その日は朝から灰色の雲が立ち込めていて、辛うじて雨は降っていないという様な空模様だった。
朝食後に旅支度を早々に終わらせていた私は、ハグリッドに留守中の魔法生物たちの世話を頼んでから実験室の植物たちの様子を何とはなしに観察していた。
成長具合は上々で、もう少ししたら魔法薬の調合にも使えるだろう。その内、マンドレイクにした様に魔法植物に魔力を直接流す事で成長を促進できるのかどうか、再現性の実験もしてみたいものだ。
そんな風につらつらと今後の計画を思い浮かべていると、不意に扉がノックされた。
返事をすると、静かな開かれた扉の隙間からセブルスが顔を出した。
「準備は良いか」
「大丈夫よ」
サッと腰掛けていた椅子から立ち上がってセブルスの元へ歩み寄ると、彼は頷きで答えた。しかし、いざ部屋の外へ出ようとしたその瞬間、自宅に手紙が届いたと知らせる装置の音がかすかに耳に聞こえた。
「今の音は?」
「家に手紙が届いた音よ。普段ほとんど郵便は来ないのだけれど……念の為寄っても良いかしら?」
「構わない」
何となく、郵便を確認した方が良い気がしたのだ。セブルスも了承してくれたため、私たちは自宅近くの路地に姿現しした。
検知不可能拡大呪文で容量を増やしたポシェットに着替え等を収納しているから、私は手ぶらだ。同じく身軽なセブルスも似た様な物だろう。
ポストの中には速達が1通。送り主はダーズリー夫人。急いで開封して中身を斜め読みし、私は血相を変えて少し離れた所に佇んでいるセブルスに走り寄った。
「セブルス!大変だわ!」
「どうした」
「ハリーが家出を……!」
「何?」
セブルスの眉がこれ以上無いという程寄った。
とりあえず小旅行は一旦延期とし、私は物騒な顔をしているセブルスと共に急いでホグワーツへ戻った。その際、先触れのために出したセブルスの守護霊の形が牝鹿の形を保っていなかった事を私は確かに見たのだけれど、状況が状況だけに詳しく聞く事はできず、校長室へと駆け込んだのだった。
「ダンブルドア先生!ハリーは……!」
「おお、メリル、セブルス、早かったのう」
先生は朗らかな表情で私たちを出迎えた。その雰囲気からハリーが無事な事を察し、私は安堵の息を吐いた。
「ハリーは無事なんですね?」
私の問いにダンブルドア先生は「うむ」と頷いた。
「ハリーは漏れ鍋におる」
「良かった……」
ホッと胸を撫で下ろした私を、ダンブルドア先生は優しい顔で見ていた。
「人騒がせな事ですな」
セブルスが地を這う様な声音でそう言った。それへ「そういう事もあるじゃろうて」と先生は苦笑した。
ハリーも面白半分で家を出たのではないだろう。何か理由があった筈だ。
「先生、私、ダーズリー家にハリーの無事を知らせて来ます」
「おお、頼めるかの」
「はい」
物言いたげな顔のセブルスを伴って、私は校長室を後にした。
「……プリベット通りへ行くのか」
険しい表情のまま、セブルスは低くそう言った。そんな彼へ頷き、
「ダーズリー夫妻にハリーの無事を知らせて、それから漏れ鍋へハリーの様子を見に行こうと思って」
と告げると、隣を歩く彼はムッツリと黙り込んでしまった。
何となくセブルスの考えている事は分かる。ハリーの行動で小旅行の予定が狂ったのが嫌なのだろう。けれど、私は一言も中止とも延期とも言っていないのだ。
「セブルス」
彼の前へ回り込むと、セブルスは足を止めて片眉を上げた。
「ハリーの無事がきちんと確認できたら、すぐに谷に向かおうと思うのだけれど、どうかしら?」
セブルスは僅かにクッと目を見開いた後、「構わない」と呟いた。声のトーンから察するに、少しだけ機嫌は直った様だ。
私はニコリと微笑んでプリベット通りへ向かった。
突然の訪問にも関わらず、ダーズリー夫妻は真摯に対応してくれた。Mr.ダーズリーの姉が来てからの記憶が曖昧だが、リビングが嵐が去った後の様な有様だった事から、何かしら魔法的な事が起きてハリーが出ていったのだと思うと教えてくれた。恐らくこの家族とMr.ダーズリーの姉は魔法で記憶が改竄されているのだろう。何が起きたかは思い出せないものの、荷物も無く姿の見えないハリーに焦ったダーズリー夫人が急いで知らせてくれたらしい。彼女にお礼を言ってハリーは安全な場所にいる事を伝えると、彼女は少しホッとした様な表情を見せた。
「ハリーに怪我が無いか直接確認して、注意もしておきます。もうすぐ新学期ですので、恐らく彼はこのまま学校に行くと思われますけれど、何か伝言はありますか?」
私がそう言うと、Mr.ダーズリーはしばしの沈黙の後「少し待っていてください」とその身を翻した。
大柄なMr.ダーズリーが消えてできた空間の向こう、階段の上からこちらを窺う顔と目が合った。
「こんにちは」
にっこり笑って挨拶すると、丸い顔の少年はその頬を真っ赤にさせてピャッと引っ込んで行ってしまった。
「もう!ダドリーちゃん、お行儀が悪いわよ!覗き見するくらいなら挨拶にいらっしゃい!」
バッと振り返ったダーズリー夫人の掛け声に、おずおずとバツが悪そうに少年は階段を降りて来た。
「ダドリー・ダーズリー、です」
「こんにちは、メリル・ヴァレーよ。ホグワーツ……ハリーの通う学校で教授補佐をしているわ」
「……後ろのおっかない顔のヤツも?」
ちょっぴり顔を顰めながら少年──ダドリーが言った。セブルスは初対面の子供にとっては確かに怖いかもしれない。
私はクスリと笑って「そうよ」と頷いた。
「彼は教授をしているの」
今度こそダドリーは「うへぇ」という何とも言えない顔をした。それを見たダーズリー夫人が「こら!」と少年を叱ったが、彼は渋い顔を隠さなかった。それ程怖いのだろうか?
「宿題多く出されそう……」
ダドリーのボヤキは外れては無いのでにっこり微笑んでおいた。子供というのは妙に勘が鋭い。
「ハリーは頑張ってこなしてるわよ」
「ふうん……、アイツもやるな」
「それに、ハリーはクディッチでシーカーに抜擢されての」
「クディッチ?って何だ?」
ダドリーが首を傾げる。ハリーは手紙でクディッチの事を書いていないのだろうか?話題にはちょうど良いと思うのだけれど。
「ハリーが手紙に書いていた気が……確か、箒で飛び回るのですよね?」
おずおずとダーズリー夫人が呟く様に言った。それへ頷き、
「ええ、そうです。ポジションがそれぞれあって、シーカーもそのひとつです。ルールに詳しくないので合っているか分かりませんが、サッカーやラクロスに似ているかもしれません。ハリーは1年生から異例のレギュラー入りをしていますよ。才能があるみたいです」
「そうなんですね……」
ダーズリー夫人は憂いた様な嬉しい様な複雑な表情で頷いた。少しずつでも、ハリーと彼らの関係が変化しているのを感じた。
ちょうどその時、Mr.ダーズリーが細長い包みを持ってきた。鮮やかな翠の包装のされたそれを、彼は私に差し出した。
「……ヤツに、ハリーに渡しておいてくれないか」
「これは?」
「ボールペンだ。勉強には必要だろう」
きっと、誕生日プレゼントだろう。昨日はハリーの誕生日だったから。まだ葛藤や屈託が残っているだろうに、それでもプレゼントを用意するとは、ダーズリー夫妻は本当は愛情深いひとたちなのだろう。
提出課題の作成には羽根ペンしか使えないが、普段の勉強にはかなり有用だろう。マグル生まれやマグル出身者が初期に苦労するのが筆記具の問題だから。
「必ずお渡しします」
「頼みます」
挨拶もそこそこに、無言のままのセブルスと共に私は漏れ鍋近くへ姿現ししたのだった。
店主のトムにハリーの部屋を聞くと、顔馴染みの男はすぐに2階の部屋を教えてくれた。
「メリル、またすぐに来てくれるかい?」
賑やかな店内でも少し声を落として告げてきたトムに、同じく潜めた声で私も応じた。
「あら、何か面白い話でもあるのかしら?」
「珍しい魔法生物の噂をちょいと小耳に挟んでね」
「新学期が始まるまでには必ず」
「待ってるよ」
ニッと笑う店主にヒラ、と手を振って私はセブルスの腕を引っ張って2階へ向かった。
「先程の会話はどういう意味だ」
2階の廊下を進む最中、セブルスは低くそう問い掛けてきた。気にするだろう事は分かっていたし特に隠す事でもないから、私は肩を竦めて答えた。
「正規ルートでばかり魔法生物たちがこの国に入って来る訳ではないという事よ」
「密輸か」
「ある意味そう。申請が必要な事を知らない場合もあるけれど」
「それで何故君が関わる事がある?取り締まりは魔法省の仕事だろう」
「そこまで手が回ってないのが現状なのよ。あのトップが可哀想な魔法生物たちを気にかけると思う?」
返ってきたのは沈黙。それが答えだ。
現魔法大臣のファッジは決して有能とは言えない。魔法生物にも明るくないだろうし、それは密輸や密猟の取り締まりの追いついてなさが証明している。要は私がやっているのはボランティアの様な物だ。密輸犯や密猟者の逮捕は魔法省の職員しかできないが、情報提供として証拠を突き出す事──以前に犯人自身を突き出した事もある──私にだってできる。お陰で取り締まりを担う職員とはちょっとした顔見知りだ。向こうは向こうで、魔法生物や植物が入国──正規ルートで、だ──する際情報をくれたり、問屋に少し口利きしてくれたりするのでお互いウィン・ウィンの関係という訳だ。
そういう裏事情を眉間の皺を揉んでいる簡単に説明していると、目当ての部屋の前に着いた。
「こんにちは、メリル・ヴァレーよ。いるかしら?」
ノックしながらそう言うと、扉はすぐに内側から開いた。まだ少し眠そうな顔のハリーが顔を出し、その表情がパッと明るくなったと思ったら、私の後ろにいるセブルスの姿を捉えて一気に渋い顔になった。その分かりやすさに、思わず笑ってしまった私は悪くないと思う。
「……メリル」
地を這う様な声で背後から名前を呼ばれ、「何でもないわ」と誤魔化してから、
「少しお邪魔しても良いかしら?」
とハリーに尋ねた。頷いた少年が身を引いてくれたため、私とセブルスはサッと室内に滑り込んだ。
「まずは、無事に漏れ鍋に辿り着けて良かったわ。怪我は無い?」
「はい、大丈夫です」
くしゃくしゃの髪の先から年季の入った靴の先まで素早く観察しながら聞くと、ハリーは素直にコクリと頷いた。その言葉通り、相対する少年はちょっぴり眠そうなだけで、怪我をしていたりそれを隠している様な様子は無い。私は一先ず胸を撫で下ろした。
「単刀直入に聞くのだけれど、どうして家出をしたの?何かあったのでしょう?」
「大方1人でも生きていけると慢心したのではないかね」
「セブルス、私はハリーに聞いているのよ」
意地悪く割り込んで来たセブルスに注意すると、彼はフン、と鼻息を吐いた。全く、ハリー──というか、ジェームズ・ポッターに関わる事となると本当に大人気無くなる所は学生時代から変わらない。
「貴方の叔母さんたちも心配していたわよ」
「そうなんですか?」
「周囲の事など歯牙にもかけないとは何ともグリフィンドールらしい事だな」
「セブルス」
少し鋭く彼の名前を呼ぶと、流石にバツが悪いのか唇を引き結んで黙った。軽く溜息を吐いて「部屋を出るか、もしくは少し離れた所にいてくれる?」と告げると、セブルスは珍しく大人しく扉の側まで下がって壁に背を預けた。
「アー……ハリー?改めてなのだけれど、どうして家出を?」
ハリーは少し言い辛そうに口元をモゴモゴさせた後、観念した様にポツポツと話し出した。
曰く、元々苦手なMr.ダーズリーの姉が非常にハリーの神経を逆撫でする様な事を言ってきて、それをダーズリー家の誰も止める事も諌める事も無く、ついにはその姉を風船の様に膨らませて飛ばしてしまったらしい。そのまま衝動的に荷物を纏めて家を出てきたものの、ロンドンまで徒歩で行くのは不可能な事から路頭に迷いかけた所、何故か夜の騎士バスが現れて料金を払って漏れ鍋まで運んでもらった、との事。
「夜の騎士バスを呼ぶ方法を知っていたの?」
「あの、いいえ、僕、夜の騎士バスの名前を聞くのも初めてで……」
「そうだったのね」
では一体誰がバスを呼んだのか。
ハリーに聞いても、人影は無かったと言うし、もしかしたら知らぬ間に杖腕を上げていたのかもしれない。
「真っ黒な大きい犬もいたし、正直ちょっと心細くて……バスが来てラッキーと思って乗ってしまいました」
「路頭に迷われるよりはうんと良いわ。夜の騎士バスは少なくとも、闇の陣営に与している訳ではないから」
料金を払って大人しく乗っている限り客を選ばない所もあるが、それはそれ。困っている魔法使いの助けになるのもまた事実ではある。
「でもね」とハリーとしっかりと目を合わせ、その翠の瞳を覗き込む。
「貴方はまだ子供で、何かあった時に自分の身を守る術が少ないのも事実としてあるわ。色々事情もあるでしょうし、家出するなとは言えない──しない方が良いのはその通り──けれど、せめてどこにいるかくらいは叔母さんたちに知らせた方が良いわよ」
「……僕の事を、心配している様に見えなくても?」
大人の葛藤など子供には関係が無い。それぞれに思いがある事も、まだ子供であるハリーには考えが回らないかもしれない。それでも、これから彼も大人になっていかなければならないし、周囲を慮れる人間になった方が良いだろう。
「人間誰しも、いつだって全ての感情を表に出せるものではないわ。貴方の叔父さんや叔母さんも同じよ。今までの葛藤や恐怖や、色々な感情はすぐには解消されないわ。貴方だってそうでしょう、ハリー?」
「……はい」
「でも、それだけで無いのもまた事実だわ。その証拠を今見せてあげる」
私はポシェットから預かった翠の箱を取り出してハリーに手渡した。
「これは……?」
と首を傾げる少年に、私は「貴方の叔父さんと叔母さんからのプレゼントよ」と微笑んだ。
「え!?本当に?」
驚きに目を真ん丸に見開いたハリーに、私は「本当よ」と頷いた。
「貴方が家出した事を叔母さんが手紙で知らせてくれたから、貴方が無事な事を伝えに言ったの。そうしたら、これを渡して欲しいと頼まれてね」
「……開けても、良いですか?」
「もちろん。貴方の物だもの」
恐る恐るハリーが包みを開けると、箱の中から黒い光沢のあるボディをしたオシャレなボールペンが姿を現した。
そっとそれを手に取ったハリーは、まるで初めてボールペンを見たかの様に色々な角度からそれを見たりボールペンの先を出してみたりした。
「どう?気に入ったかしら?」
「はい!すごく格好良いです!」
キラキラした瞳で笑うハリーに、私は「良かったわね」と返した。
「きっと、渡すタイミングが掴めなかったのだと思うわ。プレゼントを用意するくらい、貴方を気に掛けているのは分かるわね?」
「はい、先生」
ハリーは素直に頷いた。
「気に入ったのならそれで手紙を書いて送れば良いんじゃないかしら。学期中も手紙のやり取りはしていたのでしょう?」
「良く知ってますね」
「貴方のふくろうが餌やりに行くとたまに留守にしている事があったから」
そういう時は大抵、翌朝には自慢気な顔をして朝食をねだりに寄ってくるから、達成感のある長旅をしたのが良く分かるのだ。
「ヘドウィグが持って行けば受け取ってくれるから……」
「貴方からの手紙だって分かるからでしょうね」
魔法を拒絶して10年以上生きてきたのだ。やはりまだ全てを一度には受け入れられないのだろう。しかしハリーのふくろうは真っ白で他のふくろうと区別が付きやすいため、これならと受け取っているのだと推測できる。
「貴方が手紙を書いて良いと思うなら送れば良いわ。彼らにとって、貴方から無事を知らされるのが1番安心できるでしょうし」
「分かりました」
ハリーがしっかり頷いたのを確認し、私は「残りの夏休みを安全に楽しんでね、また新学期に」と言い残して気配を殺していたセブルスを伴って部屋を出た。
念の為とハリーの泊まっている部屋に知らない人間の部屋への侵入を防ぐ保護呪文をかけ──セブルスからは「過保護だ」と言われたが念の為だ──、トムに挨拶してから私たちは漏れ鍋を出た。
ゴドリックの谷はホグズミードと違い、魔法使いだけでなくマグルも住んでいる。そのため、私たちは人気の無い路地裏を選んで付き添い姿現しをした。
正午を過ぎたメイン通りは、それ程人影は無い。元々住民が多くない事は知っていたけれど、こちらの目的を考えれば都合が良い。墓参りに来たというのに賑わっていたら、気まずい事この上無いから。
人もまばらな通りを、2人無言で歩いた。途中で通りがかった像は、遠目では記念碑に見えていたのに、近寄ると仲睦まじいさそうな一家の姿に変わった。両親であろう大人の顔に見覚えがある。ジェームズ・ポッターとリリー・エバンズだ。という事は、彼女に抱かれている赤ちゃんはハリーなのだろう。
セブルスはその像をチラリと横目で見ただけで通り過ぎた。彼にとって重要なのは像ではないから。
村の外れに、ポッター家と墓地があった。ポッター家はマグルには見えない様になっているらしい。家の外に立てられた掲示板には、ここを訪れた魔法使いによる物だろう、氏名やハリーへの応援メッセージで埋め尽くされていた。
セブルスは、ほとんど廃墟の姿を晒している建物をしばし見上げていた。そうしてふと、クルリと墓地へと足を向けた。
私はその後ろを静かに付いて行く事しかできなかった。彼は今、何かしらの言葉や慰めを求めている様には感じられなかったから。
墓地は無人だった。涼やかな風だけが駆け抜けるそこを、セブルスは迷わず進んで行く。きっと初めて来る場所だろうに、墓の場所を知っているのだろうか。
私が疑問に思い始めていると、ある地点で彼はピタリと足を止めた。──ああ、そこが。
横に並ぶと、墓碑には「最後の敵なる死もまた亡ぼされん」と刻まれているのが読めた。墓地に管理人がいるのだろう、墓は綺麗にその存在を保っていて、それだけに何か胸に迫る物があった。
セブルスはただジッと、俯いて墓碑を見つめている。何か心の中で話しているのかもしれないし、見つめているだけなのかもしれない。それは私には預かり知らぬ事で、詮索すべき部分ではないけれど。
「──オーキデウス 花よ」
杖先からフワリと出現したユリの花束を、そっとセブルスに差し出すと、彼はこちらを振り返って驚いた様に目を見開いた。それはまるで今まさに私の存在に気が付いたかの様な仕草で、それに少し胸が痛んだけれど、私は何事も無かったかの様に微笑んだ。
「良かったら、これを。貴方が望むなら墓地の入口で待っているけれど、どうしたい?」
「……側にいてくれ」
「うん」
望まれた事が嬉しくて、私は殊更ゆっくり頷いた。
静かにユリの花束を受け取ったセブルスは、1度強く目を閉じ、そうして優しく墓前に白い花束を置いた。
カサリと鳴った葉擦れの音は、穏やかに空気に溶けて消えた。その余韻の中で、セブルスがボソリと何事か呟いた。それは「ありがとう」だったかもしれないし、「さようなら」だったかもしれない。兎にも角にも、彼は顔を上げて「行くぞ」と言って振り返らずに歩き出した。
私はほんのちょっぴり迷ってから、無言呪文で杖先から1輪の白いスイートピーを出した。それをユリたちの横にそっと添えてから、私はセブルスを追って踵を返した。
スイートピーの花言葉は「別離」と「門出」、そして「優しい思い出」。
リリー・エバンズ。正義感が強く、優秀で、陽光の様だった貴女。強い存在感を持ち、輝いていた貴女。そうして──決して、セブルスを振り返らなかった貴女。
さようなら、さようなら。きっと幸せだった貴女。1度きりの邂逅でも、私にその輝きを見せつけた貴女。
貴女が幸せだった様に、私もセブルスと幸せになるわ。貴女との思い出を抱えた心ごと、彼を愛すわ。
貴女に負い目を感じるのも、羨むのも、もうおしまい。
だから、さようなら──リリー・ポッター。
涼やかな風が谷を抜けて、そうして純白の花弁をフワリと揺らした。
ゴドリックの谷への訪問後、セブルスは早朝のふくろう小屋に顔を出すようになった。そのまま2人で朝食を取りに大広間へ行くのだが、お喋りしながら廊下を歩いていると何となく雰囲気が柔らかくなった様に感じる。
その変化のお陰で、私の心の引っ掛かりを解す勇気が湧いてきた。
「一緒に、私の家に行って欲しいの」
すっかり定着した毎夜のお茶会で告げた私の言葉に、セブルスが怪訝そうに片眉を上げた。
「構わないが……何かあるのか?」
「その、片付けをしたいのだけれど、勇気が出なくて……手伝ってもらっても良いかしら?」
セブルスはそれ以上何も聞かずに頷いてくれた。
翌日、私は1年ぶりに生家の前に降り立った。横には相変わらず真っ黒の服のセブルスもいる。近所はマグルの家ばかりだからローブは無しだが。
解錠魔法で鍵を開けて中に入る。もちろん家の鍵は持っているが、使う事は滅多に無い。無言呪文の方が早いから。
扉を開けるとフワリと漂う、ほんの少しの埃の臭いと懐かしい香り。ここに帰ってくる度に変わる事無く私を出迎えるそれらに、どうしても存在の空白を感じて未だにズキズキと胸のどこかが痛む。
躊躇いながらも玄関を潜るセブルスの気配を背中に感じながら、私はリビングに直行した。
魔法で掃除を開始しながら窓を開けて外気を取り入れる。爽やかな夏の風がサァッとリビングを通り抜けて行った。
「セブルス、少し埃っぽいけれど、良かったらソファに座って。今お茶を入れるわ」
リビングの出入口に立ち尽くしたままの彼に声を掛けると、セブルスは1つ頷いた後ソファのある方へ歩いて来た。入れ違いにキッチンへ向かい、手早く魔法でお湯を沸かしてお茶を淹れた。ゆっくり淹れた時より味は落ちてしまうが、そこは勘弁してもらいたい。元より長居するつもりは無いのだ。そもそも、長居ができない。温かくて切なくて美しくて綺麗な思い出だらけのこの場所が、私の心の奥にしまった筈の何かを引きずり出してくるから。
目の前のティーポット1つとってもそうだ。これは母が父にプレゼントしてもらった物だと至極嬉しそうに話してくれた事を、今でも鮮明に思っている。その時の何だか照れ臭い気持ちや羨ましい気持ちさえも。
もうお茶をカップに移さなければならないのに、ティーポットの取っ手を握った手が動かない。
記憶と思い出に溺れそうになった時、そっと添えられた大きな手の平にハッとなって顔を上げた。
「……セブルス」
いつの間にか背後にいたセブルスは、私の手ごとティーポットを持ち上げ、ゆっくりと2つのカップに紅茶を注いだ。
「良い香りだな」
「あ、え、ええ、そうね……」
大きな温かさが私の手を支えて、ティーポットをゆっくりと置いた。コトリ、と響いた音が静かなキッチンに響く。そっと離れて行った手の温もりがほんの少し寂しい、なんて、いつの間にこんなに弱くなってしまったのだろう。
「行儀は悪いが、ここで飲んでも?」
口の端を上げていたずらっ子の様に小さく笑ったセブルスに、私は思わず吹き出してしまった。
「構わないわよ。誰も叱る人はいないから」
「それは良かった」
セブルスがカップを持ち上げて傾けるのを、私はぼんやりと眺めていた。
遥か昔、夜眠れずにキッチンに入ってきた私に、母がホットミルクを作ってくれた事を思い出した。幼い私にマグカップを渡し、「内緒ね」とハチミツを加えてくれた母の、あのいたずらっぽい表情が鮮明に脳裏に蘇って──ああ、おかあさん──
「……メイ?」
「っ!……あ、ご、ごめんなさい、何かしら?」
名前を呼ばれ、ハッと我に返る。慌てて返事をすると、セブルスは無言でカップを置いた。すわ怒らせたかと弁解しようとした私を制して、彼はそっとカップに添えたままの私の手を取った。
「せ、セブルス……?」
ギュッと手を握られ、鼓動が跳ねる。彼が何を考えているか分からない。怒ってはいない事は伝わってきたけれど。
少しの沈黙の後、セブルスは「……君が」と躊躇いがちに呟く様に言葉を零した。
「そんな風に、心ここに在らずという雰囲気になるのは初めて見た」
「そ、そうかしら」
「その理由を、知りたい。君の全てを、私は知りたい」
黒の瞳が、まっすぐに私を射貫く。その想いの強さが、直接胸に響いた。
「……ありがとう、セブルス、本当に嬉しい」
何とかそう伝えたが、色んな感情が溢れそうで鼻がツンとして上手く喋れない。この思いの丈を、どうしたら貴方に伝え切れるのだろうか。
「……何故泣くんだ」
「え……?」
頬を伝う雫に、言われてようやく気が付いた。ほたりほたりと流れるそれを止めようとしても、どうにも止まらない。慌てて袖で拭おうとセブルスの手を解こうとしても、彼は離してはくれなかった。
「セブルス、あの、離して?」
私の言葉に、セブルスはきゅっと浅く唇を噛んだ。そのまま手を離してくれるかと思ったら、グイッと引っ張られてしまった。
為す術なくポスリと抱き止められ、私の身体は温かさに包まれた。
「あの、セブルス……」
「君を、知りたいと思う。それと同じくらい、君に泣いて欲しくはない。それでも、そうする事で、メイ、君が少しでも楽になれるのなら、何も聞かなかった事にすると約束する、君の心のままに行動してくれ」
訥々と、慎重に選んで贈られたその言葉は不思議な程にストンと腹の底に落ちて、そうして、彼の背に回した腕に力を込めたら同じくらい強く抱き締め返してくれたから。だから、そう、仕方がないのだ。緩んだ感情の堰を突き破って涙が溢れてしまったって。子供の様にわんわんと泣いてしまったって。
全部、彼が優しいせいなのだ。
ようやく感情の波が収まって涙が止まったのは、せっかく淹れた紅茶がすっかり冷めてしまってからだった。
「……ごめんなさい、みっともない姿を見せたわ」
いつの間にか魔法で行っていた掃除は終わっていて、1階は静寂に満ちていた。
ズズッと鼻を啜りながらもそう言って離れると、セブルスは名残惜しげな影をその頬にチラリと落とした。
「……そんな風に思った事など1度たりともない」
「そう……ありがとう」
目尻に残った水滴を拭った手をそっと取られ、躊躇いながらも握り込められる。じんわりとした温もりに、止まった筈の涙がまた流れそうになってしまった。それを耐えるために、空いている方の指先でカップの縁を緩やかになぞる。
「思い入れのある品なのか」
滑らかな指先の感触のお陰で引っ込んだ涙に安堵していると、セブルスがボソリとそう問うてきた。
この家の中で、思い入れの無い物など存在しない。その中でも、このカップは。
「……家族でお茶する時は、必ずこれを使っていたわ」
例えばクリスマス休暇のある日の午後の暖炉前で。
例えば夏休みの昼下がりのリビングで。
家族の憩いの時の側にいつもあった、何の変哲もない白いカップ。細い金縁が煌めいて見えて、それを使っている自分が大人になった気分になれて、幼い私は午後のお茶の時間がとても好きだった。母が私を身篭った頃に、父とちょうど買ったのだと聞いた物。
お茶の準備をする際に無意識に食器棚から出してきていて、他の物を引っ張り出す気にもならず、セブルスが使うならとそのままお茶を注いだカップ。時が経ってもその金縁は控えめに輝いていて、変わらないその煌めきにどこか救われた気がした。
「私の両親は、死喰い人に殺されたの」
セブルスの手がビクリと震えたのを感じた。その反応は私のうっすらとした予測を裏付ける物だったけれど、それでも私は言葉を続けた。彼に、聞いて欲しいと思った。
「父は闇祓いで、母はマグルだった。……あんな時代だったから、覚悟はしていたつもりだった。けれど、それは『つもり』でしか無かったわ」
両親の死の知らせを聞いた時の、心臓の苦しさと凍りついた全身の冷たさを、忘れる事はできない。絶望とはきっと、あの絶対零度を言うのだろう。
「それからなの、この家にいられなくなったのは。ここに帰ってくると色んな思い出が蘇って、両親がもういない事実が余計に浮き彫りになる様に感じてしまって……。フリットウィック先生が知り合いに頼んで管理してくれると仰ってくれたからそれに甘えて、夏休みにしか帰って来なくなったわ。お陰で、何1つ片付けられていないの」
自嘲して笑うと、セブルスは「……無理に笑うな」と絞り出す様に言った。
キッチンの小窓から射し込む陽光が、カップの金縁を照らす。キッチンに広がる少し湿った雰囲気とのギャップに、何とも言えない気分になる。重い話をし始めたのは自分自身なのに。
ふとセブルスを見遣ると、彼は苦い物を飲み下した様な表情をしていた。
「ごめんなさい、変な話を聞かせてしまって……」
「そうではない」
これ以上無い程セブルスの眉が寄っている。まるで彼の葛藤を映すかの様に。
「君の事を知りたいと言ったのは私だ。君に辛い話をさせて、しかしそれを聞けて嬉しいと思っている自分がいて……そんな己に反吐が出る」
「そんな事言わないで、セブルス」
握っているだけだった手の指を、セブルスの繊細なそれに絡める。動揺した様にクッと目を見開いた彼を覗き込み、私は意識して柔らかく微笑んだ。
「それを自覚できるのが、貴方の長所の1つだわ。それに、自分の過去を貴方に聞いて欲しいと思ったのは私。話したのも私。だから、聞いてくれてありがとう、セブルス」
「……礼を言わねばならないのはこちらの方だ」
絡めたセブルスの指に力が籠る。
「思い出すだけでも辛い話を、私にしてくれて感謝する。……ありがとう、メイ」
不器用ながらも素直な言葉に胸が詰まった。セブルスは、あまり心のままに話す事が無いから。
私は何度も頷く事でしか、その言葉に報いる事しかできなかった。
冷めきった紅茶を飲み干して、私は空気を変えるためにパチンと両手を打った。
「さて、長年放置していた片付けをしようかと思うのだけれど、セブルス、手伝ってくれる?」
「君の御心のままに」
セブルスは口の端を僅かに上げて、芝居掛かった仕草で頭を下げた。
家に残しておきたい物や売りに出す物、捨てる物を1部屋ずつ仕分けていたら、いつの間にか窓の外はとっぷりと暗くなってしまっていた。
「ごめんなさい、セブルス!こんなに遅くなるつもりでは無かったのに!」
「いや、構わない。明日は何の予定も無い。それに君の話を聞けて良かった」
不意に穏やかな笑みを向けられ、不覚にも顔が赤くなってしまった。セブルスは自分の笑顔の威力を知るべきだと思う。
しかし問題はこの後だ。ホグワーツには直接姿現しできないため、近くに姿現しするしかないが、そこから城まで夏とはいえ夜中に歩かせるのは申し訳ない。更に、この周辺は住宅街で宿など存在しない。つまり、私が取るべき選択は1つだ。
「セブルス、あの、良ければ、泊まっていかない?幸いベッドはあるから、寝る場所は問題無いわ」
「いや、しかし……」
私の言葉に、セブルスは躊躇う様子を見せた。ほとんど狼狽に近い。
確かに長らく誰も使っていないベッドだが、魔法のお陰でカビも埃も無い。
「汚れてはいないわ。アー、その、他人が使ったベッドが嫌なら仕方ないけれど」
「そうではない」
食い気味に返ってきた否定に、少し驚いた。
それならば一体何を気にしているというのだろう?
「見知らぬ場所が苦手ということ?確かに貴方、警戒心は強いものね」
「否定はしないが、そういう事でもない」
主たる理由ではないという事よね。でも、他の理由も思い付かないのだけれど。
私が首を傾げていると、セブルスは何度か口を開閉し、結局観念した様に「君の提案に乗ろう」と呟いた。片付けの手伝いという肉体労働による疲れと、今から城に戻る手間を天秤に掛けた結果だろう。
そうと決まれば話は早い。周辺に宿は無くともレストランくらいはある。
セブルスを伴って高齢の夫婦が営む小さなレストランで食事を取り、遠慮する彼をバスルームに押し込んだ。
両親の部屋だった二階の部屋へ案内して一緒に寝て良いか心細さから聞くと、またもセブルスはギョッとしていたが、最終的には了承してくれた。
包まれた体温の温かさにほんのちょっぴり鼻がツンとしたけれど、セブルスのお陰で涙は出なかった。
そうして、ひとりになって初めて、私はこの家で夜を過ごす事ができたのだった。
一夜明け、近くのパン屋で買ってきたサンドウィッチで朝食を取り、のんびりホグワーツに戻って来た私達を出迎えたのは、至極楽しそうにニコニコと笑うポモーナとオーロラだった。
うーん、嫌な予感。
「あら、偶然ね」
「ええ、こんな所で出会うなんて」
「ちょうど良いわ、ええ本当に」
「セブルス、ミネルバが待ってるわ。お話があるんですって」
セブルスが嫌そうに眉を寄せたのが横目に映る。
「メリルは私たちとお喋りしましょうね」
「まさか断る事はしないでしょ?」
ニッコリ笑った2人には敵わない。私は観念して苦笑しながら頷いた。隣でセブルスが深く深く溜息を吐いた。
ポモーナの部屋へ3人で向かった後はランチを挟みながら昨日の事を始めとしたセブルスとの関係性の変化を根掘り葉掘りしっかりと聞かれてしまった。中でも、昨夜は何にも無かった事は何度も何度も確認された。
「そんなティーンみたいな……」って、一言多いわよオーロラ!
夕食時、大広間で隣に座ったセブルスの顔が若干ゲッソリしていて、何となく私と同じ様な目にあったんだろうと察する事ができた。
そうして、セブルスと私の関係性の変化がある程度教員内で周知の事実になった頃、ホグワーツに大きな変化が訪れた。
「ああ!お久しぶりです!相変わらず麗しいですね、メリル!」
変わらない煌めく金髪に、以前よりサッパリした雰囲気になった男がホグワーツに舞い戻って来たのだった。
慈雨「万物を潤し育てる雨、恵みの雨」
26話目です。
今回からアズカバンの囚人篇という事で、タイトルのつけ方を変えてみました。
お互いの心残りを解消し始める話です。ついでに彼も再登場です。
ハリーの家出期間中に色々と詰め込む予定なので、作中の夏休みが全然終わりませんね!