春高2日目。音駒は第2試合であるため、朝一番に東京体育館に入ったようだ。体育館が開いたと同時に、アップのための30分が始まるらしく、移動や着替え等をスピーディーにしなければならないのだ、と紗代子はこの日あかねに教えてもらった。
「ちょっと不利じゃない?」
横で聞いていたアリサが困った様な顔で言った。それへ「そうだけど、こればっかりはしょうがないの」とあかねは納得はいっていない顔で腕組みした。
紗代子たちが見守る先では、音駒と対戦相手の石川県代表・早流川工業高校の選手たちがウォームアップをしている。向こうの監督は猫又の元教え子らしい。という事は、猫又のやり方を熟知した上で策を練ってくる筈だ。後出しに強い音駒といえど、そうなってくるとさすがに少し心配になる。
隣のコートでは、烏野が優勝候補の稲荷崎と対戦するらしい。気にはなるが、紗代子としてはやはり音駒を見ていたい。黒尾との約束もある。
笛の音が試合の開始を知らせる。春高2日目が始まった。
試合がいくらか進む内に、早流川工業も守りが固い事はすぐに分かった。点差はお互い開く事なく、取っては取られてだが1つ1つのラリーがやはり長い。
今だって、早流川のスパイクを衛輔がレシーブし、そのまま黒尾の速攻へ繋げたが、そこは向こうのリベロが何とか取ったところだ。かと思えばフェイントでこちらに返し、それを海が上げる。
──何だろう、この違和感……。
紗代子の胸に僅かに引っ掛かる、何か。コートの中では皆が走り回っている。
「ナイスレシーブ!!」
ブロックをクロスで躱したボールを山本が拾った場面で、あかねの嬉しそうな歓声が飛ぶ。
素晴らしい守備だ。皆そう。それは間違いないのだが、ざらついた予感が紗代子の首筋を撫でて行く。リードしているのに、黒尾の顔も厳しい。
ドドォッと福永がブロックアウトを決めた。
「ナイスキーねこまー!押せ押せねこまー!」
ふと、紗代子が目を見開いて観客席前のバーをガッと掴んで身を乗り出した。
「紗代子さん?どうしたんです?」
アリサが不思議そうに首を傾げる。その横であかねも同じ仕草をした。
「孤爪くん……」
「え?」
「孤爪くんが、いつもより動いてる」
「!」
ハッとなったあかねがコート内を振り返ったた。「ほんとだ……!」と彼女が呟く。
「動いてるって事は、それだけやる気って事?」
アリサが聞くが、あかねは思い切り首を横に振った。
「違うの。多分、動かされてる」
「孤爪くんを疲れさせて、音駒の守りを崩すのが目的だと思う」
そうこう言っている間にも、音駒が点を取る。基本的には音駒が優勢だ。表面上は。
結局点差が開く事なく、第1セットは音駒が取った。
「孤爪くんを走らせる事ってできるの?」
セット間にアリサが問い掛けた。それへ「できる事はできると思う」とあかねは頷いた。
「でも、その分早流川もしっかり守らないといけないし、狙いも的確じゃないとできない」
この試合は、誰よりも、どうしても体力の少ない孤爪にとって厳しい戦いになるかもしれない。
「頑張って……!」
紗代子が今できるのは応援する事だ。コートの外にいるからこそできる助力を、全力でやるのだ。
「ここで早流川ブレイクー!!第2セット中盤、初めて早流川がリードを奪っています!」
ついに音駒が早流川工業に1歩譲った。きっと孤爪の事だから、早々に相手の策を見抜いて対応している筈だ。しかし、その確信が得られない今、紗代子は胸中に渦巻く心配を解く事ができずにいた。
20点代に先に乗せたのは早流川工業だった。もちろん音駒とて追い縋っている。しかしブレイクができない。
そうしてついに、孤爪の足がもつれた。
「「あっ」」
何とか海がフォローに入ったが、ボールは音駒コートに落ちてしまう。早流川工業に、23点目が入った。
「孤爪くん……もう、足が……!」
「いつもより走り回ってるもんね……」
相手のサーブミスと海のスパイクで、音駒はようやく早流川工業と並んだ。そして取って取られて24点同士のデュース。流れが音駒に来たかと思ったら、早流川工業がすぐにタイムアウトを取った。
チラッと一瞬、黒尾が目だけでこちらを見た。紗代子と視線がバチッと合って、少しだけ彼が口の端を上げた。汗だくで疲れている事はありありと分かる。それでも、彼少しでもの背を支えられたらと、紗代子もしっかり目を合わせて頷いた。
タイムアウト明け、それまで以上にラリーが長くなった。1点1点までが遠い。息が詰まるような粘りが、繋ぎが続く。いつの間にかお互い点数は30点近い。
皆で繋いで、次へと繋ぐ。
「ワァンチ!!」
ブロックに跳んだ黒尾が触ったボールを、山本が丁寧に優しくレシーブする。孤爪がそれを素早くセットして、黒尾が真ん中でスパイクを決めた。
「ここでブレーイク!!均衡を破ったのは音駒高校ー!!」
「「「あと1てーん!!」」」
マッチポイントを取ったとしても、勝ち切る事がまた難しい。
早流川工業にブロックアウトを取られ、音駒がレシーブで点を取り、ついに双方の点数が30点を超えた。
早流川工業30点、音駒31点。
「あと1点〜、あと1点〜」
アリサが祈り、あかねが険しい表情でコートを睨む。紗代子は黒尾を、衛輔を、孤爪を、皆を見ていた。信じている。絶対は無い。けれど、孤爪の賢さを、皆の強さを知っているから。
黒尾と孤爪のブロックの間を抜けたボールを、山本が何とか上げる。
「スマン!フォロー!」
ブロックに跳んでいた孤爪が素早く極小の動きでエンドラインまで進み、フワッとセット。福永が勢い良く腕を振り。
ダパァンッ!
「──決まったー!!!」
「「「やったー!!」」」
試合終了を告げる笛の音と同時、紗代子はアリサ、あかねと抱き合った。
「長い長いデュース、もぎ取ったのは音駒高校ー!!!」
蓋を開けてみれば音駒が2セットを取った形だ。しかし、その数字以上に選手たちは両校共に疲労困憊状態だ。孤爪など、完全に顔がコートについている。
「これで、明日も試合できるね」
「はい!対戦相手は──烏野か、稲荷崎か」
あかねが隣のコートに顔を向ける。紗代子が視線を動かした先では、日向の速攻が稲荷崎のコートに決まっていた。
「紗代子さんはこの後どうするんですか?」
「烏野を見ていこうと思って。アリサちゃんとあかねちゃんは?」
「ご飯食べようかと思ってます。紗代子さんも良かったらどうですか?」
アリサの誘いに、紗代子は「ごめんね」と苦笑した。
「烏野の試合、ずっと見ていたいの」
「そっかあ……分かりました、また行きましょ」
「うん、もちろん」
2人と手を振って別れ、紗代子はタイミングを見計らって烏野が戦っているBコートに近い席へ移動した。
稲荷崎のタイムアウト中に周囲を見渡すと、特徴的なトサカ頭とプリン頭を見付けた。紗代子がそちらへ移動すると、海と衛輔が笑顔で手を振って隣の席を示してくれた。
「もりすけくん、皆、おめでとう。お疲れ様」
「ありがとな!」
「ありがとうございます」
「……ほんと疲れた」
「孤爪くん、すごく走ってたもんね」
「もう今日は走りたくない」
「お前はそもそも日常で走らないでしょーが」
「紗代姉、昼飯はあるのか?」
「うん、持ってきたよ」
紗代子が自作の弁当を出すと、衛輔はよしよしと頷いた。初詣に行った5人で、横一列に並んで昼食を取りながらコートを見る。
タイムアウトを挟んでも、影山のサービスエースが決まる。その後も、尾白のスパイクがアウトになり、影山のサーブ4回目は何とかリベロが上げても直接烏野側へボールが返る。影山がそれを直接セットして既に跳んでいた日向がスパイク。そんな素晴らしい速攻を宮侑がディグし、宮治がセット、尾白が決めた。
「盛り上がってまいりましたァ〜!」
衛輔がテンション高くプロテインシェイカーを振る。その向こうで黒尾が苦い顔でコートを見ていた。
その後の治のサーブは圧倒的アウトで電光掲示板を直撃した。その隣にいた谷地が青くなっているのが、紗代子からもよく見えた。
「仁花ちゃん、大丈夫かな」
「烏野のちっちゃい方のマネージャー?まあ、頭を防御しとけば何とかなるって」
紗代子の心配に、衛輔はカラッと笑った。確かにそれはそうだけれども。背が低い分勢い良く飛んでくるボールは怖いだろうと、紗代子は谷地が気掛かりだった。
「十分な点差をつけて安心しかけた矢先に、影山の強烈なパンチ飛んできて一瞬グラついた。……まだ点差はついてるし、エースはアウトの後ちゃんと取り返して踏み止まったけど、確実に稲荷崎には『ちょっとイヤな感じ』が流れ始めた」
黒尾の冷静な分析に、孤爪が僅かに頷くのが紗代子の視界の端に映った。
1セット目は烏野が取っている。しかしだからといって2セット目を渡して良いかというとそうではない。相手は全国2位の実力を誇る最強の挑戦者なのだ。
尾白に変わり、稲荷崎のキャプテンである北が入った。彼が入った途端、キュッと稲荷崎の選手たちの顔が引き締まった。
それが気のせいではない証拠に、稲荷崎にブレイクされてしまった。
「……空気戻った」
「んね」
孤爪の呟きに黒尾が同意した。紗代子も頷く。
山口がピンチサーバーで出てくるが、決まらない。点数は稲荷崎に入っていき、ついにセットポイントとなってしまった。
そして月島のブロックが抜かれ、稲荷崎が2セット目を取った。
「……もりすけくん」
「うん?」
紗代子が、コートに顔を向けたまま衛輔の名前を呼んだ。多分記憶を再生して分析しているんだろうな、と予想した衛輔は、軽い調子で静かに返事をした。
「月島くんは、ブロック上手いよね?」
「そうだな」
「どうして同じ所を抜かれて……いや、何が起こっているの?意図的、よね?」
「多分な」
「クロだったら、稲荷崎の10番どうする?」
「……んー」
孤爪が黒尾に話を振ると、真剣な顔でしばし考えてから、彼は口を開いた。
「『じたばたしねえ』かな。アレは無闇に追っかけても逆を突かれたり、そもそもヤツの打点の『幅』をカバーしきれない。止める事に躍起になったらドツボにハマる」
ここで真面目な顔を崩して黒尾は苦笑した。
「──って分かってても、多分俺は我慢できなくてたまに手ェ出しちゃうし、何本かは止めれると思う。でもツッキーは多分、1・2セットかけて後ろに伝えてんだ。『これが角名倫太郎のターン打ちですよ』って」
月島は基本的に情報を積み上げて収集して分析するタイプだ。そして彼がそれが必要だと判断したのなら、きっと実を結ぶだろう、と紗代子は思う。感情を入れないデータは貴重で、頭の良い月島だからこそできる判断なのかもしれない。
そうして、烏野がローテを回して始まった第3セットで、ついに尾白のスパイクを影山がどシャットした。烏野のブレイクだ。
そして続いて月島のブロックでコースを絞られたボールを、澤村がしっかりレシーブして、それを東峰が力強く決めた。
「「ナイスレシィーブ!ナイスブロォーック!」」
紗代子と衛輔の声が被った。やっと月島の策が日の目を見始めた事が、紗代子は嬉しかった。
衛輔の方はすぐに「リエーフ見とけよオ!!」と喝を入れるのを忘れていなかったが。
「み、見てますよっ!って、あ!紗代子さん、来てたんですね!」
すぐにパッと顔を輝かせて手を振ってきた灰羽に、紗代子も笑顔で振り返した。猫なのに犬みたいで可愛い。存在しないしっぽが見える気がする。彼と一緒にいた芝山や犬岡も手を振ってくれたため、紗代子はより和んでニコニコした。
烏野は2人目のピンチサーバー、木下を投入した。しかし、彼のフローターサーブは治にレシーブされ、尾白に決められてしまった。
何とか烏野が点を取り返し、しかし取られ、侑のサーブが回って来た。ずっと西谷を狙っている事は観客席からもよく見えていた。そのサーブが、西谷へ過たず飛んで。
「オーバー……!」
今までずっとアンダーハンドでレシーブしていた西谷が、恐ろしい程綺麗にオーバーハンドでボールを上げた。それを影山がきっちりセットし、シンクロ攻撃を仕掛けた烏野は東峰で10点目をもぎ取った。
「すごい!もりすけくん、今の見た!?」
「見た見た!あの夕がオーバーか……!やっぱりすごいなあ!」
「姉弟揃って語彙力が一緒になってますヨ」
紗代子と衛輔が興奮気味に言葉を交わした所へ、黒尾が愉快そうに口を挟んだ。
「いーんだよ、すごい物はすごい!だろ?」
「うん!」
「ハイハイ、仲のよろしい事で」
間に挟まれた海が、ニコニコ微笑みながら「皆仲良いと思うよ」と一言フォローを入れていた。
そうしている間にも、侑が極限まで足を曲げてボールの下に滑り込み、わざわざオーバーハンドでセットした。それを治がクロスに決める。
「セッターの鑑だね」
「おや」
その光景を見た孤爪が呟いた。
「でもおれには無理だからね。あんな上げ辛いボールに、あんな素速く滑り込む反応とスピードも、あんな低い体勢で身体を安定させる筋力も、更にそこからドンピシャでセットする技術も無いからね」
「できない理由を饒舌に語るない」
「孤爪くんらしいね」
長口上で語る孤爪に黒尾が苦笑しながらツッコミを入れ、紗代子も笑ってしまった。見れば、衛輔も海も笑っていて、皆孤爪らしいとは思っているようだった。
試合は進む。残酷な程に。
烏野と同点に並んだと思ったら次の瞬間には、稲荷崎がブレイク。13点目だったため、コートチェンジとなった。
次は治のサーブだ。
勢い良く飛んできたボールを東峰が上げ、田中が繋ぎ、影山がクロスを打つが、これは侑が上げた。しかし、稲荷崎には治がいる。
誰を使うのか、選手たちも観客も考えていたその時。
パパァンッ!!
──この速攻は知っている。よく、知っている。
紗代子の目に、谷地の顔が見えた。電光掲示板の横に立つ小さな身体が、絶望に震える瞬間を、見た。
「仁花ちゃん……!」
脳裏を過ぎるのは、楽しそうに誇らしそうに日向と影山の速攻について熱く語る谷地の姿。
ガタリと、紗代子は思わず立ち上がった。弟を振り向くと、彼もまっすぐに姉を見つめていた。
「もりすけくん」
「コレ持ってけ。どこでも入れる」
渡されたのは衛輔の分の通行証。それをしかと握り締め。
「ありがとう!」
ひとつにまとめたベージュの髪を翻して、紗代子は走り去った。
その背を見送り、黒尾がポツリと言った。
「──以心伝心、ってヤツ?ホント仲良しね」
「コートの外の気持ちは、紗代姉が1番知ってるからな。羨ましいだろ」
「ハイハイ、ソーデスネ!」
黒尾の茶々に、衛輔はニッと笑って返した。悔し紛れの黒尾の返しに孤爪が一言。
「クロ、かっこ悪い」
「研磨さんトドメ刺さないで!」
「……紗代姉は変わったんだ、ムカつくけど」という衛輔の悔しそうな呟きは、海だけが聞いていた。
一方、1階へと走り降りた紗代子は切れる息をそのままに谷地の元へと向かった。
「仁花ちゃん!」
「……!紗代子ちゃん!」
紗代子の姿を捉えた谷地の瞳がウル、と潤む。何とか目に力を入れる事で雫が零れるのを堪えた谷地は、「ど、どうしたんですか?」と気丈にも平静を装ってそう聞いてきた。
その後ろでは烏野が決めたと思われた点が稲荷崎に入っていた。オーバーネットを取られた様だ。コートの方へ振り向いた谷地の顔が引き攣る。その肩を、そっと紗代子が抱いた。ビクッと谷地の細い肩が跳ねる。
「……コートの外側は、苦しいね」
「!」
侑の放ったサーブを澤村が直接相手コートにレシーブする形で、何とか点を取った。
「直接皆に声を掛けられる訳でもない。タオルを渡したりドリンクを渡したりできる訳でもない」
月島のブロックが完全に振られ、尾白が澤村のブロックの手の横をストレートに打ち抜いた。
「──それでも、外にいるからこそ、できる事がある」
──日向が、そこにいた。
彼以外の全てが予想できなかった場所に、彼はきちんといた。後ろに転がる形でボールの勢いを殺して。日向は大きな弧を描く美しいレシーブを、してみせた。
紗代子は知らない。年末に行われた宮城県1年生選抜強化合宿で、そこに突撃した日向がずっとコートの外で球拾いをしていた事を。しかしだからこそ、彼女の言葉は説得力を持って谷地に響いた。他でも無い、どうあってもベンチにもコートの中にも入れない彼女だから。
「っはい!」
「じゃあ今必要な事も分かるよね?せーのっ」
「「ナイスレシーブ!!」」
グイッと涙を腕で拭いて、谷地は紗代子と一緒に笑顔で叫んだ。皆の背を押せる様に。少しでも彼らの力になれる様に。
東峰が打ったスパイクが侑に拾われ銀島がブロックアウトを狙う。ボールは撮影クルーのいるスペースに入りかけたところをジャンプした日向が拾う。
「か、げ、や、まあああ!!!」
そのままネットまで走って行く日向の、何と輝かしい事だろうか。楽しそうで、必死で、苦しそうで、それでも尚、ボールを追う。貪欲なスパイカー。最強の囮。
影山はフワリと田中に上げた。そのスパイクは尾白の腕に当たり後方へボールを飛ばす。
「「ナイスキー!!」」
通行証を祈る様に持つ谷地の肩を抱きながら、紗代子も必死に声を出す。
コートの外に出たボールを足を滑り込ませて稲荷崎のリベロ・赤木が上げる。浮いたボールを何とか侑が烏野コートへ返すが、白帯に引っかかり、無情にも烏野側の床に落ちた。稲荷崎、18点目の得点であった。
「あぁあ……」
思わず、といった風な声が谷地の口から漏れた。彼女の通行証を握る手にギュッと力が籠る。紗代子は、あえてタイムアウト中のコートを見ながら口を開いた。
「仁花ちゃん。バレーは基本的に何点で勝つかな」
「え……?に、25点、です」
「今、稲荷崎は何点?」
「18点ですっ」
谷地の瞳に力が戻る。そう、まだ、負けてない。終わっていない。紗代子はそっと微笑んだ。彼女も谷地も知っている。烏野は、このままでは終わらないと。
それを示すかの様に、烏野は銀島のサーブを1本で切った。
稲荷崎は銀島と北の選手交代を行った。2セット目の様に、稲荷崎側のコートの空気がそれまで以上に締まる。
3セット目ともなると、体力の消費が激しい。特に攻撃の度に全員で跳んでいる烏野はそれが顕著だ。だから、それはある意味必然だったのかもしれない。
「!」
影山の上げたボールに月島がスパイクを打つために腕を振りかぶり。
ダンッ。
速攻が、ズレた。一際線の細い月島は、その見た目通り体力が他の烏野メンバーより少し少ない。しかしこのミスは痛い。稲荷崎が20点に乗ってしまった。
次の攻撃では月島が決めたものの、体力が戻っている訳ではない。
一瞬流れた嫌な空気を、東峰のノータッチエースが変えてみせた。烏野の応援団は当然盛り上がり、稲荷崎の応援からも賞賛の声が上がった。
ラリーが続く。皆バテバテでも、それでも落とさない。どちらのチームも。
烏野、澤村のバックアタックで20点に乗せた。
ここからがバレーの苦しい所だ。踏ん張り所だ。紗代子は空いている方の手をギュッと握り締めた。
取って取られて、ブレイクしたと思ったらすぐにブレイクし返される。息付く暇も与えてくれない、攻撃続くラリー。紗代子と谷地は身を寄せ合って、声を揃えて応援した。それが彼女たちの精一杯で、できる最大限の事だった。
終わらない。終われない。
それは、皆同じだ。
銀島のスパイクが決まり、稲荷崎のマッチポイント。谷地が通行証を両手で挟んで祈る中、紗代子は厳しい表情の中、ひたすらコートを見つめていた。
ボールが飛ぶ。ネットを挟んで、あっちへこっちへ。もう落とせないそれを、ひたすらに拾う。
フワリと、影山がアンテナまで美しく伸びるトスを上げた。
──ああ、美しい。
素人の紗代子でも見とれるボールの軌跡。そして田中の決めた極上のラインショットも、また。
「──劣勢崖っぷち、ここで際ど過ぎるストレート1本、見事に決めて来た田中龍之介ーッ!!!」
「だらっしゃああああああ!!!」
田中の雄叫びがコートに響く。湧き上がる高揚が涙腺を刺激する。何度も止められる彼のスパイクを見ていた。きっと応援団を率いる冴子の苦しさは紗代子以上だっただろう。けれど、同じバレーボーラーの弟を持つ者同士、紗代子とて共感できる。
キュッと唇を噛んで、溢れそうになる涙を止める。まだだ。コレは、まだ。
マッチポイントは未だ稲荷崎が握っている。サーブは影山。
本日キレッキレの烏野のセッターは渾身のサービスエースを決めてみせた。その後の、強打に見せ掛けた見事な前へのフェイント。
何とか治が上げるが、ボールは直接烏野コートへ。西谷が上げたボールを影山がセット、からの変人速攻。見事に稲荷崎のバタついた隙を突いてみせた。
これで、烏野のマッチポイント。恐ろしい殴り合い。それでも、まだ試合は終わらない。
すぐに稲荷崎に追い付かれるが、日向の足レシーブで烏野26点目。しかし稲荷崎が瞬時に追い付いてくる。
26点で並んで、侑のサーブが回って来た。
1本目。澤村がオーバーハンドで迎え撃つがボールを捕らえきれずに後ろに跳ねて落ちた。稲荷崎、マッチポイント。
侑の2回目のサーブはスパイクサーブ。轟音を立てて繰り出されたそれを、澤村がアンダーハンドで拾うが、長い。ボールはネットを超えるとほとんどの人間が思った。
──日向を除いて。
容赦無くジャンプの体勢に入った日向に、負けじと影山が横に跳んで、精一杯腕を伸ばして。
ダパッ!!
そっと優しく空中に置かれたボールを、オレンジの太陽は全力で打ち切った。
これでデュース。ここで2点差をつけないと、終われない。
日向のサーブは治が上げて、侑がセットし、角名がブロックに跳んだ月島の腕の外を抜けて。
ドボォッ!
「またも上げたミドルブロッカー日向翔陽ー!!!」
まだ、ボールは落ちない。すぐに攻撃に参加した日向だが、ボールは東峰へ。しかしこれは赤木に拾われる。ブロックに跳んだ月島の足がよれて隣の澤村にぶつかった。皆ギリギリだ。それでも。
「がんばれ……!」
ボールは生きている。ならば、繋ぐしかない。今日を生き残るために。
東峰のブロックアウトで、烏野がブレイクをもぎ取った。
あっという間に、お互いに30点に乗せた。
治のサーブを東峰が体勢を崩しながら上げる。ネットギリギリまで飛ぶボールに、影山が手を伸ばした。
「──なんっというっ!大胆不敵か1年生影山飛雄ーッ!!!」
ツーで決めて不敵に笑ってみせた影山は、酷く追い詰められていて、それでいてとても楽しそうだった。
「……あと1点……あと1点……!」
谷地の切なる響きを乗せた呟きに、紗代子は空いている方の手で谷地の手を握る事で応えた。
月島のサーブは前に落ち、体勢を崩しながら尾白が上げた。それを大耳が繋ぎ、銀島が何とか烏野の返した。チャンスボール。
月島のレシーブ、影山のセット、そして日向のスパイクは赤木に拾われる。跳んでくる尾白のクロスを澤村がディグ。影山がボールの下に滑り込んでオーバーハンドで上げて、田中がわざとボールを相手ブロックに柔らかく当ててリバウンドを狙う。
早く。速く。息をする暇も無い程の攻防。速まるリズムが味方の首を締めて、そうして。
「オーライッッ」
ポォーーーン。
簡単で些細で、でも忘れがちな、高く、優しいファーストタッチ。味方に呼吸をさせる、ファーストタッチ。
それを、この場にいる誰よりも攻撃意識が高い筈の日向がやってのけた。その、意味。
「日向くん、君は、やっぱりすごい」
は、と付いた息に、賞賛の色が乗る。胸を締め付ける高揚は、彼のこれまでを聞いていたからだろうか。
紗代子の目線の先では、またも烏野が全員で跳んでいる。影山がセットしたボールを田中が打ち、ブロックされる。零れたボールに何とか影山が触るがコートの後方へ飛んでしまう。後衛の月島が飛び付いてボールに指先で触れる。だが触れるだけで終わってしまったそれに澤村が飛び込み、しっかりとしたアンダーハンドで稲荷崎コートへと返した。
前へ落ちたボールを赤木が上げて、侑がセット。気付いた時には既に治が跳んでいた。
双子速攻。ギリギリのこの場面で、新しい技を入れてくる、その度胸。
位置、角度、どんぴしゃり。それを。
──ドッ……
事態が把握できたのはボールが落ちた後。影山と日向2人で、侑と治の速攻をどシャットしたのだ。「速さが無敵ではない」事を、他人より少しだけよく知る2人だからこそ。
笛の音が鳴る。長い長い、恐ろしい殴り合いが終わった瞬間だった。
「か、勝っ、た……?」
「うん、烏野が、勝ったよ」
「勝った!勝ったんだ……!」
呆然としていた谷地の瞳が潤んでいき、ついにボロボロと涙を零した。バッと抱き着いてきた彼女を受け止め、紗代子はしっかりとその小さな身体を抱き締めた。
「私でも苦しいコートの外側で、よく頑張ったね、仁花ちゃん」
「うっうぅ……はいっ……!」
まだ15歳だ。しかし彼女は自分でできる事を探して、懸命にそれを全うしている。尊いな、と紗代子は谷地の頭を優しく撫でた。
「ありがとうございました!!!」と応援席に向けて両校の選手たちが挨拶している。きっと音駒の皆はそろそろ引き上げ始めるだろう。
紗代子は谷地を抱き締める腕をそっと解いて、まだまつ毛に残る雫を優しく指先で拭ってやった。
「皆、戻って来るよ。笑顔で迎えてあげて」
「はい!紗代子ちゃんも……」
谷地の申し出に、紗代子は優しく微笑んでゆるりと首を横に振った。
「ごめんね、仁花ちゃん。私は──音駒なんだ」
ハッと谷地が目を見開く。そんな彼女にヒラリと手を振って。
「おめでとう。またね。──また、明日」
身を翻した紗代子は、衛輔たちと合流するためにその場を去った。
通行証を無事に衛輔に返し、紗代子は帰宅した。音駒も烏野もこちらがクタクタになる様な試合だったから、もういつでも眠れそうだ。
それでも、これで決まった。ゴミ捨て場の決戦が、実現する。舞台は東京体育館。ついに因縁の試合が、公式戦でできるのだ。
烏野メンバーからの応援ありがとうございましたメールに返信し、雀田、白福とお互いにおめでとうメールを交わし、宮ノ下、大滝から来たおめでとうメールにお礼を伝えて、紗代子はふぅ、と一息吐いた。何とも言えない感慨に紗代子が自室のベッドに寝転がりながら浸っていると、枕元に置いてある携帯が震えた。液晶には衛輔の名前が表示されている。
「もしもし?もりすけくん?どうしたの?」
もしや何か必要な物でも出てきたのだろうか、と紗代子が考えながら電話に出ると。
<あ、もしもし、紗代姉?>
<ちょ、え、マジで?やっくんそんな事しちゃう?>
<さすが夜久だなあ>
電話の向こうからは3人分の声が同時に聞こえた。状況の分からない紗代子が沈黙していると、しばらく何事か言い合っていた向こうから衛輔の声だけがした。
<もう飯食べた?>
「うん」
<風呂は?>
「入ったよ。一体どうしたの?何かあった?」
<ちょっとこっちまで来て欲しいんだけど、できるか?>
突然のお願いに、「できるけど……」と答えつつも、紗代子は訳が分からなかった。忘れ物でも必要な物が出てきた訳でも無さそうなのに、一体どうした事だろう。
<じゃあ、頼む。埋め合わせは必ずするから>
「分かった。また着いたら連絡するね」
<おう>
衛輔の声の向こう側が何やら騒がしかったが、弟がそのまま電話を切ってしまったので紗代子には詳細は分からぬままだった。とりあえずクローゼットからライダースーツを取り出して着替える。両親に出掛ける旨を告げて、外に出た。1月の空気がヒンヤリと紗代子の頬を撫でる。ガレージから出てきたバイクに跨って、紗代子は夜の静寂にエンジン音を響かせた。
ホテルまたたびまでは、バイクを飛ばせばすぐだった。駐車場の端にバイクを停めて、ヘルメットをサイドカーに入れてから衛輔に到着を知らせるメールを送る。すぐに衛輔はホテルの出入口から姿を見せた。
「紗代姉!」
「もりすけくん」
早足で駆け寄って来た衛輔は「夜にごめんな」と申し訳なさそうな表情だ。そんな弟に「大丈夫」と首を横に振り、紗代子は「何かあったの?」と問い掛けた。彼女の前に立った衛輔は「んー……」と頭を搔く。
「具体的に何かあった訳じゃねえんだけどさ、やっぱり明日の事考えると、紗代姉の顔見ときたくて」
「烏野との公式戦、ゴミ捨て場の決戦がやっと実現するから?」
うん、と衛輔が頷く。小さい時から、何か大きなイベントが控えた日はよく行動を共にしていた事を、ふと紗代子は思い出した。不安な訳ではないのだろう。そんな色は弟の顔には浮かんでいない。昔からそうだ。音楽会や運動会の前は、リビングで姉弟全員で固まっていた記憶がある。特に喋る訳でもないその時間が、何となく紗代子は好きだった。
おそらく、落ち着かないのだ。胃の底を擽られている様な、心のどこかがソワソワする心地は、彼女にも覚えがある。
「もりすけくん、おいで」
「ん」
紗代子が優しく腕を広げると、衛輔は素直に収まってくれた。ほとんど背目線の変わらない弟の身体は、しっかりと筋肉のついたスポーツマンのそれになっていた。抱き締めると、紗代子を抱き締め返してきた腕も太い。
──ああ、もう、小さなもりすけくんじゃない。
「明日、応援してる」
「うん」
「全力で皆と楽しんでね」
「おう」
弟の丸い頭を何度か撫でてから、紗代子はゆっくりと衛輔から離れた。まっすぐに彼女を見る衛輔の目の奥の輝きは強く、眩しい。
守りの音駒を支える頼もしい衛輔の姿に、紗代子はじんわりと胸が温かくなった。何故かもう泣きそうだ。
そんな紗代子に気付いたのか、衛輔はニカッと笑った。
「何だ何だ、泣くのは早いぞ!」
「うん、うん、そうだね」
親指で優しく紗代子の目尻を拭って、衛輔は「ありがとな」と言った。
「良いんだよ。私、お姉ちゃんだもん」
「そんな姉ちゃんにもう1個お願いがあるんだけど」
「うん、なあに?」
紗代子が首を傾げると、衛輔は唇を突き出して拗ねた様な歯痒い様な、何とも言えない表情を浮かべた。
「別に、俺はどっちでも良いんだけど、アイツに塩を送りたい訳じゃないし、でも、紗代姉も喜ぶだろうから……」
「ん?どういう事?」
衛輔の言葉の意味を紗代子が掴みかねていると、彼は「とにかく、俺の用事は終わったんだけど、ちょっとここで待っててくれるか?」と頼んできた。コクリと紗代子が頷くと、
「頼んだ。じゃあな、本当にありがとう!紗代姉!」
と子供の様にニコニコ笑いながら去って行った。
手を振って弟を見送った紗代子が言われた通りその場で待っていると、新しい人影がホテルから出てきた。あの特徴的な髪型ではなくなっていたが、彼女にはそれが誰だかすぐに分かった。黒尾だ。
「こんばんは、黒尾くん」
紗代子の前まで来て気まずそうに無言で頭を搔く黒尾に、彼女は跳ねた心臓を隠して笑顔でそう挨拶した。
「こ、こんばんは、紗代子サン」
「もりすけくんが待っててって言ってたのは、黒尾くんが私に用事があるから?」
視線を逸らしたまま、黒尾はコクッと頷いた。
「えっと、何かあった?」
「……て」
ボソリと黒尾が何事か呟いたが、紗代子の耳まで届かない。「ごめんね、もう1回言ってもらえるかな」と1歩近付いた彼女の手首を、黒尾がギュッと掴んだ。
「えっ」
「っごめん、こっち、来てください」
そのまま紗代子の腕を引いてどこかへ歩き始める黒尾に、彼女は素直に従った。
連れて来られたのはホテルの裏手。人通りも明かりも少ない、薄暗いそこで、ようやく黒尾は紗代子の手首を離した。
「黒尾くん?」
背を向けたままの黒尾の名を紗代子が呼ぶと、彼はクルリと振り向いてそのまま彼女を抱き締めた。
「っ!?く、黒尾くんっ」
突然の出来事に動揺して赤くなった紗代子が慌てて彼の名前を呼ぶが、黒尾は無言。そしてそのまま戸惑う紗代子の顎を取ると、無表情のその端正な顔を近付けて──
「ダメだよ」
そっと紗代子の手の平が、彼の口元を覆ってそれ以上の進入を阻んだ。
「……なんで」
黒尾の吐息が手の平にかかって少し擽ったい。しかしそれを何とか我慢して、紗代子はゆるく首を横に振った。間近で彼女を見つめる黒尾の目が切なく瞬く。
「──春まで、待ってくれるんでしょう?」
「〜〜〜〜っ」
黒尾が目を見開いた。新月の夜を切り取った様な彼の瞳がゆらゆらと揺れて、そうして瞼でそれを覆い隠した。1度ギュッと瞼に力を込めた彼は、「はぁ〜〜〜〜」と長い息を吐き出した。
紗代子の顎にかかっていた手を彼女の背に回し、黒尾はコテリと額を紗代子の細い肩に埋めた。
「……紗代子サン、ゴメンナサイ」
「良いよ。でも、どうしたの?何かあった?」
「や、あの……」
「うん」
「紗代子サンは、音駒を応援してくれますよね?」
黒尾の言葉に、紗代子は驚きに目を見開く羽目になった。
「もちろん。本当にどうしたの?」
ずっと音駒を応援しているというのに、自分が何かしてしまったかと紗代子は頭を忙しく回した。黒尾に抱き締められているドキドキが吹っ飛んでしまった。それくらい、紗代子にとっては予想外の言葉だったのだ。
「私、何か黒尾くんが不安になる様な事したかな」
「いや、紗代子サンは何も悪くないんです。烏野のコートまで走っていったのを、俺が勝手に不安に感じちゃっただけで」
「あー……俺、ホント、カッコ悪いですね……」と黒尾が頭の上で苦笑する気配がする。しかし先程の言葉で、紗代子はある程度彼の気持ちも理解できた。自分たち側の筈の人間が、ライバルの所まで走って行ったら、それは良い気分ではないだろう。
「黒尾くん、不安にさせてごめんね」
「イエ、俺の方こそすみません」
「あまりにも仁花ちゃんに共感しちゃって、あの一時だけでも側にいてあげたかったの」
「うん」
「でも、私は音駒を応援してるよ。心から。……ちゃんと、黒尾くんを、見てるよ」
「ん」
ギュッと、紗代子を抱き締める腕に力が籠る。ソロリと紗代子も彼の大きな背中に腕を回した。ピクッと震えた黒尾は、もう1度大きな溜息を吐いた。
「……紗代子サン、カッコ悪いついでにもいっこ聞いてもらっていいデスカ」
「うん、なあに?」
「夜久から電話あったでしょ?あれね、俺がモタモタしてたから夜久が気を遣ってくれたんですよ」
「え?」
どういう事だろう、と紗代子が疑問の声を上げると、黒尾が苦笑の声を漏らした。
「紗代子サンに会いたくて、でも時間も時間だし、どうやって会うんだとか色々モヤモヤしてたら、見兼ねた夜久が電話してくれたんデス」
「そうだったんだ」
だから、あんなに焦った声が衛輔の向こうから聞こえてきたのか。ようやく紗代子は得心がいった。
「満足できた?」
「まさか」
紗代子の言葉に笑いながら、黒尾はその顔を彼女の肩から上げてまっすぐに紗代子の瞳を見つめた。
「満足なんかできないです。ずっと」
強い光を宿す黒の瞳に射抜かれて、紗代子の身体の熱が上がる。ドキドキが戻って来てしまった。うるさい程の鼓動が耳の奥で鳴り響く。
「ね、紗代子サン」
目尻を赤く染めた黒尾が、薄く笑う。
「な、何かな」
「ちゅー、させて」
それはこの前のクリスマスの様な、頬にという意味では確実にない。
紗代子の顔が完全に真っ赤になる。耳まで熱くて、頭の中が沸騰しそうだ。しかしそれでも、紗代子はへにゃりと苦笑してみせた。
「ダメだよ」
黒尾は数瞬ジッと紗代子を見つめてからフハッと吹き出した。
「ですよね」
「うん」
「なら、ギュッてして良いですか」
「うん」
紗代子の顔が黒尾の肩に埋まる。既に風呂に入った後だからだろう、ボディソープの爽やかな匂いがした。
しばしの時間抱き締め合い、紗代子はそっと黒尾の胸を両手で押した。彼は素直に彼女から距離を取った。その顔はとても切なくて愛おしげで、紗代子はキュッと胸を掴まれた心地になった。
「早く寝ないとだよ」
「はぁい。見送っても良いですか?」
「良いけど、本当に風邪ひかないように注意してね」
「うん」
2人、どちらともなく手を繋いで紗代子のバイクの元まで戻った。
「明日、楽しんでね。応援してる」
「ありがとうございます。紗代子サンも、楽しんでくださいね」
「うん、ありがとう」
紗代子はふいっと手を伸ばして、頭1つ以上上にある黒尾の頭を撫でた。
「!」
黒尾の頬がほんのりと色付く。
「ちゃんと見てるから、頑張って」
「……ん」
黒尾は、それはそれは幸せそうにふにゃりと微笑んだ。
ヘルメットを被り、バイクに跨る。エンジンを掛ければ、周囲の音はもう何も聞こえない。紗代子は黒尾に手を振って、バイクを発進させた。
ヘルメットから伸びる紗代子のベージュの髪が翻り、角を曲がって消えるまで、黒尾はいつまでもその場に立って見送っていた。
自分の姉の変化に、もちろん衛輔はすぐに気付いた。最初の兆しは夏頃だったと思う。それが誰のせいで齎された物かも、理解するのは早かった。そちらはかなりあからさまだったので。
紗代子は、良くも悪くも良い人だった。人見知りでもないのに、他人と深い付き合いを持つ事は少なく、家に友達を連れて来た事も無い。
そんな彼女が、音駒に通うようになってから、具体的には合宿中あたりからこちら側に少しずつ踏み込んでくるようになった。他校のマネージャーたちとも親しく話し、BBQでは強羅と話す光景も目撃した。すぐに黒尾が割り込んでいたが。もう少し余裕を持てよとは思うが、そこらの男を姉の交友範囲に入れたい訳でもないため、衛輔は複雑な心持ちになった。
文化祭では、しっかりオシャレをする姉を久々に見る事になった。もちろん似合っていたし可愛いし綺麗だったが、それが誰のためかなんて、分かっていても弟としてはあまり考えたくはない。妨害したい訳ではないが、応援したい訳でもないのだ。
突然烏野を訪ねたのも驚いた。以前の紗代子ならしない行動だった。フットワークが軽いのは知っていたが、ツテを頼る姿は初めて見た。
この半年で、衛輔は紗代子の新たな一面を発見した。それは黒尾にしか引き出せなかった物だ。だからという訳ではないが、眼前で先程から変な顔をしながら携帯を開いては閉じてを繰り返す我らがキャプテンに、少しだけ気を回してやっても良いという気分になった。自分が会いたいのもあったけれど。
そう、決して応援している訳ではないのだ。そんなの10年早い。というか、アイツにはもったいない。
「……遅え」
「さっき黒尾が外に行ったばかりだろ」
衛輔の拗ねた声音の呟きに、海が微笑んだ。
「そんな顔するなら、呼ばなきゃ良かったじゃないか」
「……紗代姉が、幸せそうに笑うから」
唇を突き出して、心底納得いかないという風にそう言った衛輔に、海は「夜久は優しいな」と穏やかに言った。
その後、デレデレとやに下がった顔で戻って来た黒尾の尻を、衛輔は快音を響かせて蹴っ飛ばしたのだった。
第14話です。 春高2日目です。 早流川との試合はともかくとして、烏野と稲荷崎の試合はカロリー高過ぎて書くのめっちゃ苦労しました。ずっとしんどい試合ばっかりですね……そりゃそうなんですけど……。
拙作の黒尾がちょっと情緒不安定気味な気がしてきました。年相応かもしれないですけど、解釈的に大丈夫ですかね……。 次はついにゴミ捨て場の決戦です。よろしくお願いします。