らんま1/2 ~男溺泉の最強師匠、手違いで乱馬の「公認彼氏」になり、天道家公認で夜の営み(武術)に励んでます~ 作:この俗物怪物くん
しかしこの日、昇降口に流れ込んだ空気は、いつもとは違う匂いをしていた。
九能帯刀の突撃、乱馬の気だるい回避、
そして、七瀬はるかという転校生が放つ
「武の静寂」
軽口も、木刀も、気迫も、その場を揺らす前に吸い込まれていく。
師弟が再会し、乱馬が挑み、
九能が絶望し、
夕暮れの昇降口は小さな戦場になった。
これは、乱馬が勝てない相手を知る物語の続きである。
放課後の風林館高校は、部活の掛け声と、帰宅部の笑い声と、どこからか聞こえるガラス割りの音でにぎやかだった。平常運転とも言う。
昇降口前では、乱馬とあかねが並んで靴箱へ向かっていた。乱馬は背伸びをしながらあくびを一つ。
「ふああ……やっと終わったなあ。今日の数学、殺す気かあの教師」
乱馬がロッカーを開けながらぼやくと、あかねは呆れ顔で肩をすくめた。
「殺されるほど頭使ってないでしょ。ノート見てた?ほとんど落書きだったわよ」
「修行用の作戦メモだ。落書きじゃねー」
どうでもいい口げんかをしながら上履きを脱ぎ、二人で並んで外へ出ようとした、その時だった。昇降口の柱の影から、ギラリと木刀が光った。
「待てい早乙女乱馬!!」
けたたましい声とともに、九能帯刀が柱の陰から飛び出した。珍しく制服を着て、背後には、本人の脳内にだけ存在するスポットライトが当たっているようなポーズで木刀を構えている。
「今日こそは貴様を成敗し、あかね君と交際だ!」
「出たな九能センパイ。毎度ご苦労なこったな」
乱馬は目を細め、あくびをもう一発。やる気ゼロだ。
「さあ早乙女乱馬!観念して血煙となれ!九能流奥義、超絶麗し斬りぃぃぃ!」
九能が突進する。木刀の先端が一直線に乱馬へ向かう。周囲の生徒たちが「危ない!」と声を上げるが、当の本人はあくびの途中だ。
乱馬は上の空のまま半歩だけ身体をひねり、突きを肩の横でさらりとかわした。木刀は空気だけを切り裂いて通過する。
すれ違いざま、乱馬は片足でちょこんと九能のふくらはぎを蹴った。ローキックというより、邪魔な段ボール箱を足でどかすくらいの力加減だ。
「ぬおっ!?」
九能の足が流れ、そのまま前のめりに転がりそうになる。慌てて踏ん張ったせいで、木刀が変な方向にしなった。
「おのれ、ちょこまかと逃げおって!」
「逃げてねーよ。そっちが勝手にすっ飛んでるだけだろ。で、今日の用件は?また負けに来たのか先輩」
乱馬のあきれた声に、九能の顔が真っ赤になる。
「黙らっしゃい!貴様などに用はない!我が用事はあかね君への愛のみである!」
「あのね、ど真ん中で私に向かって木刀突き出してたじゃない」
あかねがじと目で指摘すると、九能は「はっ」と息を飲み、急にしおらしい表情を作った。
「む、無論あかね君に傷一つ付けるつもりなどない!この木刀は早乙女を叩き折るための物であり、あかね君への情熱を示すための象徴であり、ついでに今日の晩ご飯のカツ丼代を賭けた勝負でもあり!」
「最後のだけ生々しいわね」
あかねが呆れていると、その場に、すっと冷たい空気が流れ込んできた。真夏に冷凍庫を開けた時のような、背筋にひやりと来る温度だ。
「帯刀。随分と腕が落ちたようだな」
低く抑えた声が、昇降口に響く。雑談していた生徒たちも、反射的に振り返った。
九能の体が、その一言で完全に固まる。動きが止まり、関節という関節が油切れを起こしたロボットのようにかちこちになる。ゆっくりと首だけギギギと音を立てたかのような勢いで後ろへ向いた。
「そ、その声は……まさか……」
そこには、腕を組み、階段の一段上から見下ろす七瀬はるかがいた。制服のままなのに、空気の扱い方だけ武道場だ。視線は氷水。眉一つ動かさず、九能の全身をスキャンしている。
九能は、さっきまでの自信満々な顔を一瞬で引っ込めた。かろうじて口だけ動く。
「し、師匠……!ご、ご機嫌麗しく……」
はるかは目だけで九能を射抜き、ため息を一つ落とした。
「たった今、最悪になった。私の顔を見て、その間抜けな挨拶は何だ」
「ひいっ」
九能の背筋がぴんと伸び、そのまま棒人間に変身する。木刀を握る手が震え、カタカタと音がしそうな勢いだ。
乱馬は、その様子を見て素直に口をあけた。
「九能先輩にここまで言う奴、初めて見たぞ」
あかねも目を丸くしている。
「ていうか師匠?どういうこと」
乱馬がはるかに視線を向けると、九能が脂汗をだらだらと流しながら、ぎこちない動きで説明した。
「ぼ、僕の剣の師匠なのだ……。中学の頃、中国へ修行に行かれる前まで、木刀の扱いから足さばきまで手ほどきを受けていた……その、偉大なる方であらせられる……」
「敬語が急激すぎるわよ」
あかねがつぶやく。
はるかは階段を一段降り、九能の目の前に立った。腕を組んだまま見上げる形になる九能は、身長差など意識する余裕もない。視線の圧だけで十分に押しつぶされている。
「お迎えご苦労。……で、なぜ乱馬に襲いかかっている?説明してみろ。相変わらず、その頭には脳みその代わりにオガクズでも詰め込んでいるのか」
「うわ、オガクズ扱い」
乱馬が小声でつぶやいた。隣であかねが「日頃の行いが悪いからね」と小さくうなずく。
九能は「オガクズ」という単語にえぐられたのか、胸を押さえてうなだれた。
「……返す言葉もございません」
さっきまで「成敗!」と叫んでいた男とは思えない声量だ。生徒たちはその様子を見てざわめく。
「おい見ろよ、あの九能先輩が普通の人になってる」
「先輩が静かとか不具合発生中だろ」
「転校生、どんな手懐け方したんだ?」
「いや、手懐けてるというより、上から殴ってる空気なんだけど」
はるかは、周囲のひそひそ話など気にも留めず、九能の木刀を指先でつついた。先端がふらふら揺れる。
「嘆かわしい。中二の頃のお前なら、そのナマクラな突きでも、今の乱馬を突き殺す程度のことは十分に可能だったはずだ」
「おい待て。さらっと物騒なこと口にすんな」
乱馬が抗議するが、はるかは完全にスルーした。
「腰が死んでいる。足の踏み込みも甘い。肘の角度がぶれているおかげで、あれならハエが途中で止まって一休みする」
「ハエが休む突きなんて聞いたことねえぞ」
「そんな突きで人を襲うとは、武道家以前に、私への面目が立たない」
九能の顔から、さーっと血の気が引いていく。
「も、申し訳ございません……!」
「謝罪は鍛錬で示せ」
はるかはさらりと言い切り、腕を組み直した。
「帰ったら一から鍛え直してやる。覚悟しておけ」
その一言で、九能の膝がガクガク震え始めた。木刀の石突きが床をカンカン鳴らす。
「ひいいいいい!じ、地獄の、あの地獄の特訓が、ふたたび……!」
脳内にフラッシュバックが走ったのか、九能の目が遠くを見始めた。中学時代、真冬の河原で素振り千本、そこから逆立ちで階段上り、最後に目隠し状態で手裏剣避けという、謎のコンボメニュー。
「師匠ぉぉ、あれだけは、あれだけはご容赦を……!」
「安心しろ。前回よりサービスしてやる。回数を二倍に増やそう」
「サービスの意味が真逆!」
九能の叫びが昇降口に響き渡る。部活帰りの生徒たちが、何事かと顔を出しては、現場の空気を察してそっと引き返していく。
◇◇
「おい七瀬!今のは聞き捨てならねえぞ!」
さっきまで軽口で済ませていた顔が、一気にむきになった表情へ変わる。肩に力が入り、拳が勝手に握られる。
はるかは少し首を傾けた。
「何かおかしなことを言ったつもりはないが」
「おかしいに決まってるだろ!中二の九能に今の俺が負ける話になるよなそれ!ふざけんなよ俺の実力知らねえくせに。さっきの勝負見てただろ余裕でさばいてたじゃねえか」
乱馬の声には、完全な自負が混ざっている。実際さっきの九能の突きは眠気覚ましにもならないレベルだし、今の自分があの頃の九能に遅れを取るなど想像すらしていない。
はるかは小さく鼻で笑った。
「さっきの帯刀に対する回避とカウンター、反応速度、重心移動、それから足の使い方。そこから大体の限界値を計算しただけだ」
「はあ?」
「さっきの避け方から逆算すれば、お前が本気で動いた時の速度と出力はだいたい割り出せる。そこへ中二当時の帯刀のデータを重ねれば、どちらが仕留めるかは簡単に予測できる」
さらっと口にされた内容が、数学の授業よりよほど難しく感じる。乱馬は思わず言葉に詰まった。
「あのなあ計算だか何だか知らねえけどな、武術は机の上で転がすもんじゃねえぞ。俺はどんなときでも九能なんかに負ける気はしねえ」
「そうか」
はるかの返事は短い。それでいて、妙に挑発的な響きがあった。
「なら確かめればいい。言葉より手だ」
そう言うと、はるかは鞄をあかねへ向けてひょいと投げた。あかねは慌ててキャッチする。
「ちょっといきなり何するのよ!」
「悪い。少しだけ預かっていてくれ」
はるかは昇降口の真ん中へ数歩進み、くるりと踵を返して乱馬へ向き直った。足幅を調整し、背筋を伸ばし、両手をだらりと下ろす。その姿勢は戦う構えというより、いつでも動ける待機姿勢に近い。
「じゃあ力を見てあげる。構えなさい早乙女乱馬」
突然の指名に、周囲の生徒たちが一斉にざわめいた。
「おい本気でやるのかよ」
「さっき師匠って呼ばれてたぞあの転校生」
「乱馬死ぬんじゃないか」
当の乱馬は、むしろやる気に火が付いた顔をしている。
「上等だ。言うじゃねえか」
そこへ九能が全力で割って入った。木刀を両手で握りしめ、血相を変えている。
「さ、早乙女乱馬!」
「何だよ先輩。今いいとこなんだよ邪魔すんな」
「邪魔ではない!命の恩人になろうとした慈悲深い先輩だ!やめておけ今すぐやめろ絶対にやめろ!」
九能は乱馬の肩をがっしりつかんで揺さぶった。額から汗が滴り落ちている。
「そんな必死に止めるような相手かよ」
「相手どころか災厄だ!お前は師匠の恐ろしさを全然知らん。昔僕がどれだけ泣かされたか聞かせてやろう。冬の河原で素振り万本、そこから逆立ちで石段を上り、そのまま湖へ投げ込まれ——」
「はい回想終わり」
はるかの一言が会話を切り裂いた。
「どうせ誇張している。実際は半分くらいだ」
「師匠にとっては半分でも普通の人から見たら地獄です!」
九能の悲鳴は誰の心にも響きそうだが、当の乱馬はニヤリと笑っている。
「へえ。そこまで言われると逆に燃えるな。そんな強い奴を前に黙ってられるかよ」
「乱馬あんたねえ」
あかねの制止も届かない。乱馬は一歩前へ出て、拳を握り直した。
「じゃあ遠慮なくいくぜ七瀬。手加減なしで来いよ」
「こっちはいつも通りやるだけだ」
はるかは視線を少しだけ下げ、乱馬の足元から頭のてっぺんまで改めて眺めた。呼吸、足の運び、肩の力み方。全部まとめて頭の中に配置していく。
「準備ができたら来なさい」
テスト開始と言わんばかりの口ぶりだ。乱馬のプライドにさらに油が注がれた。
「言われなくても!」
乱馬は床を強く蹴った。目にも止まらない速度で間合いを詰め、身体をひねりながら上段回し蹴りを放つ。風を切る音が昇降口に響き、生徒たちからどよめきが起きた。
「速っ!」
「今のは入るだろ」
誰もがそう思ったその瞬間、はるかはようやく動き始めた。乱馬から見れば、かなりスローモードに見えるほど緩い動きだ。
すっと半歩だけ後ろへ、そして横へ。足を滑らせるだけで、乱馬の蹴りの軌道が外れていく。
「速いだけだ。軸が甘い」
耳元で冷静な声がした。次の瞬間、はるかの指先が乱馬の蹴り足にふわりと触れる。
軽く撫でただけのような感触。だが乱馬の体は、その一手でバランスを完全に失った。視界がくるりと回転し、床と天井が入れ替わる。
「うおっ!?」
気付けば、乱馬ははるかの正面で足を揃え、背筋を伸ばし、ピシッと気をつけの姿勢になっていた。自分で意識して動いた記憶が一切ない。
はるかは真顔で言う。
「はい姿勢が悪い。もう一度」
「いやおかしいだろ今の流れ!」
乱馬は慌てて構え直した。周囲から笑いが漏れる。
「今の見たか」
「転んだと思ったら気をつけしてたぞ」
「七瀬何したんだ」
あかねも口をぽかんと開けている。
「乱馬あんた、自分から整列してどうすんのよ」
「してねえ!勝手にさせられたんだよ!」
乱馬は頬を赤くしながら叫び、再び踏み込んだ。今度は拳と蹴りを織り交ぜたコンビネーションだ。右ストレート、左フック、ミドルキック。流れる連続攻撃がはるかへ襲いかかる。
だがはるかは、やはり急がない。乱馬の半分ほどの速度で動きながら、最小限の重心移動だけで全てを外していく。
「右肩が上がっている」
その一言と同時に、小指で乱馬の拳にちょんと触れた。力の方向がずれ、乱馬の身体が勝手に大きく回る。
「ぐわっ!」
気づけば、また気をつけの姿勢で直立している。今度はさっきより姿勢が良い。背筋がさらに伸びている。
「少しだけ良くなった」
「良くなったじゃねえ!何で毎回整列ポーズなんだよ!」
乱馬は顔を真っ赤にして抗議しながらも、再度踏み込む。今度はフェイントを多用し、リズムを崩し、予測しづらいタイミングで攻撃を重ねた。
「その足はそっちだ」
はるかは乱馬の足首を軽く払った。バランスを崩した乱馬は、前のめりに倒れそうになり、無理矢理体勢を立て直す。
結果、やはり気をつけの姿勢に戻る。今度は胸も少し張っている。
「姿勢だけは満点だ」
「誰が姿勢のテスト受けてるんだ!」
九能はその様子を見て、震えながらつぶやいた。
「出た……誘導気をつけ連続コンボ……」
「名前付いてるのかよ」
「小指一つで十回はやられた……」
九能の過去のトラウマが次々よみがえる。その横で、ギャラリーの生徒たちは爆笑している。
「乱馬、気をつけ得意だな」
「新しい必殺技かもな」
「うるせえ!」
乱馬は息を切らしながらも、さらに攻撃を繰り出した。拳、肘、膝、回し蹴り。風切り音だけなら全国レベルだ。
しかし、はるかは涼しい顔のまま、乱馬の呼吸の一歩外側で動き続ける。
「殺気が先に走りすぎだ」
足元を軽く払われ、乱馬は片膝をつきかける。そこから強引に立ち上がる動きが、そのまま気をつけの形につながる。
「な、なんでだよ!なんで当たらねえ!」
半分悲鳴に近い声を上げた。汗が額から流れ落ち、息が荒くなる。拳を握る手もじわじわと重くなっていく。
それでも殴る。蹴る。届かない。当たらない。触れたと思う瞬間には、はるかの身体がすっとずれている。
何十合目か分からなくなってきた頃、乱馬の足元がふらついた。呼吸が一定でなくなり、肩が大きく上下する。
「はあ……はあ……くそ……ぜんっぜん手応えねえ……水のカーテンを殴ってる気分だ……」
乱馬が膝に手をついた時、ようやくはるかが足を止めた。乱馬の正面に立ち、少しだけ顎に手を当てて眺める。
「高校一年にしては、かなり良い線だ」
その一言で、乱馬の背筋がまたピンと伸びる。褒められ慣れていないせいで、条件反射のように姿勢が正される。
「基礎はきちんと積んでいる。鍛錬をサボっている気配もない。身体のバランスも良いし、才能もある」
はるかの評価は淡々としている。だが、その淡々とした口調だからこそ、変な説得力があった。
「まだ粗さは多いけど、ちゃんと磨けばかなりの武道家になれる。精進しなさい」
そう言うと、はるかは自然な動きで乱馬の頭に手を伸ばし、ぽんぽんと軽く叩いた。完全に子供を相手にするときの仕草だ。
「よく頑張りました」
「な、なに子ども扱いしてんだよ!」
乱馬は真っ赤になってはねのけようとしたが、膝から力が抜けて、危うく座り込みそうになる。
「あら本当に足にきてるのね」
あかねが呆れ半分、心配半分で近寄る。
「ちょっとアンタ、大丈夫?」
「だ、大丈夫だ……けど……くそ……一発もかすらねえとか……」
乱馬は奥歯をかみしめた。プライドが派手に削られた感覚がある。それでも、負けを認めないほど子供でもない。
(完敗だ。何一つ通用しなかった)
胸の内でそう呟きながら、乱馬は悔しそうに拳を握り直した。
はるかはそんな乱馬を見て、小さく笑った。
「その悔しさを忘れなければ、まだ伸びる。次までに少しは驚かせてくれ」
そう言い残し、はるかはあかねから鞄を受け取り、何事もなかった顔で昇降口を後にした。
残されたのは、汗だくで肩で息をする乱馬と、青ざめた九能と、事情を理解しきれないまま拍手しているギャラリーだけだった。
「あーあ。乱馬、今の感想は?」
あかねがニヤニヤしながら尋ねる。
「……頭なでられたのが一番悔しい」
「そこなんだ」
昇降口に笑い声が響き、乱馬のプライドの傷口には、さらに塩がすり込まれていった。
◇◇
「し、師匠……本日もお見事でした」
声が裏返りそうになりながらも、どうにか絞り出す。はるかはチラリと視線を向け、さっきまでの穏やかな顔から一瞬で鬼教官モードへ切り替えた。
「帯刀。今日は構えと素振りからやり直しだ。日が暮れるまで帰れると思わないことだな」
その宣告は、天気予報より信頼度が高い。九能の背筋が一気に凍りついた。
「は、はい……。お、お手柔らかに……」
九能はぎこちない笑顔を作るが、目は完全に泣きそうだ。自分で口にした「お手柔らかに」という言葉が、過去の記憶を呼び覚ましてしまう。
はるかは口元だけゆるめた。
「安心しろ」
その一言で、九能の肩にほんの少し希望が灯る。だが次の瞬間、その灯は片手で握り潰された。
「終わったら、また一緒に風呂にでも入ろう」
九能の動きが完全に止まる。目が点になるとはこのことで、瞬きすら忘れている。
「えっ」
反射的に漏れた声が、小さく響いた。はるかは特に意識していない様子で続ける。
「久しぶりだ。背中くらい流してやる。昔よく、泣きながら湯船につかっていたな」
「ひっ……!」
九能はその言葉だけで膝に力が入らなくなり、その場にへたり込みそうになった。必死に木刀を杖代わりにして踏みとどまる。
「か、勘弁してください……。あの熱湯風呂と冷水風呂の交互耐久地獄だけは……!」
本人としては「地獄の二本立て」を全力で否定したつもりだが、周囲の耳には別の単語だけがくっきり届いた。
「おい聞いたか。風呂と言ったぞ今」
「九能先輩、あんな美人と一緒に風呂に入っていたのか」
「しかも昔から……ずるくないか」
「泣きながら入っていたらしい。そういう趣味なのか」
「いややめろ。新しい変態設定を生やすな」
九能が必死で否定の言葉を探している間に、クラスメイトたちの頭の中で勝手なイメージ映像が量産されていた。湯気の中、厳しい師匠とはにかむ弟子。シャンプーハット。洗面器。なぜか木刀も湯船に浮かんでいる。
本人だけは、その映像に血の涙を流したい気持ちだ。
「あ、あのだな諸君!今のはだな、武士の修行と言うか精神鍛錬の一環であってだな、決してやましい行為など一つも——」
「昔よく泣きながら入っていた」
はるかが追い打ちをかけるようにぼそりと補足した。
「師匠、それは誤解を招きます!」
九能の叫びは、完全に逆効果になった。ざわめきはさらに大きくなる。
「泣かされながら風呂に入るのは、どんなメニューなのだろう」
「熱湯と冷水の交互と言っていたぞ。サウナより過酷そうだ」
「というか、九能があそこまで嫌がるのが一番怖い」
「確かに。あの人が嫌がるなら、本当に地獄なのだろう」
勝手に納得する観客たち。九能は頭を抱えたくなるが、その動きさえ師匠の視線が許さない。
あかねは腕を組んでその様子を見ていた。
「……なんか、とんでもない人が来ちゃった感じね」
「お前の学校、だいたいとんでもない奴しか集まらないよな」
乱馬が隣で肩を回しながらぼやく。さっきまでの激しい攻防で、さすがの彼も汗まみれだ。額から流れる汗を拭いながら、はるかの背中をじっと見ている。
「七瀬はるか、とんでもない強さだな」
口調は悔しそうだが、目の中には負けん気と興味がしっかり光っている。
その横で、九能はすでに別の意味で心が折れかけている。
「し、師匠。本当に、風呂コースは必要でしょうか。構えと素振りだけで本日は十分なのでは」
「甘えるな。心身を鍛えるには、湯も水も欠かせない」
「湯と水の量が常識外れなのです!」
九能の悲鳴が昇降口にこだました。はるかは一歩近寄り、首根っこをつかむように九能の襟をつまみ上げる。
「帯刀、行くぞ」
「い、行きたくありません!」
「選択権は最初から存在しない」
さらっと残酷なことを言いながら、はるかは九能をずるずると引きずり始めた。木刀もろとも引きずられ、九能の靴が床に線を描く。
「助けてくれ早乙女乱馬ぁぁぁぁ!」
「悪いな先輩。俺、風呂の地獄だけは巻き込まれたくねえ」
乱馬は即答で距離を取った。さっきまで同じ戦場に立っていた同志を、風呂の話題とともにきれいに見捨てる。
「冷たい!」
「風呂が熱い分、周りは冷たくないとバランスが崩れるだろ」
「意味不明な理屈をそれっぽくまとめるなあああ!」
九能の叫びは、階段の方へ引きずられていくにつれて遠ざかっていく。その声を背中で受け止めながら、はるかはふと振り向き、乱馬の方を見る。
「いやだあああああああ!」
「帯刀、声出ているな。その調子で素振りの数も増やせ」
「増やさないでええええ!」
昇降口前に残された生徒たちは、その背中を見送りながら顔を見合わせる。
「なあ」
「うん」
「この学校、前から変だったけどさ」
「さらに一段階おかしくなった感じがする」
「でも、見ている分には退屈しないな」
「当事者になったら死ぬけどね」
最後の言葉に、全員がそっと乱馬へ視線を向けた。本人は腕を組み、空を見上げている。
「何だよ。人を生贄を見るような目で見るな」
「実際一番巻き込まれそうだし」
その日の夜。町のどこかの銭湯では、九能帯刀の絶叫と、水面を叩く派手な音が何度も響き渡ることになる。
「熱っっっ!熱いです師匠ぉぉぉ!」
「さっさと肩まで入れ。武士がぬる湯で満足するな」
「次は冷水だ!殺す気ですかあああ!」
「生かすためにやっている」
番台のおばちゃんは、常連の変わった親子喧嘩だろうと勝手に解釈していた。それが風林館高校の日常拡大版だと知るのは、まだ先の話である。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、七瀬はるかという人物の「武」と「日常」が少しだけ顔を出す回となりました。
乱馬との戦闘は、力ではなく技術差が見えるように描き、
九能とのやり取りは、彼の悲しい歴史がにじむよう調整しています。
皆さまは、
・乱馬とはるかの戦い、どこが印象に残りましたか?
・九能の地獄風呂、想像できましたでしょうか?
・七瀬はるかという人物、どんな正体を感じますか?
ぜひ読後の感想を教えていただけると嬉しいです