春高3日目の朝は、緊張感漂う中で始まった。
音駒の応援団にも烏野の応援団にも、今までと違う空気が取り巻いている。
「おはよう、アリサちゃん、あかねちゃん」
「あ、紗代子さん、おはようございます」
「おはようございます!」
「今日はよろしくね」
「「こちらこそ!」」
向かい側から冴子がこちらに手を振ってくれているのが見えた。紗代子も笑顔で振り返した。
「知り合い?」
「うん。田中くん……烏野のウイングスパイカーのお姉さん。去年の合同練習の時に会った事あるの」
ウォーミングアップの後はキャプテン同士の挨拶だ。紗代子たちから見ても、黒尾と澤村の握手する手に力が籠っているのが分かる。
「絶対絶対!応援で負けちゃダメだよ!!」
「シャアァーッ!!」
「おー!」
「はーい♡」
応援とて戦だ。紗代子は音駒の応援団と共に気合いを入れた。
次々と選手の紹介がされていく。それぞれに抱える思いは彼らの物で、紗代子の思いは彼女の物だ。けれど、特に黒尾たち3年生は猫又のためにゴミ捨て場の決戦を実現するのだという決意を胸に、ここまで来た。絶対に、素晴らしい試合になる。それだけは、紗代子は確信を持って宣言できる。これまでの軌跡、積み重ね、因縁、全てをぶつけるために、皆この場に立っている。
笛の音が鳴る。
『ねあいしアース!!!』
選手たちの気迫の籠った音が、コート中に響いた。
「ウチのバレー部って強かったんだねー」
「バレーの試合、生で見るの初めて」
「黒尾先輩てちょっとカッコよくない??大人っぽいしー」
「えー!やっぱあっちのハーフでしょ!リエーフ君?クールな感じー♪」
「真剣な顔してると皆カッコ良いよねー!」
「3組の孤爪?だっけ?運動できんのかな」
「走ってるのすら見た事無い気すんだけど」
「補欠なんじゃない??」
わいわいざわざわと、音駒生たちが賑やかに喋っている。
黒尾くんと灰羽くんかっこいいよね、分かる。孤爪くんは体育の授業ですら走ってないのかな。
そんな事を紗代子が考えている間にも、音駒の皆がいつもの円陣を組んでいる。その時の言葉は、黒尾がキャプテンになった時につくった物だと衛輔が話していた。彼等を抽象化しつつも良く表現できていると、紗代子は感じている。孤爪を最大限生かすために、自分たちができる最大限をもって繋ぐのだ。
「──予選で『全国3大エース』牛島若利擁する白鳥沢学園を下し、更には優勝候補『宮ツインズ』の稲荷崎高校をも退けた烏野高校。『未知の古豪』が勢いのまま頂きを見るのか!それとも『護りのネコ』が阻むのか!最初のサーブは烏野。昨日怒濤のサービスエースをもぎ取った影山飛雄のサーブで始まります」
シュルル……と影山がボールを手元で回す。昨日彼が見せたキレキレのサーブが、紗代子の脳裏を過ぎる。
笛の音が試合開始を告げる。
確かにとても勢いのあるサーブだった。けれど。
ドバンッ!
海が、そのサーブをレシーブした。紗代子が笑顔でギュッと拳を握る。音駒は簡単にサービスエースを取られない。
そのボールを孤爪がフワッとセットして灰羽が打つが、これは西谷に拾われた。そして影山がセット、田中が打つ。これを山本がしっかりレシーブし、長く返ったボールを灰羽がブロックに跳んだ日向の上から叩き落とした。しかし澤村が何とか上げる。そうして、影山日向ラインの変人速攻が炸裂した。孤爪が何とか腕に当てるが、ボールはギャラリー席へ飛んで行った。
烏野がまず、1点をもぎ取った。
「──じ、実況も置き去りです……!スタートから怒濤のラリー……!!」
「祭じゃあーっ!!!」
菅原の楽しそうな雄叫びが、歓声に包まれるコートに響き渡った。点を取られた筈なのに、うっそりと笑っている孤爪を紗代子は確かに見た。
「えっえっ、今のなにー??すごーい、速ーい!」
「……あれは……マイナス・テンポと言って……一番早い攻撃……」
アリサの純粋な驚きに、あかねが俯いてプルプルと震えながら解説した。紗代子とアリサがそんな彼女に不思議そうに首を傾げていると、バッと顔を上げたあかねは「でも……」と絞り出す様に続けた。
「早けりゃいいってもんじゃ……いいってもんじゃないんだからっ……!!」
「くっ……!」と悔しそうながらときめいてるあかねの隣で、何かを察した顔をしたアリサがグッと両拳を握り締めた。
「いいのよ、あかねちゃんっ!恋は稲妻なのよっ!!」
「なんのはなし??」
物の見事にすれ違っている。端で聞いていた紗代子にはそれが分かったが、ややこしい事になりかねないなと思ってそっとしておく事にした。
影山の2度目のサーブも海がきっちり上げ、孤爪がセットし、灰羽に速攻させた。必ずしも、速攻でなければならない場面ではなかった。それでも、孤爪はそれを選択した。
「本当に負けず嫌いね、孤爪くん」
1人でクスクスと笑う紗代子を、隣のあかねがキョトンとした顔で見ていた。
次のサーブは灰羽だ。白帯に当たってギリギリネットインしたボールを日向が何とか上げて影山がふわりとセット、澤村がスパイクを打つが、灰羽が何とかそれをレシーブする。だが、そのままネットを越えそうなボールを黒尾が押し込み、影山にファーストタッチさせた。フォローに西谷が飛び込み、オーバーハンドでセットしたボールを、後ろから飛んで来た東峰が強打でブロックアウト。主審ギリギリをボールが吹っ飛んで行った。
「夕!会う度上手くなるじゃねーか!」
「!衛輔くんアザース!!」
──ああ、もりすけくんが楽しそうだ。
初対面からずっと、西谷と相対する時が一番滾っている様に見える。良き友人で最高のライバルなのだろう。
田中のサーブから始まったボールを海が上げて孤爪がセット。澤村と一瞬出遅れた日向との腕の間を黒尾がストレートに決めた。
「いぞいぞ音駒ー!!押せ押せ音駒ー!!」
今日は特に気合いの入っている応援団が、ガンガンとメガホンを打ち鳴らす。
これで、同点。
次のラリーは東峰が制して烏野がリード。
そして、次の攻撃。黒尾、海、福永、山本が一斉に走り出した。ファーストテンポのシンクロ攻撃だ。しかしそれは東峰と月島にブロックされ、今度は烏野がシンクロ攻撃を仕掛けてきた。それを、誰が打つか瞬時に判断した黒尾が福永の横に飛び込んでブロックした。
「いーぞーいーぞーてーつーろー!!いぞいぞ鉄朗ー!!押せ押せ鉄朗ー!!」
盛り上がる音駒側。コートでは、黒尾が「へっへー!!」と両手を上げるマッスルポーズで心底嬉しそうに笑っていた。
「黒尾くん、可愛い」
思わず零れた言葉そのままに、紗代子は微笑んだ。全力で挑んで全力で喜ぶその姿は、素直に可愛いし愛おしいと思える。まだ本人には伝えないけれど。
「5人全員で攻撃なんて……何て無茶するの烏野……!」
あかねがキューンとときめきながら呻いた。無茶は確かに無茶だよね、と紗代子は頷いて同意した。仲間のフォローを捨ててまで攻撃に回っているのだから。超攻撃型チームなだけある。
「すごいねー!でもどこ見ればいいのか分かんなくなっちゃう」
「どこ見たっていいの!ボールを見てもいいし、ボールに触ってない選手がどう動いてるのか見てもいいの!コートの中に面白くない人はいないの!」
「!わかった!」
あかねの言葉に、アリサは嬉しそうに頷いた。
どこを見ても局地戦が繰り広げられているのがバレーだ。ボールに触っていなくとも、日向の様に囮として注意を引き付ける選手もいるし、逆に孤爪や影山の様にボールに触って相手を誘導する選手もいる。どう見ても面白い。それがバレーの良さだ。
ローテが回る間に、ニヤッと笑った黒尾が手をワキワキさせながら月島に何事か話し掛けていた。月島の顔があからさまにイラッとしているのが遠目でも分かる。師匠が弟子を楽しく煽っている様だ。
試合は進む。1つ1つのラリーは長くとも、音駒は点数をリードする烏野に追い縋っている。
ここで、烏野は早めにピンチサーバーの山口を投入した。対戦相手ながら、山口がどれ程サーブを頑張っているか知っているため、紗代子は彼が上手く打てる事をどうしても願ってしまう。
山口の覚悟とプライドを乗せたボールは、見事山本の腕から点数をもぎ取った。思わず嬉しさに拳を握った紗代子は、小さく「ナイスサーブ」と呟いた。
次の山口のサーブは海が上げた。しかし孤爪が福永にセットするのを読んだ月島が、ブロックしてボールを叩き落とした。手は前に、指先まで力を込めた見事なブロックで、弟子は師匠に己の成長を見せつけてみせた。
月島と山口がハイタッチしている光景に、紗代子は胸が熱くなった。彼らの全てを知っている訳ではない。しかし、少なくとも共に過ごした時間で、月島と山口が安穏と隣で過ごし合ったのではないと分かっていた。例えぶつかり合っても、2人は己の信念とプライドを持って向かい合って隣合ったのだ。
「ツッキー、最近のバレーはどうだい」
それは決して大きい声ではなかったのに、不思議と紗代子の耳に滑り込んで来た。皮肉も煽りも無いまっすぐな声で、黒尾は月島にそう問い掛けていた。
「……おかげさまで、極、たまに、面白いです」
月島は、薄く穏やかに微笑んでいた。
その言葉を、黒尾はどういう思いで聞いたのだろうか。
紗代子は初めて宮城遠征をした時に聞いた言葉を思い出していた。
「研磨がバレーを悪くないって思えるように、なればいいなと思います」と遠くを見ている様な声で漏らしたそれは、彼の心の奥底にある本音なのだろう。
バレーを楽しめていなかった月島が見つけた「面白さ」を、黒尾は自分がバレーに引き込んだ孤爪にも味わって欲しいのだと思う。
紗代子がそんな風に考えている間にも、試合は進み、黒尾かサービスエースを取った。
「ンニ゛ャア゛ッシ!!!」
拳を握って嬉しそうに叫んだ黒尾に、紗代子も「いーぞーいーぞーてーつーろー!!」と応援団と一緒に叫んだ。
2本目のサーブは澤村に拾われ、また長いラリーと点取りの応酬になった。烏野は乱れても速攻をねじ込んでくる。
「な……なんなのぉ〜……!」
「影山くん、さすが過ぎるね」
あかねがときめきと悔しさに揺れる横で、紗代子も影山の歳不相応の度胸に苦笑するしかない。
灰羽のサーブミスに対して、あかねは「意図有るサーブ」だと言った。黒尾や山本等強いサーブを打てる人間は強打を飛ばしているが、先程の灰羽といい福永といい、前衛を狙っている気がする。
日向のサーブで始まったラリーは、東峰がスパイクを打って決まったかに見えたボールを、ネット際まで追った福永が手を滑り込ませ、黒尾が足で上げた。残念ながら、ボールは白帯に当たって音駒コートに落ちてしまったが、烏野側に走った緊張感は酷い物だっただろう。決まったと思った時の油断からの落差は地味に大きなダメージを齎すのだ。
東峰が轟音を響かせてブロックアウトをしたり、孤爪が珍しく素早く動いてオーバーハンドで逸れたボールをセットしたり、双方に目新しい何かがある。目が忙しい。頭の中も。こうしている間にも孤爪の策は動いている筈だ。その意図を試合を見ながら探るのも頭が疲れるが楽しい。
孤爪が素早く動いていた事に、周りも控えにいた衛輔たちも驚いていたのが紗代子には何だか面白かった。
明らかに負けず嫌いな彼が、まだ生きているボールを逃す訳が無いのだ。スパイクを打つのが音駒で最高到達点記録を保持する灰羽なら尚更。彼なら、高くボールを上げてさえやればブロックの上から打ち落とせる。
お互いに20点を超えても、長いラリーになる。音駒のサーブはやはり基本的に前に落とす物で、ここまで来ると明らかに日向を狙いに行っている事が分かる。
セット終盤でも鍔迫り合いが続く。点を取ったと思ったら取られ、中々双方ブレイクできない。
皆の息が上がっている。全員の顔が汗だくで、苦しそうで、それでいて相手には負けたくないとギラついている。
本当に本当に、楽しそうに試合をしている。
黒尾が確実にワンタッチを取って海が上げて孤爪が繋げる。東峰の強打が衛輔の腕を吹き飛ばす。けれど、ボールは確実に上へ。ビリビリと痺れて赤くなった腕は、紗代子も何度も見た。痛みもあるだろうに、衛輔は「俺が守った証拠だ」と以前得意気に笑っていた。
そんな衛輔が上げたボールは、ネットすれすれまで飛んで行く。孤爪が手を伸ばすそこに、月島と東峰がブロックに跳んでいる。
攻防は一瞬。
音駒コートに落ちたボールに、残念そうな音駒の応援団の声がする。しかし、紗代子はニッと口角を上げた。孤爪は本当に賢い。
主審が音駒の得点を知らせる。オーバーネットだ。
「さすが孤爪くんだね」
「え?」
アリサが不思議そうに首を傾げる。
「今の、孤爪くんが烏野ブロックのオーバーネットを誘ったんだよ。普通にブロックされてたら烏野の得点になると瞬時に読んで、伸ばした腕と逆をトスするかの様にすぐに添えに行ったの」
「え!?今の一瞬で?」
「孤爪くんだからできたことだね」
紗代子の言葉に、あかねも嬉しそうに何度も頷く。アリサもあの一瞬にどれ程の思考が詰まっているか分かったのだろう、「本当に、どこ見てもすごいのね」と目をキラキラさせていた。
あと1点で音駒がこのセットを取れる。烏野はやはりシンクロ攻撃で、山本がギリギリレシーブしたボールがネットにかかるが、腰を落とした黒尾が何とか上げる。そのボール下に孤爪が滑り込み、返球。そうして。
だんっ。
あまりに軽い音を立てて、烏野コートに落ちた。
「──なんっ、っという事か、烏野、ここでまさかのお見合いー!!!」
音駒側からは歓声が、烏野側からは驚愕の叫びが上がった。
「プロでもお見合いはある!あるけど、これは……!」
「うん、孤爪くんが烏野の攻撃意識を利用したんだよ……!」
「だよねだよね!?すごい、本当にすごい!」
目を輝かせて全身で喜ぶあかねに、紗代子も満面の笑みで頷いた。
コートチェンジの間は応援団同士の戦だ。メガホンを打ち鳴らし、声を上げる。
「ストレート勝ち一択ぅー!!」
2セット目が始まる。
サーブは変わらず日向狙い。しかし、日向はボールを上げたその足で逆方向に走り、見事にブロードを決めてみせた。本家本元、変人速攻だ。日向と影山が編み出した、奇跡の煌めき。
「翔陽」
静かな孤爪の呼び掛けを、速攻に身を乗り出していた紗代子の耳が捉えた。
「面白いままで居てね」
ざわりと首筋を撫でるその圧を、人は殺気と呼ぶ。
孤爪は笑顔のままだ。その笑みがまた恐ろしい程純粋で、紗代子は彼の圧で生じた汗が背中を伝うのを感じた。見れば、何か感じたのだろう、日向も野生動物の様に飛び退っていた。
始まってしまった試合は進むしかない。お互いに、お互いのできる事を全て出していく。シンクロ攻撃だってお見合い誘導だって優しいファーストタッチだって、自分たちの持てる物全て、この試合に出し切る。
繋げ、繋げ、繋げ。目の前の1点を取るために。相手に勝つために。ボールは、まだ生きている。
そして、ついに。
「──捕まった」
日向の速攻が、ブロックに落とされた。
孤爪の策が、成った瞬間だった。
烏野がタイムアウトを取った。当然の判断だった。1セット目から、試合が始まったその時から行われている徹底した日向潰しへの更なる対応を迫られているからだ。
オレンジの太陽が陰る。雲に隠れた太陽は、その存在が霞む。あんなに放っていた輝きが薄れる。それは自発的でなく他者要因だから、余計に。
孤爪の顔がつまらなそうに見える。自分の策は予想以上に成っている筈なのに。
日向の顔が悔しそうに歪む。唇を噛み締めるその姿が、苦しい。飛べない日向を見るのが、これ程心にくる物だとは紗代子は知らなかった。楽しそうに飛ぶ姿しか見た事無かったからかもしれない。
孤爪が日向を諦めかけている時にも、音駒のコートでは黒尾が躍動していた。先程も見た澤村のバックアタックにも、あえてノーブロックにする事で対応してみせた。自身より身長のある月島のスパイクもブロックしてみせる、その体躯、その威圧。ネット際の攻防は、まだ師匠の方が上手だ。最早そのプレッシャーは猫ではなく黒豹とも言える程。
そしてその後ろに、衛輔がいる。目立たず、ボールに触らずにしてそれをコントロールしてみせる、音駒の守り。
音駒が先に20点に乗せた。
続く攻防、続くラリー。その中で、日向の足が滑った。汗だ。ラリー中は拭けないそれが、日向の足を絡めとった。ついに膝をついた日向だったが、しかし彼の目は死んでいなかった。むしろ先程より輝いてさえ見える。
苦しくて辛いラリーの中で、きっと彼は何か見つけた。飛ぶための何か。小さな彼の大きな翼になる物。
黒が、赤が動く。速く速く。ボールを落とさぬように。そしてその中で、
「『オープン』!!!」
影山がフワッと高い高い、美しいセンターオープンをセットした。
その時の日向の顔を、紗代子は自分には書けないと思った。
まるで宝物を見つけた瞬間の様な、雲の切れ間から差してきた強烈な陽光の様な、100%の煌めきを閉じ込めた様な、輝く顔だった。
そうして。
ドンッッッッ!!!
オレンジの太陽は、再び空を飛んだ。
──ああ、眩しい。
思わず、紗代子の頬を1粒の涙が伝う。何に対する物か自分でも分からないそれを素早く拭って、紗代子はコートに集中した。きっと今のが転換点だ。
飛んだ日向の指先が何とかボールを掠め、音駒コートに落ちる。
きちんとタイミングが合った訳ではない。しかし確実に、流れを変える攻撃だった。
そして再びのセンターオープン。音駒側のブロックは3枚。それでも、翼を取り戻した小さな太陽はブロックの上を打ち抜いた。
烏野、ブレイク。
音駒は海に変えて犬岡を入れてきた。これで灰羽と合わせて2枚の盾だ。
それでも、犬岡灰羽山本のブロック3枚を、日向はブロックの指先を狙って打ち抜く事で倒してみせた。烏野のセットポイントだ。
「踏ん張れ、犬岡くん……!」
ミドルブロッカーだった犬岡がウイングスパイカーに転向した話を聞いた時、選手としてどういう気持ちなのか、紗代子は彼自身に直接聞いてみた。彼女にはそれを想像しきる事が難しく、また、下手な勘ぐりは彼に失礼な気がしたからだ。
「……正直、ポジションを変わるのは、灰羽にミドルブロッカーとして負けてるからだって、一瞬悔しかったです」
体育館の出入口の階段に2人腰掛けて、犬岡は珍しく眉を落としてそう言った。しかし、「けど」と続けたその瞳は、もうまっすぐ上を向いていた。
「すぐそれどころじゃなくなりました。中学からずっとミドルブロッカーだったけど、レシーブは苦手ではなかったんです。けど、高校・全国レベルの強烈なサーブ・スパイクは威力が違う。1本目を上げなければ、そこでプレーはお終いで、……『怖い』って気付きました。気付いてしまったので、もう、立ち向かう以外無いんですよね」
「それに」と犬岡は苦笑して言った。
「俺がコートに入る時は海さんと代わる時なんで、先輩に認めてもらえるようなプレーをしたいです」
その時の犬岡の言葉を、紗代子は未だ鮮明に覚えている。
田中のキレキレサーブが犬岡を狙って飛ぶ。それを、彼は綺麗にレシーブしてみせた。
繋ぐのは何もボールだけではない。それを犬岡はそのレシーブで証明した。
24点で並んだ場面で、猫又は手白をリリーフサーバーとして投入した。天井サーブを放った彼に、素早く烏野からスパイクが飛ぶ。福永にカバーに滑り込み、黒尾が烏野コートに返した。手白は完全に緊張が抜け切ってない状態だった。それをおそらく、本人も猫又に伝えた筈だ。そういう性格だ。それでも彼を入れたという事は、そこに価値があるという事だ。この熱量高い試合に、手白を入れる意味が。
繋ぐのは何も、ボールだけではないのだから。
あと1点が欲しい烏野と、それを阻止したい音駒の攻防は長い。どちらもブロックが素晴らしい仕事をしているからこその長さだ。
烏野の攻撃に応える様に音駒もシンクロ攻撃を仕掛ける。孤爪が選択したのは山本。そのスパイクを、誰もいなかった筈の場所にいた日向が上げた。
たんっとボールが音駒コートに直接返り、そして落ちた。
歓声が上がる。烏野が、音駒から初めてもぎ取った1セットだった。
「おたくの10番何なんですか!」
「ちょっとわかんないです」
黒尾の叫びに返した月島の声音は皮肉も煽りも乗っていない物だった。そういえば以前に「意味不明は日向と影山で十分」と言っていたなと思い出して、紗代子は小さく笑みを漏らした。
「んぅ〜っ」
「あかねちゃん!まだ勝負はこれからだわ!」
「ん〜わかってる、でも悔しい!こんなこと言うのはナンセンス、でも悔しい、レシーブで点を取られた……!」
音駒側だからこその悔しさだ。守りに誇りを持つ音駒だからこそ。
「日向くん、空でも地上でもすごい動くようになったね」
「完全復活もしちゃったから、烏野は勢いづいてますよね……!」
「うん。楽しいね」
「え?勝ってないのに?」
アリサがキョトンとした顔になる。それへ笑みを深めた紗代子は言った。
「勢いある同士、全力でぶつかれる試合ができるのは楽しくて、幸せな事だと思う」
「確かに、そうですね」
納得したのか、アリサもニコッと笑った。
3セット目前の時間で、何故か灰羽は衛輔を背中に乗せて筋トレを始めたし、山本は黒尾に話し掛けられた思うとテンションを上げたし、福永はどこかあらぬ方向を見ているし、もう何だか自由だったけれど、やっぱり皆繋がっているのだ。
「しんどい時間は越えてきた。ごほうびタイムだ」
「フゥーーーッ!!!!」
決着の3セット目、祭りの終わり、千秋楽の始まりだ。
──ああ、苦しいね。辛いね。疲れたね。けど、これ以上無い程楽しいね。
「君だって、そうでしょう?孤爪くん」
紗代子の視線の先、続くラリーの中で微笑む孤爪の顔が確かに見えた。
衛輔がレシーブすれば西谷も上げる。決して目立つ訳ではないけれど、彼らがいないとこの祭りは盛り上がらない。彼らがいるからこそ、他のメンバーが全力で挑めるのだ。
敵であるのと同時に、互いが互いの『師』。互いがいるからこそ、影響し合い、引き上げ合う。衛輔と西谷の様に。黒尾と月島の様に。
「ツッキーあんま頑張んないで!ハァ、ラリー長引くと、ハァ、疲れるでしょ!!」
「黒尾さんが頑張んなきゃ、ハァ、すぐ、ハァ、終わるんじゃないですか!」
荒れる息で言い合う師弟は、3セット目が始まったばかりなのにもうヘロヘロだ。それは他の選手たちも同じだが。
「『ツッキー』も疲れてくるとキレるタイプかな」
「つーか半分は木兎とオメーのせいだろ」
海と衛輔に指摘された上、月島にも「どうもおかげさまです」と言われてしまい、気まずげに視線を逸らした黒尾は「こちらこそです」と呟いた。
黒尾がリード・ブロックにプライドを持っている事は以前から聞いていた。最後に咲うブロックだと、誇り高い笑みで教えてくれたその表情が紗代子の記憶に焼き付いている。
「ツッキーの『徹底ネチネチブロック』にさ、皆が腹立つワケじゃん?そんでさ、『良かった、間違ってなかった』って、思ったんだよね」
自信に裏打ちされた誇りほど、恐ろしく、また、素晴らしい力を引き出してくる物は無い。黒尾は、月島が活躍すればする程、自らが歩んで来た道が、月島に示した道が間違っていない、全国でも通用すると自信を得られたのだ。音駒の、自分のバレーは強いのだと、証明できたのだ。そして、彼が導いたのは月島だけではない。
ゴッと勢い良くブロックに飛んだ灰羽を避けた東峰のスパイクを黒尾が上げた。
「ハッハァーッ!」
心底嬉しそうで楽しそうな笑い声がコートに響く。そしてそのまま黒尾はバックアタックを仕掛けた。
しかしこれはリード・ブロックで跳んだ月島がワンタッチ。セットされたボールを彼自身が再度跳んで、最短真ん中の高さ勝負を制した。
ギョッとする灰羽とボール下に滑り込みながらも間に合わなかった黒尾に、月島は心からとてもとても楽しそうに笑った。子供の様な、年相応の素直で純粋な笑みだった。
きっとまた、月島は1歩深くバレーにハマっただろう。それがよく分かる表情だった。
試合は進む。祭りは止まらない。
取って取られて、打って跳んで、ブロックしてレシーブしてスパイクを打って。
──苦しいね、楽しいね。
ネット際で孤爪と日向の攻防があった。互いに刃を突き付け合う様な、「ただの友達」でも「ライバル」でもない彼ら。ひりつく空気を燃料にして、烏野と音駒の激闘は続く。
またも途中で投入された犬岡に、もう2セット目での僅かな緊張は見られない。同じポジションで出会った、でも今は違うポジションの日向に勝つために、犬岡は励んできた。そのプライド、その練習は彼を裏切らない。
田中が打ったジャンプサーブを、犬岡は孤爪にAパスで返した。
「ナイスレシーブ」
と、海の口が動いたのを、紗代子は確かに見た。
繋ぐ、繋ぐ。ボールも、音駒の血も。
手白の天井サーブは澤村がオーバーハンドで上げ、影山がセット、東峰が強打し、ブロックの手を吹き飛ばした。しかしそのボールをベンチに飛び込んだ福永が上げる。長い。ネットを越えかけるそれに孤爪が手を伸ばし、黒尾が飛び込む。孤爪が空中に置いてきたボールを、黒尾が打ち下ろした。
ドオッ!と西谷がそれを上げた。他のチームなら決まっている筈なのに、決まらない。それはお互いにとって。
飛べ跳べ翔べ。コンマ1秒でも長く。
走れ疾れ走れ。追い付くまで。
影山のセットに応えて日向が飛ぶ。強打に思えたそれは山本黒尾犬岡の高いブロックの壁を見てフェイントに切り替えた。それを読んだ孤爪が前に飛び込む。それを見た日向はプッシュを選択した。一瞬の攻防。どれ程の人がその手数に気付くだろうか。
「ああぁぁああぁ!!!」
雄叫びを上げて、跳んだ孤爪が手を伸ばす。しかしその指先はボールを掠め、落ちた。
「──怒濤のラリー!!最後は前に落とすと見せかけてのロングプッシュ!!クレバーな1本で決めた日向翔陽ー!!」
膝をついた孤爪が、そのまま顔からペチャリとコートに倒れ込んだ。
「おい研磨、大丈夫か!?どっかやったか!?」
慌てて黒尾が声を掛ける。
ふふ、と汗まみれの孤爪は薄く笑った。
「たーのしー」
それは。
紗代子の胸に湧き上がるそれは、感動なのだろうか。それとも、何か、別の。
「ン゛ア゛ア゛ッッシ!!!!!」
両校の応援も実況も解説も置き去りにして、孤爪に勝った日向の歓喜の雄叫びと黒尾の心底嬉しそうな笑い声がコートに響き渡った。
──黒尾くん。小さな黒尾くん。孤爪くんをバレーに引っ張り込んだという罪悪感を抱いていた君。どんな気持ちかな。嬉しい?安心した?君が、君たちが繋いだ、孤爪くんだよ。
黒尾が始めて、音駒の皆で繋ぎ、日向が最後のピースになって、孤爪がバレーが楽しいと思える瞬間に辿り着いた。でもそれは、黒尾がいないと成り立たなかった物だ。始まりであり、ずっと孤爪とバレーで走って来た彼だからこその物だ。
紗代子の鼻がツンとする。涙はしかし、流さなかった。まだ、まだその時ではない。その代わり、彼女は心の底から笑った。
──ああ、本当に。バレーは、楽しいね。
辛くて苦しくて、でも楽しくて面白くて、終わらないでと願う程の試合。まだ、まだ、まだ。
加速する試合。重なる点数。いつしか、烏野のマッチポイント。終わりの予感が、双方の応援団を覆う。
ブロックに跳んだ灰羽が孤爪にぶつかって吹き飛ばすら、
「!!!うわああ研磨さん!!!」
「バカ!!!ボール!!!まだ落ちてない!!!!!」
叫ぶ孤爪を、紗代子は初めて見た。こんなにボールに執着する彼を、多分皆初めて見た。それ程彼を惹き付ける、試合。終わらないで、死なないでと願う程の、楽しい試合。
繋いで繋がって、皆が皆ボールを追って。決して落とすまいと振り絞った全力を掛ける。
その光景の、何と尊い事だろう。きっとこの試合を、紗代子は生涯忘れない。
上を向いて。ボールを追って。走って。それはまるで、夏の合同合宿の様な錯覚を、紗代子に齎した。蝉の鳴く音、木々のざわめき、暑い体育館、木兎や赤葦や強羅たちが見ていて。でも、決定的に違うのは、ここは東京体育館で、これは「もう1回の無い試合」だという事。
田中の極上ラインショットを海が上げて、そのボールに孤爪が手を伸ばす。
キュルッ。
「──あ」
ああ、と嘆息が口から漏れるのが早かったか、それともボールが床に落ちるのが早かったか。
「……汗、ですね。ボールが滑ったんですね〜」
「あぁ、なんという……!」
「ラリー中ボールに触った全員分の汗、ついてますからね」
長い長いラリーをしてきたからこそ、起きたアクシデント。
史上稀に見る激闘は劇的で、呆気なく終わった。
盛り上がった祭の終わりに似つかわしくなく、それでいてこれ以上無い程の結末だった。
まだ脳の理解が追いつかない。点が烏野に入った事は分かる。という事は……。
「んああーーーーーっ」
黒尾が声を上げながらドデーンと後ろに倒れ込んだ。1拍開けて起き上がった彼は、ハァと気の抜けた息を吐いた。
それでようやく紗代子の頭も現状に追い付いた。どうやら、負けたらしい。
祭の余韻は深く、悔しさも涙も未だに置いてけぼりだ。楽しかった時間が終わってしまった感慨だけが、紗代子の心を満たしていた。
「……おれ達が、負けたところで、勝ったところで、誰も死なないし、生き返らないし、悪は栄えないし、世界は滅びない。壮大な世界を駆け巡るでもなく、ただ9×18mの四角の中で、ボールを落とさない事に必死になるだけ」
コートに座り込んでいた孤爪が後ろ向きにバッタリ倒れる。
「はぁ〜〜〜〜〜面白かった!」
その満足そうな声が、どれ程黒尾に響いているのか彼は知っているのだろうか。
「クロ」と起き上がった孤爪は、背後に立っている幼馴染であり始まりの彼を振り返った。
「おれにバレーボール教えてくれて、ありがとう」
音駒の皆の時が止まった。あの孤爪が、常に冷静で冷徹で、バレーに消極的で楽しさ等感じていなさそうだった彼が、「楽しかった」「面白かった」と言ったのだ。その上、黒尾に礼を言った。
「……あ、うん。……は??」
間抜けな表情になった黒尾が、ようやく孤爪の言葉を理解して目を潤ませた。それを彼は急いで片手で覆って隠した。
「待て待て待て、ちょっと待て、バカヤロウ!!」
「え、何キレてんの……」
海も衛輔も笑って、釣られて黒尾も笑った。そして紗代子も。涙の滲む目尻はそのままに、込み上げてくる笑いに身を任せた。
観客全員から拍手を受けながら、双方の選手が握手を交わす。最後に審判に挨拶した澤村がネットを潜り、黒尾と抱き合って健闘を讃え合った。
音駒も烏野も、それぞれ握手を交わしたり抱き合ったりしてお互いを讃える光景は尊く、また得難い物だった。これを、この試合を見られて本当に良かった、と紗代子は心底思った。忘れられない祭だった。この熱をずっと抱えていたいと思える程の試合だった。
応援団に礼をした後、1年生は泣き崩れ、山本と福永も泣いていた。紗代子たちは、ただ素晴らしい試合と選手たちに誠心誠意の拍手を贈った。
アリサもあかねも、拍手しながら涙を流していた。見た者全てに、悔しさだけではない、何かをくれた試合だった。
猫又に礼を言って頭を下げる皆に倣って紗代子も深く頭を下げた。彼がいたから、彼の作り上げたバレーがあったから、紗代子はバレーが好きになれた。バレーが楽しい物だと、知る事ができた。
「……終わりか〜、実感無えな〜」
天を仰いでボヤいた衛輔の後ろで、穏やかに海が微笑んだ。
「終わりだけど、この3年間が黒尾と夜久と一緒で良かった」
黒尾と夜久の瞳が潤む。
「っふざけんな海っ!ふざけんなマジで!」
「ン゛モ゛〜〜〜ッ!どいつもこいつもッ!」
大粒の涙を零す衛輔を、両脇から笑顔の黒尾と海が持ち上げて歩く。
「お前ら屈めよ、俺浮いてんだよ、また足やったみてえじゃねえかよ、紗代姉が泣くだろ」
「さっき見たけど泣いてなかったぞ、泣きかけだったけど」
「うるせえ見んな」
「夜久は俺に辛辣過ぎじゃない?」
じゃれ合う3年生の背中を、紗代子は観客席から見送った。衛輔にも、黒尾にも、海にも、未練や後悔は無い。それが分かったから、彼女はとても嬉しかった。
「あかねちゃん、アリサちゃん」
紗代子の呼び掛けに、鼻をかんでいた2人が揃って首を傾げる。
「良かったら、ご飯、行こっか」
「!はい!」
「わーい!やったー!」
次いつ会えるか分からない2人を昼食に誘うと、泣いて赤い目尻の彼女たちは素直に喜んでくれた。荷物を手早く纏めて近くの飲食店に入る。東京体育館に近いそこは、お昼時な事もあって混んでいたが3人はすぐに座る事ができた。しかし。
「すみません、相席してもらってもよろしいですか?」
「はい、大丈夫ですよー」
まさか、烏野側の応援と相席する事になるとは。
何とも気まずい空気の中、冴子と紗代子は挨拶を交わした。アリサはワクワクとメニューを開いている。飲み物だけが先に届いたテーブル上に、アリサの楽しそうな声が無邪気に流れる。
「おさしみ定食でも良かったかな〜。でもおソバも食べたかったな〜」
「アリサちゃん、後で1口あげるよ」
「わ、ありがとうございます!」
あかねを挟んでアリサと紗代子が話していると、それまで黙りこくっていたあかねの瞳に再びじわっと涙が滲む。烏野側の男性陣がギョッとする。
「……何を言っても野暮だわ」
スッとビールジョッキを持ち上げた冴子が、それを向かいのあかねの前に出す。察したあかねが手でゴシゴシと涙を拭って、オレンジジュースの入ったコップを差し出した。ガチッとガラスの合わさる音。応援に賭ける誇りが通じ合った瞬間だった。
お互いの陣営同士自己紹介し、少々ぎこちないながらも和やかな食事会となったのだった。女性陣は皆さっぱりとした気質だったのもあり、あかねはすぐに冴子に懐いた。
「え?じゃあ嶋田さんって山口くんの師匠なんですか?すごい活躍してましたよね」
「そうそう!いやあ、忠も大きくなって……」
「父か」
「蛍も良いブロックしてたよ!」
「そうだよねー!龍もキレッキレだったし、でもそれを上げる音駒もすごいわ!」
「あ、アリサちゃんお蕎麦どうぞ」
「わ〜!ありがとうございます!美味しい〜」
カオスである。何だかんだ全員が根明な事が功を奏し、先程の試合の勝ち負けを引きずる事無く賑やかな席になった。
飲食店を出て東京体育館前まで戻ってきた明光が、突然背後から呼び止められた。驚く彼によると、声をかけてきた天然パーマ気味の男性が日向の憧れの「小さな巨人」だと言う。
帰宅するアリサとあかねを見送り、烏野応援団とは体育館に入った所で別れた。「小さな巨人」こと宇内を日向に紹介しに行くという冴子とも途中で別れ、紗代子は音駒のメンバーを探し歩いた。先程黒尾からメールでおおよその場所は教えてもらっているから、孤爪や黒尾の頭を目印に探せば大丈夫だろう。
その目論見は当たり、金髪プリンとトサカ頭は後ろからとても見つけやすかった。近くに山本の金髪モヒカンがあったから余計だ。
「黒尾くん、孤爪くん、山本くん、福永くん、お疲れ様」
「こんにちはー」
「さ、紗代子さん!ご機嫌いかがですかっ?」
「うん、良好だよ、ありがとう」
「紗代子サン、この辺混んでたでしょ、ご飯食べれました?」
「運良くすぐ席に座れたよ」
「良かったデス。あ、こちらどーぞ。夜久はちょっと前に座ってるんで」
黒尾が指差す方を見やると、少し前方の席から衛輔と海の後頭部が見えた。何やら喋っているようだ。邪魔しても悪いと思って、黒尾の指差す席に視線を移した紗代子は、少し困った様に笑った。
「……あの、私、孤爪くんの隣に座るよ?」
「いーの。な、研磨」
「おれに振らないで」
黒尾が示したのは彼の隣。紗代子からすれば、孤爪と黒尾の前を通らなければその席に辿り着けない位置にある。しかし、遠慮する紗代子に黒尾はニッコリ笑って座るように促してくる。孤爪はあえて静観の構えだ。むしろ関わりたくないと顔に書いてある。先程まで紗代子の登場に舞い上がっていた山本も、「俺は何も知りません」という顔を必死で作っている。福永は相変わらず何とも読めない表情だ。
数秒黒尾と紗代子は見つめ合い、結局紗代子が折れた。彼女は申し訳なさそうに身を縮めながら、機嫌の良さそうな黒尾と若干眠そうな孤爪の前を通って着席した。
「黒尾くんはともかくとして、孤爪くんに申し訳ない……」
「えー?俺は?」
「そもそも黒尾くんが言い出したんでしょう」
「そーですネ」
肩を竦めながらも愉快そうに笑う黒尾に、紗代子も観念した様に息を吐きながら苦笑した。
眼下のコートを見渡すと、梟谷は既に試合が終わったらしい。黒尾に結果を尋ねると、梟谷が勝ったと言う。
「前半は赤葦がちょっとバタついてましたケド」
苦笑しながらそう言った彼は、赤葦が平常心でいられなかった理由が分かっている様だった。
赤葦といえば、基本的には冷静だが、孤爪よりも真面目で義理堅い所がある。そして、彼の相棒である木兎は3年生。この春高が高校最後の大会だ。同じコートに立てるのも、恐らく。
「……赤葦くん、木兎くんの事大好きだもんね」
「大好きっつーか、うーん、まあ、そうですネ」
半分崇めてる様な物かもしれないが、概ね間違ってはいないな、と黒尾は否定しなかった。自分だって、研磨の事が好きかと真正面から聞かれたら「幼馴染だから」と答えて好きかどうか明言しない自信がある。何たって思春期なので。
そんな繊細なお年頃の黒尾が、紗代子が隣に座った時からソワソワと落ち着きが無くなっている事を孤爪はすぐに気付いた。しかし、正直関わるのは面倒くさい。さっさと行動を起こせばいいのにと横目で見ても、黒尾は視線をチラチラと紗代子の顔と手の間を往復させているだけ。次第にもどかしくなってしまって、孤爪はついに黒尾の足を少し強めに踏んだ。
「痛っ!?え、研磨?何、怒ってるの?」
「怒ってはないけど、クロのせいだから」
「何が!?」
「自分で分かってるでしょ」
「ぐっ……」
図星を突かれて唸る黒尾の向こうで、不思議そうに首を傾げる紗代子の顔が見える。自然と側にいてくれてるんだから、さっさと手でも何でも繋げばいいのに、とはさすがに口には出さなかったが、孤爪のそんな気持ちは黒尾には伝わっているだろう。昔から察しは良いのだから。
やっと踏ん切りがついたのだろう、黒尾は1度キュッと口の端に力を込めた。それを確認した孤爪は、眼下で行われている試合に目を戻したのだった。
「黒尾くん、足、大丈夫?」
心配そうにほんのり眉を寄せた紗代子に、黒尾はヘラリと笑った。
「大丈夫デスヨー。ちょっとした衝撃だけ、ほとんど痛くなかったし」
「そうなの?何で踏まれ、っ!」
紗代子の言葉が中途半端に途切れ、その目が見開かれた。その焦げ茶の瞳に映る自分の顔があんまりにも甘ったるくて、黒尾はこそばゆい気分になった。
手が、握られている。黒尾の大きな手が紗代子の細いそれを包み込んで、黒尾の膝上に誘導して、優しく指を絡めてくる。
「く、くろ、黒尾くん?」
「ん?」
何でもない風に首を傾げる黒尾に、紗代子は耳を赤くして何も言えなくなってしまった。フイッと視線を逸らすのが精一杯。そんないっぱいいっぱいな彼女の手の甲を、黒尾の長い親指がスリ……と撫でる。烏野との試合中の孤爪が発した圧とは別の何かが、ゾワリと紗代子の首筋を撫でた。更に頬が染まるのが自分でも分かる。温かさに包まれる手に、恥ずかしさの他に嬉しさも確かにある事を、紗代子は自覚していた。
「紗代子サン」
「ん、な、何?」
黒尾が紗代子の耳元に唇を寄せて彼女の名前を囁いた。その吐息がこそばゆくて、ピクリと紗代子の肩が跳ねた。
「俺たちの試合、どうでした?」
「すごかったよ」
間髪入れずに彼女は答えた。俯いたその頬はまだ赤いものの、瞳は真剣な輝きが灯っているのが横にいる黒尾からも分かる。
「孤爪くんは、やっぱり頭良いなって改めて実感した。日向くんを良く知ってる孤爪くんだからこそ、組み立てられた策だよね。それに、両方のブロックの読み合いも精度高かったし、完全に振られる事がお互い無かったのもすごかった。皆の全力以上が詰まった様な試合だと感じたなあ。すごく熱くてすごく楽しくて、すごく綺麗で、すごく輝いてて……ああ、いいなあって、思っ、て……」
「……紗代子サン……?」
紗代子の声が段々尻すぼみに消えて行き、続いて感じる僅かな肩にかかる重み。仄かに聞こえる規則的な呼吸。
「……寝た」
「頭使って疲れたんでしょ」
「え?どういう事?」
黒尾の呟きに、意外にも孤爪が反応した。彼は他校の試合から目を離さぬまま続けた。
「前言ってた。試合中におれがどんな策を練ってるか考えるのが楽しいって。ミステリー小説の探偵の気分だって。相手の考えも推測してるとも言ってたし、今日は烏野が相手だったから余計に頭使ったんじゃないの」
「そんな事してんの、紗代子サン」
「そうみたい。だからあんまり応援に集中できないらしいよ」
「でも今日かなり声聞こえてたけど」
「それクロだけだから。……まあ、なら今日は応援も全力だったんじゃないの。寝落ちするくらいには」
「そっ、かあ」
黒尾の顔が笑み崩れる。孤爪は思わず「顔デロデロだよ」と言いかけたが、空気を読んで黙った。隣で眠るくらい安心できるのだと、心を許しているのだと示している様な物だ。それは黒尾でなくとも顔がデロデロになるだろうと孤爪は考えたのだった。
ふと視線をずらすと、衛輔も海の肩に寄りかかって寝落ちしていた。姉弟は行動も似るらしい。
孤爪の口からフフッと笑みが零れる。寝ているのを良い事に、紗代子の手を優しくニギニギしていた黒尾が訝しげな顔を向けてきたが、孤爪はまるっとそれを無視して試合観戦に戻ったのだった。
第15話です。 運命の春高3日目前半です。ゴミ捨て場の決戦です。
正直、ゴミ捨て場の決戦を表現しきれている気はしませんが、私ができる表現を詰め込みました。迫力やスピード感はやはり映像が最高なので、文章では分かりやすさに重点を置いています。 黒尾とのアオハル要素もねじ込んでおきました。隣で寝れるって相当心を許している証拠ですよね???