どうしたって時間は過ぎるし、朝は来る。
毎日の習慣の賜物か、ふくろう小屋へ行く時間の少し前に目覚めた私は、案の定腫れぼったい瞼をできるだけ冷ましながら身支度を済ませた。
そうして部屋を出る頃にはどうにか見られる顔になった事に安堵しつつ、朝の涼しい空気の中を重い足取りで歩いた。
今日の昼前には、ギルデロイを魔法省の役人に引き渡す約束になっている。立ち会うのはダンブルドア先生とクィリナス、それに私だ。生徒たちが見物に来ない様に、寮監の先生方には見張っておいてもらう手筈になっている。
何とも気まずい朝食──セブルスとは朝の挨拶をぎこちなく交わしたのみだ──が終わり、私は寮ごとに生徒たちがほとんど大広間から出て行ったのを見計らって城の玄関へと向かった。これ以上、セブルスとの間に横たわる重い沈黙に耐えられなかったのだ。
玄関には当然ながらまだ誰もいなかった。扉を開けて待っていると、クィリナスがギルデロイを伴ってやって来た。
「早いわね」
「メリルこそ」
「そうね」
クィリナスがこちらを慎重に伺いながら返事をした。私の目尻が赤い事を、彼はとっくに見抜いているのだろう。
「何せセブルスの視線が痛くてね。いつでも注目を集めるのは私の宿命ですが、あれはいけません」
ギルデロイが、わざとらしくニッコリ笑いながらやれやれと首を横に振った。彼とて、今後どうなるか分からないのに不安が無い訳はない筈だ。それでもこうやって笑える所が、彼が彼たる所以なのだろう。
そういえば、前から気になっていた事があった。
「ギルデロイ、少し良いかしら」
「何でしょう?」
「貴方、私の事を『ティンカーベル』と呼ぶけれど、それはどうして?そんなにプライド高く見えるかしら?」
私の問いに、ギルデロイは「ああ、その事ですか」と頷いた。彼は少し照れ笑いした後、口を開いた。
「プライドが高いという訳ではなく、高貴という事ですよ。貴女の美しい金髪も、ティンカーベルと共通しています。それに……」
言い差したギルデロイは、クィリナスをチラッと見た後私に1歩近付いてからそっと囁いた。
「……愛する人の側にい続け、いざとなればその人のために尽くす姿は、貴女にそっくりでしょう?」
「ギルデロイ、貴方……」
いつから、彼は私の気持ちを知っていたのだろう。いつから、彼は私を見ていたのだろう。
元の位置に戻ってニッコリ笑うギルデロイからは未練等何も感じられないが、どれ程の覚悟で告白して、どれ程の思いでその気持ちを諦めたのだろうか。
素直に、強いなと思う。想いを諦めた翌日に何も気取らせない精神の強靭さは、ギルデロイの長所だ。
「おや、皆もう揃っていたのかね?もしや遅刻したかのう?」
3人で楽しく雑談をしていると、ダンブルドア先生が驚きながら玄関にやって来た。そんな先生へ、
「大丈夫です。魔法省の方もまだいらっしゃってませんよ」
と告げた。「そうかそうか」とダンブルドア先生が頷いていた時、タイミング良く遠くの方に魔法省の役人であろう人々の姿が見えた。
ギルデロイは、去り際まで爽やかに輝く笑顔を浮かべていた。これから彼に待ち受けているのは、取り調べとそれに基づいた調査だ。彼がどれ程の人からその成果を奪ったかは不明だが、そのままにはおそらくできないだろう。どうあれ、ギルデロイが正しく裁かれ、その罪を贖えたら良いと思う。
ギルデロイと魔法省の役人たちを見送り、ダンブルドア先生は寮監の先生方に引渡しの完了を紙の折り鶴を飛ばして伝えた後校長室に戻って行った。今日は急な休みで、予定は何も無い。これからどうしようかと思っていると、クィリナスが遠慮がちに声を掛けてきた。
「メリル、よ、良ければお茶でもいかがですか?」
明らかにこちらを気遣ってくれている彼に、私は少し考えてから頷いた。
今も尚ズクズクと疼く胸の内を抱えて1人でいても、後ろ向きな気分になるだけだ。それなら、気の置けない友人と一緒に過ごした方が良いだろう。
「外でお茶会というのも悪くないと思うんだけれど、どうかしら?温室の辺りなら人もあまり来ないわ」
「ええ、そうですね」
「決まりね。厨房にお茶とお菓子を貰いに行きましょう」
2人連れ立って厨房で屋敷しもべ妖精の大歓迎を受け、バスケットいっぱいのお菓子と軽食を貰って温室まで移動した。
温室の側に置いてあるガーデンテーブルとチェアを魔法で綺麗にして、バスケットをテーブルの上に置く。すると、ティーセットがサッと屋敷しもべ妖精の魔法で現れた。
「相変わらず、美味しいお茶を淹れてくれるわね」
席に着いて紅茶を飲んで感想を言うと、クィリナスは大きく頷いた。お菓子を1つ2つ食べ、「こちらも美味しいですよ」と彼は控え目に微笑んだ。
「本当ね。ずっと食べていたいわ」
「それを聞いたら、屋敷しもべ妖精たちは泣いて喜ぶと思いますよ」
「今度伝えておくわ」
ニコニコと微笑み合いながらしばし和やかに談笑していたのだが、不意にクィリナスの表情が翳った。
「クィリナス?どうしたの?」
声を掛けるも、彼の表情は晴れない。その顔のまま、私と目を合わせてクィリナスは意を決したように口を開いた。
「メリル……貴女は、マンドレイクに何かしましたね?」
確信を持った、真っ直ぐな声だった。誤魔化しなど、すぐに見抜かれてしまうと分かる。
私は観念して、はぁ、と息を吐いた。
「……どうして分かったの?」
「温室に向かう姿を何度も見ていましたし、1度貴女が集中し過ぎて私が来た事に気付かなかった事があったでしょう?その時、貴女がマンドレイクに手を翳して何やらしているのを確認しています。加えて、貴女が不幸にも石になってから何度か温室を覗きましたが、マンドレイクの成長速度が早まっている訳ではありませんでしたから」
「大変筋の通った推察ね」
「も、もしかして間違っていましたか?」
クィリナスの推理に肯定も否定も返さないでいると、一気に彼の顔が不安気な物になった。さっきまでの確信を持った表情との落差に、思わず吹き出してしまった。
「そんなに不安そうにしないで。間違ってないわよ」
笑う私の言葉に、クィリナスはホッとした顔になった。だがそれも束の間の事。彼は再び真面目な顔になった。
「そのせいで、貴女は蘇生薬を飲んでもすぐには医務室から出られなかったのではありませんか?」
「……それも正解。さすがと言うべきか、素晴らしいと称えるべきか迷うところね」
「真面目な話ですよ、メリル。貴女がその身を犠牲にしてまでしなければならなかったんですか?」
その声音の厳しさに、思わずクィリナスの顔をまじまじと見てしまった。「何です?」と真剣な顔をしたまま首を傾げるクィリナス。
「貴方、もしかして……怒っているの?」
今度はクィリナスが呆けた顔になって私を見つめた。そのまま何秒か見つめ合って、クィリナスはポロリと「怒っている……私がですか……?」と呟いた。彼はじっくり私の言葉と自身の呟きを頭の中で咀嚼してから、1度大きく深呼吸した。
「ああ……そうかもしれません。私は、怒っていると思います。メリル、貴女に」
「私?どうして?」
首を傾げると、クィリナスは少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「貴女が貴女自身を蔑ろにするからですよ。今回の件もそうですし、昨年も危険な事が分かっているのに私とハリーを庇ったでしょう」
「それは、でも、必要だったもの」
「だとしても、必ずしも貴女だけである必要はなかったでしょう?今回であればポモーナやセブルスに協力を仰ぐ事もできた筈です」
名前を聞くだけで、ズキリと胸が痛む。自分のせいで彼を傷付けて、ついでに自分も傷付いている。酷い勝手だと、自嘲の笑みが零れた。
「私、できる事はしたかったのよ。それがたまたま、私にしかできないかもしれない事だったから1人でやっただけなの」
「メリルだけとは限りません。試してはいないのでしょう?」
ぐうの音も出ない。試そうとも思わなかったのだ。忙しさのせいか、どうにも思考の幅が狭くなっていた事は否定できない。
「学生時代もそうですが、貴女はどうにもグリフィンドール的な所がありますね」
「……それ、セブルスにも、言われた事があるわ」
声が震えた。クィリナスにもそれが伝わったのだろう、少し驚いた様な顔をした後柔らかく微笑んだ。
「彼なら言いそうですね。そしてこれもセブルスと同じ思いでしょうが……メリル、貴女は貴女自身を大事にしてください。貴女が自身を蔑ろにしないでください。私はそれができなくて、道を踏み外しました」
「クィリナス……」
「私は、貴女に幸せになって欲しいんです。貴女がいてくれたお陰で、私は辛い学生時代を乗り越えられました。だから、貴女のためにできる事があるなら教えてください。貴女に恩を返したいんです」
クィリナスが真っ直ぐ私を見る。その言葉と瞳の真摯さに胸を打たれた。見返りを一切考えていないと分かるそれらがありがたくて、思わずポロリと1粒涙が零れた。
「め、メリル!?どうしました、すみません、不快にさせてしまいましたか!?」
ガタタッと慌てて立ち上がったクィリナスを「大丈夫よ」と手で制止し、私はその1粒をサッと拭った。
「不快どころか、とても嬉しいわ。ありがとう、クィリナス」
「い、いえ、そんな……」
ゆっくりと座り直したクィリナスは戸惑い気味に返事をした。
「その、セブルスと何かあったのは察しています。私が言える事ではありませんが、メリル、貴女がしたい選択をしてくださいね」
クィリナスは控え目ながらも優しく微笑んだ。
しんみりした雰囲気を振り払う様に楽しくおしゃべりをして、その場は解散になった。
サンドウィッチだけ取り置いておいた私は、それをバスケットに入れて森の方へと歩いた。気晴らしに散歩でもしようと思ったのだ。
「おう、ヴァレー先生!」
ちょうどハグリッドが小屋から出てきて手を上げた。それへ手を振り返し、「どうしたの?」と彼へ歩み寄った。
「さっきアルバが森の境界付近におったんで。ヴァレー先生に会いに来とったんだと思いますよ」
「行ってみるわ、ありがとう」
今学期が忙し過ぎて、アルバに全く会いに行けていなかった。だから、あの子の方から来たのだろう。あまり褒められた事ではないが──ユニコーンはその角もたてがみも高価な材料だから──、嬉しさはある。ハグリッドに手を振って、私は足取り軽く森へと向かった。
アルバとの交流を堪能し、夕方前に私は城に戻った。1度部屋に戻ると、何と黒蛇が脱皮していた。もう十分暖かかったし冬眠からは覚めていたから、もうそろそろかとは思っていたが何とも嬉しいサプライズだった。ホクホクしながら皮を瓶に保存し、黒蛇に餌を置いて私は大広間に向かった。
何事も無かった風を装って夕食を取り、私は早々に引っ込んだ。明日からはまた忙しい日々が始まるため、今日はゆっくり休んで早く寝ようと思っていたからだ。
本を読みつつ、ハーブティーを楽しむ。久しぶりの穏やかな時間だ。……未だ疼く、心の傷を除いては。
今日1日、セブルスからは何のアクションも無かった。もう諦めた方が良いのかもしれない。
きっと、この想いを無かった事にはできない。0から1は有り得ても、1から0は有り得ない。特に、感情については。忘却呪文でさえ、ある程度解く事ができるから。
それでも、歩いて行く事はできる。どれ程時間がかかっても、そうしようと決めたなら。
セブルス以外の男性に興味を持つ日など来るのだろうか。
自嘲気味の笑みを思わず漏らし、それに気付いて溜息を吐いた。
夜に後ろ向きな考えになっても、ロクな事が無い。私はさっさとパジャマに着替えてベッドに入ったのだった。
学期末まではあっという間だった。クィリナスは問題なく闇の魔術に対する防衛術の授業をやり遂げたし、生徒からの評価も上がった。彼は面倒見が良いため、授業外でも質問に応じて分かりやすく解説しているためだろう。
私もケトルバーン先生の授業には全て同席できたし、聞きたい事も聞けたと思う。先生は「いつでも手紙をくれたら良い」と言ってくれたけれど、できるだけ余暇を邪魔したくはない。次の魔法生物飼育学の担当者は、まだ発表されていない。新しい担当者が来るとしたら、例年通り夏休み後半だろう。
黒蛇も無事に森に戻す事ができ、住人のいなくなった籠だけが実験室の片隅に名残惜しく取り残されている状態だ。
O.W.L.試験もN.E.W.T.試験も無事に終了した頃、私はダンブルドア先生から校長室に呼び出された。
「ちと君の意見を聞いてみたいんじゃが」
と先生は珍しく困った様な、苦笑いの様な笑みを浮かべて口を開いた。
「魔法省から奇妙な要請が来てのう。何と、ギルデロイが記憶を改竄した人間の誰もが彼を訴えないと言っているらしいのじゃ。しかし、彼を無罪放免にする訳にもいかん。そこで、ギルデロイの処分についてわしの意見を聞きたいと手紙を寄越してのう」
「それはまた……何と言うか……」
裁判を開くどころか、立件すらできない。なんせ被害者がいる筈なのに、害は被っていないと言っているのだから。理屈上は事件ですらない。
「メリル、君はどう思う?何らかの処罰を受けさせるべきか、それとも何のお咎めも無しで釈放すべきか」
「そうですね……」
私はしばし顎に手を当てて考え込んだ。忘却術を使われた人間が訴えていないとしても、今後の為にも処罰無しは回避した方が得策だろう。ギルデロイと違って悪用する人間もいるだろうから。ギルデロイがたまたま完全なる悪人ではなかったから、今の状況になっているだけだ。
かといって、裁判できる状態でないのに刑罰を受けさせる事はできない。それは刑でなく私刑になってしまう。
ならば。
「……奉仕活動が適当ではないでしょうか。ギルデロイ本人は既に猛省している上、彼の所業が世間に知れ渡るという、ある意味で彼にとって最大の罰も受けています。そして、ギルデロイの人気の一端に、彼の話が面白いという事もあると思います。本が売れていたのは事実なので、冒険譚としては良くできていたのでしょう。更に、他者から自身の功績を巧みに聞き出す話術もあります。それを活かして、孤児院や聖マンゴで読み聞かせやカウンセリングのボランティアをやってもらうのはどうでしょう?」
「ふーむ、興味深い視点じゃ。魔法省にはそう返事しておこう。何も問題無ければそのまま採用されるじゃろう」
ダンブルドア先生は何度も頷きながら言った。
こんな事で役に立てたのなら良かった。
私は会釈をして校長室を辞した。
廊下に出ると、ちょうどクィリナスとウィーズリーの双子と行きあった。
「こんにちは、こんな所でどうしたの?」
「「ヴァレー先生こんにちは!」」
「ついさっきまで、クィレル先生にイタズラグッズの試作品を見てもらってたんです」
「先生って視点が面白いからすごく勉強になります!」
「今回のは会心の出来だと思ったのになー」
「まあまあ、そんな事もあるさ、相棒。今度はリーも誘って作ってみようぜ」
「威力を上げると校則違反になりますから、違う方面で工夫してくださいね」
「「はーい」」
クィリナスの注意に、双子は揃って良い子の返事をした。返事だけは良いのだ、返事だけは。
双子と別れ、クィリナスと並んで廊下を歩く。陽光煌めく昼下がり、気候は穏やかに優しく私を取り巻いてくれている。
「先程校長室から出てこられましたが、何かあったのですか?」
クィリナスが柔らかく問い掛けてくる。
「ダンブルドア先生から少しお話があってね。魔法省がギルデロイの処遇について迷っているらしくて、何か案は無いかって聞かれたの」
「前例が無いでしょうしね、非常に苦慮する部分でしょう」
「本来の功績者が訴えないと言っているから余計でしょうね」
「それはまた……」
クィリナスは「さすがの観察眼というべきでしょうか」と苦笑した。きっと、ギルデロイは自身の功績に頓着の無い人を選んで忘却術を掛けたのだろう。そうでなければ、彼のやり方では早々に破綻していた筈だ。
クィリナスからどう答えたのか聞かれたため、ダンブルドア先生に答えたままを伝えると、「興味深い発想ですね」と感心した様に目を見開かれてしまった。
「少し考えれば誰でも思い付ける内容よ」
そう苦笑すると、クィリナスはゆっくりと首を横に振った。
「ギルデロイを知る人間程、その性格に惑わされて彼について正確な評価を下すのは中々難しいでしょう。しかも試験で測れない部分であれば尚更。しかし貴女はきちんと彼の技術を見抜いている。それは、メリル、貴女だからこそできる事で、貴女だからこそのアイディアです」
「そう、かしら……?」
私が首を傾げると、「そうですよ」とクィリナスは優しく微笑んだ。
学期末パーティーでは、寮対抗杯においてグリフィンドールの優勝が発表された。ハリーたち3人がそれぞれ200点獲得したのだから、当然の結果だろう。しかし、今年が例年と違ったのは、それ程ギスギスした空気が生まれなかった事だった。例年であれば──グリフィンドールが優勝した際は特に──スリザリンが重苦しい雰囲気に包まれている事が多かったのだが、今年は全員どこかスッキリとした顔になっている。ハリーたちが事件を終わらせた事が明白だったからだろうか。
ドラコは友人がホグワーツ功労賞を貰った事を表立って祝福できて、とても嬉しそうだった。
私だって、隣の黒い男との屈託が無ければ手放しで喜べていただろう。結局、今日この日までセブルスからは何もアクションが無く、顔を合わせる度に痛む胸もそのままだ。
明朝には、子供たちはそれぞれの帰省先に帰って行く。ホグワーツに静寂が訪れる。それに耐えられるだろうか?ポモーナやミネルバやクィリナスがいると言っても、夏休みの間に片付けておきたい用事は皆あるだろう。私の気晴らしに常に付き合っている訳にもいかない。
こうなれば自室か飼育場あたりに引き篭るしか、と考え始めていた時、不意にテーブルの下でローブの袖の端が引かれた。
「!」
ハッとして横を見ると、素知らぬ顔で紅茶の注がれたカップを傾けるセブルスの姿があった。気の所為かと一瞬思ったが、彼の手は確かに私のローブをほんの少しだけ摘んでいる。
「……何か?」
「…………この後、予定はあるのか」
重く深い声で囁かれたのは、ある種の懇願を含んだ言葉だった。それは頑是無い子供がこちらを窺ってくる様な響きを伴っていて、こういう所があるから諦めきれないのだと痛感する。それを見せる相手が限られている事を知っているからこそ、余計に。
キリキリとした痛みと甘さを同時に胸の内で味わいながら、私はゆっくりと口を開いた。
「……何も、何も無いわ」
「部屋を訪ねても?」
「ええ……構わない」
「感謝する」
私は思わず呆気に取られてセブルスの横顔をまじまじと眺めてしまった。
感謝?あのセブルスが素直に礼を伝えてきたの?
穴が空く程見詰めてしまったからか、セブルスは若干居心地悪そうに眉を寄せた。
「何だね」
「い、いえ、何でも無いわ」
「そうか」
セブルスは素知らぬ顔でローブの裾から手を離して食事を再開してしまった。私は不自然に跳ねた鼓動を抑えるのに、暫しの時間を要してしまったのだった。
そうして、夜。何だかソワソワとして落ち着かなくなってしまって、少し埃が被ってしまった黒蛇の住処だった籠に洗浄魔法をかけたり、魔法植物の様子をひとつひとつ観察したりしていると、扉をノックする音が聞こえた。
パタパタと簡単に身繕いをしてから平静を装って扉を開くと、相変わらず無愛想な表情のセブルスがそこに立っていた。
「こんばんは、セブルス」
「ああ。……入っても?」
「ええ」
私が身体を後ろへずらして空間を空けると、セブルスはその隙間からするりと室内に入って来た。
扉を閉めて先導する様に前を歩くと、セブルスは無言で私の後を付いてくる。それを背中で感じながら、私の頭の中は混乱状態だった。
一体何の用なのだろう。1番可能性が高いのは、この前の祝宴の後の出来事についてだろうけれど、正直今更という気もする。他は、ハリーについて、とか?
そんな事を考えながらも、習慣とは恐ろしい物で、気付けばキッチンできちんと紅茶を淹れ終えていた。しかもルシウスから貰った美味しい茶葉の物だ。
ソファに座るセブルスの向かいのソファに腰掛け、2人で無言のまま紅茶を堪能した。
彼の方から訪ねてきたくせに、セブルスは一向に話を切り出してくる気配が無い。でも、私から何か言うのも違う気がして、結局お互いに沈黙を貫いて、どれ程時間が経っただろうか。カップの底が見える頃になってようやく、セブルスはその重い口を開いた。
「……確認したい事がある」
カップに僅かに残った飴色の水面を見詰めたまま、セブルスはボソボソとそう言った。
「何?」
「君は……」
何かを言い差し、しかしそこからまた押し黙ってしまったセブルスを、私は根気強く待った。
「……君は、クィレルと親密な関係にあるのか」
「はい?」
予想外過ぎる問いに、思わず聞き返してしまった私は悪くないと思う。何故このタイミングでクィリナスが出てくるのかが、全く分からない。
何度も瞬きする私がセブルスの言葉を聞き取れなかったと思ったのか、彼は気まずそうに咳払いして再度同じ問いを口にした。
「……いえ、聞こえなかった訳じゃないのよ、大丈夫。どうしてクィリナスの名前が出てきたのか分からなくて、戸惑ってしまったの」
苦笑しながらそう言うと、セブルスは唸る様な音を出した。
「……最近、よく奴といるだろう」
「そうかしら」
「そうだ」
言われてみればそんな気もする。セブルスがいやに確信を持って頷いたからかもしれない。
「気の置けない友人だもの、お喋りする事は多いかもしれないわ」
「友人?」
セブルスがやっと顔を上げてこちらを見た。黒の瞳が部屋の明かりを反射して不思議な揺らぎを映している。
「友人、なのか」
「ええ、そうよ。貴方も知っているでしょう?」
またも黙り込んだセブルスに、私は苦笑するしかなかった。これは長丁場になりそうだと紅茶のお代りを自分のカップに注いだ。
「セブルス、紅茶のお代りはいかが?」
「いただこう」
存外普通に返答が来た事に拍子抜けしながら、私はそっと彼のカップにも紅茶を注いだ。それをじっと見守って新しいお茶を1口飲んだセブルスは、カップをテーブルに置いた。
「メリル、先日の件だが」
「あら、どの話かしら。論文について?それとも前に話した黒蛇の皮について?」
「話を逸らすな」
分かっているだろう、とでも言う様に、セブルスの黒曜石の瞳が私を射抜く。それでも、そうして少しでも空気を軽くしないと耐えられないのだ。何を言われるのか、最悪の想像ばかりが頭の中を埋め尽くす。やはりリリー・エバンズ以外を1番に置けないから先日の言葉は忘れてくれ、とか……?セブルスに限ってそんな酷い事は言わなさそうではあるが、彼女が特別である事は動かせない事実だ。
いつになく真剣で張り詰めた空気に、私もカップをソーサーに置いた。ドクドクと音を立てる鼓動がいやに耳についた。
「メリル、改めて君に伝えたい」
深く低い声が、静寂に包まれる室内に響く。
「愛している」
柔らかく黒い両の瞳が、私を捕らえて離さない。そこに横たわる確かな想いが、彼の言葉が嘘でない事を私に伝えてくる。それでも、ああ、それでも。
「……泣かないでくれ」
「頼むから」とセブルスは心底困った様に僅かに眉を下げた。
いつの間にか零れ落ちていた涙は止まる事無く、私の頬を流れ続ける。それを拭う余裕は、私には無い。ただ目前の男を見詰め、先程告げられた言葉を頭の中で反芻するしかできない。
愛している。誰が、誰を?──セブルスが、本当に、私を?そんな、想いしか籠っていない様な声で言うなんて。──リリーは?
何も言えずにいる私を見て、セブルスはそっとソファから立ち上がり、私の足元に跪いた。そうしてその大きな両手で優しく私の手を握った。私の肩がビクリと震える。それを指摘せず、セブルスは私を真っ直ぐに見上げた。
「メリル、私は君の赦しが欲しい」
「ゆる、し」
「ああ。君の側にいる事を赦して欲しい。君を守る事を赦して欲しい。夜でも君の部屋に入る事も、君に触れる事も、君を想う事も、──君をメイと呼ぶ事も」
「っ!」
その愛称を知るのは、もうセブルスしかいない。その名前で呼んで欲しい人も。その名前を覚えていてくれただけでも嬉しい。
「メリル」
万感の想いが込められた声が、私の名前を呼ぶ。乞う様に、恋う様に、希う様に、確かな情を滲ませて。
それに応えたい、今すぐにでも。彼の手を握り返したい心は本物だ。けれど、きちんと聞いておかなければならない事がある。返答次第によっては、またこの手を振り解かなければならないのだ。その事で双方が致命的な傷を負うとしても。
「……セブルス」
「何だ」
「貴方に、聞きたい事があるの」
「ああ」
「……わたしが、いちばん?」
慎重に口にした問いは、頼りなく情けなく揺れて、室内に溶けた。鼓動は今や最高潮にその存在を主張し、あの夜に負った傷もまた心の内でひりつくような痛みを顕にしている。
セブルスの口が開くのが、やけに遅く感じる。聞きたくて、でも聞きたくない様な心地すらする答えは、もうすぐそこに。
「──君が、1番で唯一だ、メリル」
ぶわり、と新たに涙が溢れ出したのが自分でも分かった。それは歓喜の物であり、また、同時に疑問も浮かぶ。
頬を伝った雫は筋張ったセブルスの手の甲へはたはたと落ちた。
「彼女は……リリー・エバンズは……?」
その名前を口にするだけで、心の内側が引っ掻かれた様な痛みを感じる。セブルスの唯一は彼女である筈なのに。
「リリーの事は、確かにかつて愛していた。しかし彼女は、……既に亡くなっていて、君は生きている。君が石になった時、君が、君までもがいなくなるかもしれないと感じた時、どれ程私の背筋が凍ったか、メリル、君には分かるか。離れていては守れない。……それを、私はもう既に知っていた筈だったのに」
自嘲する様に口の端を曲げたセブルスは、それでも私の手を離さない。黒の瞳は強力な引力を持って、私の視線を絡め取ったまま。
「君の側にいたい。もう間違えないように。……君を、泣かせたくはなかった。あの時、何も言えなかったのは私の責だ。君の主張は最もだ。だから、私は君を選ぶ。リリーの死の責任は私にある。その償いはポッターの決着が着くまで続けていかなければならないと思っているが、それでも、赦してくれるだろうか」
そんな、半身を裂かれた様な顔で、どれ程熱烈な言葉を紡いでいるのか、彼は分かっているのだろうか。
人生の半分以上を捧げてきたであろうリリー・エバンズと、彼女への想いと決別しろなんて我儘を、私のために呑むというのか。
「セブルス……」
彼の名前を呼ぶ事しかできない。歓喜や衝撃や驚愕や、色々な感情が胸の中で暴れ回って、頭が働かない。
「信じられないなら、私を──僕を、見てくれ」
真摯に真っ直ぐに私と目を合わせるセブルス。開心術を使えというのだろうか?私に?全てを見せられる事が、セブルスの愛の証明という事なのだろうか。
「そんな事をしなくても、私は貴方を、貴方の心を疑わないわ」
「メリル……」
全てを曝け出せる事が愛の証明とは限らない。もちろん盲信も。けれど、私たちは言葉を交わす事ができる。会話ができる。ならば、対話を重ねる事もまた、愛の証明でもあるだろう。
セブルスの手の中にある自分の手を返して、彼の手を握り返す。緊張からか大きな手は少し冷えていて、私の温かさが少しでも移れば良いと思った。
揺らぐ黒の瞳の奥底に、煌めく想いの欠片を確かに見た。
「セブルス、愛してる」
セブルスが息を呑む音が微かに聞こえた。
「全てを赦すわ、貴方なら。貴方が私に全てをくれるなら、私も貴方に全てあげる。だから」
ひとつ、深呼吸する。何て緊張感。今まで受けたどの試験よりも、緊張している。
セブルスの瞳に、私が、私だけが映っている今がどれ程幸せか、貴方にほんの少しだけでも伝われば良いのに。
「一緒に、生きて、幸せになりましょう?」
幸福とは人によって定義が異なる。ならば、その擦り合わせをして共に幸せになる事も可能な筈だ。生きて、対話し続ける事ができる限り。
セブルスの瞳が見開かれ、ゆっくりとその眦が下がる。柔らかい笑みの表情になったその顔に、私の体温が一気に上がる。きっと首まで赤くなっている。
「──君に、触れても?」
コクリと頷くと、セブルスが片手をそっと私の頬に添えて、親指で繊細に涙を拭ってくれた。新しい雫は、もう流れない。
ドキドキと、先程とは違う鼓動が耳の奥で鳴っている。
「もっと、触れてもいいか」
否やがある筈も無い。
セブルスの目が、私を離さない。強い輝きを湛えた黒曜石は、私の心の底の底まで覗き込もうとしている様に感じる。
ようよう頷くと、セブルスは今度は両手で私の頬を覆った。今や私の心臓は最高潮にその存在を主張していて、指1本動かせない。
そのままゆっくりとセブルスの顔が近付いて、「あ」と思った時にはカサついた唇が私のそれに合わさっていた。
──え。
「っ!?」
体温がもう一段階上がる。どうしたら良いのか分からず固まったままでいると、セブルスが少し離れたためサッと片手で口元を覆った。
「……嫌だったか」
「ち、違うっ」
慌てて首を横に振ると、彼はホッとした様に小さく息を吐いた。
いつの間にかソファの背もたれに背中がついていて、無意識に後退っていた事にやっと気が付いた。自覚している以上に驚いたらしい。
「き、聞いていなかったから……その、驚いた、だけよ」
「そうか」
思わず目を逸らしながら弁解すると、セブルスは優しく相槌を打ってくれた。何だか彼の方が余裕がある様で悔しい。私なんて、未だに頬は熱いし心臓も早鐘を打っている様な有様なのに。
「では、今後はきちんと許可を取る様にしよう」
どこかいたずらっ子の様な響きを持ってなされた宣言に、私はもういっぱいいっぱいだ。これまでの想いが報われ過ぎて、夢なのではないかとすら思えてきた。
「メリル」
明後日に飛び掛けた私の思考を、ベルベットボイスが引き戻す。私の口元を覆う手を取ったセブルスの手のカサつきが、これが現実である事を改めて教えてくれた。
「もう1度、キスをしても?」
あまりに柔らかく、そして甘い声に、思わずセブルスの方を振り向いて、私は知らず息を呑んだ。そのギラギラした色を奥底に覗かせた瞳が、私をまたも絡め取ったから。
もう逃げられない。それはどちらも。
「──メイ」
請う様に切実な声でその名を呼ばれ、私はコクリと頷いてからセブルスの指に自分のそれを絡めて、観念して目を閉じた。
そうして、温かく優しく、夢にまで見て諦め様としていた愛は、柔らかく私の唇に降り注いだのだった。
ヒマワリの花言葉「愛慕」「私はあなただけを見つめる」
24話目です。
セブルス夢というのはどうくっつけるかというのが難所だと思っていて、私の中では今これが答えです。私なりの答えですがw
お読みいただけていた皆様の期待に答えられているかは分かりませんが、彼女たちの物語を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
まだまだ続きますよ!