優しく揺さぶられる振動と、
「紗代子サン」
と柔らかく名前を呼ばれる音で、紗代子はゆっくりと覚醒した。
「あ、起きた。おはようございマス」
「ん……?え、あ、お、おはよう……?」
「起こしたくなかったんだけど、烏野の試合始まっちゃうんで起こしましたヨ。紗代子サン、見たいでしょ」
「う、うん、ありがとう?」
寝起きで頭が回りきらない紗代子を、黒尾はニヤニヤしながら見ていた。明らかに驚いているし、現状がまだ理解できていないのが手に取る様に分かる。可愛い。
「烏野の試合……」
「そ。鴎台とですよ」
「かもめ……、あ、え!?黒尾くん!?」
「はーい。何でしょ」
ようやく覚醒しきったらしい紗代子の顔が、ボッと一気に赤くなる。キョロキョロと忙しなく辺りを見渡し、場所と現状を把握して、黒尾を見て、その向こうの孤爪を見て、また黒尾を見てから俯いて「ね、寝てた……ごめんなさい……」と消え入る様な声で呟いた。その耳も首も未だにしっかり赤い。
可愛過ぎると悶えたい衝動を何とか我慢して、黒尾は余裕溢れる笑みを取り繕った。
「全然大丈夫デスヨ。むしろ俺的にはご褒美みたいなもんだったんで」
「え?どういう……」
「黒尾ー、それ以上接近すんなよ、削るぞ」
「どこを!?」
戸惑う紗代子の言葉に被せる形で、衛輔が前方から声を飛ばして来た。しかしその顔は前を向いたまま。
「ってか、やっくんは後ろに目でもあんの?」
「見なくても分かるわバカ」
「ホント辛辣過ぎない?」
「お前にはこれくらいで十分だ」と悪い笑みを浮かべる衛輔を見て、ようやく紗代子は平静を取り戻した。
そうだった、まだ次がある烏野の応援をしなくては。
ちょうどその時、烏野と鴎台のウォーミングアップが始まった。もう既に3セットをこなして疲れている筈なのに、日向の目は輝いて良く動いている。彼ですら体力自体は有限な筈なのに、音駒戦で消耗した分はもう回復したのだろうか……?
思案しながらコートを見渡すと、相手チームに日向と同じくらいの身長の選手がいた。控え含めて周囲は上背のある選手が多い中で彼がレギュラーなのなら、相当な実力の持ち主なのだろう。「小さな巨人」同士の戦いになるかもしれない。
黒尾と手を繋いでいる事など頭から吹っ飛んでいる紗代子が鴎台を観察している内に、審判の笛が鳴って試合が始まった。
本日2回目の殴り合いは、日向の飛ぶ速攻で烏野が最初の1点をもぎ取った。鴎台の応援団に動揺が走る。さすが初見殺し。その威力は健在だ。
だがしかし、「小さな巨人」を擁するのは烏野だけではない。
ドンッッ!
星海が床を重い音立てて蹴り、飛んだ。ブロックの上から叩き付けたクロスは、コートの後方に見事決まった。その次の烏野のシンクロ攻撃は昼神のブロックに叩き落とされた。
彼はそのブロックの振られなさから、「不動の昼神」と呼ばれているらしい。2m近い身長を持つ白馬といい、鴎台はブロックチームの様だ。
「行けツッキー!ブロック対決じゃあ!!」
「『ブロックが対決するのはスパイカーなんで。』」
「言いそう」
「孤爪くん似てる」
黒尾の言葉に返した孤爪のモノマネが案外似ていて、黒尾と紗代子は笑ってしまった。本当にそんな風に言いそうだ。
3人でじゃれている間も試合は進む。
そしてついに、月島の手が星海のスパイクを叩き落とした。
「月島くんナイスブロック!」
歓声を上げた紗代子の手をクイクイと引っ張って、黒尾は握っている手とは反対の手で自身を指差した。
「教えたの俺デスヨ俺。俺は?」
「クロめんどくさい」
「黒尾くんもナイス!」
「やったー」
孤爪はあからさまに溜息を吐いた。案外構ってちゃんな幼馴染の顔を久々に見た気がする。でも関わるのは正直面倒くさいので、孤爪は紗代子には頑張って欲しいと切に願った。こっちに振らないで、と。
隣のコートでは梟谷も試合の真っ最中だ。しかし紗代子にそちらまで見る余力は無い。烏野と鴎台の応酬を追うのに精一杯だ。烏野側に感情移入しているからでもある。
ワァッと隣のコートで歓声が上がる。梟谷が勝ったようだ。ほぼ同時、烏野は鴎台に1セット目を取られた。
「あー」
「ンー、こっちは1セット目落としたかー」
孤爪の残念そうな声の後に黒尾も続く。
「まあ、おれらも後半有利タイプなのに2セット目取り返されたけどね」
「うっせえですよ」
幼馴染独特の呼吸でポンポンと言葉を投げ合う2人に、紗代子は本当に仲良いなあとニコニコしていた。孤爪は多弁な方では無いが、黒尾がいると比較的良く喋るのだ。本人が自覚しているかは分からないが。
2セット目が始まった。両校ともローテを回してのスタートだ。
その序盤、日向が鴎台には初見のコートをめいいっぱい使ったブロードをお披露目した。星海と昼神がブロックに跳んでいたが、到底間に合わない速さでボールはコートに叩き付けられた。
「ははは!確かにチビチャンのこれがあるとデディケート・シフトでは対応できねえよな」
黒尾が実に愉快そうにそう言った。過去、音駒がそれを使った事があるからこそだ。あの時はサイド・アタッカーのマークという本来の用途では無かったが。
「前衛は攻撃2枚だけど、影山のツーもあって後ろはサームラも守備にいるし、結構な強ローテじゃね?」
「でもこのローテ、翔陽は前衛にいる間の殆ど『2m』と『不動の昼神』両方とマッチアップする事になるね」
孤爪が薄く笑う。
「烏野『強矛ローテ』VS鴎台『強盾ローテ』だ」
2人がちょこちょこ話している内容は、紗代子にはとても参考になっている。実際のコートを見ながら2人の解説を聞いていると、試合の流れやお互いの狙いが良く分かるのだ。もちろん自分で考えるのも忘れないが。
ブロックに跳んだ影山との間を抜かれた日向に、孤爪は面白そうに「翔陽もかなりブロック理性的になったけど、さすがにまだツッキーには及ばないねー」と笑った。
「本当に面白い日向くんの事が好きなんだね」
「えっ……うーん、まあ、そうかも」
紗代子がそう言うと、孤爪は何故か少し照れた様にソワソワした。そんな彼の様子を、黒尾は温かい目で見守っていた。
ブロックチームの名前は伊達ではない。まだ日向のブロードの衝撃が抜けていない筈なのに、エースである東峰をブロックでもサーブでもきっちりマークしている。
スパイクが決まらない。それがどれ程スパイカーのプレッシャーになるか、紗代子には想像するしかできない。しかし、コート内の東峰や後ろの席の山本の表情から、いかに辛い事かは察して余りある。
烏野は菅原を投入した。攻撃の幅を増やすためだろう。東峰に発破をかける目的もあるかもしれない。
そして影山のセットしたボールを、東峰が強打に見せかけてプッシュした。ボールは見事、ブロックと後衛の間に落ちた。
「ハァーッ」
黒尾がイラついた様な声を上げる両隣で、紗代子と孤爪は愉快そうに笑った。さすが烏野、タダでは終わらない。
だがそれは鴎台も同じだ。レシーブとブロックが乱れ飛ぶ。しかも鴎台は星海で「よく跳ぶチビ」に慣れている。日向への対応が早いのだ。
もういっかい、もういっかいを重ねて、繋ぐ。
「レフトオオオオ!!!」
東峰の雄叫びが、ボールを呼ぶプライドの声が響く。
その太い腕から繰り出された強打は、昼神の腕に当たり、ブロックとネットの間に吸い込まれた。
「──3度目の正直っ……!打ち切った、エース東峰ーッ!!!」
歓声と雄叫びが沸き上がる。烏野、ついにブレイクだ。
「俺にも飴ちょうだい」
「ん」
「今度はハッカ味じゃないやつくれよ!!」
黒尾の切なる要望をスルーして、孤爪は紗代子の方へも飴を差し出した。
「紗代子さんは、いる?」
「え、無視?」
「うん、貰おうかな。ありがとう。ラムネならあるけど、孤爪くんいる?」
「うん」
紗代子も、鞄から取り出した個包装のラムネの袋を孤爪に手渡した。
「ねえ俺は?俺も欲しいんですケド!?」
「はい、どうぞ」
「ありがとうございまーす、って、んもー!研磨!またハッカ味じゃん!」
紗代子からラムネを貰ってコロッと笑顔になった黒尾は、孤爪から貰った飴の包装に書いてある味を見て座ったまま地団駄を踏んだ。そんなじゃれ合いも、タイムアウト終了の笛が鳴って静かになる。
日向が、一段と高く飛んだ。しかもそのスピードは今まで最速。
「高く、を、早く、か」
「チビチャン、ホント、高野豆腐」
「そこはスポンジでよくない?」
「でもさあ、スポンジは『入っても出ていく』感じするけど、高野豆腐はただただ旨味が染み込んで美味しくなるんだぜ……?」
「そこについて議論するつもり無いです」
黒尾と孤爪が喋っている間も、紗代子の目は烏野に、日向に釘付けだ。
彼はどこまで飛んで行くのだろう。限界が無いかの様に、オレンジは飛び続ける。ボールは、そこに来るから。
そんな紗代子の様子を、黒尾は横目でジッと見ていた。
烏野のセットポイント。このセットを取り切れば3セット目に行ける。まだ終わらないでいられる。
そんな場面で、ブロックに跳んだ月島が星海のスパイクを避けてみせた。ブロックアウトを狙って打った星海のボールはコート外に飛んで行った。烏野が2セット目を取ったのだ。
煽る様に笑った月島は、心底愉快そうだった。
「……とは言え、ゲームみたいに技を習得したからって、以降それが全部成功する訳じゃねえけどな。でも……星海は避けられる可能性があると知ってしまった。『ツッキーしかアレをできない』とは言い切れないしな」
「ゲームだって何でも簡単に技が出せる訳じゃないよ。めちゃくちゃタイミングとか難しいコマンド入力だってある」
「急にムキになった」
「すみませんでした」
ゲームの事となると、孤爪は間違った情報を正さないと気が済まないらしい。気持ちは分かるが、面白い物は面白いので紗代子は遠慮なく黒尾の隣で笑った。
「孤爪くん、本当に面白いね。あのスパイク避け、烏野なら他に日向くんとか影山くんもできるようになりそうじゃない?」
「まあ、チビチャンはともかく、影山の空間把握能力はめちゃくちゃ高いですからねー。あれ以上ヤバくなってどうすんだって話ですケド」
そんな事を話している間に、最終3セット目の開始を告げる笛が鳴った。
「どっちもローテ変えずにきたね」
「烏野は引き続きチビチャンでライト側の攻撃の手薄を補うため……。鴎台は……やっぱチビチャンに『不動の昼神』当てときたいって感じか」
「さあ春高3日目、最も過酷なダブルヘッダー!しかし勝てば準決勝センターコート!!烏野高校対鴎台高校、運命の最終セット!!烏野ビッグサーバー、影山のサーブで始まります!!」
3セット目が始まっても、鴎台の強さは揺らがない。影山のサーブであっても、サービスエースは難しい。
お互いに粘る、粘る。点取り合戦と同時に粘り合戦となっている。1点1点が重く、早い試合だ。
飛ぶ、跳ぶ。紛れて、1人で。日向の速攻が決まる度、オレンジの煌めきが放たれる度、紗代子の視線を引き付けられる。汗まみれで、それでもとても楽しそうに笑う日向にとって、ボールが飛んで来る事が心底幸せなのだと分かる。
影山もまた、楽しそうにスパイカーを使っている。急に横飛びを入れた日向に鴎台のブロッカーが思わず釣られる。そして彼に釣られるという事は、今まさにスパイクを打たんとしている田中の眼前に壁が無い事を意味する。
「珍しく完全にフラれた鴎台ブロックー!!!」
「出たナナメ跳び〜。畳み掛けるね翔陽」
「緩急がエゲツねえよ……」
「楽しそうね、日向くんも、影山くんも」
この試合もまた、彼らにとっては宴の様な物なのかもしれない。強い相手にどこまで渡り合えるか。どんな新しい事を試せるか。
そうして祭も宴も、終わりがある事に変わりは無い。
日向のサーブで始まったラリーは長い物になった。お互いがお互いに譲らない。月島がど真ん中高さ勝負に勝って打ち下ろしたボールを星海が上げる。だが白馬がブロックの田中の上から打ち落としたボールは正面に回り込んだ日向がレシーブ。影山がボールをセットする瞬間には、既に日向は飛んでいた。もちろん他のスパイカーも。
「──烏野、ブレイクーッ!!!」
遂に、ようやく、烏野が鴎台に逆転した。
そうして、誰にも予想できなかった、呆気ない終わりが、やって来る。
オレンジの太陽の背中を、遂に終わりが掴んだ瞬間だった。
「あれっ」
田中の差し出した手を、日向は取る事ができなかった。そのまま膝をついた彼の様子に、周囲がザワつく。そんな中でも立ち上がろうとする日向だったが、尻もちを着いてしまう。
烏野がタイムアウトを取る。
「怪我、じゃなさそうだけど」
「……多分、立てないんだと思う」
「え?」
黒尾が紗代子を振り向くと、彼女は眉を寄せた険しい表情をしていた。その視線の先では、ベンチに座らされた日向の体温が計られている。
「まさか、発熱……?元気そうだったのに……いや、元気、過ぎた……?」
ブツブツ呟いていた紗代子が急にハッとした顔になり、携帯を取り出してどこかへ電話を掛け始めた。反対の黒尾と繋がっている手は、無意識だろう、黒尾の手をギュッと握り締めている。それが、彼女の支えになっているようで、不謹慎ながら黒尾は嬉しかった。
孤爪がスッと席を立つのが分かる。彼の意図を察した黒尾は無言で見送った。
その少し後、電話を終えた紗代子が真剣な顔で黒尾を振り返った。その眉間に皺はもう無い。まっすぐ決めた何かを見つめている。
「黒尾くん」
「……うん。行くんでしょ」
「うん、私が良いと思う」
「気を付けて。……色々落ち着いたら、連絡くれると嬉しいデス」
「分かった」
黒尾はそっと繋いでいた手を解いた。
「ありがとう」
彼女はヒラリとベージュの髪を翻して走って行った。
荷物置き場となっているサブアリーナに向かう途中で、紗代子は孤爪と行きあった
「あ、紗代子さん。付き添い行くの?」
「うん。孤爪くんは、友達思いの良い子だね」
ポンッと軽く孤爪の頭を撫でて、紗代子はまた走り出した。
急に撫でられた事に驚いて固まった孤爪だったが、すぐに回復して撫でられた箇所を自分の手でそろっと触った。
「……ふふ、『良い子』って。紗代子さんって、ホント、懐に入れた人に甘いよね」
ひとりっ子の上に昔から大人びていた孤爪は、慣れない感触がくすぐったくて小さく吹き出す様に笑った。
孤爪が席に戻ると、黒尾が「渡してきた?」と全て察した様子で聞いてきた。
「うん。……別に……試合見る方法くらいあったかもしんないけど、翔陽はまだガラケーだし、おれのタブレット大きいから見やすいし、でも別に烏野にもタブレットくらいあったかもだしスマホ持って、」
「研磨クン」
孤爪の早口を黒尾が穏やかに遮った。その目はコートに向いているものの、口元は優しく弧を描いている。
「しんどい時はともだちの顔見るだけで救われるものよ」
「……うん」
孤爪はただコックリと頷いた。
「ウンウン」
「そういえば、紗代子さんに頭撫でられた」
「はあ!?何で?」
「おれが『良い子』だって」
「俺だって良い子なのに……」
黒尾がわざとらしく両手で顔を覆う。こういう時下手なフォローを入れると面倒くさい絡み方をされると分かっている孤爪は、それをまるっとスルーした。
「研磨〜、反応してくれたって良くない?」
「だってめんどくさいし。それより、紗代子さん、引き止めなくて良かったの?」
「んー、だってさ」
演技を止めて顎に手を付ける姿勢に戻った黒尾は、冷静な顔に戻ってコートを見つめている。烏野の取ったタイムアウトはとっくに終了し、試合は再開している。
「こういう時、走ってっちゃうのが紗代子サンでしょ」
その声音はどこまでも優しく、どこか寂しそうな響きを伴っていた。
「そうかもね」
孤爪はそう相槌を打って、コートの中に意識を戻した。
一方、孤爪と別れた後の紗代子がサブアリーナに滑り込むと、ちょうど嶋田が日向と谷地に話し掛けていた。
「嶋田さん!」
「え!?紗代子ちゃん!?」
「あ、えっと、夜久さん?だよね?」
「先程ぶりです。病院の付き添いは、私が行きます」
「え?でも……」
「嶋田さんは、山口くんの、烏野の応援を頼みます。私より貴方の方が、彼らの支えになれます」
まっすぐ視線を合わせて発せられた紗代子の言葉に、嶋田がハッとした顔になる。1拍の逡巡の後、嶋田は「……頼む」と絞り出す様に言った。
「任されました。状況は逐次嶋田さんの携帯にメールします」
「ああ、分かった」
身を翻して、嶋田は烏野の応援に戻って行った。残されたのは紗代子と、目に力を入れ過ぎて赤くなっている谷地と、赤い顔に大量の汗をかいている日向。全員マスクは着用済である。念の為マスクを持って来ておいて良かった、と紗代子はひっそりと胸を撫で下ろした。
「日向くん、歩ける?」
「大丈夫です」
「タクシー呼んであるから、行こう」
「いつの間に!?」
「ここに来る前にね」
驚いている谷地と日向を促して、紗代子は東京体育館を出た。そのすぐ前に止まってくれていたタクシーの後部座席に2人を乗せ、紗代子は助手席に座った。
病院に向かう途中も待合室でも、日向は孤爪のタブレットで試合をずっと見ていた。コートから離れても、日向はずっと試合の中にいた。
試合は烏野の敗退という結果だった。それを紗代子は、会計待ちの待合室でタブレットに頭を下げる日向の雰囲気で察した。
日向の診察結果は、簡単に言うと疲労の蓄積による発熱との事だった。脳がオーバーヒートした様な物なのだろう。一種の知恵熱とも言えるかもしれない。
嶋田に日向の診察結果と宿に先に2人を送る旨をメールし、紗代子は2人を連れて烏野が泊まっているかけす荘へとタクシーで戻ったのだった。
近くのコンビニに谷地にスポドリを買いに行ってもらっている間に、和室に布団を敷いて着替えさせた日向を寝かせた。
「何から何までありがとうございます……」
「ううん、気にしないで」
日向を寝かせている部屋から出ると、ちょうど戻って来た谷地と鉢合わせた。彼女が買ってきたスポドリを既に眠っている日向の枕元に置いて、紗代子と谷地は階下へと向かった。
「仁花ちゃん」
「?」
食事を用意してくれるらしい宿の人に、1人分の雑炊を作ってもらうよう頼み、2人は食堂部分で烏野の皆を待つ事にした。
もういいかな、と思って、紗代子は谷地の名前を呼んでその両腕を広げた。谷地はキョトンとした顔になって動かない。なので、紗代子は自ら歩み寄って谷地の身体をそっと抱き締めた。
「良く頑張ったね、仁花ちゃん」
「あ……さ、紗代子ちゃん……っ」
驚きに見開かれた谷地の目が潤み、ボタボタと涙の粒を零した。そんな彼女の小さな頭をよしよしと紗代子は撫でた。日向の前では耐えていた泣き顔を、谷地はついに紗代子の前で晒した。彼女の温かさが、じんわりと谷地の悲愴な我慢を溶かしたのだ。
「う、うぅっ……ひ、日向、あんなにっ、ヒック、がんばってた、のに……!」
「うん」
「わたっ、わたしがっ、ちゃんと気を、つけてれば……っ!」
「仁花ちゃんのせいじゃないよ。もちろん、誰のせいでもない」
「で、でもっ、でも……!」
「仁花ちゃんは優しいね。日向くんのために、泣くのを我慢してたんだね」
「うあ、わああぁぁ……っ」
谷地の口から、悔しさや後悔や色んな感情が混じった嗚咽が漏れる。そのまま谷地が落ち着くまで、紗代子は彼女を抱き締めながらその頭を撫で続けた。
「泣いちゃってすみませんでした……」
しばしの後、谷地は赤くなった目尻のまま紗代子の腕の中から身体を離した。
「ううん、泣きたい時は泣いた方が良いんだよ」
「ありがとうございます」
ようやく谷地がほんのりと微笑んだ時、ちょうど烏野メンバーが戻って来た。
「皆、お疲れ様」
紗代子と谷地が出迎えると、彼らは一斉にお礼を言った後日向の容態を尋ねてきた。医師の診察結果を伝えると、それぞれの反応をしつつも皆安堵していた。
「じゃあ、私は帰りますね」
荷物を置きに部屋に上がって行った烏野メンバーの背中を見送ってから紗代子がそう言うと、武田も烏養も驚いた顔になった。
「飯くらい食っていったらいいじゃねえか」
「そうですよ。今回に限らずお世話になりましたし……」
せっかくの誘いだが、紗代子は緩く首を横に振った。
「大丈夫ですよ。タブレットも持ち主に返しに行きたいですし、それに今日は烏野の子たちだけが良いと思いますから」
微笑んだ紗代子は、何を言ってもその言を覆そうとしない気配を持っていた。そのため武田も烏養もそれ以上無理に誘う事無く、会釈して立ち去る彼女を見送った。
──ああ、無性に君に会いたい。
紗代子が見上げた空は、夕暮れの赤に染まりつつあった。
ブブッと孤爪の携帯がメールの到着を知らせた。開くと送り主は紗代子で、日向に貸していたタブレットを返そうと思うが今どこにいるのか問う物だった。明日の準決勝や決勝も見るため、まだホテルまたたびに泊まっている事を返信する。
「研磨ー?いつまで食ってんの、って空じゃん。片付けなさいよ」
食べ終えても席を立たない孤爪に、黒尾が世話焼きを発揮して声を掛けた。
「今するとこ」
「宿題する前の小学生かよ。んで?何してたの?」
「メール。紗代子さんから」
「エッ」
「今から来るって」
紗代子からすぐに返ってきたメールへの返信を打ちながら孤爪が言うと、黒尾が訝しげな表情になった。その顔には明らかに「何で研磨に?」と書いてある。孤爪は1つ大きな溜息を吐いた。
「タブレット、翔陽に貸したでしょ」
「あ、うん」
「あれを返しに来てくれるんだって」
「ああー、そういう事ね」
言葉上は納得した物だが、黒尾の顔は未だに少し不満そうだ。こういうのガラじゃないんだけどと思いつつ、孤爪は「……クロも、暇なら来れば」と言った。途端に輝く幼馴染の瞳に、たまにはこういうのも良いかと考えを改めた。
日が暮れきった頃、ホテルまたたびの前に着いた紗代子は、メールで孤爪に到着を知らせた。案外早く出入口に姿を見せた彼は、「紗代子さん、ありがとう」と言いながら近付いて来た。
「ううん、そんなに遠くなかったから大丈夫。日向くん、熱だけだよ。今日はもう休んで、明日熱下がってから宮城戻るって」
「ん、了解」
紗代子が差し出したタブレットを受け取った孤爪は、安心した様にほんのり笑った。やっぱり心配していたらしい。友達だから当然か。
紗代子は「良かったね、孤爪くん」と微笑みながら彼の頭を撫でた。孤爪の猫の様なアーモンドアイが見開かれる。
「あ、ごめんね、嫌だった?」
パッと紗代子が手を離せば、平常の顔に戻った孤爪は首を横に振った。
「大丈夫、びっくりしただけ」
「そう?良かった」
うん、と孤爪が頷く。しばしタブレットの角をいじった後、彼は「じゃあ、タブレットありがとう」とホテルの中に戻ろうと踵を返す。そのタイミングで、意を決して紗代子は「孤爪くん」と呼び止めた。
「なに?」
顔だけ振り向かせた孤爪に、紗代子は「お願いがあるんだけど」と緊張気味に言った。やっぱり事前にメールでもしておけば良かったかも。今思い付いても遅いのだけれど。
「どうしたの」
「あの、面倒でなければ、黒尾くんを呼んでもらっていいかな?」
「もう来てる」
「えっ?」
紗代子が拍子抜けな声を上げたと同時に、出入口の柱の影から照れた様な顔をした黒尾が出てきた。紗代子の顔にカアッと朱が登る。
「こ、こづ、孤爪くん、まさか」
「いや、紗代子さんのお願いはさすがに予想してない」
察されていたのかと紗代子が慌てて追及しようとしたが、孤爪からはすげなく返されてしまった。
「そ、そう」
「クロが来たそうだったから誘っただけ。じゃあね、また明日」
戸惑う紗代子とニヤニヤと照れ笑いする黒尾を残して、孤爪はさっさとホテルに入って行ってしまった。
沈黙がその場に落ちたが、すぐに黒尾によって破られた。
「さーよこサン」
「は、はいっ?」
名前を呼ばれただけで跳ねる心臓が恥ずかしい。今日だけで何度も呼ばれているのに、でもそれらとは声の雰囲気もトーンも違う。
「俺に会いたかった?」
「っ!」
甘くからかう口調の言葉に、頬の熱が高まる。
──恥ずかしい。でも、嘘はつきたくない。
紗代子は顔が赤いのもそのままに、黒尾をまっすぐ見据えた。
「……会いたかった、黒尾くんに」
キュッと黒尾の目が丸く見開かれる。一瞬の真顔の後、彼は目尻を赤く染めながら「嬉しい」と微笑んだ。
「紗代子サン、こっち来て」
腕を取られ、以前も連れて来られた建物の陰に誘導される。あの時と違うのは、向かい合う2人の間にまだ少し距離がある事だ。
「……あのさ、今日の試合、どうでした?」
「素晴らしかったよ。皆が皆輝いてて、迫力も熱もすごくて」
「うん」
「皆、楽しそうだった」
紗代子が微笑むと、黒尾はうん、と頷いた。その顔がどことなく切なくて、紗代子は彼にとってはこれが高校最後の大会だったと改めて実感した。たまらなくなって、紗代子は衝動のまま黒尾に抱き着いた。
「え!?あ、さ、紗代子サン!?」
「かっこよかったよ、黒尾くん」
慌てふためいた彼はしかし、紗代子が静かに言葉を紡ぐとすぐにピタッと大人しくなった。ソロリと紗代子の背に回った腕が、壊れ物を触るかの様に慎重に彼女の細身を抱き締める。
「ゴミ捨て場の決戦、実現できたね」
「うん」
「猫又先生、楽しんでた?」
「うん、ナイスゲームって」
「直井さんも泣いてたね」
「案外感動屋だからね」
「犬岡くんや山本くんたちも泣いてたの、見えたよ」
「熱い後輩だからね」
「黒尾くんは、楽しかった?」
「……うん。楽しかった」
「孤爪くんも、面白かったって言ってたね」
「……うん……俺、研磨にバレーが楽しい物だって、感じてもらえて嬉しかった」
仄かに揺らぐ黒尾の声。紗代子はあえてそれを指摘せず、ゆっくりと高い位置にある頭を撫でた。
「……今そんな優しい事されると、泣いちゃいそうデスヨ」
「良いよ。ここには私しかいないから、キャプテンでなくても、良いんだよ」
「ふはっ、どんな理屈なんですか……、っ」
黒尾の顔が紗代子の肩口に埋まる。僅かに震える大きな背中を抱き締める腕に力を込めると、黒尾もその腕の力を強くした。
「楽しかったんです、ホントに」
「うん」
「監督に胸張れる試合、できたと思う」
「うん」
「でも、やっぱり、負けたのは悔しい……っ」
「うん」
「まだ海と、夜久と、バレーしたかった……っ」
「うん」
黒尾が抱き締める力は強くて、紗代子は少し息苦しかったけれど、それは彼の思いの強さの証明だと受け入れた。バレーが好きでずっと走ってきた彼の、1つの結末がここにある。
「俺、研磨を無理に付き合わせてるって思ってたけど、研磨は面白かったって」
「ずっと、孤爪くんは楽しそうだったよ」
「そう、かな……」
「うん。それに、孤爪くんは無理に付き合わせられる様な子じゃないでしょう?」
それは、黒尾が1番良く知っている筈だ。最も近くで、最も長く一緒にバレーしてきたのだから。
黒尾は無言で頷いた。その案外柔らかい髪を撫で続けながら、紗代子は言葉を続けた。
「音駒の皆も、烏野の皆も、楽しそうに輝いていたよ。かっこよかった」
「おれは?」
「もちろん黒尾くんも。途中からずっと、黒尾くんばっかり見ちゃってた」
真実だった。その躍動する体躯から目が離せなくて、その苦しそうで楽しそうな顔から視線を逸らせなかった。いつも通り孤爪の策を考えながら、それでも黒尾ばかりを追ってしまって。
「ブロックに飛ぶ所も、ジャンプサーブを打つ所も、1人時間差を決める所も、レシーブする所も、全部見てたよ」
──君だけを。
口に出さなかったその一言を、黒尾に伝われば良いと、紗代子は切に願った。
「……準決勝、チビちゃんばっかり見てなかった?」
「そ、そんな事無いよ?月島くんとか東峰くんとかも見てたよ」
「でも、チビちゃんが倒れた時、走って行った」
「少しでも役に立てればと思って……。仁花ちゃんも心配だったし……。あの、ごめんね、嫌だった?」
紗代子の戸惑った声に、拗ねた様な物言いをしていた黒尾はついに吹き出した。その様子に、先程の言葉はわざとだと紗代子はやっと理解した。
「そういう所も含めて紗代子サンなんでしょ。全然嫌だなんて思わないデス」
ようやく顔を上げた黒尾は笑顔で、紗代子はホッと胸を撫で下ろした。彼のまつ毛が濡れているのは気が付かなかったフリをした。
「私、でも前はこんな感じじゃなかったよ」
「そうなんですか?」
うん、と紗代子は1つ頷いて苦笑した。
「自分でも言うのもアレだけど、察しが良い方だから、人の負の感情が怖くて、あんまり他人と深い付き合いをしてこなくてね。……でも、少しずつ怖くなくなったんだ」
「どうして?」
「黒尾くんのお陰。君の好意を断っても、君には負の感情が無くて、申し訳ないけど意外だったの。特に思春期だと感情の正負は反転しやすいから。黒尾くんは安定していて、少しぐらい踏み込んでも大丈夫かなって思えた。そうすると音駒の皆も良い子たちばっかりって分かって、関わるのが楽しくなったの。だから、ありがとう、黒尾くん」
まっすぐに黒尾を見つめて、紗代子は穏やかに微笑んだ。
「私を変えてくれて、ありがとう」
「!」
黒尾が目を見開いた。じわじわとその頬が朱に染まっていく。その瞳がちょっぴり潤んだ。
「……紗代子サン、ずるい」
唇を突き出して、黒尾は恨めしげに紗代子をジッと見た。「どうして?」と首を傾げる彼女に、ギュッと奥歯を噛み締めて、黒尾は紗代子の肩口にまた顔を埋めた。
「ホント、そういうトコですよ」
「ええ?どういう事?」
「これが大人の余裕ってやつか〜」
「余裕なんて無いよ。いつもいっぱいいっぱいだもん」
「んも〜〜、そういうトコだって」
「黒尾くん?」
「……頑張って我慢してんだから、そーゆー事ゆって煽らないでもらいたいデス」
「んっ」
黒尾がスリ、とその頬を紗代子の首筋に寄せる。くすぐったくて、思わず彼女の口から声が漏れる。それが余計に黒尾を煽っている事を、彼女だけが知らない。
「紗代子サン」
「なあに?」
「俺だけを見ててよ」
ずっと。
声にならなかったその呟きは、紗代子の首筋を吐息として滑った。
黒尾の頬の熱を、直に肌で感じる。ドキドキで人って死ぬ事あるのかな、なんて思考が明後日に向かいそうな程心臓がうるさい。
「ね、紗代子サン」
ぎゅう、と黒尾の紗代子を抱き締める腕に力が籠る。胸の内から叩く速い鼓動が彼に伝わってしまいそう。
何を言っても声が裏返ってしまいそうで、紗代子は返事をする代わりに彼を抱き締め返した。自分にできる精一杯の力を、その細い腕に込める。
どれ程の時間そうして2人無言で抱き締めあっただろうか。黒尾の強い鼓動も紗代子の速い鼓動も溶け合った様に感じる時間は、黒尾の忍耐が限界を迎えた事で終わりを告げた。
「……俺もう無理……」
そう言って抱き締める腕はそのままに紗代子の肩から顔を上げた黒尾は、天を仰いで大きく長い溜息を吐いた。
「ご、ごめん、しんどかった?」
「ちょちょちょ、そーゆー事じゃないですって」
慌てて離れようとする紗代子の顔を、黒尾は咄嗟に自分の胸に押さえ付けた。逃げないでと言う様なその動作に、紗代子は抗わずそのがっしりした体躯に身を任せた。
「俺のね、我慢がそろそろ限界だなーってね、事なんですヨ」
「我慢」
「そ。このままだと手出しちゃいそう」
「!……それは、ダメだねえ」
黒尾の言葉にドキッと更に心臓が強く跳ねたが、紗代子は必死で平静を保つ努力をした。待てと言った身で下手な事は言えないしできない。厚い胸板の向こうからも、速くて強い鼓動が聞こえている事は分かっていたけれど。
「そーでしょ。やっくんに蹴られるだけじゃ済まなくなっちゃう」
「それは大変だ」
「うん、だから……」
これだけは、許してね。
その言葉が聞こえると同時、カプリと耳たぶに軽い痛み。噛まれた、と気付いた時には体温は限界まで上がりきっていて、紗代子は顔も耳も首筋まで真っ赤になってしまっていた。
「な、あ、く、くろっ……、んっ」
盛大に狼狽えながらも何とか言葉を発しようとした紗代子を嘲笑うかの様に、黒尾はそのまま耳の先にも優しく噛み付いた。ピリッと流れた衝撃に、彼女は声が漏れるのを止められなかった。
「……かーわいい」
耳元で落とされた黒尾の呟きに、紗代子の肩が跳ねる。もうこれ以上無いくらい熱いし赤いのに、どうしろと言うんだ。
──余裕なんていつだって無い。本当に。今だって、限界いっぱいいっぱいなのに。
「黒尾くん、あの、もう……」
「だぁめ」
甘やかに拒絶されて、もうどうしたら良いか分からない。恥ずかしさと戸惑いで泣きそうになりながら紗代子が戸惑っている間にも、黒尾は彼女の耳を優しく食むのを止めない。その唇はついに紗代子の首筋にまで至り、彼の唇の感触を感じる度に跳ねていた紗代子の肩が揺れた。その動きで溜まっていた涙がポロリと零れる。
「あ……」
「エッ!ご、ゴメンナサイ!」
雫に気付いた黒尾が、顔色を変えてズサッと紗代子から離れた。その顔は「しまった」とデカデカと書いてある青い物になっていて、紗代子は思わず吹き出した。黒尾の表情が呆気に取られた物になる。
「さ、紗代子サン……?やり過ぎた?ゴメンナサイ、怒ってる……?」
情けない顔になりながら、黒尾は紗代子を窺う様に腰を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。まるでイタズラが見付かった大型犬の様な彼に、紗代子は笑いながら「怒ってないよ」と指で涙を拭った。
「じゃ、じゃあ、あの、嫌、でした……?ホントごめんなさい、俺、つい……」
「嫌じゃないから、困ってる」
「ぅえっ」
黒尾が変な声を上げて固まった。文字通りカチコチである。
「おーい、黒尾くん?」
目の前で紗代子が手を振ると、黒尾はようやく我に返った。かと思えばすぐに、必死な顔で眼前にあった紗代子の手を素早く握った。
「紗代子サンっ」
「は、はいっ」
「お願いだから、そのままでいて」
「え?」
「困ったままでいて。せめて、春まで」
黒尾にギュッと両手で握られた手が熱い。よく見れば、彼の頬も赤く色付いている。そしてその黒い目が、真剣さを訴えかけてくる。新月の夜の様な瞳が、紗代子を捕らえる。
「くろ、おくん」
「うん」
「春は、近いよ」
もう年も明けてしまった。色々な転換点は、すぐ側まで来ている。
そんな事、とうの昔に承知の上だったのだろう。黒尾はどこまでも優しく甘い声で「知ってる」と呟いた。
彼はその声音その物の様な微笑みを浮かべて、握っていた紗代子の手に指を絡めた。
「駅まで、送ります」
「え、い、いいよ、悪いし」
手を繋がれた格好の紗代子は、その手を引き抜く事もできずにそのまま黒尾について歩いた。
「俺が送りたいんです。少しでもたくさんの時間紗代子サンといたいんですよ、ダメ?」
「だ、ダメじゃないっ」
「良かったデス」
紗代子の言葉に、黒尾は嬉しそうにニコッと笑った。
夜に染まる道を、2人並んで歩く。周りは住宅街のため、街灯が多くて比較的明るい。
「明日も、紗代子サンは見に来るんですか?」
「うん、そのつもり。梟谷が勝ち残ってるからね」
「明日も一緒に見ません?」
「良いの?音駒の皆の邪魔にならない?」
「まさか。ってか、紗代子サンも音駒でしょ」
「!」
マネージャー業を手伝っていてもベンチに入れる訳でもない。ずっとチームを支えられる訳でもない。皆優しくて、自分が「お客さん」だから、親切にしてくれている。そういう思いが、自分の心の隅にあった事に、紗代子は今気付いた。それにより引っかかれた胸の内は、黒尾の言葉で優しく癒された。
「……うん、うん、ありがとう」
──何気無く、私に必要な言葉をくれる君。私を癒してくれる君が、ずっと幸せでありますように。
普段神には祈らない。だから、新月の空に紗代子は願った。
紗代子が改札を潜るまで見送った黒尾は、彼女の背中が見えなくなるとすぐに身を翻した。
彼女の前では平静を装っていたつもりだが、成功していただろうか。今みたいな、赤い顔と速い鼓動が伝わっていたら恥ずかしい。ほとんど彼女のせいだけれど。
──いや!だって、アレは何が何でも反則だろ!
手出さなかった事を褒めて欲しいくらいだ、なんて考えながら、黒尾は来た道を早足で戻る。
頭にこびり付いた先程の光景を、脳が勝手にリフレインする。
甘い肌と、柔らかい耳たぶ、歯を立てる度にビクビクと素直に波打つ身体。黒尾の中の嗜虐心が唆られて仕方がなかった。泣かれた時はやり過ぎた、と一瞬後悔したものの、その後に落とされた爆弾に思考停止してしまった。
「嫌じゃないから困るって、え、そういう意味、だよな……?」
思わず漏れた呟きに、自分で衝撃を受けた。
──え、本当に?期待していいやつ?
確かに抱き締めても嫌がられないし、手を繋ぐのも普通になってきている。しかし、言葉にされるとまた違った衝撃だった。
頭の中も心の中も爆発しそうだ。このままだと明日会った瞬間に紗代子を抱き締めてしまいそう。そうなると衛輔に蹴られるだけでは済まなさそうだと、黒尾はわざとゆっくり歩いて頭を冷やしながらホテルまたたびに戻ったのだった。
春は、もうすぐそこだ。
第16話です。 運命の春高3日目後半です。色々考えてこんな感じに。やっちゃん、バレーに挑む日向をずっと側で見ていて、発熱退場はほんとショックだったと思うんです。なので、どうにか彼女を少しでも支えられないかと主人公には走っていただきました。コート外にしかいられない者同士、繋がる物があるかな、と。 春高も終わると最高学年は一気に受験やら進路やらで忙しい時期ですね。時間は止まらないので、春はすぐに来るでしょうね。