夜久衛輔の姉が青春小説を完成させるまで   作:細雨

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第12話

世間では師匠も走る季節を迎えて、もちろんバレーボーラーも常にコート内を走り回っている。紗代子とて走り回る側だ。現実ではなく、仕事的な意味で。

12月も中旬を迎える頃、紗代子はある出版社近くのカフェで担当編集者と向かい合っていた。

「ではゲラのチェック、お願いしますね」

「はい、分かりました。また連絡します」

「よろしくお願いします。……先生、最近ちゃんと寝てますか?隈ができてますよ」

月末の事を考えて眠りが浅い、とはとても言えない。紗代子は平静を装いながら微笑んだ。

「一応寝てます。もうすぐ私の手を離れるので、最後まで全力でやりたいんです」

これも嘘ではない。いつになくやる気の紗代子に、編集者は「楽しそうですねえ」と苦笑した。

「やる気があるのはありがたいんですけど、身体は壊さないように気を付けてくださいね」

「分かりました」

紗代子は大きく頷いた。

その後、紗代子はウィンドウショッピングを敢行したのだが、コレだと思う物が無くトボトボと帰宅した。もうすぐ黒尾と約束したデートの日だ。クリスマスでもあるから何かプレゼントでも、と考えたのだが、決めきれなかったのだ。そもそも好みが分からないという事に、紗代子は初めて気が付いた。魚が好物なのは知っているが、魚を贈るのは違う事くらい分かる。

そうやって悩んでいる内に、ついにその日を迎えた。12月25日クリスマス。天気は晴れのち曇り。気温は低く、窓にはしっかり結露が浮かんでいる。

紗代子は少し重たい瞼を持ち上げながら朝食をもそもそ食べた。

そして昨日悩み抜いて決めた服に着替えていく。青灰色のタートルネックに焦げ茶のベルトが付いた白のロングスカート、上着は細かいチェック柄の黒のチェスターコートにした。かっこよく見えてればいいな、と思いながら髪はハーフアップにして化粧をする。

そうして身支度を終えて玄関に行くと、とっくにパジャマから着替えていた衛輔が立っていた。

「もりすけくん」

「紗代姉、気合い入ってんな」

ニカッと笑った彼は「似合ってる」と言った。紗代子が礼を伝えると、衛輔は顔を歯痒そうにクシャッとさせた。

「でもこれが黒尾のためだと思うとマジで悔しい……!」

「な、何で知ってるのっ」

今日黒尾と出掛けるなんて、衛輔に話した事は無い筈だ。紗代子は動揺と恥ずかしさで少し赤くなった。

「それくらい分かる。俺は紗代姉の弟だからな」

ムン、と胸を張った弟は今でも可愛いが、紗代子は知られた理由が分からず戸惑ったままだ。そんな彼女へ「あのな」と衛輔は続けた。

「紗代姉はアイツが関わると色々と分かりやすいんだよ。今までで1番楽しそうだし。俺は認めてないけど」

「10年早いわ」と笑う衛輔に、紗代子も「いやに具体的だね」と笑った。そうして、そうか、と思った。彼に隠しきれない程には、自分は黒尾に揺らがされ、彼を見つめているのだと。

「気を付けて行けよ」

黒のショートブーツに足を入れた紗代子の背に、衛輔が声を掛けた。

「うん、ありがとう」

「何かあったら呼ぶんだぞ」

「そんな事態起きないでしょ」

「分かんねえぞ、アイツだしな。それと、夕飯までには帰って来い」

「元からそのつもりだけど、もりすけくん、お父さんみたいだよ」

「ウッセ。……いってらっしゃい」

「いってきます」

衛輔の笑顔に見送られ、紗代子は玄関の戸を開けた。

約束の時間の少し前に、紗代子は待ち合わせ場所である駅前に到着した。彼女の家の最寄り駅から少し離れたこの駅は常に人が多く、無事に合流できるか紗代子は少し不安だった。しかし、その心配は杞憂だとすぐに分かる。

「黒尾くん」

特徴的なトサカ頭が、群衆の上からピョコリと覗いていた。そちらへ向かうと、見慣れた整った顔が紗代子に気付いてパッと輝いた。

「紗代子サン、おはようございます」

「うん、おはよう」

「いつも可愛いですケド、今日は一段と可愛いし綺麗ですね」

「そ、そうかな……ありがとう」

ポッと赤くなった紗代子に、黒尾は可愛いなあと思いながらその細く白い手を取った。驚いて目を見開く彼女を、

「手、繋ぎたいデス。ダメ?」

と小首を傾げて見つめる。精一杯可愛子ぶっているが、黒尾の内心は緊張で心臓バクバクである。今日も香水の香りが彼の鼻をくすぐってくるし、先程こちらを見つけた時の安心した様な顔にはときめいた。既にいっぱいいっぱいになりつつあるのに、今日1日大丈夫なんだろうかと黒尾がほんのり不安になっていると、紗代子が小さく頷いた。どうやら許しを得られたらしい。黒尾はホッと胸を撫で下ろした。

「良かった、じゃ、行きましょーか」

「うん」

おずおずと指を絡め返してきた紗代子が可愛くて、黒尾は心中で悶えながら歩き始めた。

映画館に着くと、案外多くの人でごった返しになっていた。事前に黒尾がチケットは取っていたため、それぞれ飲み物だけ買ってシアター内に入った。

ほとんどの席が埋まっている中、自分たちの席番号を確認してそちらへ向かった。飲み物は黒尾が紗代子の分も持ってくれているため、ヒールのある靴が履き慣れない紗代子は安心して歩けていた。

席についてドリンクホルダーに飲み物を入れて、お互い上着を脱ぐ。紗代子の青灰色のセーターを見た黒尾が「綺麗な色ですね」と褒めてくれた。そんな彼も、V字ネックの黒のセーターに同色のジーンズが良く似合っている。普段は周囲も似た様な物だからあまり感じないが、黒尾1人を見るとやはり筋肉がついているなと紗代子は感じた。厚い胸板に太い腕、それによく動くための太い足。紗代子が見ている事に気付いた黒尾がニヤリといたずらっぽく口の端を上げる。

「何?見とれちゃいました?」

「そ、そんな事ないよ?服似合ってるなぁって思ってただけ」

「見とれてるじゃないですか」と黒尾は笑った。紗代子が赤くなった頬を冷やすためにジュースを飲んでいると、黒尾も自分の飲み物を飲みながら、

「紗代子サンは何買ったんですか?」

と聞いてきた。

「メロンソーダ。黒尾くんは?」

「俺はコーラ。1口交換しません?」

「うん、良いよ」

お互いの飲み物を交換してストローに口を付ける直前にようやく紗代子は気付いた。

──あれ、もしかしてコレって間接キス……?

思わずピシッと固まった紗代子を、横で黒尾はどうするのかとニヤニヤしながら見守っていた。それに気付かず、紗代子はしばし逡巡した後えいやっとストローを口に咥えた。チューッとコーラを吸い上げると、あの独特の味と炭酸が紗代子の舌を刺激した。美味しい。チラッと横目で隣を見ると、黒尾もほんのり眦を染めながらメロンソーダを飲んでいた。どうやら照れていたのはお互い様だったようで、紗代子は少しホッとした。

劇場内が暗くなる。お互いの飲み物を返し、ドリンクホルダーへ収めた。予告が始まる。すると、紗代子の膝に置いた手がそっと横から取られた。ビクッと震えた指を、太く繊細な指先に絡め取られる。

「……!」

スリ、と黒尾の親指の腹で撫でられた手の平が熱い。劇場内での注意が流れているが、耳に入らない。恐る恐る隣を見上げると、驚く程優しい瞳の黒尾がそこにいた。

「くろ、」

「しー……」

紗代子の手を取るのとは逆の人差し指を口に当て、黒尾は彼女に声を立てないように促した。その仕草と流し目の艶っぽさにドキリと心臓が跳ねる。せめてもの仕返しにキュッと絡めた指を握ると、黒尾の目がクッと見開かれ、そうして赤くなった頬でくしゃりと照れた様に笑った。

映画を見終わった後は、事前に紗代子が調べておいたカフェの様な明るい雰囲気の飲食店に入った。魚料理が美味しいと評判らしく、メニューも魚ばかりだった。

それぞれ選んで注文し、届けられた食事に黒尾は目を輝かせた。

「うわ、美味そう!いただきます」

「いただきます」

「すご、美味っ」

サンマを1口食べた黒尾の目が更に輝く。紗代子も食べ始め、すぐにその美味しさに気付いた。しっかりした脂の乗ったブリの身が、その味を彼女の口内を満たす。ご飯にとても合う味だ。

「紗代子サン、店見つけてくれてありがとうございました」

ニカッと笑った黒尾に、紗代子も嬉しくなって微笑んだ。

「黒尾くんが喜んでくれたなら嬉しい」

「ホント美味いです。紗代子サンが俺の事考えて探してくれたの、すごい嬉しい」

心底嬉しいという笑顔で、黒尾はそう言った。紗代子の胸が喜びで熱くなる。彼のこういう笑顔は、紗代子にとってそれ程の威力を誇っているのだ。

明らかに前と違うと紗代子は実感していた。以前はこんなに自分の感情や相手に振り回される事は無かった。それは自分が淡白なせいだと思っていたけれど、もしかしたら違うのかもしれない。

料理の感想を言い合いながら食べ進め、ふと紗代子は気になった事を聞いてみた。

「黒尾くん、何か欲しい物ある?」

「欲しい物?何で?」

「ほら、今日クリスマスだから、何かプレゼントをって思って」

「ええ?いいですよ、別に」

ハハッと黒尾は笑った。

「紗代子サンとこうしていられるだけで嬉しいデスヨ」

優しく微笑みながら言う黒尾の温かな眼差しに、紗代子は頬が熱くなるのを感じた。何て柔らかな目でこちらを見るのだろうか。

だが、それはそれとして。

「本当に欲しい物無いの?」

「んー、これといって浮かばないんですよね」

黒尾は首を傾げる。生活の半分以上バレー漬けの日々で、例外は紗代子や勉強だけだ。欲しい物と言われても急には思い浮かばない。

「んー、そっかぁ」

釣られたのか、紗代子も首を傾げた。可愛い。魚を食べる所作も綺麗だな、と思っていると、「じゃあ、こうしましょう」と紗代子は両手を合わせた。

「色々見て回ってみて、それで黒尾くんが欲しいと思う物や黒尾くんに似合う物を探すのはどう?」

「いいですよ、楽しそうだし」

「決まりね」

紗代子は嬉しそうにニコッと笑った。

普段あまり買い物をする方ではないが、彼女とならどこへ行っても楽しいだろうと黒尾は予想していた。彼女といられるだけで嬉しいのもあるが、紗代子なら黒尾を置いて買い物に夢中になったりしないと確信できるのだ。

黒尾とて、恋愛と全く無関係という訳ではなかった。運動部であり高身長である彼は音駒に入りたての時から正直モテていた。告白されて2、3人と付き合った事もある。しかし、どれも長続きしなかった。期間も、黒尾の感情も。受け身だった事もあったし、彼女たちは黒尾を黒尾として見ていなかった節もあった。「高身長でスポーツも勉強もできる自慢の彼氏」、それが黒尾に与えられたレッテルだった。デートをしても、買い物に付き合わされて連れ回されるのがセオリーだった。それがほとほと嫌になって、黒尾はよりバレーに専念するようになったのだった。

食事を終えて店の外に出る。映画のチケットは黒尾が取ってくれたから、と会計は紗代子が引き受けた。黒尾は最初かなり遠慮していたが、「買い物の後カフェに行こう。その時は割り勘にしよう?」と紗代子は半ば強引に押し切った。

「ご馳走様デス」

「いいえ、評判通り美味しくて良かった。えっと、確かこっちに色々お店あったよね?」

「そうっすね」

周辺は紗代子もあまり歩いた事が無い。どんな種類の店が並んでいるかぼんやりと把握している程度だ。

歩き始めようとした紗代子の前に、黒尾が「ん」と手を差し出した。映画館からココまで繋いだままだった手。いつもより慎重に歩く紗代子に安心感を与えてくれたそれに、彼女はゆっくりと己の手の平を重ねた。黒尾がそれはそれは嬉しそうに笑う。

──今日は彼に何度ときめいちゃうんだろう。

それは恐怖でなく、少しの心配と膨らむ期待から生まれた思いだった。

2人、おしゃべりを楽しみながら歩く。街はクリスマス一色で、あちらこちらで緑と赤の飾りが目に付いた。そんな中、1軒の店のディスプレイ前で紗代子は足を止めた。黒尾も立ち止まり彼女の視線の先を辿ると、そこには男物の服を纏ったマネキンが3体。全体的にシックなイメージで固めてある。

「少し見ても良いかな?」

紗代子の言葉に、黒尾は「もちろん」と頷いた。

店内に入るや否や、紗代子はまっしぐらに服飾小物が纏めてあるエリアへ向かった。帽子や手袋が陳列してある中で、彼女は真剣な顔でマフラーを吟味している。何か彼女の琴線に触れる物でもあったのだろうか、と黒尾がのんびり考えていると、不意に紗代子が顔を上げて黒尾を手招きした。

「黒尾くん」

「はいはい?」

「ちょっとそこに立ってくれる?」

鏡の前を指差され、黒尾は素直に従った。その横に何本かマフラーを持った紗代子が立つ。かと思ったら、そのまま順に黒尾の首元にマフラーを当てていく。その顔は真面目その物で、プレゼントを選ぶ時によくある楽しそうな表情は微塵も見られない。その事に妙に緊張してしまい、黒尾は無言で紗代子の判断が下るのを待った。

「──よし」

黒尾がマフラーのループを何周か経験した後、ようやく紗代子が小さく、そして力強く頷いた。何かしらが決定したらしい。そのまま「ちょっと待っててね」と言い置いてレジに向かう彼女の後ろを素知らぬ顔をして付いて行く。そして彼女が支払いをしてくれている後ろからニュッと顔を出して、

「あ、タグ切ってください」

と口を挟んだ。紗代子がギョッとした顔で振り返るのが分かる。

「かしこまりました」

店の雰囲気と同様に店員が行儀良く答えてタグの処理をしている間に、黒尾は呆然としたままの紗代子へニヤッと笑った。

「ありがと、紗代子サン。俺へのプレゼント選んでくれて」

「や、いや、全然、良いよ……?」

どうやら選ぶのに集中し過ぎて、黒尾は鏡の前で待っているという認識でいたらしい。普通に後ろを歩いていたのだが、全く気付いてなかった様な彼女の様子が面白くて、黒尾は破顔した。

「紗代子サン、集中し過ぎ。俺、変に緊張しちゃいましたヨ」

「え、ご、ごめんね」

「イイエー」

店員が笑顔でマフラーを手渡してくる。それを「ありがとうございます」と受け取って、黒尾は支払いが終わってもぼうっとしている紗代子を促して外に出た。恭しく頭を下げて見送ってくれた店員の姿が遠ざかる所まで歩いて、黒尾は道端で立ち止まった。紗代子も釣られて立ち止まる。

「紗代子サン」

「なあに?」

「プレゼント、ありがとうございます。嬉しいデス」

「気に入ってくれたなら良かった」

「それでなんですケド」

そう続けた黒尾に、紗代子が首を傾げる。そんな彼女にそっとマフラーを差し出して、黒尾はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「紗代子サンが巻いてくれませんか?」

「えっ?私?」

紗代子が驚きに目を見開く。

「うん、お願いします」

「分かった」

紗代子が頷きいたのを確認して、黒尾は彼女が巻きやすいようにと少し屈んだ。

必然、両者の顔が近付く。それに気付いた紗代子の頬に朱が登る。そんな彼女の様子を可愛らしく思いながら見ている黒尾の前で、紗代子は慎重に優しくマフラーを巻いた。

黒の裏地に臙脂色を使ったバイカラーのマフラーは、大人っぽく、でも子供の様でもある黒尾によく似合っていた。

「どう?良い感じ?」

「うん、かっこいいよ」

紗代子のすぐ前にある黒尾の目がクッと見開かれる。そうして眦を赤く染めて「……ありがと」と照れた様に呟いた。紗代子も思わず赤くなるくらい、柔らかく甘く、そうして温かい声音だった。

それから少し歩いて回って、2人は近くのスタバに入った。店内はほぼ満席だったが、幸運にもちょうど空いた席に滑り込む事ができた。昼食終わりの言葉通りそれぞれで飲み物を買い、席に戻る。カップがクリスマス仕様になっていて可愛らしい。

「黒尾くんは何を頼んだの?」

「何かクリスマスの新作のやつ?ナッツが乗ってる方。紗代子サンは?」

「そっちも迷ったんだよね。私はシナモンが掛かってる方にしたの」

「1口、交換します?」

「うん」

お互いの飲み物を交換して、舌が火傷しないようにそっと口を付ける。ナッツの香ばしい香りやクリームの甘い味が紗代子の口内を幸せにした。飲み物を戻し、美味しさを堪能していると、不意に携帯が震えた。

「ごめんね」と断って開くと1通のメール。衛輔からだった。「何時頃帰って来る?」という内容に、迎えに来てくれるつもりなのかなと検討をつけた。「夕方くらい。電車に乗ったらまた連絡するね」と返信すると、すぐに「黒尾に気を付けろよ。ちゃんと帰ってくること!」と返ってきて紗代子は思わず笑ってしまった。

「なになに?楽しそうデスネ」

「もりすけくんが、ちゃんと帰って来いって。お父さんみたいで笑っちゃった」

「腕組みするやっくんが見えるわー」

ケラケラと笑った黒尾が、おや、という顔をする。「どうしたの?」と紗代子が聞くと、彼は「俺の携帯にも何か来た」と言って携帯を開いて吹き出した。

「大丈夫?」

「大丈夫大丈夫、噂をすればだっただけ」

そう笑いながら黒尾が携帯を紗代子へ向ける。その画面には衛輔からのメール。

「手出したら膝カックンじゃ済まさねえからな」という何とも男らし過ぎる一文に、紗代子も同じく吹き出してしまった。

「もう、もりすけくんったら、そんな事起こらないのに」

「いやあ、さすがやっくん。守りに関してはホントに鋭いわ」

「うん?」

黒尾の言葉に「どういう事?」と紗代子が首を傾げると、彼は携帯を引っ込めて意味ありげに彼女と目を合わせてニッコリと笑った。

「そのままの意味デスヨ、おじょーさん」

「えっ、と……」

「ね、紗代子サンなら意味、分かるデショ?」

紗代子の頭が一瞬である推論を叩き出す。先程の黒尾の言葉と合わせると、それは推測から確信に変わる。

ボンッと顔中赤くなる紗代子に、黒尾はしてやったりと意地悪く笑った。そうやって意識してくれれば良い。この先もずっと。自分しか見られないようになるまで。

──もう離してやれない。

強くそれを実感する。未だに捕まってくれないこの人は、人の気も知らないで振り回してくるこの人は、自分がどれ程執着しているか分かっていないのだろう。本当は烏野に行っているのも嫌だった。けれど、彼女が必要だと感じた事を止める理由も権利も自分には無い。……月島と仲良さそうな写真を送ってきたとしても。送ってきたのは月島だが。何て後輩だ。煽れると見抜いてしっかり煽ってきやがるなんて。

黒尾が内心で月島にちょっとした恨みの念を送っていると、紗代子は赤い顔のまま焦った様子で話題を変えてきた。

「あ、あの、聞いて良い事か分からないんだけどっ」

「うん」

月島へ念を飛ばす事なんてどこかへ飛んでいった。可愛い。顔がやに下がっている自覚はある。紗代子しか見ていないから良いのだ、と黒尾は開き直った。そのメンタルの切り替え具合は、さすが自由人の多い音駒を纏めるキャプテンだけある。

「黒尾くんは、進路とか将来は決めたの?」

──おっと、案外真面目な話だった。

黒尾は微笑んだまま居住まいを正した。どこから話すか頭の中で纏めていると、紗代子は申し訳なさそうに「ごめんね、話しにくい事だよね」と肩を落とした。そんな彼女に、黒尾は慌てて手を横に振った。

「いやいや、全然大丈夫ですよ。ちょっと話す順番を考えてただけ」

「そう?無理に言わなくて良いんだよ」

「無理してないデスヨ。むしろ聞いて欲しい」

黒尾の言葉に、紗代子は「ありがとう」と頷いた。

「んー、俺ね、小学校くらいの時に親が離婚して研磨の家の隣に越してきたんですよ。それで、親は隣同士で年齢も近いから子供同士で遊ばせる訳。でも最初は俺、全然喋れなくて、研磨の部屋でゲームばかりしてた」

「そうなんだ。黒尾くんもゲームするんだね」

「え?そこ?」

孤爪が人見知りなのは今もだが、黒尾の方は社交的なタイプだと思われる事が多い。実際ほとんどその通りで、目付きは悪いが人当たりは良い方だと黒尾自身も思っていた。だから昔は喋れなかった事に驚かれると考えていたのだが、紗代子はゲームの方に反応した。驚かされたのは黒尾の方だった。

「俺、そんなに喋らないタイプに見えてました?」

「そういう訳じゃないけどね。もりすけくんから普段の話聞いてても、黒尾くんの名前はバレーの子たちと一緒にしか出てこなかったし、土曜日も他の部活の子と会っても挨拶しかしてなかったから、そんなに誰にでも心を開くタイプじゃないのかなって」

「おおー」

黒尾はパチパチと軽く拍手した。週に1回程度しか会っていないのに、さすがの観察眼と記憶力である。職業柄なのだろうか。

紗代子は彼の拍手に少し照れた様に笑い、「中断してごめんね、話の続きを聞かせて欲しいな」と言った。黒尾は頷き、言葉を続けた。

「バレーはその頃から好きだったけど、中々研磨を誘えなくて。でも、ふとアイツが『他にしたいことある?』って聞いてくれて、嬉しくなった俺はすぐに家にバレーボールを取りに帰って、研磨を外に連れ出したんですよね。後から考えたら、多分研磨は他のゲームをするかどうか聞いてたんだと思うんだけど、浮かれた俺はそんな事思い付きもしなかったんです」

「それくらい、もうバレーが好きだったんだね」

紗代子が優しく微笑んだ。うん、と素直に黒尾は頷いた。

「結局、新しいバレーのチームに研磨も一緒に行ってもらって、それでそこに猫又先生に出会いました」

「先生に?」

紗代子は猫又から話を色々聞いた事があるが、子供のチームに顔を出していた事や黒尾や孤爪と出会った事は言っていなかった。

「そうです。時々様子を見に来てたみたいで、昔は直接指導もしてくれていたらしいです。そんで、『スパイク打ってみたいけど、背が大きくないと打てない』って言ってた俺に先生が言ったんです。『じゃあネットを下げればいい』って」

「ネットを、下げる」

「そう。『好きこそ物の上手なれ』とも言ってました。それで下げてもらったネットで一生懸命練習して、俺、スパイク打てたんです」

黒尾が広げた己の手の平を見る。懐かしそうに細められた瞳に、当時の衝撃や喜びを思い出しているのだろうと紗代子は思った。

それがきっと、彼がバレーを本当に好きになった瞬間だったのだろう。その瞬間があるか無いか、それはとても大切な事だと、彼女は身をもって知っていた。

「俺はバレーが好きです。だから、色んな人にバレーの楽しさを知って欲しいと思ってます。そういう、バレーの裾野を広げる仕事をしたいんです」

しっかりと紗代子の目を見て言った黒尾に、心底羨ましいと彼女は思った。これ程の熱量を持ってまっすぐに好きな事に向かい合える事は、実は紗代子には少ない。作家自体が不安定な職業だし、小説だって苦しみながら書いている。好きだけで終われない。それはきっと、どんな仕事でもそうだろうけれど。

「黒尾くん」

「はい」

「素敵な夢だね。月並みな事しか言えないけど、応援してる。黒尾くんならできると思う」

「ありがとうございます。……まあでも、とりあえずは目の前の春高に全力投球ですけどね」

「そうだね」

黒尾がニッと笑ったのに合わせて、紗代子も微笑んだ。

夕方、暮れなずむ道を黒尾と紗代子は並んで歩いていた。その手は当然の様に繋がれていて、紗代子はまだ慣れずにドキドキと鼓動が早い事を自覚していた。

紗代子の最寄り駅の1つ手前で電車を降りて歩く道すがら、黒尾は唐突に大袈裟に溜息を吐いた。

「どうしたの?」

「もう終わりなのかと思いましてー。ねえ、晩飯も一緒に食べません?」

「ダメだよ、黒尾くん。夕方までって約束したでしょう?」

「だってさあ、こんな、高校生みたいなデート……」

「高校生でしょ」

「ソウデシタ」

あーあ、と空を仰ぐ黒尾の隣で、紗代子も一抹の寂しさを感じていた。彼に注意した手前、表には決して出さないが。彼女とて、この時間への未練はあるのだ。

歩くのを止めないと、あっという間に夜久家の前まで到着した。中では恐らく衛輔がまだかまだかと待っている筈だ。何度か紗代子の携帯にメールが入っていたから。

「紗代子サン、手を出してくれませんか」

黒尾がそう言いながら自分のバックの中を漁る。紗代子が繋いでいない方の手を差し出すと、彼はその上に可愛らしくラッピングされた箱を乗せた。

「これは?」

「ハンドクリーム。温感効果もあるやつね。紗代子サン、体育館で寒そうだからさ」

見られていたのか、と紗代子は軽く目を見張った。半袖短パンの選手たちに悪いかと、できるだけ隠れて手をさすったり吐く息をかけていたりしたのだが。

「ありがとう、黒尾くん。大事に使うね」

「ん」

紗代子が黒尾の顔を見て微笑むと、彼も嬉しそうに頷いた。と、急にクッと手を引かれる。突然の事に踏ん張れずに、紗代子は黒尾の腕の中に収まった。そのままギュッと抱き締められて、紗代子はようやく状況を理解した。

「く、黒尾くんっ」

「あー……帰したくない」

そのあまりにも切ない声音に、紗代子の動きがピタリと止まる。それを良い事に、黒尾の腕に更に力が籠る。顔を押し付ける形となった彼の胸から、ドクドクと強い鼓動の音が紗代子の耳に響く。プレゼントを落とさない様に慎重にそっと彼の背に腕を回すと、黒尾の身体がビクリと震えたのが伝わってきた。

「そんな事されると、余計に離せなくなるでしょーが……」

「そう、なの?」

「んも〜〜〜」

黒尾が唸りながら紗代子の肩口にグリグリと額を擦り付ける。普段振り回され気味だから、少しは意趣返しができたかと紗代子が優越感に浸っていると。

「……紗代子サンのせいですからね」

「え?」

拗ねた様な声音が落とされ、スッと顎を取られて上を向かされる。黒尾のギラついた強い瞳に、紗代子の身が竦む。ゆっくりと降りてくる端正な顔から、紗代子は目が離せずにいた。お互いの鼻先が触れる距離まで、黒尾の顔が近付いて──

「手出すなっつってんだろーが!」

スパーンッ!と開いた扉の音と同時、塀の向こうから響いた声に、黒尾はガックリと項垂れた。

「やっくーん……空気読んで空気」

「あえてだバカ!」

塀のこちらまでは来ないのは衛輔の優しさである。紗代子は照らす夕日以上に羞恥で真っ赤になった顔を片手で覆った。黒尾は何とかヨロヨロと顔を上げて、渋々ながら紗代子の身体を抱擁する腕を解いた。

「じゃあ、うちのリベロが守りに来ちゃったから退散しマス」

黒尾が拗ねた様に唇を尖らせて言うと、すかさず衛輔から声が飛んだ。

「早く帰れ」

「今良いトコなんだから、やっくんはチョット静かにしてて!」

「ケッ」

塀の向こうへ言い返した黒尾は、紗代子を振り返ってそっと彼女の顔を覆う手を取った。まだまだ赤い顔が顕になって、黒尾は嬉しそうに笑った。

「……ちょっとは期待してくれたって思っても、いい?」

紗代子は小さく頷いた。彼に嘘をつくのも嫌だったし、そもそも失礼だと思ったから。

黒尾は更に柔らかくふにゃりと相好を崩した。

「嬉しい。……またね、紗代子サン。良いお年を」

「く、黒尾くんも、良いお年を」

何とか時節の挨拶を返して、黒尾が離れて行くのに釣られて恥ずかしさに逸らしていた視線を上げた時。

「……!」

頬に柔らかい感触。それは一瞬の事で、紗代子が何が起きたか理解する前に黒尾は優しく微笑んで踵を返した。

「紗代姉、冷える前に入って来いよ」

「うん……」

衛輔の言葉に何とか返事をした紗代子だったが、頬が、全身が熱くて本当はそれどころでは無かった。キスをされた、と思う。そっと頬に手で触れる。そこには何も存在しないけれど、確かに感触は残っている。ドキドキが鳴り止まない。いつまでも。

結局、立ち尽くす紗代子を複雑な面持ちの衛輔が回収する事になったのだった。




第12話です。
クリスマスデート回です!フゥーッ!甘く甘くと念じながら書き上げました。今回のテーマソングはヒゲダン「Pretender」とDa-iCE「CITRUS」あいみょん「マリーゴールド」でした。どこが、というツッコミは無しでお願いしますw
次から春高編となります。少し前にゴ決n回目に行ってきたんですが、こんなに素晴らしい彼らの試合を書けるのかと少し思い悩んでしまいました。書きますが。観客席から見た風景を、激闘を表現できるように頑張ります。
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