らんま1/2 ~男溺泉の最強師匠、手違いで乱馬の「公認彼氏」になり、天道家公認で夜の営み(武術)に励んでます~   作:この俗物怪物くん

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昼下がりの風林館町には、いつものことながら平穏がない。
屋根の上では乱馬が跳び、玄馬が叫び、瓦は本日も犠牲者を増やしていく。
しかしこの日は、そんな日常の延長線上に――
出会いという名の異物が滑り込んでいた。

雨。踏切。救助。名前。握手。
一つ一つは些細でも、積み重なれば心は揺れる。

武術家・早乙女乱馬が「自分でも扱いきれない感情」に足を取られるのは、
実はそんなに多くない。

これは、そんな乱馬の心の重心がふっとズレる物語の始まりである。


踏切の光と転校生の影

町の昼下がりは静かさとは無縁だった。空を見上げれば赤い影と黒い影が屋根の上を跳ね回り、瓦がひゅんひゅん舞っている。近所の犬が遠吠えを続け、洗濯物は勝手に空を飛び、住民たちは「ああ今日はまたか」と諦め混じりの顔で道をそれていた。

 

屋根の上では、乱馬が足場も考えずに跳び回っていた。玄馬が看板を振り回し、屋根瓦にめり込むほどの勢いで迫ってくる。

 

「ほわっちゃーーー!!甘いぞ乱馬!この程度で倒そうなど片腹痛いわ!」

 

「そんな台詞に説得力はない!毎回同じだろ!」

乱馬は文句を言いながら、足元の瓦を気にするそぶりもなく飛び蹴りを仕掛けた。空中回転で勢いは十分。だが玄馬は看板をひょいと持ち上げ、盾にして受け止める。

 

「わっちゃっちゃ!親の心子知らず蹴りだ!」

「それ誰も知らねぇ技だろ!」

言い返している間に、玄馬の足がずるっと動き、乱馬の足首を正確に払った。ほんの一撃。だが屋根の上では致命的だ。

 

「うわっ……!」

 

バキ、と瓦が割れた。乱馬の体は着地点を失い、勢いのまま空中に跳ねる。視界がぐるりと回り、気づけば下方に踏切が見えていた。警報機がカンカン鳴り響き、遮断機が降りていく。

 

「しまっ……!」

 

玄馬が表情を変える。

「乱馬ーーッ!やばいぞ!」

 

だが叫んでも無意味だ。乱馬の体は止まらず、線路へ一直線に落ちていった。

 

足元が線路の砂利に着いた瞬間、電車のヘッドライトが乱馬の瞳に飛び込んだ。目の前の光はごまかしようのない現実を示している。逃げるには遅い。跳ぶにも距離が足りない。何かをつかめるような手がかりもない。

 

(ここで終わりか……?)

そう腹をくくりかけた時だった。

 

風を裂く鋭い音が横から飛んできた。

ヒュン――それだけで十分すぎるほど速い。乱馬は何が起きたのか理解しないまま、体が突然浮かび上がった。腰に力強い腕が回り、視界が一瞬で流れ去る。次の瞬間、線路の外へと置き去りにされ、直後に電車が通過した。

 

轟音が空気を震わせた。生温い風が乱馬の頬を叩き、砂利がはねた。

「……っ!?」

 

答えを探す暇もなく、空から雨粒が落ちてきた。大粒で勢いが強い。夕立だ。びしゃびしゃと体を叩き、乱馬の服を一瞬で濡らしていく。

 

その雨が乱馬の体に触れた途端、体内で何かが切り替わるような感覚が走った。光が一瞬だけ乱馬の体を包み、輪郭がすっと変わる。髪が揺れ、肩の丸みがあらわれ、声の高さも微妙に変化した。

 

女の乱馬になった。

 

「ぷはっ……な、なんだ……?」

雨のせいとはいえ、事態の理解が追いつかない。

 

そんな乱馬の視線の先で、ひとりの少年が静かに目を細めていた。濡れた前髪の隙間から落ち着いた瞳がのぞいている。整った顔立ち。余計な動きはないのに、そこに立っているだけで周囲の空気が変わっていた。

 

しかも乱馬はその少年の腕の中にいた。抱えられた体勢は完全に「お姫様抱っこ」。状況が恥ずかしいのか、命が助かった安心なのか、乱馬はどこに気持ちを持っていけばいいか戸惑っていた。

 

「……君、大丈夫か。怪我はないか」

少年の声は落ち着いていて、聞いているだけで心臓が跳ねた。

 

乱馬は呼吸を忘れた。視線を逸らそうとしても、近い。やたら近い。男であるはずの自分が、この距離で妙に意識してしまうのはおかしい。

(なんだこの感じ。変だ。変すぎるだろ。)

 

少年は乱馬の様子に気づいたのか、眉を少しだけ寄せた。

「名前は?」

 

問いかけられても、乱馬の頭の中はうまく回らない。やっとのことで声を出した。

「あ、えっと……早乙女……乱馬」

 

「そうか。僕は七瀬遥」

 

遥と名乗った少年は、抱えていた乱馬をそっと地面に下ろした。急がず、雑にせず、変に気取らず、自然な動作で。こういう落ち着きは乱馬の周囲に少ない種類のものだった。

 

雨に打たれながら立つ遥の佇まいは静かで、視線を引かれる。乱馬は気づけば見とれていた。そんな乱馬を置いて、遥は短く微笑んだ。

 

「じゃあ。」

 

それだけ言うと、何事もなかったように歩き出す。背中には隙がなく、変に気負いもない。危険なんて存在しないような、そんな安定した空気があった。

 

乱馬は呆然としたまま、遥の背中が遠ざかるのを眺めていた。

 

(七瀬……遥……)

 

名前を口にした瞬間、乱馬の顔が熱くなる。湯気が出る勢いで頬が赤い。慌てて両手で振り払うようにぶんぶん頭を振った。

 

「な、なんだよこれ!なんで赤くなってんだ俺は!!」

雨を浴びて女の姿のまま、乱馬はひとりで騒ぎ出す。

 

「相手は男だぞ!?俺も男……いや今は女になってるけど中身は男だし!いやだから余計に変だろ!ああもうややこしい!」

叫びながら道路を行ったり来たりする乱馬を、犬が不思議そうに見つめていた。遠くで踏切の警報音が止み、街は何事もなかったように日常へ戻っていく。

 

だが乱馬の心はざわついたままだ。胸の中で跳ねる音は、電車の轟音なんかよりずっと騒がしい。

 

「なんで俺が……あんな奴に……!」

 

その答えはまだわからないまま、雨雲だけが静かに遠ざかっていった。

 

 

 

◇◇

 

 

 

天道家の夜は、昼間の騒ぎが嘘のように静かになっていた。夕立はとっくに去り、庭の石灯籠には湿った月の光が落ちている。家のあちこちからは、いつもの生活音が小さく聞こえるだけだ。

 

乱馬は、落ち着きがなかった。布団にもぐっているものの、体の向きが安定しない。右を向いては天井を睨み、左に寝返りを打っては布団を蹴り飛ばす。

 

「……大丈夫か、ねぇ」

 

ぽつりと口からこぼれた言葉に、自分で驚いた。耳が妙に敏感になっている。昼間の声が、そのまま耳の奥で再生される。あの低くてよく通る声。距離の近さ。腕に抱えられた時の安定感。

 

思い出した瞬間、頭の中に映像が浮かんだ。ヘッドライトの光、線路の砂利、迫る電車。そこに滑り込んできた細い影。腰をつかまれた瞬間の、あのぶれない動き。肩に伝わった筋肉の硬さ。

 

「……あいつ、あの一瞬で状況見切ったな」

 

乱馬は天井のシミをにらみつけた。武術家として、あの動きは無視しようがない。自分が終わったと覚悟しかけた瞬間に、あの角度から飛び込んできて、ぴったり安全圏へ運び出す。あれは勘だけではできない。

 

「只者じゃねえな。少なくとも、並の格闘家じゃねえ」

 

しかし認めたくないものもあった。あの時、真っ先によみがえってきたのは、技のキレよりも腕の感触だ。ぐらつかない、妙に落ち着く抱えられ方。揺れない視界。あれを思い出すと、胸のあたりがざわつく。

 

「……なんだ、その反応。俺」

 

乱馬は枕に顔を押しつけて、両足をばたばたさせた。布団の中で暴れていると、障子越しにあかねの声が飛んでくる。

 

「うるさいわよ乱馬!寝なさいよ!」

 

「寝ようとしてるわ!」

 

「その音量で説得力ゼロ!」

 

言い返しながら、乱馬は布団から頭だけ出して深呼吸した。冷静になろうとするが、脳裏に七瀬遥の顔が浮かぶ。濡れた前髪の隙間から見えたあの目。焦りも動揺もなく、自分だけ先に落ち着いていた視線。

 

「……堂々としてるんだよな。あの野郎」

 

悔しくなってきた。自分の方が巻き込まれた側なのに、助けた本人の方が落ち着いている。あの余裕。あの安定感。比較すると、自分の方がやたら騒がしい。

 

「ちくしょう、思い出すのやめだ。寝る。寝るぞ」

 

宣言して、乱馬は仰向けになった。目をぎゅっと閉じて、頭の中から一つずつ記憶を追い出していく作業を始める。

 

電車は消えた。踏切も消えた。線路も消えた。七瀬遥も——

 

「大丈夫か」

 

一番最後に残ってほしくない台詞だけが、鮮明なまま置き去りになる。しかも声色付きで再生される。耳の中で何度も響く。

 

「だからそれが嫌だってんだよ!」

 

思わず布団の中で叫んでしまい、再びあかねの怒鳴り声が飛ぶ。

 

「本気でうるさい!次騒いだらバケツ水ぶっかけるからね!」

 

「やめろ、水は勘弁!」

 

水をかけられれば、夜中に性別が変わる。そんな展開はさすがにごめんだ。乱馬は慌てて口を押さえ、布団をごそごそ整えた。

 

「……落ち着け俺。あんなの、たまたま居合わせただけだ。世の中には強い奴なんて山ほどいる。忘れろ。寝ろ」

 

自分に言い聞かせながら、目を閉じる。十数える。二十数える。三十を過ぎたあたりで、また顔が浮かぶ。

 

濡れた前髪。静かな瞳。小さく笑った口元。

 

「うおおおおおおっ!」

 

頭の中の映像を全力で追い払おうとして、布団ごと跳ね起きた。結果、天井に拳をぶつけてしまい、手首にじんとした痛みが走る。

 

「何やってんのよあんた!」

 

今度はあかねの声だけでなく、隣の部屋から玄馬の低い寝言も聞こえた。

 

「むにゃ……乱馬ぁ……修行の続きは明朝六時からじゃ……ぐう」

 

「黙って寝てろクソ親父」

 

乱馬は痛む手首を振りながら、もう一度布団にもぐりこんだ。心臓の鼓動が少しずつ落ち着いていく。それでも完全には静かにならない。耳の中の「大丈夫か」は、相変わらず勝手に再生される。

 

「……明日顔合わせたら、肩の一つでも殴ってやるからな」

 

そう決めて、ようやく瞼が重くなってきた。意地とプライドで無理矢理納得させたまま、乱馬の意識は少しずつ夜に沈んでいった。

 

 

◇◇

 

 

翌朝の風林館高校は、いつも以上に賑やかだった。教室の窓から差し込む光は眩しく、廊下には生徒たちの声が溢れている。特に一年F組の教室は、朝から文化祭当日の控え室かという騒ぎだ。

 

「なあなあ聞いたか?」

 

「なんか今日、転校生が来るって話だぞ」

 

「男子か女子か、それが問題だ」

 

「女子でお願いします!」

 

「欲望丸出しやめなさいよ」

 

前の方では女子たちが噂話を続けている。

 

「もしかして芸能人の子とかかな」

 

「それより成績トップの優等生の方がいいなあ。ノート写させてほしい」

 

「どうせまた妙な問題児なんじゃないの。うちのクラス、そういう引きが強いし」

 

話題の中心に、何人かの視線が自然と乱馬や右京の方へ向かう。机にあごを乗せながら、乱馬は外を眺めていた。昨夜の寝不足が顔に出ている。

 

「おはよう乱馬。顔がひどいわよ」

 

教室に入ってきたあかねが、呆れ顔で机を叩いた。

 

「うるせえな。寝付きが悪かっただけだ」

 

「どうせ下らないこと考えてたんでしょ」

 

図星すぎて言い返しにくい。乱馬は窓の外に視線を逃がし、話題を変えようとした。

 

「なあ、その転校生の噂本当なのか」

 

「さあ。ただ先生が昨日、ちょっと匂わせてたからね。今日来るのかも」

 

「問題児なら勘弁だな」

 

「それ、自分の前で言う?」

 

軽くチョップを入れられ、乱馬は肩をすくめた。その時、ガラリと扉が開き、担任の二ノ宮先生が入ってくる。

 

「おーい、お前ら席につけー。朝っぱらから元気なのは結構だがな、こっちの喉が持たん」

 

教壇に立った先生は、出席簿をぱらぱらめくりながら、にやりと笑った。

 

「噂してたみたいだが、今日は一つ、お前らの期待に応える話があるぞ。転校生だ」

 

教室が一気にざわついた。

 

「よっしゃあ!」

 

「マジで来るのか!」

 

「お願いだから変な奴じゃありませんように」

 

「そのセリフ、このクラスが言えると思ってるのか」

 

女子の冷静な突っ込みが飛ぶ中、先生は扉の方へ視線を向けた。

 

「じゃあ、入ってきなさい」

 

教室の扉が音を立てて開いた。視線が一斉にそちらへ向かう。

 

すっと姿をあらわしたのは、すらりとしたシルエットの生徒だった。ショートカットの黒髪が首筋に沿って揺れる。制服は着崩しゼロ。スカート丈も靴下の位置も、教科書に載せたいほど整っている。

 

目鼻立ちはハッキリしているのに、深呼吸したくなるくらい静かな雰囲気がある。細い体つきなのに、腰や肩のラインには無駄が一切ない。姿勢が良く、立っているだけで体育館の真ん中にいる選手のような存在感が生まれていた。

 

胸元は控えめで、いわゆるグラビア的要素は薄い。だがそのシルエットのおかげで、全体的な印象はすっきりしている。男子の中には、その中性的な魅力に一瞬で落ちる者が出始めた。

 

「七瀬はるかです。よろしくお願いします」

 

落ち着いた声が教室に響いた。女子にしては低め、しかし聞き取りやすく、余計な感情の波を乗せない話し方だ。

 

一瞬の静寂のあと、教室は爆発した。

 

「うおおおおおお!」

 

「すげえきれいな子来た!」

 

「かっこいい系だ!」

 

「やばい、推しが増えた」

 

「あかねのライバル出現か」

 

「ちょっと、なんでそうなるのよ!」

 

あかねが机を叩いて抗議するが、男子たちは耳を貸さない。女子たちの中にも、ぽーっと頬を赤くしている者がちらほらいる。

 

「おいおい、女子にも人気あるぞ」

 

「そりゃそうだろ。あの冷静な感じ、頼りになりそうだし」

 

わいわい騒ぐ中で、ひとりだけ声が出ない男子がいた。乱馬だ。

 

目の前の転校生の顔を見た瞬間、乱馬の頭の中で何かがショートした。ショートカットの髪。黒目がちな瞳。口元の表情。全体の雰囲気。

 

同じ名字。同じ名前。七瀬遥。七瀬はるか。

 

「……は?」

 

声にならない声が喉から漏れ、乱馬は椅子ごと少し後ろにずれた。目をこすっても、視界の転校生は消えない。

 

待て待て待て。昨日のあの野郎、七瀬遥。今日のこいつ、七瀬はるか。読みは同じだろこれ

 

頭の中で、漢字とひらがなが踊り始める。名字の一致は偶然ということもある。名前の一致も、ゼロではないかもしれない。一緒に発生する確率はどうだ。考えれば考えるほど、妙な一致が目につく。

 

声のトーン。立ち方。周囲の空気の静けさ。余計な動きを一つも入れない姿勢の良さ。全部どこかで見た要素だ。

 

姉貴か?いとこか?双子?それともあの野郎が女装してる可能性……

 

そこまで考えて、乱馬は首を横に振った。あの自然な立ち居振る舞いは、生半可な女装では出せない。武術家としての勘も何かを告げている。

 

あの救助の動き。あれをやれる奴が二人もいるか?

 

先生の声が、考えに割り込んできた。

 

「えーと、七瀬の席だがな。お、ちょうどいい。早乙女の隣、空いてるな。あそこに座りなさい」

 

教室中から「うわー」というざわめきが上がる。

 

「また乱馬かよ!」

 

「うちのクラスの変な引力どうにかならないの?」

 

「くじ運がおかしいレベル」

 

「同じ匂いがするから隣なんじゃない?」

 

あかねがじろりと乱馬をにらむ。

 

「あんた、また余計なことしてないでしょうね」

 

「してねえよ!俺のせいにすんな!」

 

否定しながらも、乱馬の胸の鼓動は加速していた。よりによって隣の席。視界の左側に、常にさっきの顔が入ってくる位置。

 

七瀬はるかは、教壇から静かに歩き出した。机と机の間を通りながら、周囲の視線を軽く受け流しつつ、特に照れる様子もない。誰かに媚びるような笑顔も見せない。軸がぶれない歩き方だ。

 

乱馬の机の横に立った瞬間、二人の視線がぶつかった。昨日、線路脇で見たあの目と同じ色。同じ温度。同じ静けさ。

 

「隣、よろしく」

 

短くそう言って、はるかは椅子を引き、すとんと腰を下ろした。座る時の動きも無駄がない。椅子がきしむ音すら最小限で済ませている。

 

「……あ、ああ」

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

「よろしく頼むよ、早乙女くん」

 

はるかはニコリと笑い、右手を差し出した。昨日の線路際の印象とは違う。声に柔らかさが混ざり、教室の騒ぎに合わせてボリュームも調整している。クラスの雰囲気を読んだ挨拶だ。

 

差し出された手は、細く見えても骨格がしっかりしている。指先まで意識が通っているような動きだ。無駄な力を抜き、必要な力だけを残した型と言えばいいのか、武術の握手バージョンというか、とにかく落ち着きがある。

 

普段なら、「ああ」とか「まあな」とか、半分ふてくされた返事をする場面だ。ところが乱馬は、なぜか変な意地を張る気分にならず、素直に手を伸ばした。

 

「……おう。よろしくな、七瀬」

 

握手をした瞬間、手のひらから情報が一気に流れ込んでくる。指の腹に固い感触が並んでいる。親指の付け根から、人差し指の付け根、掌の中心まで、大小さまざまなマメがびっしりと育っている。

 

鍛えてる手だ

 

そこらの部活レベルではこうならない。竹刀か木刀か、鉄アレイか、何かしらの道具を、長時間握りしめてきた歴史が刻み込まれている。握力だけの問題ではない。皮膚の厚みが違う。

 

はるかの方も、乱馬の掌を軽く押し返す形で、相手の力加減を測っていた。握り込みが強すぎず、弱すぎず、指の位置もずれていない。形だけの握手ではなく、きちんと相手を感じ取ろうとする手だ。

 

二人の間に、一瞬だけ言葉のいらない空気が走った。拳を交えた経験のある者同士にしか伝わらないサインだ。クラスメイトには、ただのフレンドリーな挨拶にしか見えない。しかし当人たちの内側では、別の会話が進んでいる。

 

こいつ、やるな

 

こいつも、やる

 

言葉にはならない評価が、皮膚から皮膚へ飛び交う。互いの目を見れば、その認識が確認できる。勝手に敬語が混ざりそうなレベルの実力者と出会った時、人間の中枢は変なスイッチを押される。

 

後ろの席から、その様子を冷静という名の嫉妬交じりの目が観察していた。天道あかねだ。視線に温度が宿り、背中に突き刺さるような感覚になっている。

 

なによあれ

 

朝から乱馬が珍しく素直に挨拶し、真面目に握手までしている。その光景が、あかねの脳内で警報を鳴らした。

 

初対面の女子相手に、その笑顔は何

 

別に乱馬は笑っているつもりはない。いつもの半眼を少しだけ緩めただけだ。しかし第三者から見ると、好印象を持った男子の表情に分類される微妙な変化が起きている。しかも相手は、転校初日の美形転校生だ。

 

「むぅ……」

 

ジト目の圧が増す。クラスメイト数名が、その顔を見て半歩ずつ後ろに下がった。暴風圏の外に出ようとする本能だ。

 

嫉妬のオーラは目に見えないが、教室の温度だけは確実に上昇している。そんな中で、はるかは何かを察したのか、ふいにあかねの方へ顔を向けた。

 

「君が、天道あかねさんだね?」

 

名前を呼ばれ、あかねは条件反射で姿勢を正した。

 

「えっ?あ、はい」

 

声が上ずりそうになるのを、ギリギリで押さえ込む。ただ真っすぐに相手を見ている。それだけなのに、不思議と緊張感が出る。

 

「噂は聞いているよ。風林館高校の無差別格闘ガールだと聞いた。会えてうれしい」

 

さらっと口にした言葉に、教室の一部が静まり返る。噂という単語に、あかね本人が引っかかった。

 

「噂って、どこ経由よ」

 

「体育教師と道場関係者から、いろいろ話が入っている」

 

はるかは悪びれる様子もなく説明した。あかねの拳闘史、過去の乱入記録、道場の評判など、すでにある程度情報収集が済んでいるようだ。新しい学校での情報収集が、なかなかの速度で行われている。

 

同時に、はるかはあかねの体格もさりげなく確認していた。肩幅、腕の筋肉の付き方、腰の位置。服の上からでも、どの程度動けるのかある程度想像がつく。

 

「その身長で、そのバランスなら、かなり動けるだろうね」

 

「え、あ、まあ……一応、ね」

 

いきなり身体能力を褒められた方向へ会話が飛び、あかねの反応が少し遅れる。普段なら、乱馬相手に「お前なんかに言われたくない」と即答する場面だ。だが今の相手は、妙に説得力のある目線を持っている。

 

はるかは、そのまま自然に右手を差し出した。乱馬にした時と少しも変わらない角度、同じタイミング、同じ笑顔だ。男子と女子で態度を変えないところに、妙な清潔感がある。

 

「改めて。これからよろしく頼む、天道さん」

 

「あ、うん。こちらこそ、よろしく。はるかさん」

 

あかねも、気づけば笑顔で握手を返していた。握った手から伝わる硬さに目を見開く。

 

乱馬の手と似てる。いや、それ以上かも

 

指先のマメの数と位置が、乱馬とほぼ同じ種類に属している。しかし同時に、雑な怪我の痕が少ない。鍛え方に計画性がある証拠だ。無茶な稽古より、効率重視で鍛えてきた印象だ。

 

自分の中で何かが危険信号を鳴らしかけた。が、それよりも早く、別の感想が浮かぶ。

 

(サバサバしてるのに、押しつけがましくない。変な媚びもないし、笑顔に下心もない)

 

同性から見て「得体の知れないライバル」というより、「頼りになりそうな仲間」の印象が強くなっていく。

 

さらにありがたいことに、はるかの胸元は、あかねより少し控えめだ。ほんの少しとはいえ、自分より小さい。ここを重要視するのもどうかと思うが、人間の自尊心はこういう細かい差分に支えられる。

 

胸の差で殴り合う必要は、なさそう

 

そんな結論に落ち着きかけたあかねは、自分がちょっと安心している事実に気づき、一瞬だけ罪悪感を覚えた。

 

「何ニヤニヤしてんだ天道。怖い顔の時と差がありすぎるぞ」

 

前の席から男子がひそひそ声で突っ込むが、あかねは聞こえないふりだ。握手を終えたはるかは、ふたたび乱馬の隣へ視線を戻した。

 

乱馬は、教科書もノートも開かず、机に肘をついた姿勢で、はるかとあかねを交互に見ている。二人がきれいに笑い合う光景に、違和感と安心感が同時に押し寄せてきた。

 

あかねの奴、絶対怒ると思ったのに

 

転校生が相手だと、あの暴風雨のような性格も若干おとなしくなるのか。相手の「女子としてのカテゴリー」が、脳内評価に影響しているのかもしれない。

 

つーか、七瀬はるか。昨日のあいつと関係あるかどうか、まだ判断つかねえ

 

本人に直接「昨日助けたのはお前か」と聞こうとして、乱馬はすぐにやめた。線路の上でお姫様抱っこされた状況を、教室で口に出す勇気はない。

 

説明すると、絶対変な方向に話が転がる

 

男子としてのプライドもある。不用意な発言で、クラスのネタ帳に一生残るようなあだ名が付く危険は避けたい。

 

はるかの方は、そんな乱馬の内心など知らない顔で、軽く椅子を引いて座った。背中を椅子の背もたれに預けず、腰を立てた姿勢を維持している。板書を写す準備ではなく、いつでも動ける構えに近い。

 

周囲の数人が、その座り方に気づいてひそひそ話を始めた。

 

「七瀬さん、姿勢よすぎない?」

 

「バレエとかやってそう」

 

「いや、空手でしょあれ」

 

「いやいや、剣道の構えに似てるぞ」

 

「いっそ新体操という説も」

 

好き勝手な妄想が飛び交う。本人に届けば、訂正に十五分はかかるレベルだ。

 

乱馬の心臓は、また余計な仕事を始めた。外の雲の流れと、教室内の空気の変化が、奇妙なシンクロを見せている。




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
踏切での邂逅から、教室での再会まで、
乱馬の心がほんの一瞬だけ揺れたその揺れ幅を楽しんでいただけたら嬉しいです。

七瀬遥という人物は、まだその輪郭が完全には見えていません。
力を秘めているのか、ただ静かなだけなのか。
読んでくださった皆さまの感想を、ぜひお聞かせください。
物語の続きを紡ぐ力になります。
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