の一人。
ボクにとっては、ラモーヌさん繋がりで可愛がってもらっている頼れる姉貴分だ。
「マックイーン姉さん! 折り入ってお願いがあります!」
「別にあなたの姉ではないので、『姉さん』呼びはやめてくださいと何度言えば……!」
マックイーン姉さんがむせ返る。
ボクは食い気味にテーブルに手をついた。
「緊急事態なんです! ……ライスシャワーさんのことで」
その名前が出た瞬間、マックイーン姉さんの表情がスッと引き締まった。
カップを置き、居住まいを正す。
「……ライスさんが、どうかしましたか?」
「宝塚記念への出走を、止めたいんです」
ボクは真剣な眼差しで訴えた。
もちろん、「未来が見える」なんて言っても信じてもらえない。
だから、一人のランナーとして感じた「恐怖」を伝える。
「テレビで見ていて、寒気がしたんです。昨日のライスさんの走り、確かに凄かった。ですが……見ていられないほど痛々しかった」
「……」
「あれは、ロウソクが燃え尽きる直前の、最後の灯火に見えました。……姉さんなら、わかるはずです。あの走りの危うさが」
かつて、天皇賞(秋)直前の練習中に繋靭帯炎を発症し、引退を余儀なくされたマックイーン姉さん。
志半ばでターフを去った彼女だからこそ、響くはずだ。
「……そうですか。貴女にも、そう見えましたか」
マックイーン姉さんは、静かに目を伏せた。
「私も、天皇賞を見ていて……胸騒ぎがしましたの。あの小さな体で、命を削るような走り。……まるで、自分の身を焦がして走っているような」
「なら!」
「ええ。止めねばなりませんわ。あの方に、私のような思いはさせたくありません」
強力な味方を得た。
だが、姉さんは「でも」と続けた。
「ただ、私一人では、今のライスさんを説得するのは難しいかもしれません。今の彼女は『期待』という呪縛に囚われていますから。だからもう少し援軍を集めに行きましょう」
マックイーン姉さんを伴って、ボクたちが向かったのは学園の図書室だった。
その一角にある自習スペースに、一人のウマ娘がいた。
積み上げられた専門書の山に埋もれながら、カリカリと一心不乱にノートにペンを走らせている。
「……ミホノブルボンさん」
声をかけると、彼女は手を止めて振り返った。
ミホノブルボン
ライスシャワーにとっての最大のライバルであり、かつての目標であり、今はトレーナーを目指して勉強中のサイボーグウマ娘。
彼女は精密機械と呼ばれるほど緻密なラップ管理で有名であったが、実際の機械(パソコン等)を触るとすぐに壊してしまうため、すべてアナログで記録していると聞く。
「……メジロマックイーンさんに……たしか新入生のロールフィヨルテさん。何か御用でしょうか」
「ライスさんのことで来ました」
その一言で、ブルボンさんの表情がほんの少し強張った気がした。
彼女は無言でノートのページをめくり、ボクたちに見せた。
そこにびっしりと手書きで記されていたのは、ライスシャワーのバイタルデータ推移と、今後の疲労蓄積予測グラフだった。
グラフの線は、6月に入ったところで急激に下降し――赤ペンで強く『故障発生』と書かれて途切れていた。
「……計算は完了しています」
ブルボンさんが、淡々とした声で、しかし痛切な響きを持って言った。
「現在のライスさんの身体的、精神的負荷は許容範囲を超えています。このまま宝塚記念へ向かうトレーニングを継続した場合、故障発生率は98%以上。……推奨される行動は、即時の活動停止です」
さすがはブルボンさんだ。
すでに冷徹なデータとして「最悪の事態」を予見していた。
「ですが、今のライスさんは私の警告を聞き入れません。彼女は今、論理よりも感情で動いています。『私の分まで走る』という、誤った使命感によって」
「だから、ボクたちが来たんです」
ボクは言った。
「……マックイーン姉さんの『想い』と、ブルボンさんの『事実』。全部ぶつければ、きっと彼女も足を止めるはずです」
ブルボンさんが立ち上がった。
その瞳に、静かな熱が灯る。
「……了解しました。共同作戦を開始します。……ライスさんを、終わらせません」
夕暮れのトレーニングコース。
他の生徒たちが寮へ戻る中、一人黙々と走り続ける小さな影があった。
ライスシャワーだ。
天皇賞の疲れも見せず、すでに次を見据えて体を動かしている。
その姿は、「英雄」というよりは、何かに憑りつかれた「修羅」のようだった。
そして、その足元には――ボクにしか見えない、どす黒い靄が絡みついている。
「……ライスさん」
ブルボンさんが声をかける。
ライスさんが足を止め、振り返った。
汗に濡れた前髪の隙間から見える瞳は、青く澄んでいるが、どこか危うい光を宿している。
「……ブルボンさん? それに、マックイーンさんも……?」
彼女は不思議そうに首を傾げ、そしてボクを見た。
「えっと、貴女は……?」
「はじめまして、ライスシャワーさん。ロールフィヨルテです」
ボクは一歩前に出た。
役者は揃った。
データで語るライバル、ミホノブルボン。
想いを語るライバル、メジロマックイーン。
未来の悲劇を知るイレギュラー、ロールフィヨルテ。
残された時間は少ない。
だが、この3人なら、運命の歯車を止められるかもしれない。
ボクたちは、夕闇の中に立つ青い薔薇へと歩み寄った。