ホロライブ・レゾナンス 〜仮想(アバター)の力で日常を取り戻す〜 作:miyacchi_novel
第01話: 始まりの音(ゼロ・レゾナンス)
世界から、音が消えた。
私、ときのそらは歌おうとしていた。横浜アリーナでの通しリハーサル。ペンライトが揺れる光景を想像しながら、マイクを握りしめていた。
声が出ない。
「――え?」
自分の声が聞こえない。心臓の音も聞こえない。叫んでいるスタッフたちの口が動いているけれど、何も聞こえない。
完全なる無音。静寂が、アリーナを包む。
寒い。耳の奥でキーンとする。
そして次の瞬間、視界が激しく明滅した。
ザアアアアアアアアアアアアアアアアアア――!!
それは音ではなかった。不快な感覚の濁流。テレビの砂嵐を彷彿とさせるような「虚無」の波動が、私を襲った。
「(なに!? 痛い、痛い!)」
私は頭を抱えてうずくまった。
目を開けると、アリーナは地獄と化していた。
スタッフたちは耳を塞ぎ、倒れていく。
「(み、みんな! しっかりして!)」
叫ぼうとした。だが、声は出ない。
その時、私は自分の「手」を見た。白い肌。細い指。そして袖口には、見慣れた青いチェック柄の衣装が見えている。
「これ……私のアバター!?」
アリーナの壁面に設置された巨大モニターは、電源が落ちて黒鏡のようになっていた。そこに、私の姿が映っている。青いワンピース。茶色の髪。頭上に浮かぶ星の髪飾りとエンジェルリング。
紛れもない。バーチャルアイドル「ときのそら」の姿だ。
「なんで? どうして私が、この姿に?」
現実と虚構の境界が崩壊したような眩暈が襲う。だが、事態は困惑する時間を与えてくれなかった。
アリーナのゲートの奥から、「それ」が染み出してきた。
黒い霧。いや、砂嵐のような微細な粒子の集合体だ。「ヒス(Hiss)」。意味を持たぬ虚無の群体が、ゆっくりとアリーナを侵食していく。
ヒスは生き残ったスタッフに群がった。触れられた瞬間、スタッフの瞳から色が消える。物理的な傷はない。けれど、魂が削り取られていくのがわかる。
「だめ……やめて!」
私は立ち上がろうとする。だが、足が震えて動かない。
怖い。何が起きているのかわからない。私はただのアイドルだ。戦う力なんてない。ライブは? みんなは? 私の歌は、もう誰にも届かないの?
ヒスの群れが、獲物を求めて蠢いている。その先には、逃げ遅れた親子がいた。母親は意識を失っている。その腕の中で、幼い少女が泣いていた。声のない、静かな泣き顔。
ヒスの黒い手が、その少女に向かって伸びていく。
動かなきゃ。助けなきゃ。
どうやって?
その時。少女と目が合った。
絶望に染まった瞳。けれど、その奥には微かな光が宿っていた。少女は震える手で何かを握りしめている。
古びたペンライト。私のグッズだ。
少女の唇がゆっくりと動いた。音は聞こえない。けれど、その唇の動きは確かにこう紡いでいた。
『そらちゃん、うたって』
ドクン。止まっていた心臓が、跳ねた。
『うたって』
その言葉が、凍りついた思考を打ち砕いた。走馬灯のように、私の記憶が蘇る。
そのとき、デビュー当時のことを思い出した。配信を始めても、観客はいなかった。画面の向こうには誰もいないと思っていた。それでも私は歌い続けた。一人でも、誰かに届くと信じて。
コメント欄に光が灯った。
『がんばれ』
『そらちゃん、かわいい』
『歌、好きだよ』
たった13人。でも、その13人がいなければ、今の私は存在しない。「そらとも」と呼ばれる、私の最初のファン。どんなに辛い時も、歌だけは止めたくないと思わせてくれた人たち。
この子のために。たった一人の、目の前のあなたのために。私は、歌うためにここにいるんだ!
「そうだ……」
恐怖が消えたわけではない。でも、それ以上に熱いものが胸の奥から溢れ出してくる。音がなくても。マイクがなくても。想いは、届く!
私は立ち上がった。床を蹴って駆け出す。ヒスの群れが私に反応し、一斉に殺到してくる。
構わない。
私は少女とヒスの間に立ちはだかった。大きく腕を広げる。そこは私のステージだ。
「聞いて!」
大きく息を吸い込んだ。肺いっぱいにアリーナの冷たい空気を満たす。頭上のエンジェルリングがかつてないほど眩しく輝き始める。青い光がアリーナの闇を切り裂いていく。
そして。
「――――あああああぁぁぁあああ!!」
世界に音が戻った。
いや、それは物理的な音波ではない。魂を震わせる、純粋な「意志」の波動だ。絶望を塗り替える、希望の歌声。「原初の歌声」が炸裂した。
閃光が走る。青く澄んだ光の波紋が、私を中心にして全方位へ解き放たれていく。
「ギイイイイイイ!?」
ヒスの群れが断末魔を上げて霧散していく。「無意味」な存在である彼らは、「絶対的な意味」を持つ歌声の前では存在を維持できなかった。黒い霧が晴れ、アリーナに本来の空気が戻ってくる。
だが、その代償は小さくなかった。
「う、くっ……!」
歌いながら、私の指先がジジッと音を立ててピクセル化し、明滅する。喉が焼けるように熱い。ただ声を出すだけではない。自分の存在(データ)を削って世界を記述し直すような、途方もない負荷が全身を襲う。
それでも、私は声を張り上げ続けた。
倒れていた人々が光の粒子を浴び、次々と目を覚ましていく。少女の瞳に生気が戻る。
歌は止まらない。
アリーナの外壁さえも透過し、横浜の夜空へ広がっていく。世界を覆うノイズの空に、一筋の青い光が走った。
「届いて……! みんなに!」
無心で歌いながら、鉛のような疲労が全身にのしかかる。涙が頬を伝ったが、それは感動だけではない。強烈な生存本能の悲鳴でもあった。
これが私の力。仮想(アバター)の身体で、現実(リアル)を救う力。そして、その痛みを引き受ける力だ。
歌い終わった時、アリーナは完全な静寂ではなく、温かな安らぎに包まれていた。
私は膝から崩れ落ちるように座り込んだ。荒い息をつきながら、自分の両手を見つめる。指先のピクセル化は収まっている。けれど、小刻みに震えていた。
「できる……私にも、戦える」
その時。私の脳裏に微かな「声」が響いた。鈴を転がすような、懐かしい声だ。
『――そら先輩!?』
「え……?」
私は顔を上げた。声は遠くから聞こえてきた。物理的な距離を超えた、魂の通信(リンク)だ。
『聞こえる……そら先輩の歌だ!』
『みんな生きてる! 希望はここにあるよ!』
白上フブキ。私の大切な仲間。その声には確信と熱気が満ちていた。そして、力強く告げる。
『アキバへ――!』
アキバ。私たちの始まりの場所。そこに行けば、みんながいる。
「……うん!」
私は強く頷いた。一人は微力だ。けれど、無力ではない。そして集まれば、きっと世界だって変えられる。
立ち上がり、北の空を見据える。
その瞬間、私は息を呑んだ。
東京の夜空が、おかしい。黒と赤がまだらに渦巻く、禍々しい雲が首都全体を覆っている。そして、その中心――秋葉原の方角から、巨大な圧力が放たれていた。
ビリビリと、空気が軋む。
あれは、ヒスとは比べ物にならない。もっと根源的な「虚無」だ。
「アキバが……!」
仲間たちが、あの中にいる。
恐怖で足がすくみそうになる。けれど、私の喉はまだ熱い。私の歌声は、世界を救える武器になった。
だったら、使わなきゃ。
「待ってて、みんな――!」
私は駆け出した。
この歌声を武器に、私は戦場へ向かう。
物語が、ここから始まる。
20251216 描写について全般的に変更