ホロライブ・レゾナンス 〜仮想(アバター)の力で日常を取り戻す〜 作:miyacchi_novel
視点:宝鐘マリン
フェーズ:概念消去 ~ 7日間の摩耗 ~ 伝説級覚醒
【システム・ホロアース:削除領域】
「よくも……! やらせないわよ!」
それが、極彩色の海が真っ白な光に漂白されていく中で、私が絶叫した最後の一言だった。
背後に浮かんでいた、私の欲望と妄想の結晶――『ゴーストシップ』が、泥のようにドロドロと溶け崩れていく。
『対象:宝鐘マリン。エラー原因:『現実逃避への依存』』
『修正パッチ適応:『夢の終わり』』
管理者の声は、音ではなく『定義』として、私の脳細胞の一つ一つに無理やり書き込まれてきた。
ドロリ、という粘り気のある嫌な音。
「……あ、れ?」
身体が重い。
羽織っていた海賊のコートが、湿り気を帯びた重い布――地味な事務服へと変わっていく。
手にしていたサーベルは、インクの切れた安っぽいボールペンへ。
極彩色のネオンに彩られていた世界が、殺風景なオフィスの風景へと上書きされていく。
「警告。対象データの『共感性』および『情緒的発露』が、正常なシステムの運用を阻害している。この個体は『虚構』によって正気を保つ、修復不能なバグである」
管理者は冷彻に告げた。
ああ、そうだよ。大正解。
私はいつだって、このクソみたいな現実から逃げ出すために、妄想の海を泳いでいたんだ。
「マリンちゃんッ!!」
遠くで、そらの声が聞こえた気がした。
私の名前を呼ぶ、震える声。
でも、その音さえも「不要なノイズ」として、完璧な静寂の中に消え去っていった。
プツン。
世界から「宝鐘マリン」という信号がロストした。
【灰色の世界:第1日目】
「宝鐘さん。ここの数字、先方から修正が入ったわ。明日の朝一番までに差し替えらえる?」
先輩の女性社員が、申し訳なさそうな、けれど当然のような顔で書類を置いていく。
私は、整えられた営業用の笑顔を貼り付けたままで、淀みなく答えた。
「はい、承知いたしました。すぐに修正して、共有ドライブにアップしておきますね」
自分の声が、自分のものではないように聞こえる。
低くて、平坦で、完璧にチューニングされた「デキる社会人の声」。
私は、優秀だった。
理不尽な納期、取引先の無茶振り、組織の軋轢。
それらを、湖面を滑る白鳥のように、涼やかな顔で優雅に捌き続けた。
だがその水面下――誰の目にも届かない澱みの底では、沈みゆく自分を繋ぎ止めるために、無様に、必死に、『泥を掻き(あがき)』続けていたのだ。
目の前には、終わりのない書類の山。
PCのファンが唸りを上げ、淀んだ空気が部屋に充満している。
キーボードを叩く音だけが、等間隔に、虚しく響く。
「……私、なんでこんなに頑張ってるんだっけ」
何か、とてつもなく眩しくて、熱狂的な場所があった気がする。
潮風の匂い、赤いコート、そして、私を「船長」と呼ぶ何万もの声。
でも、それを思い出そうとすると、課長の「宝鐘さん、期待してるよ」という呪いのような言葉が、足元を引きずる。
夢を見るのは、夜だけでいい。
昼間の私は、システムの歯車として、一円のミスも許されない完璧な「大人」であらねばならないのだ。
【灰色の世界:第3日目】
3日が過ぎた。
私は、この「正しい現実」に、完璧に適応していた。
満員電車に揺られ、死んだ目をした大人たちの一部になり、それでも「おはようございます」と元気に挨拶を振り撒く。
周囲との関係は良好。仕事の評価も高い。
けれど、家に帰って電気を消した瞬間、喉の奥からどす黒い虚無が溢れ出す。
「……おかしい。私は、もっと……別のものになりたかったはず」
深夜、無意識のうちにペンタブのペンを握っていた。
けれど、画面には何も映らない。
かつて私の頭の中にあった、極彩色の航海図も、美少女たちの煌めきも、すべてがシステムの「最適化」という消しゴムで消された後だった。
「宝鐘さん。君は本当に安定してる。他の新人と違って、自分をコントロールできてるよ」
課長の言葉に、私は「ありがとうございます」と微笑み返す。
バカ。そうじゃない。
私は、自分をコントロールしてるんじゃない。
本当の自分を、厚い氷の底に沈めて、窒息させているだけなんだ。
隠れて描いていた『セカンドワールド』のプロット。
それをノートの隅に見つけた時、私はそれを震える手で破り捨てた。
こんな「バグ」があるから、苦しくなるんだ。
夢なんて見なければ、この灰色の日常(ハッピーエンド)を、無痛で過ごせるのに。
【灰色の世界:第5日目】
5日目。
私は、ついに「海」を忘れた。
窓の外に見えるのは、四角いビルと、排気ガスに沈む街。
ここに波の音なんてしない。
仕事は、信じられないほど順調だった。
重要なプロジェクトの主担当に抜擢され、プレゼンの準備に追われる。
取引先の重役たちを相手に、完璧な処世術を駆使して、契約を勝ち取っていく。
私は、この世界の「勝者」になりつつあった。
けれど、声が出ない。
喉が、コンクリートで固められたように重い。
喋ろうとすると、激痛が走り、掠れたノイズしか出てこない。
「ああ、そっか……」
表現することを諦め、自分を切り売ることを止めれば、この痛みは消えるんだ。
誰かに、本当の私を見てほしいなんて思わなければ。
道化師(ピエロ)として振る舞い、自虐的な笑いを振り撒く必要もない。
私は、完璧な「規格品」になった。
PCのデスクトップにある、いつの間にか増えていた『業務マニュアル』という名のフォルダ。
かつてそこには、『セカンドワールド』という、私の魂の結晶があったはずだった。
けれどいま、そこにはただの、効率化のためのデータが並んでいるだけ。
私は、自分が何を失ったのかさえ、もう思い出せなくなっていた。
【灰色の世界:第7日目】
そして、7日目が来た。
私は、最重要の取引先である大手企業を訪れていた。
ロビーは静寂に包まれ、磨き抜かれたフロアに私のヒールの音だけがコツコツと冷たく響く。
「……本日のお打ち合わせですが」
会議室に入り、私は資料を広げた。
喉の激痛を、精神力だけで押しころし、掠れた声でプレゼンを始める。
完璧な論理。完璧な妥協。完璧な、社会のルール。
相手側の担当者も、満足げに頷いている。
その時だった。
「……あ。……マ、リン船長?」
聞き覚えのない、けれど魂を揺さぶるような呟き。
顔を上げると、取引先の若手社員の一人が、私を凝視していた。
彼は、手元の書類ではなく、私の顔を……いや、私の奥底にある「何か」を必死に探しているようだった。
「……失礼。何か?」
私は、完璧な「営業用の笑み」で問い返した。
彼は、周りの冷ややかな視線も構わず、震える声で言った。
「その……。宝鐘、さん。……ですよね? 名字」
「ええ、左様ですが」
「……俺、知ってます。……あなたの、その笑い方」
ドクン、と。
心臓が、一度だけ、跳ねた。
「俺……。人生の一番暗い時期に、あなたの声を聞いてたんです。……下品で、うるさくて、でも誰よりも一生懸命に笑おうとしてた、あの『海賊』の声を!!」
周囲がざわつく。「何を言ってるんだ」「外に出せ」という声が上がる。
けれど、彼の言葉は、防壁を突き破って私の魂に直撃した。
「あんたが……あんたが笑ってくれるから。……このクソみたいな会社でも、俺、一週間だけ頑張ってみようって思えたんだ。……あんたが、俺の『日常』を、『非日常』に変えてくれたんだよ!!」
バシュンッ!!
脳内で、何かが爆発した。
管理者が、必死にシステムエラーを修復しようと叫んでいるのが聞こえる。
ノイズが走り、視界が歪む。
「……やめてよ」
私は、資料を握りしめた。
喉の奥から、熱いものがせり上がってくる。
「……そんな、痛い夢の話、しないでよ。……私は、……私は、まともな大人に、なりたかったんだから……!」
「嘘だ!!」
若手社員が叫んだ。
「あんたの目は、……まだ、諦めてない! ……あの時、俺たちを連れて行ってくれたあの『海賊船』を……まだ、待ってるはずだ!!」
ドクン!!
足元の磨き抜かれたフロアが、ピキリと音を立てて裂けた。
そこから溢れ出したのは、灰色の水ではない。
極彩色の、赤と青の、熱狂に満ちた「潮」だった。
「……ああ。そうだ」
「私は、この地獄(げんじつ)を知っているから。……だからこそ、あの夢(ファンタジー)が、死ぬほど愛おしかったんだ……!!」
「……宝鐘さん!? どうした、しっかりしろ!」
課長が私の肩を揺さぶる。
私は、彼の手を、力強く振り払った。
剥がれ落ちる、事務員の皮。
弾け飛ぶ、インクの切れたボールペン。
喉の激痛を、リスナーの愛と、私の執念がブチ破る。
「……あ、は。……あはははは!!」
私は、会議室のテーブルの上に飛び乗った。
唖然とする重役たち、そして涙を流す「彼」の前で。
「……いいリアクションじゃねーか。……アンタのおかげで、目が覚めたわ」
私は、虚空から一本のペンを掴み出した。
それは、もはや文房具ではない。
世界という名のキャンバスを塗り替える、私の「魂」そのもの。
「準備はいいか、お前ら!! ……これから始まるのは、最強の『おふざけ』よッ!!」
【システム・ホロアース:決戦場】
管理者は、さらなる「論理崩壊」に直面していた。
システムの「絶対防御シールド」が、数値化不可能な出力によって、内側から粉砕されていくのだ。
その音は、もはや警告音ではなく、崩れ落ちるガラスの音に似ていた。
「バカな……! 物理演算が追いつかない! 貴様、何を……何をした!?」
管理者が動揺し、光の触手を振り回す。
だが、マリンはそれを避けることさえしない。
彼女が前へ一歩踏み出すたびに、空間そのものが「海賊船の甲板」へと描き変えられ、管理者の攻撃はただの「演出用の花火」へと変わっていく。
「現実逃避? いいえ、これは『現実への反逆』よッ!」
マリンが放つ言葉の一つ一つが、システムを直接蝕む猛毒(リリック)となる。
「あんたは『正しいこと』しか認めない。でもね、人間は『正しくないもの』に救われることもあるの。……無駄で、下品で、何の得にもならない、でも最高に熱い……あの『非日常』のために、私はあの暗い地獄(オフィス)で、死に物狂いの『足掻き』を続けてたんだからッ!」
マリンは、虚空に浮かぶ巨大な宝鐘海賊団の旗を掴み、管理者の胸元へ肉薄した。
「あんたの『完璧』なんて、私の『執念』の一滴で塗り潰してあげるわ!」
伝説級能力、最大出力――。
『幻想の支配者(マリー・ドリーム)』・真装展開。
「貴様……! また『虚構』に逃げ込むというのか!」
「逃げ込む? 違うわよ、管理者さん」
マリンは、虚空に巨大な「海賊船」の輪郭を描き出した。
それは、数多のリスナーの想いと、彼女が社会で培った「バタ足の努力」が結晶化した、無敵の艦隊。
「私は、現実を知っている。……クソみたいな日常の、重みを知っている。……だからこそ、私のファンタジーは、誰にも負けないくらい『本物』なのよッ!」
マリンがペンを一振りすると、管理者の展開した「絶対秩序結界」が、無数のドットとなって花開くように砕け散った。
戦場を舞い散るのは書類ではなく、リスナーのコメントが刻まれた真っ赤な薔薇。
コーヒーの匂いは、爽やかな潮風へと書き換えられた。
マリンが旗を突き立てた瞬間、管理者の全身に「亀裂」が走った。
それはダメージではない。
彼の存在理由である「論理」そのものが、マリンが持ち込んだ圧倒的な「情緒」と「妄想」に耐えきれず、矛盾を起こしたのだ。
『エラー。対象データの「非実在度」がマイナスに転じました』
『警告。システムはこれ以上の「エモさ」を定義できません』
「あ……が……ッ!? この、不純なエネルギーは……何だッ……!?」
「これが、人間の『好き』っていう名の呪いよ。……あばよ、管理者さん!」
マリンの振るった旗から、極彩色の爆風が吹き荒れた。
それは、彼女がこれまでに描き、歌い、叫んできた全ての想いの奔流。
管理者の白い身体は、その圧倒的な色彩の暴力に呑み込まれ、断末魔のノイズと共に、深層意識の彼方へと吹き飛ばされていった。
【システム・ホロアース:再生領域】
嵐が収まる。
白く漂白されていた世界に、少しずつ、けれど確かな「色」が戻り始めていた。
「そらちゃん! ……お待たせ!」
マリンは、肩で息をしながら、そらに向かって最高のドヤ顔を決めた。
その頬には、少しだけ現実の疲れが滲んでいた。
けれど、その瞳は、どのダイヤモンドよりも硬く、眩しく輝いている。
「出航だッ! ……終わりなんて、まだ100年早いわよッ!!」
マリンの背後には、再び召喚された『ゴーストシップ』が、威風堂々とその帆を広げている。
灰色の静寂はもはやどこにもない。
そこには下品で、騒がしくて、けれどこの世で一番温かい……あの「宝鐘海賊団」の宴の、新しい幕開けがあった。