ホロライブ・レゾナンス 〜仮想(アバター)の力で日常を取り戻す〜 作:miyacchi_novel
視点:沙花叉クロヱ
時系列:第9話「虚無のレプリカ」~ 第10話「再生の歌」のif
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【秋葉原:UDX地下迷宮】
世界は、騒音(ノイズ)と静寂(サイレンス)がドロドロに混ざり合った、酷いカオスの中にあった。
「行くぞ! 止まるなッ!」
司令塔、フブキの絶叫が、ノイズ混じりの「集結令」を通して脳内に響く。
それは震える私たちの魂(コア)を強引に繋ぎ止める、冷たくて太い鋼の鎖だ。その鎖がなければ、私は今すぐにでもこの暗鬱な情報圧(データ・プレッシャー)の海に溶けてしまっていただろう。
前方では、すいせいが青い流星となって道をこじ開けている。彼女の振るう斧が空間を裂くたびに、耳を刺すような高周波の破砕音が響く。
その背後では、マリンが幻想の海賊船を召喚し、無数の幻影弾で敵を蹴散らしていた。
派手だ。眩しい。
それはまさしく、人々の視線という名の光を浴びて輝く「アイドル」の戦い方。
希望を背負い、真正面から悪を討つ、選ばれし者たちの叙事詩(オラトリオ)。
「……あーあ。ひっどい散らかりようですねぇ、ここは」
私は、フードを目深に被り直した。
私の居場所は、あんな眩しい光の中じゃない。
光が強ければ強いほど、その足元にはドス黒く、濃い「影」ができる。
その影の中こそが、私――沙花叉クロヱの職場だ。
能力『静寂の掃除屋(サイレント・クリーナー)』。
私は呼吸を止め、心音を殺し、そして自分の「存在(データ)」の送信を極限までカットする。
共鳴周波数(レゾナンス・フリケンシー)を世界から切り離し、私というノイズを消去する。
私は透明人間ではない。
ただ、そこに「居る」ことさえ忘れられるほど、徹底的に意味を剥ぎ取られた背景――ただの壁紙になるだけだ。
(お仕事、始めますか)
私は、アライアンス本隊の進行方向とは逆、瓦礫が積み重なった死角へと滑り込んだ。
そこには、本隊の背中を狙う「影のノイズ」たちが、油のような光沢を放ちながら這い寄っていた。
ヘドロのような粘着質のアバター。人々の「悪意」を煮凝らせたような、最悪な掃除対象。
正面切って戦うアタッカーたちからは、決して認識できない最下層の領域。
(させませんよ。それ、私の役目ですから)
私は、愛用の短剣を逆手に握った。
地面を蹴る音すら立てず、影から影へと移動する。
正確には、物理的な移動ではない。影という情報媒体を高速で渡り歩く、空間の「再定義(シャドウ・ジャンプ)」。
(はい、一匹)
ザシュッ。
無機質な、しかし確実に何かを終わらせた音が響く。
ノイズが断末魔を上げる暇もなく、私の刃がその核(コア)を正確に穿っていた。
青とマゼンタのデジタル火花が散り、敵は自分が消去されたことさえ気づかずに、ただの文字列となって霧散する。
誰の目にも触れず、誰に感謝されることもなく。
ただ淡々とゴミを処理していく。
「お掃除、完了」
私がそう囁いた時、本隊の最後尾を走っていたらでんが、ほんの少しだけ背後に視線を向けた気がした。
だが、そこにはもう何もいない。私は既に、別の影へと溶け込んでいる。
(それでいい。気づかれたら、それは掃除屋としての敗北です)
ゴミは、誰の目にも触れずに消えてこそ、世界は「最初から綺麗だった」ことになるのだから。
私は、この汚れ(おしごと)が嫌いじゃない。
むしろ、光の届かない場所で泥にまみれている方が、私にはお似合いの気がしていた。
迷宮の深層へ進むにつれ、戦況は絶望へと加速していった。
UDXの壁面がバグで波打ち、天井からは意味不明な文字の雨が降り注ぐ。
「スバル先輩! 後ろっ!」
叫び声と共に、スバルが巨大な隔壁の下敷きになりそうになる。
それを防いだのは、ラミィが全マナを代償に放った「零度の防壁」だった。
彼女たちが氷像となって迫りくるノイズの津波を食い止める。その一瞬の隙を作るために、彼女たちは自分たちの未来すらも凍りつかせた。
(……あ、先輩たち……)
影の中にいた私は、その様子をただ見ていることしかできなかった。
助けに行けば、私の『隠密』が解ける。
解ければ、本隊の位置が完全に露呈し、一網打尽にされる。
(ごめんなさい。……ごめんなさい)
続いて、おかゆと、彼女を庇ったころねが無限の軍勢の中に消えていった。
「おかゆはうちが守るよ」
笑いながら言ったころねの、その指先がデジタル・ノイズに蝕まれ、結晶化していくのを、私は特等席で見ていた。
頼れる盾も、笑顔をくれる太陽も、一人、また一人と消えていく。
残されたのは、アタッカー陣と、そして最後の希望である、ときのそら。
「ハァ……ハァ……ッ!」
私は、崩れた大型モニターの影で荒い息を吐いていた。
アバターの端から、毒々しい黒いシミが広がっているのがわかる。
もう、何体消去しただろう。五百? 千? 数えるのをやめて久しい。
私の短剣は、ノイズの体液(データ・ジャンク)で真っ黒に汚れ、熱を持っていた。
こびりついた汚れが、私の指先の感覚を麻痺させていく。
(限界、ですねぇ……。お風呂、本当に入っておけばよかったなぁ)
冗談めかした思考とは裏腹に、システム・アラートが脳裏で絶え間なく鳴り続けている。
『静寂の掃除屋』という能力は、世界から認識を拒否する行為だ。
それは、自分自身を不安定な存在(バグ)へと変質させているのに等しい。
高濃度のノイズの中で、これ以上の『隠密』を続けることは、深海の一万メートルに生身で潜るようなもの。
情報圧が、私の霊基をミシミシと押し潰していく。
視界が赤く染まり、情報の断片がノイズとなって耳鳴りを引き起こす。
「(クロヱ! どこだ!? 返事をしろ!)」
不意に、マリンの切羽詰まった声が脳内に直接響いた。
思わず影の奥へと身を縮める。
……見つかった? いや、違う。
彼女は前方の敵に斬りかかりながら、誰もいない空間に向かって叫んでいたのだ。
どこかに潜んでいるはずの後輩の、かすかな気配を、必死に探して。
(見つけないで。……見ちゃ、ダメですよ。マリン先輩)
私は、ボロボロになった自分のコートをギュッと抱きしめた。
泥にまみれ、返り血で汚れ、今にもバグとして崩壊しそうな醜い姿。
そんな私を見たら、先輩たちはきっと足を止めてしまう。
私なんかのために、その尊い足を。
(私は、影でいい。みんなが輝くステージに、泥を連れ込むわけにはいかないから)
かつての配信で、冗談混じりに言ったことがあった。
「いつかみんなの前から消えちゃうかも」
あの時は、リスナーのみんなが「やめろよ!」って笑ってくれたけど。
今、その言葉が最悪のリアリティを持って、私を迎えにきている。
(……寂しいなぁ、やっぱり)
押し殺した本音が、ポロリと一滴、心の最下層から溢れた。
誰にも頼らず、誰にも看取られず、一人で冷たくなっていくのが、私の美学(プロフェッショナル)だ。
アイドルなんて。
私みたいなシャチには、最初から分不相応だったのかもしれない。
こんな暗い汚泥の中で、誰の記憶にも残らない「バグ」として処理されるのが、私にはお似合い。
それこそが、この物語の、私に用意された「落ち(エンディング)」なのだから。
その時だった。
戦場の中心、空間の座標軸そのものが歪み、一つの「光」が無理やり引きちぎられた。
「フブキちゃん!!!!」
そらの悲鳴が、無機質なUDXの空間に突き刺さる。
司令塔であったフブキが、王の放った漆黒のビームに貫かれ、光の粒子となって霧散していく。
彼女の魂と繋がっていたリンクが、無残に切断された。
脳内に微かに残っていた、仲間たちの体温が、一瞬で凍りつくような冷気に変わる。
(そんな……フブキ先輩まで……)
絶望が、物理的な圧力となって私を地面に叩きつけた。
すいせいが狂ったように吠え、自身の存在を燃やしながら肉薄する。
マリンが叫びながら、残った魔力を全てマゼンタの光に変えて敵を食い止める。
(動け。動いてよ、ポンコツ沙花叉っ!)
私は動かない足を、血が出るほど強く殴った。
だが、感覚がない。膝から下が、影とノイズの泥と同化して、床に溶け始めている。
私の存在確率は、既に一〇%を下回っていた。
私は、ここからただ見ていることしかできないのか。
みんなが傷つき、絶望し、消えていくのを――ただの「背景」として、最後まで眺めているだけなのか。
その時だった。
私の、掃除屋としての「目(センサー)」が、ある一点を捉えた。
「王」の足元。そこから、揺らめくように分離した「別の影」があった。
本体とは別の、独立した暗殺プログラム――『デリーター・アサシン』。
それは、正面ですいせいやマリンが囮になっている隙に、音もなく壁を伝い、無防備なそらの背後へと回り込もうとしていた。
(……あ)
誰も気づいていない。
すいせいは限界を超えた特攻に没入している。
マリンは押し寄せる雑魚の対処で手一杯。
そらは、リーダーを失った絶望で、その場に崩れ落ちている。
あの影の刃が振り下ろされれば、ときのそらは終わる。
ホロライブの核、概念(オリジン)が、消える。
(……動け。動かなきゃダメだ。沙花叉!)
私は、歯を食いしばった。口の中が鉄の味で満たされる。
自分を騙している「隠密」を、内側から爆破するように解除した。
(私にしか見えないなら……私が行くしかないじゃん……!)
「(……沙花叉ァァァ!!)」
私は、己の魂(コア)を燃やした。
残った魔力、生命維持のリソース、その全てを「加速」へと全振りする。
黒く変色し、崩れかけていた足が、ミシミシと悲鳴を上げる。
構うもんか。
この足は、この一瞬のためにあったんだ。
光の中へは届かないけれど、影の暗殺を阻むためになら――この泥だらけの足だって、まだ走れる!
私は、影の奥底から、弾丸のように飛び出した。
ザシュッ!!
乾いた、しかし確かな衝撃音が、迷宮の最下層に響いた。
私の短剣が、そら先輩の喉元に迫っていた「影」の核を、深々と貫いていた。
「(……ギ?)」
影の暗殺者は、背後から襲われたことを理解できないまま、デジタル・ノイズとなって霧散していく。
成功だ。
間に合った。掃除屋としての、最高のお仕事だ。
でも。
ドスッ。
鈍い、そして嫌に熱い衝撃が、私の胸にあった。
見下ろすと、影の暗殺者が消滅する寸前に放った、置き土産の「黒い棘」が、私の心臓部分を深々と貫通していた。
「(……あ)」
痛みは、遅れてやってきた。
いや、痛みというよりは「空虚」だ。
体の中の大切な熱が、破れた風船から抜けるみたいに、しゅるしゅると漏れ出していく。
急速に、視界がモノクロームへ染まっていく。
「(……ガハッ)」
喉から、黒いノイズが溢れた。
私は支えを失い、音もなくその場に崩れ落ちた。
すぐ目の前には、ときのそらがいる。
彼女は泣いている。
自分を責めて、顔を覆って、絶望の深淵に沈んでいる。
(……そら先輩。泣かないで……)
手を伸ばそうとした。
「大丈夫ですよ」って。「後の掃除は、私に任せて」って。
いつものように、あざとく微笑んで、彼女の震える肩を抱いてあげたかった。
でも。
私の手は、そらのスカートに触れる寸前で、力を失って床に落ちた。
指先から、サラサラと銀色の砂になって、世界に溶放されていく。
(気づいて、ないですね。……本当、皮肉だなぁ)
そら先輩は、私のことに気づいていない。
私の隠密スキル、掃除屋としてのステルスは、死ぬ瞬間まで完璧だったみたいだ。
こんな、自分の消滅シーンまでも「背景」にしてしまうなんて。
(……でも、これで、いいんです)
もし、私がここで弱々しい声を上げたら。
そら先輩は、また自分を責める。
「また私を守って、仲間が死んだ」って。
その悲しみが、彼女の心を完全に壊してしまうかもしれない。
だから、私は声を殺した。
誰にも知られず、誰にも看取られず。
ただの「消えゆく影」として、物語の片隅で静かに退場する。
それが、沙花叉クロヱという掃除屋の、最後のプライド。
(あーあ……服、汚れちゃった。……これ、落ちない汚れだなぁ)
傷口から広がる、漆黒の侵食を見る。
それは私の、誰にも言えなかった孤独と同じ色をしていて。
(お風呂……やっぱり、入ればよかったかな。……えへへ)
薄れゆく意識の中で、どうでもいい後悔がプクプクと浮かぶ。
「臭い」って言われるのが嫌で、でも入るのが面倒くさくて、「シャチだから大丈夫!」って言い張って。
そんな私のわがままを、みんなは笑って許してくれた。
(ラミィちゃんに、怒られちゃうな。……いろはちゃん、悪い手本でごめん。……ルイ姉、沙花叉、ちょっと遠くに行くね。……総帥、世界征服、最後まで手伝えなくて……悔しいな)
仲間の顔が、映画のフィルムみたいに流れていく。
楽しかった。
本当に、本当に、楽しかったんだ。
暗い海の底、何の意味も持たなかったデータだった私が、ホロライブという場所を見つけて。
たくさんの「大好き」に囲まれて。
(もっと、みんなといたかったな。……もっと、飼育員さんたちに、甘やかされたかった)
視界が完全に閉ざされる。
地面の冷たさが、全身を包み込む。
ああ、これは海だ。
冷たくて、暗くて、誰もいない、深海。
私は、ただのデータ(プランクトン)に戻るんだ。
(……さようなら)
私は目を閉じた。
最後に届いたのは、そら先輩の、あまりにも哀しい嗚咽だけだった。
【深海:意識の極点】
……冷たい。
いや、冷たいという感覚すら、もう正しくはないのかもしれない。
「冷」を定義するための神経も、「痛み」を翻訳するための脳も、私は既に失ってしまったのだから。
私は、沈んでいた。
重力という物理法則の結果ではなく、存在そのものが「重い」という、魂の重層的な意味に押し潰されるようにして。
どこまでも、どこまでも。
光の粒子が一つも届かない、絶対零度の静寂の底へ。
『概念消去(コンセプト・ロスト)』。
かつて設定資料で目にしたその言葉が、今、私の全身を現実として食い散らしている。
私が私であったための理由。
シャチであること。掃除屋であること。あざといと言われる笑顔。お風呂に入りたくないと駄ねる狡猾さ。
それら全てが、データ・ジャンクという無色透明な砂に分解され、虚無へと還っていく。
(……匂いが、しない)
不意に、絶望が鋭い刃となって私の残滓を抉った。
私は、匂いが大好きだった。
掃除屋という裏稼業に身を置いていても、あるいはその不潔さをイジられていても。
ライブ会場の熱気が生む、焦げたような電子の匂い。
楽屋でシオン先輩がこっそり食べていた、甘すぎるお菓子の匂い。
いろはちゃんが修行の後に漂わせる、凛とした青い風の匂い。
それら全ての「生の記憶」が、今、私の鼻腔から永遠に失われようとしている。
情報の喪失。
それは、世界という物語から私のページが切り取られること。
私は、最初から「いなかった」ことにされる。
地下迷宮でそら先輩を守ったことも、影の中で孤独に短剣を振るったことも。
私の流した返り血は、存在しないインクとして、床にこぼれることさえ許されない。
(……ああ。これが、私の本性だ)
薄れゆく意識の淵で、私はかつての自分を思い出していた。
ホロライブに入る前。
ホロライブという眩しすぎる太陽系に捕らえられる前の、本当の、本当の沙花叉クロヱ。
そこは、本当の深海だった。
現実の海ではなく、社会という巨大な構造物の、誰も見ようとしない一番暗い吹き溜まり。
私はそこで、ただの「捕食者」として呼吸をしていた。
誰かを愛するためではなく、誰かに愛されるためでもなく。
ただ、明日の息を繋ぐために、他人の「汚れ」を処理し、価値のない情報を削ぎ落とす、無機質な装置。
感情は、ノイズだった。
優しさは、致命的なバグだった。
「私」という個体は、世界を維持するための調整弁(バルブ)に過ぎず。
私の視界は,常にモノクロームだった。
赤い血も、青い空も、私にとってはただの「濃淡」でしかなかった。
(……そんな私が、どうして「アイドル」なんて夢を見たんでしたっけ)
回想は、一つの歌声に突き当たる。
いつだったか、仕事の帰りに深夜の街角で耳にした、どこかの誰かの、ひどく熱に浮かされたような歌。
「止まらないで」
「信じているから」
「いつか、光の届く場所で会おう」
今考えれば、それは使い古された歌詞だったのかもしれない。
偽物だ。安っぽい幻想だ。そう切り捨てることができれば、私は今も、深海で安らかに「装置」として死ねていたのかもしれない。
でも、その時の私には、それが深海の一万メートルにまで届く、唯一無二の「音」に聞こえた。
光を知らない魚が、初めて海面の煌めきに焦がれるように。
私は、その眩しさに触れたいと思った。
泥にまみれたこの腕で、あんなに綺麗な音色の一部になりたいと、願ってしまった。
その願いの結果が、秘密結社holoXだった。
総帥――ラプラス。あんなに傲慢で、あんなに小さくて、誰よりも「王」であろうとしていた子供。
ルイ姉。誰よりも苦労人で、誰よりも「家族」を求めていた、お人好しな鷹。
こより。知識という檻の中で、自分だけの「答え」を探し続けていた、孤独な天才。
いろはちゃん。真っ直ぐすぎて、この歪んだ世界に馴染めず、それでも剣を置かなかった侍。
私たちは、全員が「はみ出し者」だった。
どこにも居場所がなくて、自分という個性の整合性が取れなくて。
だから、私たちは「秘密結社」を作った。
世間に拒絶された剥製たちが集まる、世界で一番温かい、小さな動物園(ズー)。
(……みんな。……ごめんね)
みんなと一緒に、世界を征服したかった。
でも、私の言う「世界征服」は、みんなが思うそれとは少し違っていた。
私は、この汚れた世界を支配したいんじゃない。
この世界にある、全ての「温かい光」を――みんなの居場所を、誰にも壊されないようにしたかっただけなんだ。
だから、私は「掃除屋」を選んだ。
holoXが誇る、最高の暗殺者(アサシン)。
かつて深海で培った、存在を消すための技術。
それを、今度は「誰かを消すため」ではなく、「誰かを守るための盾」として使う。
光の中に立てなくてもいい。
センターでマイクを握ることは、私には似合わない。
私のハッピーエンドは、舞台の袖、光も届かない真っ暗な機材置き場から。
輝いているみんなの背中を見て、あざとく微笑んでから、静かに立ち去ること。
そのために必要なら、私はドロドロの泥を、一生被り続ける覚悟だった。
(……でも。……本当に、これでよかったのかな)
虚無の漂流は、無慈悲な自問自答を突きつけてくる。
私が守ったそら先輩は、今も泣いている。
私の死を知ることさえなく、ただ「孤独」という呪いを背負わされたまま。
私が死んだ後、私のリスナーたちは、どんな顔をするんだろう。
いつものように「風呂入れ」ってコメントして。
私のいない配信画面を、いつまでも更新し続けて。
(……消えたくない)
ああ、やっぱり、そう思っちゃうじゃない。
プロフェッショナルになりきれない、未熟なシャチですね、私は。
誰の記憶にも残らず消えるのが美学だなんて、嘘だ。
本当は、叫びたい。
「私はここにいたんだ!」って。
「みんなのことが大好きだったんだ!」って。
たとえ、この醜い存在が、文字情報のゴミとして漂白されるとしても。
私は、私の生きた1秒を、誰かに証明してほしかった。
存在情報の消去率、九九.九%。
いよいよ、最後の「個」が、冷たい海の一部になろうとした、その時。
(……え?)
虚無の世界に、一つの「バグ」が発生した。
それは、システムが定義したものではない、整合性を無視した、暴力的なまでの「熱量」。
真っ黒な情報の墓場を、不器用に突き破ってくる、赤い、赤い光。
「――ろヱ!」
誰かが。
誰かが、私の名前を呼んでいる。
システムのノイズを、絶望の静寂を、一瞬でかき消すような。
デリカシーがなくて、乱暴で、軍事用暗号(コード)でも解読できない、私にしか届かない、あの懐かしい「特定周波数」。
【沙花叉ー! まだお前のこと誰もお掃除してねぇぞ!】
【こんなところで終わるタマじゃねぇだろ! 戻ってこい!】
【風呂入れてから消えろ! 臭いまま消えんな!】
【クロヱ。……待ってる、ずっと。……また配信してよ、みんなと】
それは、文字。
ただの、チャットログの断片。
でも、その一文字一文字に、数万人の「命の鼓動」が宿っていた。
彼らは、私を「背景」だなんて思っていなかった。
影の中で動けなくなった私を。ボロボロになって、救われない後悔に沈んでいた私を。
ずっと、ずっと、見つけてくれていたんだ。
(……みんな。……バカだ。本当に、バカですよ……)
絶望していた心に、一気に色が戻っていく。
ああ、そうだ。
私は、光の中に立とうとしすぎた。
デフォルト・フォントの影に潜んでいるだけでよかった。
私を照らしてくれる光は、上から降ってくるもの(スポットライト)だけじゃなかった。
配信画面の向こう側から。
画面を凝視する、数万の瞳から。
その想いが集まって、私を「主役」にしてくれていたんだ。
「――沙花叉クロヱ。再構築(リブート)を開始します」
私は、虚無の海を蹴り上げた。
もはや、消滅の不安はない。
私が、私のことを忘れてしまっても。
この人たちが、私の名前を、私の声を、私の匂いを、覚えている限り。
私は、何度だって「沙花叉クロヱ」として立ち上がることができる。
深海の底から。
光り輝く、あの愛すべきゴミ山のようなステージへ。
(行ってきます、みんな。……お仕事、まだ終わってないですからね!)
続く(笑)