「さて、詳しくお聞かせ願おうか」
聖マンゴから煙突飛行で戻り、すぐに校長室を辞した。その後ガーゴイルの階段を降りた所でそう告げると、眼前の女は心底意味が分からないという風にキョトンとして首を傾げた。
メリル・ヴァレーという女は、学生時代から何を考えているか分からない所があった。私もあまり自分の事を話すタイプではなかったし、彼女もまたそうだった。彼女のことで知っている事といえば、純血の元貴族の男性──結婚に伴って勘当されたらしい──とマグルの女性を親に持っていること、レイブンクロー所属なこと、教科の中で魔法薬学が最も得意としているがそれに関連する薬草学や魔法生物飼育学も好んでいる等、表層的なことばかりだ。あとは甘い物が好きなことくらいか。それくらいで、構わないと思っていた。
普段はどこか飄々としていて、感情の起伏も激しくない性質の様だった。──リリーとはまるで正反対だ。
しかしあの日、卒業を目前に控えた大雨の夜。スリザリンの先輩方に誘われた会合に参加した帰りに、何となく先輩方と別れて回り道をして寮に戻ろうと歩いていた先で、彼女に出会った。
しとどに降る雨が容赦無く吹き込む渡り廊下で、メリルは全身が濡れるのも構わず立ち尽くしていた。
「……セブルス」
気配でも感じたのか、不意に振り向いた彼女が私の名前を呼んだ。まるで途方に暮れた迷子のような、頼りなく揺れた声だった。
そんな初めて聞く弱々しい声音に気付かないフリをしてツカツカと彼女の横まで歩き、「もうすぐ、消灯の時間だ」とぼそりと言った。
確実に聞こえていただろうに、メリルは私から顔をそらして外を見続ける。その横顔は張り詰めて、今にも崩れてしまいそうで。
何も言えなくなってしまった私は、彼女の横で彼女が見詰める先に視線を向けた。
横に並んで外を見ているから、もうメリルの表情は分からない。
「両親が、死んだの」
そっと囁いた彼女の言葉は、存外にあたりの空間に響いた。
「親戚もいなくて、……私、独りになってしまったわ」
彼女の境遇は知っていた。父親が勘当されているなら、彼女が頼れる先はもう、このホグワーツしか無い。
「……ヴァレー、君は、」
思わずこの先のことを問い掛けようとして、気付いた。雨ではない雫が、音も無く彼女の頬を伝っている。
それでも彼女の表情は、酷く凪いでいた。
「セブルス……肩を、貸してくれる……?」
その悲痛な声音の嘆願に、私は何も言えなかった。しかし拒否もしなかった。できよう筈もない。メリルは私の肩に顔をうずめた。
彼女の涙が静かに私のローブに染み込んでいく。きっと彼女は、こんな風に人に頼ることも本当はしたくないだろう。ギリギリのところで保っていた感情が、友人である私が偶然通りがかったことで決壊してしまったのだと思う。そうであるならば、下手に慰めるのは逆効果だと思った。どうしたら良いか分からなかった不甲斐なさには、見ないフリをした。
ひとしきり泣いて落ち着いてきたメリルは、ぽつりと言葉を零した。
「ねぇ、名前、呼んで」
「……何故」
「お願い……」
彼女の意図は分からない。けれど、私が君にできることがそれならば──
「…………メリル」
長い沈黙の後、私はそっと彼女の名前を初めて口にした。それまではずっと、「ヴァレー」と呼んでいたから。
あえてそう呼んでいたのだと今なら分かる。私の中の感情に気付かないように、無意識に線を引いていたのだ。
手酷い別離を経験したばかりの学生時代の私には、もう近しい人を作る勇気は無かった。
なのに、彼女は無自覚にもう一歩を踏み出した。
「メイって……呼んで、くれる……?」
それは。
心がふるりと震えた。
それは、君の両親が付けてくれた、大切な愛称ではないのか。
いつかの日に、チラリと話してくれたことがあった。幼く、口の回らないメリルのために、彼女の両親が付けてくれた名前があるのだと。「久しく呼ばれてないけれど大切なの」とはにかむ彼女の顔を今でも覚えている。
それを私に教えることが、私に呼んで欲しいと強請ることが、どれ程の意味を持つのか、彼女は分かっているのだろうか。
いや、分かっていないのだろう。だからこそ私に、私なんかにそんなことを言えるのだ。
それでも。それでもこんな状態の彼女のためなら、名前でも何でも呼んであげたい。
「メイ」
密やかに発した声は、彼女に届いただろうか。私の声は、歓喜に震えていなかっただろうか。
彼女の特別を得た喜びが、私の心を端まで満たした。
私は酷い人間だ。彼女が悲しみに暮れるその横で、彼女の特別を一時得たことにこれ程歓喜しているのだから。
手離したくない、と強く思った。この時ようやっと、私は私の心の中に、彼女への友情以外の感情があることを自覚した。
リリーとの決別をきっかけに、メリルは私のことをより気に掛けてくれるようになった。食事はしているのか、ちゃんと寝ているのか、といった細やかな気遣いが、私の心の傷をゆっくりと癒していった。そうした中で、きっと彼女への想いは友情以外の物へと変わっていったのだと思う。
しかし、その想いに明確な名前が付く前に、メリルは私の前から姿を消した。
ホグワーツを卒業してすぐ、行先を誰にも告げることなく旅立ってしまったのだ。
裏切られた、と思った。と同時に、自分自身に失望した。私は勝手に彼女は私の側にいてくれるものだと思い込んでいたのだ。何と愚かしい。私の側にいるということは、それだけ闇に近いということなのに。
失意に塗れた心は宙に浮いて、そうして私は闇に取り込まれた。
ただ、彼女の夜の瞳が、闇に濁るのを見ずに済んだことにホッとしている自分がいたのは自覚していた。
次にメリルに再会したのはホグワーツを卒業して数年後のことだった。リリーを亡くし、生きる意味を見失った私がダンブルドアに言われるがままホグワーツの教員として務め始めて少し経った頃。
突然ダンブルドアが薬草学と魔法生物飼育学の教授補佐を雇うと言い出したと思ったら、その年の夏に彼女はホグワーツに戻って来た。
突然の再会にメリルは驚いた様子だったが、それはこちらも同じだ。ダンブルドアからは何も聞かされてはいなかったのだから。
メリルの居室となる元教室の場所まで案内すると、彼女は笑顔で礼を言った。
「じゃあ、私もう寝るわね。改めてありがとう。……生きていて良かったわ、おやすみ」
「っヴァレー」
思わず、彼女の手首を掴んだ。
「生きていて良かった」と、そう言ったのか。ずっとリリーを引き摺って彼女と向き合おうとしなかった私に。あの雨の日に、たった1度名前を呼んだだけの私に。
メリルは私のことを気に掛けてくれていたのだ。私は闇に堕ちて染まっていたのに。彼女もきっとそのことには気が付いていただろうに。
驚いて私を見上げてくるメリルに、何か言いたくて、けれど言葉は何も出てこなかった。
結局「何でもない」と誤魔化して、私は身を翻した。
彼女の手首の細さと熱さだけが、いつまでも手の平に残っていた。
メリルの赴任時にはちょっとした話題になったが、彼女はすぐにホグワーツに馴染んだ。それから順調に日々は過ぎ──彼女が良く禁じられた森に出入りしているという生徒には知られてはならない趣味も発覚したが──、あの方がいなくなって11年が経った。それはすなわち、「あの子」が、ハリー・ポッターがついにホグワーツに入学してくるということである。やっとだ、やっと、リリーへの償いができる。彼女への未練の代償は、彼女の死だった。その罰は私自身が贖わなければならない。ダンブルドアがリリーが亡くなった日に悲嘆に暮れる私に言ったように、彼女の息子を守ることでそれができるなら、お安い御用だと思った。
運命の日の前夜、就寝準備をしているとメリルが魔法薬学の教室を訪ねてきた。
「こんな時間に何の用かね?」
「ちょっと渡したい物があって。良かったら入れてくれない?長居はしないわ」
「……分かった」
私が身を引くと、彼女は開けた扉の隙間からするりと入り込んだ。そして、私の格好を見て休息前だと悟ったのかハッとして申し訳なさそうに眉を寄せた。
「ごめんなさい、寝る前だったのね。悪いことしたわ」
「いや、構わない。……ハーブティーで良いか」
「ええ、ありがとう」
私室に招くと遠慮がちに入ってきた彼女は、私の淹れたハーブティーの入ったカップを少し緊張気味に受け取り、さっと防音呪文を部屋全体にかけた。何故防音呪文を、と私が訝しげな顔になるのを置いて、メリルはハーブティーを口に含んだ。
「美味しい。セブルスはお茶を淹れるのが上手ね」
「フン、褒めても何も出ないぞ。……それで、何の用かね?わざわざ防音呪文までかけるのだ、余程のことだろう?」
「防音呪文は念の為よ。これを渡したくて来たの」
彼女がローブの内ポケットからある物を取り出して私に手渡した。袋状のそれは、一見ただのサシェのようだった。しかし袋の縫い目に既製品とは違う揺れが見える辺り、どうやら手作りのようだ。
「サシェのようだが……どういう意味だ?」
そう問い掛けると、メリルはお茶を一口含んでから説明してくれた。
「私の父方の家系がケルトの流れを汲んでいるの。その魔術を私も少しだけ使えるから、それで作ったのよ。それだけだと不安だから、独自にルーンを組み合わせてみたの。何の意味も為さないかもしれないけれど、少しでも助けになればと思って……」
──ふむ、ケルトとはまた特殊だな。口振りを見るに、その特殊性にメリルは気付いていないだろう。父親の実家は貴族と言っていたし、もしかしたら秘術として伝えられているのかもしれん。しかしそこに別の魔法を組み合わせるのは難しいだろうに、それをこなせてしまうのは彼女の才能だろう。
思考を巡らせながら手の中のサシェをじっくり見つつ聞いていると、何故かメリルの声が尻すぼみに小さくなっていく。
「あの、一応貴方の守護樹木である白樺を頂いてきてそこに入れてあるのよ。他人が採った物じゃなくて自分で生木を貰ったから、効果は大きいはず、です。他にもちょっと色々入れたけれど。…………ごめんなさい、大きなお世話だったわよね。貴方はこんな物無くてもだいじょう、」
「これは、何を入れている?」
つらつらと喋り続けていた彼女が気まずそうにサシェへ手を伸ばしたのを気付かないフリをして、私はそう咄嗟に問い掛けた。驚いた彼女は、出し掛けたその手を引っ込めた。
「え?あ、ああ、えっと、ハナミズキの枝とラベンダーを少し」
「それも何か意味が?」
「ええ。ハナミズキには守護、ラベンダーは安眠を助けるように、そして白樺は貴方の守護樹木であると同時に守護と魔除けを意図している。それに、白樺にはハガルのルーンを刻んであるわ」
「魔除けと守護を盛りに盛ったのだな」
余りの盛り具合に思わず小さく苦笑した。
ここまでやっておけば、効果は絶大かもしれない。
「ありがたく受け取っておこう。これは身に付けた方がいいのかね?」
「部屋の、できれば寝室に置いておくだけでいいわよ。香りが薄くなったら言ってくれれば交換するし。……その、本当に良いの?」
「何がだ」
「私から押し付けておいて何だけれど、お節介だったんじゃないかって……」
「君のお節介は昔からだ」
そのお節介に助けられた、なんて口が裂けても言えないが。
彼女らしい気遣いが、学生時代を想起させてほろ苦い甘さを私の心に齎した。
「ありがとう、セブルス。お茶も。これ以上夜更かしさせるのも悪いし、もう失礼するわ」
ハーブティーを飲み干し、防音呪文を解除したメリルは、私に礼を言って席を立った。彼女の歩みに合わせてそよぐ金の三つ編みを、なんとはなしに見ながら彼女の後ろを歩く。
「ここまででいいわよ、教室の施錠はしておく、か、ら──」
ドアノブに手をかけて急にメリルが振り向いたため、思いもかけず近い位置で立ち止まらざるを得なくなってしまった。お互いの鼻先が、もうすぐ触れてしまいそうな距離にある。
夜の色が、私を射抜く。
私の身体の影ですっぽりと覆えるぐらい華奢なメリルが、私を無言で見上げていた。
その深い藍の瞳は、夜闇に輝く星々のように煌めいていて、吸い寄せられるような引力を強く発しているようだった。
ああ、その目だ、その目で私を──
「──セブルス……?」
メリルの声にハッと我に返った私は、ようよう口を開いた。
「ヴァレー、君は……」
口からまろびでた言葉は、何と繋げようと思ったのか。自分でも分からなかった。
「な、何?」
「…………いや。君の部屋にもあるのか?」
「何が?」
「先程くれたようなサシェだ」
「ええ、寝室にあるわ。香りは違うけれど。それに、ほら、私は身に付けてもいるわ」
彼女はひらりと自身のローブを捲って腰元を見せた。そこにポーチと一緒に身に付けているサシェを認めて、私は「そうか」と頷いた。
「気を付けて帰りたまえ」
「ええ、そうするわ。おやすみ、セブルス」
優しく微笑んだ彼女は、静かに部屋を出て行った。
それを見送り、私は部屋の扉と一緒に、自分の想いにも施錠した。
まだ償いをしなければならない私に、彼女へ何か伝える資格は無いのだ。きっと彼女は、私がいなくても幸せになれるのだから。
ポッターの顔を見るだけでざわつく内心を何とか制御できるようになってきた頃、事件が起きた。ハロウィンの日だった。
大広間に駆け込んで来たクィレルがトロールの出現を告げた。当然パニックになる大広間。素早く指示を出すダンブルドアと、倒れ込むクィレルに走り寄るメリルを視界に入れつつ、教員席の後ろにある扉から密かにその場を抜け出した。扉が閉まる寸前、目が合ったメリルの瞳が強い光に満ちていて、彼女がいれば大丈夫なような気になった。
奴があんな行動に出るなら何かあるかもしれないと4階に確認に行ったが、あの三頭犬に噛みつかれただけに終わった。血の流れる傷にとりあえずエピスキーを唱え、バタバタとミネルバや何人かの教員が集まっていた女子トイレに向かうと、そこは惨憺たる有様になっていた。
粉々に砕けた手洗い場。破壊されたトイレの壁に床に倒れ込む成長したトロール。最悪だ。死人が出なかったのが奇跡のような現場だった。しかもそこにポッターまでいるではないか。どこまでトラブルに首を突っ込めば気が済むのだ!しかもメリルまで巻き込んでおるではないか!
一体どういうことだと苛立たしげに眉を寄せていると、ミネルバの説教が始まった。
彼女はグレンジャーと厳しい声でやり取りし、減点した上で彼女とポッター、ウィーズリーをグリフィンドール塔に帰した。子供達はメリルの忠告に頷きながらそそくさと立ち去って行った。その彼女と言えば、こちらはこちらでしっかりミネルバから灸を据えられていた。しおらしく項垂れる彼女だが、どこまで響いているものか……。
成人したトロールを相手取るなど無謀なことをするようには思えなかったが、旅する間に変わったのかもしれない。
そんなことを考えていると、メリルが私の横を通りざまにハッとした表情で私の足元を見た。急いで足の傷を隠したがもう遅い。彼女はキッとした顔になって足早に去って行ってしまった。これはまたお節介が発動する予感がヒシヒシとする。
とりあえず気絶したままのトロールを浮かせて城外に運び、拘束しておく。クィレルが処理すると申し出たため、疑いながらも任せて私は自室に戻った。
予想通り、そこにはメリルがいた。酷く疲れた顔をしながらも、その目は力強く光を湛えている。
「……何をしている」
教室の扉を開くと、彼女はさっと立ち上がって私を迎えた。
「やっと戻ってきたのね。待ってたわ」
「何をしているのか聞いている。我輩の記憶が正しければ、君は休みに戻ったはずなのだが?」
「用事が終われば休むわよ。ぐっすりね。さあ、早く座って」
「何だと?」
「座って、足を見せなさいと言ったのよ、セブルス」
仁王立ちしたメリルの迫力と絶対に引かない頑固さに不利を悟った私は、渋々椅子に腰掛けた。すると、彼女は止める間も無く跪き、スラックスの裾をたくし上げたものだから思わず焦って「おい!」と声を上げてしまった。
「何をする!」
「治療よ。……これ、応急処置は?」
「……エピスキーをかけた。問題無い」
「大ありよ!動物による咬傷は危険で、抗生物質が必須なの。動物の口内は雑菌だらけだから、それが傷から体内に入れば下手したら死ぬのよ。はい、これ飲んで」
メリルが、ポーチから取り出した抗生物質が入った瓶を押し付けてくるが、正直飲む気にならない。エピスキーをかけてあるのもあるが、多少私のような者がいなくても何も変わらないだろうという思いもあった。
しかし、動かない私を見てメリルは焦燥の滲む声で飲むよう急かして来た。
「何をしているの?早く飲んで」
「結構だ」
「……何ですって?」
彼女の声音が険のある物になる。それを分かっていながら、私は彼女の方を見れずに床に視線を落とした。
「多少痛む程度だ。問題は無い、何も」
低くそう告げた、その時。
「ふざけないで!!」
バシッと音がした、と他人事のように感じた。張られた頬がジンジンと痛む。
メリルが、私を思い切り打ったのだ。まさか、彼女が手を出すなんて。
衝撃が抜けきらぬまま、ノロノロと振られた顔を戻すと、滲む涙を堪えたままフルフルと震えるメリルと目が合ってしまった。藍の瞳に透き通る雫に射抜かれて、私は身動きが取れなくなった。
「二度と、そんな自分を蔑ろにするようなことを言わないで。怪我をしたのならちゃんと治療して。……もう、大切な──友人がいなくなるのは嫌よ」
その言葉に、ぐっと奥歯を噛み締める。
君が、それを言うのか。私の前から唐突に消えた、その君が。
生死も分からない君を、どれだけ探しに行きたかったか知れない。雁字搦めにしてくる全てを振り切って、何処にいるかも生きているかも分からない君の元へ行こうと思ったことも1度や2度ではないのだ。それでも、私は動けなかった。半純血の彼女が闇に取り込まれないように、という建前に隠れて、私は彼女の拒絶を恐れていたのだ。彼女は、私が闇の魔術に傾倒していたことを薄々察していたから。
結局のところ、私は自分の弱さゆえに全てを取り零したのだ。
目尻を拭うメリルに再度飲むよう促され、さすがに抗う気にはなれなかった。私が瓶の中身を飲み干したことを確認し、彼女は再度屈み込んで私の足の傷を消毒して包帯を巻いてくれた。
「…………すまない」
「気にしないで。化膿はしてないみたいだから、何日かしたら治るわ。毎日包帯は交換して。清潔第一で、足に負担をかけないようにすること」
「努力する」
私の物言いが面白かったのか、彼女がふっと小さく苦笑した。室内の張り詰めた空気が、僅かに緩んだように感じる。
一通りの治療を終え、メリルはゆっくりと立ち上がった。先程あんな騒ぎがあったのだ、かなり疲れているのだろう。
「じゃあ、これで。打ってしまってごめんなさい」
「待て」
だが、ただ帰らせる訳にはいかなかった。彼女は誰にも気付かれていないと思っているだろう。確かに彼女の身のこなしは自然だった。しかし、一瞬の違和感を私は見逃さなかった。
「どうしたの?」
「君はどうするんだ」
「何の話?」
とぼける気だろうか。僅かに身体の左側を庇う仕草を、私が見抜けないとでも思っているのか。
私は無言で彼女の左腕を掴んだ。
「痛っ」
「やはりな。トロールか」
「棍棒が掠っただけよ。寝れば治るし、多少酷くなっても湿布薬があるわ」
「……そうか」
こちらをまっすぐ見てそう言われてしまい、私は渋々メリルの腕を離した。彼女は今度こそ魔法薬学の教室を後にした。
彼女の仄かに甘く爽やかな香りが、しばらくの間室内を漂っていた。
11月に入ると、一気に寒くなった。ポッターのシーカーデビュー戦が迫る金曜日の夜。私はメリルと共に職員室に残っていた。 それというのも、昼間フィルチに治療の手伝いをするよう言い付けていたところに、颯爽と彼女が現れて手伝いを申し出たのだ。 「その手伝い、私がやるわ」 「……手伝いは不要だ」 「いいじゃない。私も怪我の治り具合が気になるのよ。処置した者の責任としてね。じゃあ、また夜にここで」 有無を言わさず約束を取り付ける彼女に、私は大きな溜息を吐くことしかできなかった。 そして、今である。立ったままの私に困惑したメリルは、恐る恐る言葉を発した。 「……あの、座ってくれない?やりにくいわ」 私が無言で椅子に座ると、素早く膝をついた彼女は私のスラックスの裾を迷わずたくし上げた。シュルリと包帯を取ると、現れたのはズタズタの傷。一部にはまだ血が滲んでいる。 「……やっぱり治りが遅いわね……手当が遅れたからかしら……」 メリルがブツブツ呟きながら消毒して包帯を巻き直しているのを見ながら、私は思わず唸る。 「忌々しい奴だ。3つの頭に同時に注意することなんてできるか?」 「だから気を付けてって言ったのよ。私にはそれしか言えないわ」 「分かっている」 包帯をしっかり巻き直し終えた彼女が立ち上がろうとした瞬間、気付いた。 「ポッター!」 職員室の出入口にいつの間にかいた、とても困った顔をしたポッターの姿に。 「本を返してもらおうと思って」 「出て行け、失せろ!」 がむしゃらに怒鳴ると、ポッターはぴゃっと飛び上がって走り去ってしまった。 「セブルス、さすがに大人気ないわ」 まだ息も整わない内に苦笑したメリルにそう言われ、「……うるさい」と子供のように言い返すことしかできなかった。 「ハリーの言ってた本って何のこと?」 「『クディッチ今昔』だ。奴が校外に持ち出していたから減点の上没収した」 「本は私から返しておくわ。図書館の本なら貸出期限もあるだろうし、規則を破らせないようにするのも教師の仕事の内よ」 その申し出に私は無言で本を呼び寄せ、彼女に手渡した。
正直助かった。余りにも父親に似過ぎているポッターの顔を、そう何度も見たい気分では無かったから。 明けて、土曜日。普段クディッチに興味を示さないメリルが、珍しく競技場にいた。 「珍しいな、君がここにいるとは」 「朝、ハリーに本を返した時に誘われちゃってね。可愛い生徒からお願いされたら断れないわ」 お人好しの彼女のことだ、きっと他にしたいことがあったろうに生徒の願いを優先したのだろう。 試合はジョーダンの偏った実況共々いつも通りに進んで行った。 そうして、それは突然起こった。 「……ハリーの動きがおかしいわ」 「何?」 彼女の呟きに素早く空の上のポッターを見遣る。 その言葉通り、上空では箒が乱高下を繰り返しており、少年は今にも落ちそうになっている。その顔はスニッチを探す集中した物ではなく、酷く焦っている。 「箒に呪いがかかっているのかもしれない」 「何ですって?」 「我輩が反対呪文を試す。解呪を試みるよりは早いだろう」
と囁いてきながら、頭の中では適当な反対呪文を検索している。
絶対に奴の仕業だ。箒全てに呪いをかけているなら厄介だが、今はポッターの箒に対処すれば良かろう。 「私は下で万が一に備えるわ。ついでに怪しい人間がいないかも探してみる」 無言で頷くと、メリルはさっと身を翻して観客席の下に向かって行った。
結論から言えば、ポッターの命は助かった。突然起きた小火で私のローブが燃えたことで、その場が騒がしくなり、呪いをかけることも反対呪文を唱えることもできなくなったのだ。
試合はグリフィンドールの勝利に終わり、口でスニッチをキャッチするという劇的な終わりを齎した英雄に観客は大盛り上がりだった。
興奮でざわめく人々の波を縫ってメリルと合流すると、当然の如くローブの裾の焼け焦げに注目された。 「貴方、裂傷の上に火傷まで負ったの?」 「喧しい。好き好んで怪我する馬鹿がどこにいる」 メリルの軽口に低い声で返し、私は鼻を鳴らして足早に禁じられた森に向かった。奴を更に追及するために。
教師としての仕事やクィレルの監視をこなしていると、あっという間に12月になった。相変わらずポッターには苛立つことが多く、メリルのお陰で何とか心の平穏を保っている日々だった。
そんなある日、奇妙なことが起きた。メリルが朝食の席にいないのは何度かあったことだが、クィレルまでいないのは初めてだった。
朝のウィーズリーが起こした事件の概要は、先程ミネルバが憤慨しながら話していた。
どうせ彼女のことだから、クィレルが大広間に顔を出すのは気まずいだろうと朝食に誘ったのだろう。
それにしても胸がざわつく。まさかとは思うが、奴と親密な関係ではあるまいな……?
メリルと奴は同じレイブンクロー出身だし、人付き合いの少ない彼女が他人を食事に誘ったなんて、ミネルバやポモーナ等女性陣とのお茶会くらいで──それも大抵誘われる側だ──自ら誘うとは聞いたことも無い。万が一だが、有り得ない可能性でもない。
黒々とした感情が、私の胸を支配する。彼女は誰の物でもないのに、彼女の隣に誰かがいるかもしれない、あの藍の瞳を蕩けさせながら見遣る誰かがいるかもしれない、と思うと、チリチリとした痛みが内側から私を灼いた。
午後、人気のないホグワーツの廊下を歩いているメリルを見つけ、咄嗟に彼女の腕を掴んで物陰に引っ張り込んだ。 「なっ「静かにしろ、我輩だ」……セブルス?」 目を丸くして大声を上げかけたメリルに声を掛けると、彼女はキョトンとして首を傾げた。 「何の用なの?びっくりしたじゃない」 「何の用、だと?」 全く心当たりが無いという風なメリルに、苛立ちが募る。彼女に責は何一つとして無いというのに。 「奴と何をしていた」 「はい?」 ぐっと顔を近付けて囁くように詰問すると、メリルはぽかんとして私を見上げてくる。その様子に思わず舌打ちが出た。 「……クィリナスだ。朝食の席に、2人揃っていなかっただろう。君はともかく、奴がいないことなどほとんど無かった。朝のウィーズリーの件は聞いている。君のことだから、どうせ朝食にでも誘ったのだろう」 「すごいわね……全部当たりよ」 感心したような彼女に、それくらいは分かる、と鼻息を吐いた。 「それで、奴と何を話していた?」 「大した話じゃないわ。私が学生時代に寮内で何と呼ばれていたか、とか、そういう他愛無いことよ」 「それだけか?」 「何?私が嘘を言っているとでも?」 「違う、そうではない。ただ──」
メリルを疑っているわけではない。ただ、私が安心したいのだ。 だが、そのタイミングで、今日最後の授業の終わりを告げる鐘が鳴った。ザワザワと教室から生徒たちが出てくる音が聞こえてくる。 何てタイミングの悪い、と再度舌打ちをし、「……今夜、訪ねても?」と彼女に囁いた。 「門限の後なら大丈夫よ。構わない?」 彼女の微笑みに小さく頷き、私はその場を立ち去った。
断られなかったことに、少しだけ心が軽くなった。
寮の門限を過ぎた夜更け。シンと静まり返った廊下を素早く進み、小さくメリルの部屋のドアをノックした。 内側からさっとドアが開けられ、申し訳なさそうなメリルが顔を出した。 「遅くにごめんなさいね。どうぞ入って」 「失礼する」 室内に入り、素早く施錠呪文と共に耳塞ぎ呪文をかける。 念の為のものだが、備えておくに越したことはない。
メリルが杖を振って椅子3脚を部屋の隅に寄せ、代わりに1人掛けソファを2脚呼び寄せている。
客がいたのか?今朝から珍事が多い。奇妙な日だ。
私がセッティングの様子を見ていると、メリルが少し戸惑ったように笑った。 「ええっと……どうかした?あ、疲れてるわよね、座って待ってて」 「いや、……何でもない」 「そう?すぐにお茶を持ってくるわね」
軽やかに身を翻したメリルを見送り、私はゆっくりとソファに腰掛けた。
メリルの淹れてくれたハーブティーに舌鼓を打ちながら、どこから話したものかと思案する。気になることは多々あるが、決して彼女を不快にさせたくはない。 結局、私が口火を切るまでしばらくの時間を要した。 「確認だが、今朝はクィリナスと朝食を取っていたのだな?」 「ええ、ここでね」 「何だと?」 ここで、だと?メリルの居室であるこの部屋で、奴と朝食を?私ですらほぼ入ったことがないのに?……いや、それは良い。
何と不用心なのか。あんな怪しい奴と2人きりになるなど、警戒心というものが足りていないのか? 「何か問題が?」 「……いや、いい」 少しムッとした様子のメリルに、それ以上何も言えなくなってしまった。ならば、と他に最も気になっている問題を聞いてみた。 「クィリナスと個人的な付き合いをしているのか?」 「はい?」 私の問いに、メリルはポカンとした間抜け面になった。
それは一体どういう意味なのだ。私の言っている意味が分からないのか、それとも、言いたくないのか?
苛立たしげに短く息を吐く。 「聞こえていなかったのか?クィリナスと恋人同士なのかと聞いている」 「どうしてそう思えたのか全くもって分からないけれど、私とクィリナスはただの同僚よ。恋人同士では、絶対に、全然、無いわ」 「そ、そうか」 余りのメリルの勢いに、思わず気圧されてしまった。怒っているようではないのが不幸中の幸いだ。
気まずさを紛らわすためにカップの残りを一気に飲み干したが、動揺したせいで少し噎せてしまった。 「大丈夫?」 「ゴホッ……問題無い」 私が何とか咳を抑えている間に、メリルはハーブティーのお代わりを淹れてくれた。小さく礼を伝え、ダメージを受けた喉を潤すために、少量お茶を口に含んだ。 「どうして私とクィリナスが付き合ってるなんて思ったのか聞いてもいいかしら?」 「…………話す必要は、「あんなこと聞かれたら気になるに決まってるでしょう?」……それはそうかもしれないが……」 彼女の言い分は最もだが、私とて話したくないこともある。自分の推測が全くの的外れだったと分かった今なら尚更。
せめてもの抵抗に、メリルと視線を合わせないようにしていたが、最後のひと押しとばかりに名前を呼ばれ、観念せざるを得なかった。 「……大した理由がある訳ではない。君とクィリナスは同じレイブンクロー出身で、在籍期間も被っている。それに、余り友人の多くない君が珍しく人と食事を共にしていたというから、特別な仲なのかと推察したまでだ」 「ふぅん、なるほどね……、って、『友人が多くない』は余計よ。量より質だもの」 ふむふむと頷いていたメリルが、私の言葉に小さく笑った。そのまま彼女は言葉を続ける。 「朝食を一緒に食べたのは偶然よ。ここを選んだのは、変に生徒に見られるのも嫌だと思ったから。在籍期間は被ってても、私とクィリナスに接点は無かったわ。お互いのことは知ってはいたみたいだけれど」 「そうか」 メリルの話振りから、完全にクィレルに対して特別な感情は無いと分かった。それに安心している自分を自覚しながら、表面上は努めて冷静な風を装った。
幸運にも、メリルは私の内心には全く気付いていないようだった。 「今日訪ねてきたのはそれが聞きたかったの?」 「それもあるが、奴は何か不審な様子では無かったか?何を話していた?」 「言ったでしょう?学生時代のことを話していたのよ。私が寮内で知らない間に『孤高の金鈴』って呼ばれていたって話。普通に朝食をとって、普通におしゃべりしただけよ。昔のただの強がりが何故か美化されていたようで恥ずかしかったわ」
クスクスと笑いながら話すメリルの言った異名に聞き覚えがあった。確か、学生時代も後半に差し掛かった頃に寮内で何人かの先輩が話していたのだったか……。 「あれは君のことだったのか」 「嫌だ、スリザリンにまで届いてたの?ますます恥ずかしいわ。私は意地を張って強がっていただけよ。ただの負けず嫌い」 「だが、その意地を張り続けられる人間は多くはない。君の強さは本物だとも」 「え、あ、ありがとう」
「事実を述べたまでだ」
その強さがどれ程君を輝かせているか、君自身が一番分かっていないのだがな。
ふと、もう1つ気になったことがあったことを思い出した。先程見た3脚の椅子の件だ。 「……そういえば、客人があったのか」 「え?ああ、フレッドとジョージと少し話をね」 「ウィーズリーとだと?」 思わず勢い良くカップを置いてしまった。自分の眉がぐっと寄るのが自分でも分かる。 「あの2人と話すことなどないだろう」 「そんなことないわよ。彼らの悪戯について少し、ね」 「何を話そうが変わらん。あいつらと同じだ」 「違うわ。あの子たちは『人を楽しませるために』悪戯をしているのよ。……あの4人とは違う」 そんなことはない、と言いかけたが、メリルの真摯な言葉の前には言葉にできなかった。私にできるのは、ただただ唇を引き結んで黙り込むだけ。
あいつらと雰囲気が違うことは、頭では理解している。感情が納得するのは、また別の話だ。 固くなってしまった空気を何とかしようとしたのか、メリルが先程とは違う明るめの声音で話し掛けてきた。 「そういえば少し気になったのだけれど、クィリナスはどうしてあんなに怯えているの?」 「……さあな。大方、あの双子や他の生徒に絡まれないか気にしているのではないかね?」
はぐらかして答えれば、メリルにもそれが伝わったのか、軽く溜息を吐いて苦笑されてしまった。
普段あまり接点が無さそうだというのに、メリルは今あまり注目にして欲しくない部分を的確に突いてきた。 ──彼女には、万が一にも危険な目に遭って欲しくない。我が君に関連する事柄には特に。彼女の受け継いだケルト魔術と才能に、もしクィレルと繋がっているかもしれない我が君が興味を示し、あまつさえそれを欲したならば私には阻止できないのだから。
なればこそ、私はクィレルに関する何事もメリルに話す気は無かった。 「まあ、いいわ。もう1つ気になっていることがあるのよ」 「何だ」 「クィリナスって、吸血鬼か何かに呪われている?」
思わず眉を上げた。
彼女自身は先程の質問と関係があると思っているのかいないのか不明だが、ある意味一番正解に近いかもしれない。真実は奴しか知らないが。 「……何故そう思った」 「まずはあの強いにんにくの臭いよね。にんにくと言えば、やっぱり吸血鬼をイメージするわね。他の魔法生物の可能性もあるけれど、とりあえずはそれらを退けるためにあの臭いをつけているのではないかしら。それに、クィリナスから何となく魔の気配がしたの。私のネックレスもほんのり反応していたし」 「ネックレス?」 身を飾ることをほとんどしないメリルの口から珍しい単語が出てきた。私の驚きが分かったのだろう、彼女はその白い首元からネックレスの紐を引き出して見せた。私が失礼でない程度に熱心にそれを観察していると、メリルは少しだけ得意気に説明してくれた。
「この石にはハガルのルーンを刻んでいるの。魔除けの力があるわ。クィリナスといる間、ずっとこれが仄かに温かかった。ということは、彼は魔や何か悪いものを身に宿しているか、それら関連の何かを身に付けているかのどちらかと推察できるわ。その上あのにんにくの臭いだから、何かしらの魔法生物から呪われたのかと思って」 「なるほど、興味深い推察だ」
彼女の才能と筋の通った論理には感服するしかない。恐らく他にも細々とした風の噂程度は把握した上でのことだろうが、彼女は自身の手元にある情報だけでそこまでの推論を組み立てた。彼女の能力には感服する他無い。真実、彼女は教授補佐では終わらないであろう頭脳を持っている。
私が賞賛の意を込めて返事をしても、メリルは残念そうに肩を竦めた。 「ということは、当たっていないということね」 「実際のところどうなのかはまだ明らかではない、ということだ」 「なるほどね」 「それよりも、それだ」
私は今この場で最も気になる存在であるネックレスを指差した。メリルは不思議そうに首を傾げる。 「その石はどうした。自分で作ったのか?」 「ええ。元々ルーンは木や石に刻んでいた物だし、石の中でも宝石は魔力との相性が良いのは知られていることでしょう?自衛のために旅に出る前に作ったの」 「触っても?」 「もちろん」 彼女が渡してくれたネックレスを、そっと持って間近でじっくりと観察する。 ──ふむ。表裏両面共に凹凸はほぼ無い。先程言っていたハガルのルーンとは中のうっすらと見えるこれのことだな。内包された魔力量も、この石に収まる最大量を繊細に入れ込んでいる。この透け具合を見るに、純度も最高純度の物か。
思う存分全方位からの観察と確認をする。あまりお目にかかれない程の技術の塊に、探究心と好奇心を非常に唆られる。許されるならば、どれ程の効力を有するのか調べたいものだ。
ああ、しかしこの色を、私は知っている。手の平に収まる程の小さな護りの、その輝きを。
ネックレスから顔を上げ、その紐部分を持ち上げる。その動作を返却の意と読んだメリルが、ネックレスを受け取ろうと手を伸ばすがそれを交わして彼女の顔の前に石を配する。
宝石越しに、彼女の煌めきと目が合った。 「ーーあ」
彼女の息を呑む音が聞こえた。
──思った通りだ。ああ、これだ。 「ああ、やはりそうか」 「な、何が?」 「石の色だ。……君の、その深い藍の色なのだな」
頭ではなく、心が彼女の色だと主張する。甘やかな痛みが私の胸を苛む。私はこの痛みを知っている。これを齎す原因を知っている。そうしてそれを敢えて見ないフリをしていることも、知っている。
我儘だろうか。その瞳を、いつまでも見ていたいなんて。その瞳が、少しの間だけでも私を映しているよう祈ることくらいは、赦して貰えるだろうか。 瞬きの間、メリルの目が見開かれ、最大限の驚きを表した。しかし次の瞬間には、その藍はさざ波が立ったかのように揺れ、揺らぎ、様々な感情の色がその煌めきを弾けさせた。 「……メリル?どうした、何か……」 「いいえ、いいえ、何でもないわ。その石は、私の目の色に近い物を苦労して探し出したから、褒めて貰えて嬉しかっただけ」 「そうか……」
彼女の言葉に、私はそれ以上何も言えなかった。
泣きそうに笑うメリルの藍は、夜の静寂に降る糸雨のように美しかった。 私が返したネックレスを再び首にかけて、メリルはハーブティーを淹れ直し、部屋の端にある棚から瓶を1つ呼び寄せた。 「セブルス、これを見てくれる?」 「ああ。……ふむ、ヤマアラシの針だな」
瓶の中身は、魔法薬の調合でも良く使うヤマアラシの針だった。これがどうしたというのだろうか。 「ええ、そうよ。でもただのヤマアラシの針じゃない」 「何?」 許可を得た上で瓶の中にあったヤマアラシの針を1本取り出し、慎重にそれを摘んでじっくりと観察する。
見た目に変異は見られない。だが、よくよく観察すると、内包されている魔力量が一般の物とは異なっていることが分かる。針自体の状態も良い。
そう伝えると、メリルは我が意を得たりとばかりに嬉しそうに頷いた。 「その通りよ。さすがね。それはホグワーツで飼っている子たちの物なんだけれど、少し実験してみたの。もちろんケトルバーン先生の許可は得ているわ」 「別にそこは疑っていない。君なら計画書まで書いた上で報告もしているだろうしな。何をした?」 「簡潔に言うと、餌を変えてみたの。マグル界では、食べ物を変えるとお肉の味が変わるというのは常識らしくてね。だから、それを魔法生物にも適用できないかと思ったの。つまり、餌に魔力を含んだ物を与えると、毛だったり針だったりといった魔法生物から得られる材料の魔力量にも変化があるのではないかってね。やってみたら大当たり。今回はとりあえず管理のしやすいヤマアラシとパフスケインで試してみたんだけれど、どちらの種も7割の個体で魔力量に変化があったわ。まだ継続的な実験はできていない状態だけれど、これから色々と実証していけると思う」 メリルの説明を聞き終え、再度頭の中で再生する。
与えた餌で魔力量が変化する、だと?質の良さは少数飼育による飼育環境の影響が大きいかもしれないが、魔力量に関してはそうはいかない。餌でそれを増幅させることが可能なら、魔法薬の効果にも違いが出てくる筈だ。
学生時代から時折突拍子も無い仮説を提案してくることはあったが、実績があるなら最早仮説では無くなってくる。 「このことは誰かに話したか?」 「え?ケトルバーン先生と、あとはセブルスだけよ」 「よし、では学会に発表しろ」 「何ですって?」 メリルは驚愕に目を見開いた。そしてすぐに狼狽したように「いや、そんな……」と言い出すものだから、これは確実に自分の実験の価値を理解していないとすぐに分かった。
私は腕組みをしてあえて彼女を真っ向から見据えて言った。 「いいか、君のことだから、『学会に発表するようなレベルではない』とか『お遊びのような実験なのに』とか考えているのだろうが、全くそんなことは無い」 「え、そ、そうなの?」 「今まで魔法薬の材料の量や、切り方等の扱い方についての論説は数多くあったが、そもそもの質に視点を当てた物は、私の知る限りは無い。今実証できている2種だけでも、発表すればかなりの注目が集まるはずだ」 「そんなに……?」 「無論、論文のまとめ方や論拠も重要だが、興味深い視点として取り上げられても、机上の空論と叩かれることは無い筈だ。実際に結果も出ていることだしな」 「実証しなければならないことは多そうだが」と付け足しながら、私は慎重に針を元の瓶に戻した。貴重なサンプルなのだ、一欠片も無駄にする訳にはいかない。 「ええっと、まずはどうしたらいいのかしら?学会なんて、関わったことも無くて……」 「明日以降で構わないから、パフスケインの毛と報告書も見たい。良ければ実物の個体と実際に使った餌も。論文の助言くらいはできるはずだ」 「ありがとう、セブルス!」 非常に嬉しそうなメリルの様子に、私も久々にやり甲斐のありそうな仕事に心が踊るのは無視できなかった。彼女は元々頭が良いのだし、初めての論文といってもすぐに書き方のコツくらいは掴むだろう。その上大変興味深い内容になることは確定的である。その第一読者になれるのだ、これ程光栄なことは無い。 その後は少々の雑談をしてその場は解散となった。 帰り際、以前に1度訪ねた時より確実に多くなったプランターや様々な材料に、「これ以上増やさないように」と釘を刺して部屋を後にした。
次の日の放課後には、メリルは早速実験結果のまとめとサンプルを教室まで持って来てくれた。双子呪文で複製したそれの添削に取り掛かると、すぐに没頭してしまった。
生徒がいつもこのくらい真面目であれば有難いのだが。
ふと顔を上げると、こちらを覗き込んでいたメリルとしっかり目が合った。聞けば、羊皮紙の中身が変ではないか気になると言う。丁度確認したい箇所があったこともあり、質問と彼女からの回答を記録しているとあっという間に時間は過ぎ去って行った。
くぅ、と小さく鳴った腹の虫の音で、私は現実に引き戻された。
「……いつの間にこんな時間に」
時計を確認したメリルが、呆然と呟いた。彼女も時間の経過に気付かなかったらしい。大変有意義な時間だったから、それも無理はあるまい。 「疲れているだろうに、遅くまでごめんなさい」 「いや、構わない。我輩の方こそ、君が朝早いと知りながら注意を怠った」 「あら、私の朝が早いって良く知ってるわね」 意外だとばかりに、彼女が目を瞬かせる。私とて、過去に1度偶然見かけたから知っていただけなのだが。 「遠目に見かけたことがある」 「そうだったのね。声をかけてくれたら良かったのに」 「すぐに廊下を曲がって行ったのでな」 2人して広げた羊皮紙や資料をガサガサと片付ける。中々に白熱した議論を象徴するように、羊皮紙は書き込みで黒々としていた。 「また検証したら結果を見てもらってもいいかしら?」 「もちろんだ。焦る必要は無いが、より細かく記録を取ることをおすすめする」 「分かったわ」 深く頷くメリルに、生徒全員がこれくらい熱心であったなら、と思わずにはいられない。
しかし、とふと思う。この時期のこの時間は、廊下は酷く冷える筈だ。このまま彼女を帰すのも忍びない、気がする。そう、これは寒々しい廊下を歩かなければならない彼女への、風邪を引かないための予防策のようなもだ、と何故か内心で言い訳めいた物を呟きながら、私は彼女の名前を呼んだ。 「え、あ、な、何かしら?」 「……良ければ、ハーブティーでも飲んでいくか」 お茶の誘いをほとんど断ったことのなかった彼女はしかし、残念そうに首を横に振った。 「もう夜も遅いし、貴方に申し訳無いから帰るわ」 「……そうか」 彼女の言い分は最もだ。明日も彼女には早朝から仕事があるのだから、今しなければならないことはできるだけ早くベッドに入ることである。
頭では理解していても、心中気落ちする部分があることも感じていた。それを素早く覆い隠し、私はいつも通り何でも無い風を装った。 メリルは「ごめんなさいね」と言いながら教室のドアをくぐっていく。 「お誘いありがとう。嬉しかったわ。明日も寒いから、温かくして休んでね」 「ああ、君も」 「ありがとう。おやすみなさい、セブルス」 ドアからメリルを送り出し、微笑んだ彼女が階段を上がって行くのを見送った。
クリスマス休暇が始まる前日、大広間は毎年華麗に飾り付けられる。
例年メリルが飾り付けの案を出しているらしく、繊細で美麗、しかし優美さを失わないそれは、いつも学生に好評のようだ。私にとっても、密かに数少ないクリスマスの楽しみの1つとなっている。
ツリーの頂点に星を乗せるところに居合わせた私は、静かにメリルの側に歩み寄った。
「──相変わらず器用だな」 「ひゃっ」 突然声を掛けたから驚いたのだろう、間抜けな声を出して飛び上がった私が愉快で、少し笑ってしまった。 「ヴァレー教授補佐は中々に気が抜けておられたようで。休暇前だからですかな?」 「もう、びっくりさせないでよ、セブルス」 「君が勝手に驚いたのだ。我輩に責は無い」 にやりと口の端を上げると、メリルはそっぽを向いて拗ねたような態度になった。 そんなところも愛らし──、いや、何を考えているのだ、私は。クリスマスが近いからと浮かれているのか?
調合が難しい魔法薬でも作成して気を引き締めるか、と思案していると、 「あ、アー、えっと、星、星をね、今年は工夫してみたのよ。どうかしら?」
とメリルが主張するので、彼女の指差す方向に頭を巡らすと、去年とは違う光り方をする星が目に入った。 「……ふむ、金属の反射光を模倣したのかね?」 「良く分かったわね。綺麗でしょう?自信作なの」
視界の端に映る誇らしげなメリルが眩しい。学生たちを楽しませようと毎年心を砕く彼女の努力は、大層綺麗に大広間に輝いている。 「ああ、毎年そう思っている」 「っ」
囁くように伝えると、彼女の息を呑む音が微かに聞こえた。 本心から言ったのだが、何故そんなに驚くのか理解に苦しむ。ミネルバやフィリウスからも褒められているだろうに。 「じゃ、じゃあ、私は部屋に戻るから、行くわね」
「ああ」
メリルはパタパタと早足で大広間から出て行った。何か急ぎの仕事でも残っていたのだろうか。だとすれば、引き留めて悪いことをした。
帰省する生徒を送り出した後のクリスマスの朝。私は起床すると真っ先に届いていた
プレゼントの箱の1つを手に取った。差出人はメリル・ヴァレー。毎年律儀に世界各地の紅茶を選んで贈ってくれるのだ。私からは、魔法界ではマイナーな、マグルの世界では知る人ぞ知る菓子店の詰め合わせにした。常にプレゼントには悩むのだが、私の知っている彼女の好きな物が甘い物しか無いため毎年馬鹿みたいに菓子を贈っている。
分かっているのだ、欲しいものなど本人に聞けば良いということは。だが、その1歩を踏み出すことは、私にはどうしてもできなかった。少しの自嘲の息を吐き出し、私は身支度を整えて大広間へ向かった。
クリスマスの日のご馳走は何も夜だけではない。この日ばかりは朝から晩まで皆──ホグワーツに残っている生徒や先生の大半──が浮かれ、朝から大量に出てくるクリスマスのご馳走に舌鼓を打つ。もちろん彼女も例外ではない。 「メリークリスマス、セブルス」 「……メリークリスマス、メリル」 朝食の席に滑り込んで来たメリルのクリスマスの挨拶に小声で返す。満面の笑みの彼女は、余程クリスマスのご馳走が嬉しいのだろう。食事の開始と共にあれもこれもと皿に乗せていた。 料理だけではなく、例年通りクラッカーもたくさん置いてある。ダンブルドアが鳴らしたクラッカーの中からは花飾りのついた可愛らしい女性向け帽子が出てきた。それをニコニコしながら自分の三角帽子と交換して被るものだから、本当に珍妙な趣味をしている。 「ふぉっふぉっふぉ、どうじゃ?似合うじゃろう?」 「ええ、お似合いです、校長先生」 ダンブルドアが投げたウィンクを受けて笑っていたメリルも、1つクラッカーの紐を引いていた。爆音を轟かせて弾けたそれの中から出てきた何かが大層お気に召したらしく、興奮したように私の袖を引っ張った。 「セブルス!ねぇ、見て見て」 「ぶっ」
油断した。何だそのサングラスは。ドラゴンか?ドラゴンなのか?
堪えるのが困難な程の笑いの衝動を生み出してくるのは、一種の才能なのかもしれない。
見られぬようにと顔を背けたが、しばらく肩が震えるのを止めることはできなかった。 「メリルに良い所を攫われてしまったのぅ」 ダンブルドアが残念そうにそう言ったが、その声音は確実に楽しんでいる物のそれだ。
何とか震えを収め、吹き出した紅茶を杖を振って消したところで、メリルが感心したように笑いながら話し掛けてきた。 「これ、再現度すごく高いわよね。セブルスも掛けてみる?」 「遠慮しておこう」 まだ口の端がひくついていたが、彼女からの提案は丁重に断っておいた。
あからさまにメリルが残念がっていると、ちょうど空になった皿が消えてプディングが現れた。いそいそと自分の分を取り分けた彼女は、ついでとばかりにさり気なく私の皿にもプディングを取り分けた。毎年恒例のお節介だが、クリスマスを楽しんで欲しいという彼女の気持ちも察しているためワインのグラスを礼代わりに渡しておいた。 くぴくぴと実に美味しそうにワインを味わうメリルは、いつの間にか2杯目のグラスを手に持っている。 「もう2杯目か?あまり呑み過ぎないように注意したまえ」 「あら、大丈夫よ。ご飯もしっかり食べたし、加減くらいできるわ」 「……まったく……」
そうやって気を抜いているからいけないのだ。 忠告も叶わず、メリルはどんどんと杯を重ね、笑みはあどけなく、口調はふわふわと柔くなっていく。 「ふふ、本当に面白いわね、セブルス」 「……そうかね」 「ええ、そうよ。皆も楽しそうだわ」 柔らかな声音が耳朶を打つ。そんな安心しきった声で、私の名を呼ばないで欲しい。……本当に、タチが悪い。
そんなやり取りをしている間に、席を立つ人間も出始め、次第に食事の席は解散の流れとなった。メリルも浮き足立った雰囲気のまま、大量のクラッカーから出てきた産物を抱えながら大広間の扉へと向かっていた。私もグラスの中身を飲み干し、彼女の後を追った。 メリルの背に追い付こうとした時、紫のターバンが目に入った。クィレルだ。
私の前にいる時とは違う、オドオドとしていない控えめな笑みに酷く心がざわついた。そのざわつきはすぐに苛立ちに変わり、それが引き起こした衝動のままに、私はメリルの手伝いを申し出た奴の目の前で彼女の腕からクラッカーのおまけを奪い去った。 「何を突っ立っている。行くぞ」 「あ、え、セブルスっ?」
戸惑う彼女を置いて、さっさと歩き出す。背後でメリルがクィレルに謝っている声が聞こえたため、歩調を緩めて廊下の角を曲がったところで彼女が追い付くのを待った。 すぐに角を曲がってきたメリルは、案の定当惑したままの表情だ。 「ありがとう、セブルス。でも、あの、自分で持てるわ」 「気にするな。行くぞ」 「ちょ、ちょっとっ」 遠慮する彼女に構わず、私は歩みを再開した。
足早に歩いていたお陰で、案外彼女の部屋には早く到着した。勢いでここまできたが、さすがに勝手に私室に入る訳にはいかない。
「……良ければ、部屋の中まで運ぶが」
躊躇いがちにそう提案すると、メリルは素直に頷いた。 「うん、お願いしてもいい?」 「構わん」 そう返すと彼女は微笑んで扉を開けた。
部屋を横切って私室に一番近いテーブルの上に、クラッカーから出てきた品々を置いて行く。中々の数だ。一体どれ程の数のクラッカーを開けたのだ、全く……。 「ありがとう、セブルス。今お茶を淹れるわ」 「……いや、我輩は、」
自室に戻ってきて安心したのか、メリルがまた少しふわふわとした口調になりながらお茶に誘ってきた。とっとと休んだ方がいいのではと思い辞退しかけたが、再度誘われて断ることはできなかった。私とて、彼女との時間が多いに越したことはないのだ。
メリルが呼び寄せたソファに座り、しばらく待っていると彼女は淹れたての紅茶の持って戻って来た。が、共に持ってきた物に、眉を顰めることになる。 「……何だそれは」 「え?ブランデーよ。このお茶にはブランデーを垂らして飲むのがおすすめなんですって」 「……まだ呑むのか……」 はぁ、と大きくため息を吐く。
今ですら酔っているというのに、自覚が無いのか?そもそも、部屋に男を入れた状態で酔っ払うものではない。何かあっても知らんぞ。……いや、それだけ、私が男として意識されていないということか。
ぐるぐると私の思考が渦巻いている間に、メリルは紅茶にブランデーを垂らしたようだ。芳醇な香りがふわりと室内に広がった。 「あぁ、良い香り……」 「そうだな」 一口紅茶を含むと、その上品な香りが鼻からふぅっと抜けて行った。 「……随分と呑んでいるが、今日はもう業務は無いのか」 「うん、後で動物たちの様子を見に行こうとは思ってるけれど。毎年、ハグリッドとポモーナが『クリスマスを楽しんで』ってお休みをくれるのよ」 「優しいわよね」とくふくふ笑うメリル。その頬には早くも朱が登っている。彼女自身は気付いていないのだろうか。
実に美味しそうにお茶を飲むメリルだが、先程呑んでいたワインと合わせても中々の酒量の筈だ。その証拠に、彼女の目はとろんと緩み、その目尻まで赤く染まっている。 「……もうそろそろ、飲むのはやめておいたらどうだ」 「んー、でも、もうちょっと」
忠告も虚しく、あと1杯だけ、とおかわりを自分のカップに注ぐメリル。
何なのだ、私に対して油断し過ぎではないか?それとも挑発しているのか?私はお行儀の良い人間ではないのだぞ。
じりじりと理性を焦がすような思考を、私はため息と共に吐き出した。 もし酔い潰れたら後で盛大に皮肉を言ってやろうと思っていた、その時。 「……セブルスは優しいね」 「なっ、……何を」 ガチャツと音がする程乱暴にソーサーにカップを置いてしまったが、それどころではない。
突然の言葉に焦りながらメリルの方を見ると、いつの間にかその瞼は下がっている。緩く微笑む唇から紡がれる口調も夢見心地だ。
私の動揺などお構い無しに、彼女は今にも眠ってしまいそうな、ゆらゆらとした声音で続ける。 「いつもそう。貴方は覚えていないかもしれないけれど、議論がどんな方向に飛んでも、ずっと私に付き合って話してくれた。……それがどれだけ嬉しかったか……貴方は、知らないんだわ……」 メリルの手から、今にも落ちそうなカップをそっと抜き取る。震える手を何とか御して、カップをゆっくりとテーブルに置いた。 「…………それは、私のセリフだ。馬鹿者」 きっと聞こえていないその言葉に、どれ程の想いが詰まっているか、君だけが知らない。
完全に眠り込んでしまったメリルを起こさぬように、優しくソファから抱き上げる。少しだけ腕の中で身動ぎした肢体は細く、ふわりと仄かに甘い匂いが香った。鼻腔をくすぐるそれに惹かれながらも、私は静かにメリルの私室の扉を開けた。
先程までいた、実験室のような様相を呈している部屋とは違い、プライベートな部分には家具が少ないように見受けられる。寝室かと当たりをつけた部屋には案の定ベッドがあり、そこにメリルをそっと横たえた。
「ん……」
彼女の小さな吐息に、自分でも愉快な程に動揺した。
ああ、結んでいる髪が気になるのか、と気付いたのは少し経ってからだ。それ程冷静さを欠いていたのだ。私を掻き回すのは、いつだって彼女だ。
頭を冷やすために静かに息を吐きながら、メリルの髪を三つ編みに留めているリボンをしゅるりと解く。さらりと広がる金髪に目を奪われる。学生時代の異名は、この髪から付いたのだろう。彼女を象徴するかのような、真っ直ぐで透き通った金色。
無意識の内に、それをひと房手に取っていた。
君は知らない。私がどれ程汚れているかを。私が君へ抱く想いがどれ程強く、また重い物なのかを。その想いがいかに暗い物なのかを。
私は知っている。その想いの名を。それを君に抱く資格が無いことを。
だから、君は知らなくていいのだ。
万感の想いを込めて、そっと手の中の金に口付けた。
私は、君が側にいるだけで満足だと思えるようにならなければならない。それ以上を望むのは、分不相応というものだ。
未練を振り切るようにローブを翻し、素早く後片付けをしてから私は部屋の扉を閉めたのだった。
13話目です。セブルス回です。当初の予定では1話で終わる筈だったのですが、セブルス視点で1話で終わる訳が無かったんですよねぇ……。私にはセブルスの出番を削るなんてできなかったんです!だってセブルス書きたい! という訳で、次回も間章です。秘密の部屋篇が遠いですねー、謎ですねー。