夜久衛輔の姉が青春小説を完成させるまで   作:細雨

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第5話

1つの事に没頭していれば、時間はすぐに過ぎる。

初めての合同練習の後、紗代子は1日の大半を自分の部屋に引きこもっていた。もちろん土曜日の音駒通いは続けていたが。

そんな訳で、長期合宿の頃になっても紗代子の肌は日焼けせず白かった。

「紗代姉、不健康に見える」

長期合宿初日、森然高校へバスで移動するために音駒へ向かう道中、紗代子の顔をじっと見ていた衛輔が唐突にそう言い放った。目を真ん丸にした紗代子は、ようよう「……そう、かな」と絞り出した。大きく頷く弟の姿に、彼女は少なからずショックを受けていた。

「具合悪い訳じゃないよな?」

「も、もちろん」

慌てて頷く紗代子に、衛輔は「それなら良いや」とあっさりしたものだ。

そんなにかな、と不安になる彼女を置いて、電車は進む。悪いイメージしか無いワードを言われ、しかも前の宮城遠征の後実際に熱を出したものだから、正直少し落ち込んでしまった。夏休み前の合同練習後には衛輔から「熱出したら長期合宿は休め」と言われていたから、余計に引っかかってしまうのかもしれない。

不健康そうと言われたショックを、紗代子がひっそり引きずったまま音駒メンバーと合流したところ。

「うわー!紗代子さん白いですね!元気ですか?」

と灰羽から開口一番言われてしまい、紗代子はついにガックリと項垂れた。

「くぉらリエーフ!失礼過ぎるだろ!ほら、紗代子さんが落ち込んでしまわれただろ!」

「え!?スンマセン!」

「ううん、大丈夫……。さっき、もりすけくんにも同じ事言われたから……」

何とか垂れた頭を上げて苦笑すると、灰羽は山本にどやされつつ申し訳なさそうにオロオロしていた。頭に垂れた耳の幻覚が見える気がする。その後ろから、トサカ頭が顔を出した。

「リエーフは言葉選び気を付けな。紗代子サン、本当に白いけど大丈夫ですよね?森然は涼しいとはいっても、暑いのは暑いですよ」

「それは本当に大丈夫。こう見えて夏バテで倒れた事無いよ」

「夏バテはしてるけどな」

「もりすけくん、大丈夫だってば」

黒尾の確認に自信満々で答えた紗代子だったが、衛輔が一言付け加えてしまったせいで台無しだ。ちょっと拗ねた顔になった彼女は、ニヤニヤ笑う弟の二の腕を軽く押したのだった。

森然高校までは皆でバス移動になる。衛輔の横の席を貰った紗代子は、ウキウキ顔で窓側のシートに座った。

後ろには黒尾と孤爪、前には海と芝山が座っている。よく紗代子にじゃれつく灰羽と未だ固まり気味な山本は、通路を挟んで反対側の後方の席になった。犬岡と手白は山本たちの席の1つ前に座っている。猫又と直井は同じ列の前方に座る事になった。

バスの中は学生の移動らしく賑やかで、それぞれが楽しそうにお喋りを楽しんでいた。

すると、不意に衛輔の肩に重みが乗った。続いて感じる、良く知るシャンプーの匂い。紗代子が衛輔の肩にもたれかかっていた。

「紗代姉?」

名前を呼んでも、返ってくるのは健やかな寝息だけ。

「やっくーん?紗代子サンどうしたの?酔っちゃった?」

目敏く前席の変化に気付いた黒尾が声を掛けてくる。それへ衛輔は一言「寝た」と返した。

「え、寝た?何で?やっぱり酔ったんじゃ……」

「昨日あんまり寝てないんじゃねえの。小学生の遠足の前の晩みたいなもんだ」

「何ソレ可愛い」

はわわ、と口元を両手で覆った黒尾を横目で見た孤爪は一言。

「クロ、気持ち悪い」

「研磨さん酷い……」

ダメージをくらった黒尾はヨヨヨ……と泣き崩れるフリをした。孤爪も衛輔も完全スルーした。

目的地に到着して、衛輔はようやく寝心地良くないであろう自身の肩を枕にする姉を揺り起こした。

「紗代姉、着いたぞ、起きろー」

「……んー……?もりすけ、くん……?」

「うんうん、俺。で、ここはバスの中。もう森然着いたぞ」

「うん……」

未だ寝ぼけているらしい紗代子の手を引いて、衛輔は彼女の荷物も持ってバスを降りた。後ろで悶えていた黒尾は無視した。

外に出ると、強い陽射しが照りつけた。そのお陰で紗代子も完全に覚醒したらしい。

「もりすけくん、ごめん、ずっと肩借りてた……」

「大丈夫、紗代姉の頭くらい軽い」

「ごめんね、ありがとう」

ゾロゾロと森然高校前にある階段を登り、各自荷物を置いた後着替えて体育館へ集合した。森然と既に到着していた梟谷や生川のメンバーと挨拶を交わしていく。もうすぐ烏野も到着するらしい。そう聞いて、黒尾と孤爪、海に灰羽が迎えに外に出た。

紗代子はというと、大滝たちと2週間ぶりの挨拶を交わして、しばしの間お喋りに花を咲かせていた。練習が始まればまた走り回らなければならないのだ、今くらいは休んでおきたい。

それから少し後、烏野メンバーが到着した。同じ様に挨拶を交わし、ついに合同練習が始まった。

森然での合同練習は、何と試合に負けた場合のペナルティ付きで、負けたチームは体育館裏の中々の斜度の坂道をダッシュするという物だ。しかも負ける度にそれを行わければならないため、夏でなくともかなり体力が削られるだろう。

「さすがにあっついねー」

「本当に」

汗をかきながらも、マネージャーたちはドリンクを作り、スコアボードを付け、とくるくると働いていく。紗代子も同様に動き回っていた。

途中途中で、5チームそれぞれの試合模様を見ていると、高校毎に特色があるのが良く分かる。前回の合同練習ではそこまでの余裕は無かったが、今回は全体の流れも分かってきたため、練習試合を見る余裕が出てきた。

音駒はもちろん「繋ぐバレー」だが、生川はサーブを重視しているし、森然は連携攻撃を得意としている。梟谷は木兎を中心とした攻撃型のチームに見える。烏野はまだまだ未知数で、何とも言えない。紗代子が見た限りでも、連携攻撃をしようとして失敗していたり、影山が日向へのトスを合わせられなかったりと、色々と噛み合っていないのだ。

「潔子ちゃん、あの、烏野って今どういう状態なのかな?あ、答えられなかったら答えなくて大丈夫だよ」

思い切って、休憩中に清水に聞いてみたのだが、清水は気負う事無く「今、色々試してる途中なんです」と微笑んだ。

その笑みは烏野メンバーを心から信頼している物で、紗代子も何だか安心してしまった。大丈夫だと思える根拠が、清水の中にはあるのだろう。谷地も彼女の横で大きく頷いていた。

練習時間が終われば、後は各自の時間に入る。そのまま自主練習する人間もいれば、風呂に行く人間もいるし、食事を摂る人間もいる。

監督やコーチたちは、猫又主導の呑み会に行くのが常の様だ。

「すみません、猫又先生。今回はご遠慮させてください」

「良いよ良いよ、マネージャーの子たちと約束してたんだろう?楽しんどいで」

「はい、ありがとうございます」

猫又はからからと笑って夜の迫る街へ繰り出して行った。

森然には第1から第3まで3つの体育館があり、全体練習の後の時間はそれぞれの体育館に散らばって様々な練習を行っていた。

紗代子は犬岡や手白の自主練習を手伝った後休憩を取るという彼らと別れ、忘れ物が無いか見回りしてからご飯を食べに行こうと第1体育館を覗くと、ちょうど谷地がビブスを抱えて中から出てきた所だった。

「仁花ちゃん、お疲れ様、手伝うよ」

「はひっ、す、すみません、ありがとうございます!」

「これ洗濯している間に一緒にご飯食べない?」

「い、いいんですかっ?」

「うん、もちろん」

半分以上ビブスを谷地の腕からヒョイッと取ると、彼女は少しホッとした顔になった。紗代子より一回り小さい谷地にとって、大量のビブスは視界を遮る壁になるのだ。

2人、ビブスを抱えて渡り廊下を洗濯室へと歩く。

「仁花ちゃんは、じゃあお母さんみたいになりたいの?」

「あの、そんな、私ごときがとは思うんですが……」

「でも、烏野のポスターを作って、しかもちゃんと効果も出てるんでしょう?すごいね、頑張ったんだね」

紗代子の言葉に、谷地は真っ赤になって黙りこんでしまった。「どうしたの?」と紗代子が俯いて立ち止まってしまった谷地の顔を覗き込むと、彼女は緩む笑みを必死に噛み殺して少し変な顔になっていた。

「仁花ちゃん?」

「や、その、そんなに直球に褒められる事があんまり無くて、ニヤニヤしちゃうというか……」

「そうなの?嬉しいなら隠さず見せて欲しいな。ほら、えっと、烏野の日向くんとか、そういうタイプでしょう?嬉しそうな人を見ると、こっちまで嬉しくなる」

「……!そうですね!私、嬉しかったです!ありがとうございます!」

ニコニコ笑う谷地に、紗代子の心も温かくなった。少し自信の無い所もあるけど、素直な子だ。清水が可愛がる訳である。

洗濯機にビブスを入れてスイッチを押す。キチンと動き出した事を確認してから、2人で食堂へ向かった。

今回の合宿では、今の様に夜は自主練習になるため食事は作り置きになっている。夕方大量のカレーを煮込んだのだが、明日まで残っている自信は既に紗代子には無い。男子高校生の食欲の凄さは、昼食の時点で身に染みているからだ。

「はぅあっ!」

「どうしたの?」

急に谷地が奇声を上げた。紗代子が首を傾げると、「た、タオル忘れてきた……!」と彼女は顔を青くさせた。

「取ってきて良いよ。待ってるから」

「すみませんすみません!超特急で戻って来るので……!」

「慌てないで良いよ、って聞こえてないか」

宣言通り走って行ってしまった谷地の背中に、紗代子は苦笑した。食堂が閉まる時間までまだまだあるのだから、急ぐ事は無いのだ。

「……あ」

谷地の去った第1体育館の方から、長身の影が歩いて来た。見覚えはある。確か烏野の……

「月島くん、だっけ」

「はぁ……どうも」

ペコリと形ばかりの会釈をしたその顔を、紗代子はじっと見つめた。すれ違おうとしていた月島の眉が不審げに軽く寄る。

──そうだ、月島くんだ。長身で金髪で黒尾くんと同じミドルブロッカー。妙に苦しそうな顔を時折見せる子。

「……夜久さんでしたよね?僕に何かご用ですか」

思い切り不審者を見る様な目を向けてくる月島に向けて、その言葉はスルリと紗代子の口から零れ出た。

「君は、溺れているの?」

「ハ……?」

脈絡も意味も不明な紗代子の言葉に、月島が今度こそ顔を顰める。意味不明は日向と影山で十分なのに。

「ちょっと意味が分からないんですけど……もう行っても、」

「試合中、時々とても息がし辛そうだよ、君は。苦しいの?」

「……!」

──何を、何を勝手な事を。

色々な思いが彼の頭の中を駆け巡り、けれど、口からは何も出ては来なかった。

これが同じチームの澤村や菅原から掛けられた言葉なら、何とでも誤魔化して煙に巻く事ができただろう。しかし眼前の、会うのは3度目となる女性のまっすぐな視線に、誤魔化しは通じないとすぐに悟った。己の事などほとんど知らない筈の彼女の言葉に、何故か息が詰まった。

この場を歩き去れば話は終わる。簡単な事だ。けれど足は何故か動かなくて、代わりに先程何の音も出せなかった口が勝手に言葉を紡いだ。

「僕は、溺れている様に、見えるんですか」

一回り以上大きな月島からの視線を真っ向から受け止め、紗代子は頷いた。彼の色素の薄い瞳の奥が揺れている。

「溺れて、どうにか足掻こうと岸辺を探している様に、見えるよ」

「どうして」

「昔の私がそうだったからかな」

ここでようやく、真剣な顔をしていた紗代子はほろ苦く微笑んだ。覚えがあるのだ、今の月島の様な状態に。昔と言っても、それ程昔でない、以前に。

「夜久さんは、昔溺れていたんですか」

「紗代子で良いよ。……うん、小説家としてデビューするまでは、苦しかったよ。書いても書いても落選して、書く事があんまり楽しくなくなっていたし」

「楽しくなかったのに書いてたんですか」

「そうだよ。そうしないと、やっぱりしんどかったから。君は、どう?」

覗き込んで来た紗代子から顔を逸らして、月島は「……知りません」とボソリと呟いた。

「僕は紗代子さんみたいに才能がある訳じゃないんで。知った風な事言わないでください。それじゃあ失礼します」

月島は結局、紗代子の顔を見る事無くそのままどうにか足を動かして歩き去ってしまった。その表情はやはりどこか苦しげで。

──怒らせてしまったかな……。

谷地が駆け戻って来るまで、紗代子は引き留めなかったその高い背を見送っていた。

食堂に谷地と2人で向かった紗代子は、そこで大滝や宮ノ下と鉢合わせた。ちょうど夕食を食べたところらしい。後から白福や雀田、清水も食堂にやって来て、マネージャーたちたちと皆でご飯を食べた。そのまま一緒に風呂に入り、女子部屋へと戻って来た。そして大滝が鞄からお菓子を取り出したのを合図に、女子会が開催されたのである。

机と椅子を端に寄せた教室の中で、布団と枕を持ち寄って各々持ち込んだお菓子を広げる。紗代子は、白福から以前の合同練習の時にリクエストされていたクッキーを持って来た。

「やった〜、紗代子ちゃんのクッキーだ」

「あ、雪絵、1人で食べないでよ?」

「え〜?美味しいから食べちゃうんだもん」

お互いが持ち寄ったお菓子を一通り食べると、話題は女子会らしく恋バナに移った。

「潔子ちゃんは烏野の中で何にも無いの?ほら、田中くんとか西谷くんとか潔子ちゃんの事大好きじゃん」

大滝が清水に振るが、清水はにべもなく「無いわ」と言い切った。いっそ清々しい程である。

「3年も無いかな。そもそもスガは彼女いるらしいから」

「え!?そうなの?同じ学校?」

「遠距離って聞いた事ある。歳上なんだって」

「キャー!何か良いね!」

キャッキャウフフと盛り上がる中、案の定紗代子にも話が回って来た。

「紗代子ちゃんは彼氏いるんですかー?」

「いないよ。学生の時はいたけど」

「いついつ!?高校生の時?大学生?」

「大学生」

「良いなー!キャンパスライフってやつだ」

「憧れるよねー」

「どんな人だったんですか?」

女の子たちの目がキラキラと輝いている。可愛らしいなと思う一方、少し苦い思い出でもあるため紗代子はほんのり苦笑した。

「何だろう、いわゆるクラスの人気者みたいなタイプかな。明るくて、社交的な人だったよ」

「へぇ〜。何キッカケで出会ったんですか?」

「大学のゼミが一緒だったの。グループワークでたまたま同じグループになったのが知り合ったキッカケ」

「すごい、大学生だ」

彼女たちとてあと半年少し経てば大学生なのに、まだまだ大学生は大人の感覚なのだろうか。とても素直に感激されてしまった。

今振り返れば、大学生なんて子供に毛が生えた程度だ、と紗代子は思う。一人前になった気もしていたけれど、結局それは錯覚でしかなくて、大学を卒業して、何とか夢であった小説家になれた今も大人であれている自信は無い。

「今は好きな人はいないんですか?」

「いないよ。そもそもあまり出会う機会も無いしね」

「うちの赤葦とかどうですか?この前ジャグ渡してもらった人なんですけど」

雀田の言葉に、紗代子の脳裏に音駒の体育館前で立っていた赤葦が蘇る。大人びた雰囲気の眼差しの彼は、どうやら木兎に大変好かれて振り回されている様だと今回の合宿で垣間見えている。その彼を思い浮かべながら、紗代子は苦笑した。

「う〜ん……高校生はやっぱりそういう対象ではないかな……。しかももりすけくんより歳下だし」

「そうですよねぇ」

雀田も項垂れながらも苦笑した。彼女とて、弟がいたとして、その弟と同い年の男の子が恋愛対象になるかというと微妙なところだ。

「かおりちゃんこそ、赤葦くんとか木兎くんとかはどうなの?」

「無いですねー」

紗代子の問いに、雀田はバッサリ言い切った。その横では白福もうんうんと頷いてる。

「木兎はいつもあの調子で、それにずっと付き合うのはちょっと……」

「赤葦も目立たないだけで十分変だよね〜」

2人がしみじみそう言うので、紗代子はもちろん他のマネージャーたちも笑ってしまった。

お喋りの花は咲き続け、谷地が大きな欠伸を零したところで寝る事となった。合宿はまだまだ続くので、睡眠はキチンと取っておかなければならない。

しかし、紗代子は次々と布団に潜っていくマネージャーたちを尻目に、携帯と財布だけズボンのポケットに入れて立ち上がった。

「紗代子ちゃん、どこ行くんですか?」

清水の問い掛けに、紗代子は「ちょっとだけ散歩にね」と微笑んで教室を出た。

夜の帳が降りる校内を静かに歩く。体育館はどこも静かで、さすがにもう自主練習は切り上げたようだ。食堂も閉まっている時間だから。

何だか特別な事をしている様なふわふわした心地で紗代子が校門から出ようとすると、後ろから不意に腕を掴まれた。

「っ!?」

「紗代子サン、1人でどこ行くんですか?」

黒尾だった。風呂上がりなのだろうか、いつものトサカ頭は鳴りを潜め、黒髪が水分を含んで下を向いている。

いつもと違う髪型にびっくりした紗代子は、戸惑いながら「く、黒尾くん、よね?」と聞いた。

「そうデスヨ。あー、髪型が違うんで驚かせちゃいましたかね?」

「や、大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」

その返答に、「驚いてるじゃないですか」と黒尾は吹き出した。

「ってか、1人でどうしたんですか?マネたちと一緒にいると思ってたのに」

「ちょっと散歩に行こうと思って。……あの、手を離してもらっても良いかな?」

「アッ!?すんませんっ!」

頬を赤くした黒尾は慌てて紗代子の腕を掴んでいた手を離した。しばしワタワタして「あー」とか「うー」とか唸った後、彼は意を決した様に「俺も、行っても良いですか」と言った。

特に1人でないといけない理由も無かったため、紗代子は首肯して黒尾の同行を許した。

校門を出て階段を下り、プラプラとあてどなく足を進める。街灯が多い訳ではないが、今夜は満月のため夜道は明るい。湿度は高いものの、時折吹くそよ風が心地良い。

「紗代子サンは散歩にはよく行くんですか?」

「そうだね、ちょくちょく行くかな。気晴らしにもなるし、何より特別感があるでしょう?」

「そうっすね」

前を見ながら微笑む紗代子の横顔に、黒尾は穏やかに頷いた。月光に照らされた彼女の髪は、いつもより金に近く見える。瞬きに揺れるまつ毛が、キラキラと輝いているように感じた。

「黒尾くん?どうしたの?」

どうやら見とれ過ぎていた様で、いつの間にか黒尾は紗代子に不思議そうに覗き込まれていた。慌てて「何でも無いデスっ」と首を振ると、彼女は不思議そうな面持ちのまま前を向いて歩みを再開した。

「あー……っと、さっきまでは何してたんですか?」

「マネージャーの皆とお菓子食べながら女子会してたよ。あんなにいっぱいお菓子食べたの久しぶりだったなぁ」

「女子会っていうと恋バナとか?」

「そうそう。自分のチームメイトは無いって皆言い切ってて、何だか面白かったの」

クスクスと思い出し笑いする紗代子に、黒尾は変に緊張しながら問い掛けた。

「紗代子サンも、恋バナに参加したんですか?」

「うん、まあね。あんまり得意ではないんだけど」

「だったら、あー、彼氏の話とかしたんです?」

「彼氏はいないから元カレの話はしたかな」

紗代子がフリーな事が確定した事に喜ぶのも束の間、元カレというワードに黒尾は心中穏やかでなくなった。

正直気になる。とっても気になる。以前の合同練習で偶然聞いてしまった呟きが、もしかしたら関係あるかもしれないし。

「も、元カレってどんな人?」

どもってしまった。恥ずかしいが、聞けたから良しとしよう、と黒尾が内心で自分を鼓舞している間、紗代子は少し考え込んだ後、結局女子会で話した事と同じ内容を話した。

「いわゆるクラスの人気者みたいなタイプかな。明るくて、社交的な人だった」

自分とはまるで違う。ほんのり黒尾は落ち込んだ。自分は明るくはあるが、人気者なタイプではない。そこで彼は気付いた。紗代子の言葉は褒める内容ばかりだったが、その表情には翳りがある。もしかして未練があるのだろうか。

「何で別れたのか、とか聞いても大丈夫?」

「うーん、何と言うか……遠距離になったのが原因かな。私は卒業ギリギリで作家になれる事が決まったから、向こうが就職で関西に引っ越す時にはまだ無職でね。彼からも何も無かったから、そのまま遠距離恋愛になるんだと思ってた。連絡もたまに取ってたんだけど、段々頻度が少なくなって……。忙しいのかなって思ってたら、同じく関西で就職した友達が『いつの間に別れたの?』って綺麗な女性と写ってるSNSの写真を送ってくれて。それを彼に電話で問い質したら、『俺の事を放っておくお前より大切にしてくれる人を見つけたら別れる』って言われて、それでおしまい」

紗代子は苦笑して肩を竦めたが、聞いていた黒尾は笑うどころではない。

何だそれは。それって、それって──

「浮気じゃないっすか」

「そうかもね。でも、もう良いの。ほら、私、とっても書きたくなるとその場で書き始めちゃうから、デートしててもほっぽりだしちゃう事、実際に何度もあったしね。本当に、もう何の思い入れも無いの。薄情でしょう?」

大学卒業時という事は、つい3年程前の出来事だ。だというのに、横を歩く彼女は妙にサッパリして見える。

「薄情とは思わないですけど……、その、別にその人のために死んでも良いとか、思ってる訳じゃない、ですよね?」

黒尾は躊躇いつつも、あの日から気に掛かっていた事を聞いてみた。

音駒での合同練習の夜、たまたまトイレに起きた黒尾は呑み会から戻って来た紗代子の呟きを聞いてしまったのだ。

「……もう死んでも良いわ」

窓の外を見つめて呟かれた声音のその切なさは、黒尾の耳にこびり付いた。すぐにでもその意味を問い質したかったものの、機会に恵まれなかったのだ。

そして今、その好機が訪れた。今聞いておかなければならない、と黒尾は強く思った。

しかし、その問いを聞いた紗代子の反応は意外な物だった。

黒尾の方を思い切り振り返り、目を真ん丸にして、

「ええっ?」

と、心底驚いたという様に声を上げた。その驚き様に、黒尾も思わず立ち止まる。釣られて紗代子も足を止めた。

「何でそんな話になるの?え、どうして?」

脈絡が分からな過ぎて、紗代子は思わず半笑いになった。

一方黒尾は、彼女のその反応に戸惑っていた。拍子抜けした、と言っても良いくらいだ。

「や、だって、この前の合同練習の夜、『死んでも良いわ』って……」

「あー、呑み会の後の事?聞いてたの?恥ずかしいな」

黒尾の言葉に、紗代子は合点がいったように頷いて恥ずかしそうに笑った。しかし黒尾の混乱は未だに解けない。

「いやあの、え?どういう?」

「黒尾くん、国語は得意?」

「え?ま、まあ、それなりに……」

思わぬ質問に、更に戸惑いながらも黒尾は頷く。

「廊下を歩いてる時に、ふと見上げたら綺麗な三日月が見えてね。夏目漱石って分かるかな?あの人が『I ove you』を『月が綺麗ですね』って訳したのは有名な話だけど、その返答のバリエーションは様々あって、その1つが『もう死んでも良いわ』だなって思い出してて、酔ってたからつい言葉にしちゃってたの」

「あ、ああ〜……そういう事……」

蓋を開けてみれば何て事ない、ただの独り言だったのだ。その言葉だけを聞いてしまったものだから、変に誤解してしまったというオチだった。

安心した黒尾は脱力して、その場にヘナヘナとしゃがみ込んでしまった。

「ハァ〜〜〜……良かった……」

顔を腕に埋めて心底安堵した声音で呟く黒尾に、心配かけたかと「黒尾くん?大丈夫?」と呼び掛けながら紗代子が膝をついて覗き込んだ。

ふと自分に影が差したと感じた黒尾が顔を上げると、バチリと紗代子と視線がぶつかった。

焦げ茶のまっすぐな瞳が、黒尾を射抜く。

彼女の白い頬に、いつもは後ろで1つに結んでいる髪が滑る。燐光を纏う様に月の光を受けて流れる髪の動きから香る、シャンプーの匂い。きっと、それに魅せられた。

「っ!?」

気付いた時には、黒尾の手は紗代子の腕を掴んで引き寄せていた。ポスリと細い身体が彼の腕の中に収まる。ふわりと香る、シャンプーと、それと違う仄かに甘い匂い。抱き締めた紗代子の背が、驚きと緊張に固まるのが黒尾の腕に伝わった。それはきっと、衝動だった。

「くろおく、」

「好きです」

彼の名前を呼びかけた紗代子の声が途切れる。ヒュッと軽く息を呑む音が、黒尾の耳にハッキリ聞こえた。

それでも、止まれなかった。1度口に出してしまった想いは、留まるところを知らないようだった。

「貴女が好きです、紗代子サン。一生懸命バレーを学ぶ所も、合宿が楽しみで寝れない可愛い所も、バスの中で寝ちゃう所も、小説を書く心から楽しそうな所も、全部。全部が好きです」

「黒尾くん……」

「俺だったら、紗代子サンが急に小説を書き始めても、そんな貴女をずっと見てられる。放っておかれてるなんて感じない。貴女が貴女の好きな事をしている姿を、特別近くから見ていたいんです。だから、俺の、彼女になってください」

何てつたなくて、何て懸命な訴えだろう。

乞い願う声音は本物で、紗代子の心を根底から揺さぶった。

元カレに未練なんてこれっぽっちも無い。それは本当だ。けれど、放っておいたという負い目が傷の様に残っていたのかもしれない。

紗代子は黒尾の言葉でようやくそれに気が付いた。けれど、彼女には彼の言葉を素直に受け入れる事ができなかった。だって、彼女は大人だから。自信はまるで無いけれど、それでも子供ではなくなってしまったから。

「黒尾くん……ありがとう」

刺激しない様になるべく穏やかな声音を心掛けて、そう言った。それからそっと黒尾の胸を押してその抱擁から身を離した。そうしてやっと見えた黒尾の顔は、いつも浮かべている余裕の笑みなどどこかに吹き飛んでいて、どれ程彼が真剣かを如実に伝えていた。そんな彼にこれから突き付けなければならない事を思うと、紗代子の胸が罪悪感に痛む。

「嬉しい言葉だけど、黒尾くんと付き合う事はできない」

「っ、何で……」

黒尾の顔が歪む。痛みと疑問でぎゅうぎゅうな彼の黒の瞳が、紗代子を捕らえて離さない。

よく目が合うとは思っていた。たくさん喋ってくれるとも。けれどそれは、キャプテンとして「お客さん」の自分に気を使ってチームに馴染める様にしてくれているのだと、紗代子は思っていた。普段も、ジャグを抱えている時やボールが飛んで来た時に助けてくれる事が多いから。

宮城遠征の時の洗濯室で、急に小説を書き始めてしまう所も含めて「夜久紗代子」なのだとすんなり受け入れてくれた事にハッとしたのは確かだ。そんな人、今までいなかったから。彼は少し他と違うのかな、と思いつつも救われた気になった。

黒尾に対して、他のメンバーと違う認識を持っていたのは確かだ。それでも、紗代子は彼を特段意識していた訳ではないし、何よりも、そう何よりも。

「私は、大人なんだよ、黒尾くん」

「……だから、何なんですか」

「大人は子供とは恋愛しちゃいけないんだよ。どっちも不幸になっちゃう」

「何スか、それ……」

納得いかない、と言う様に、黒尾は下唇を突き出して拗ねた表情になった。

──ほら、そういう所だよ。

「君たち子供はね、色んな可能性があるんだよ。何にでもなれる。これから色んな人と出会う。もしかしたら運命の人に出会うかも。それなのに、私でその可能性を潰しちゃダメだよ」

黒尾は無言だった。何も言わずに、拗ねた顔のまま紗代子を見つめている。

困るくらいに意思が強い。諦めて欲しいのに。

「急に私みたいな大人の女性が現れたから、目を引かれてるだけだよ。珍しい物はつい見ちゃうでしょう?それと同じ。……ごめんね、黒尾くん」

彼なりに色々感じて考えてくれていたのかな、とは思う。それでも弟と同じ歳の彼を、1人の男性としては見れない。……その筈なのに、落ち込んで項垂れる黒髪を、衛輔にする様に撫でる事は、何故だかできなかった。

しばらく腕に顔を埋める黒尾の側でジッとしていると、彼はバッと唐突に立ち上がった。驚きながらも釣られて顔を上げた紗代子に、黒尾は手を差し出した。

「もう遅いんで、帰りましょうか」

「……そう、だね」

気遣いに甘えて、その手を取って立ち上がる。離れる指先が、そっと紗代子の手の甲を撫でていった。

2人、無言で帰り道を並んで歩いた。森然高校に戻って来てからもどちらも言葉を発さず、黒尾は女子部屋がある階まで紗代子を送ってからようやく「じゃあ、俺はここで」と言った。

「うん、ありがとう。……おやすみ、黒尾くん」

「……おやすみなさい、紗代子サン」

階段を降りて行く黒尾の顔を、紗代子は最後までまっすぐ見る事はできなかった。

マネージャーの子たちはもう既に全員健やかな寝息をたてていて、紗代子は忍び足で自分の布団に潜り込んだ。

今になって、動悸が収まらない。ドキドキと赤く熱を持った頬が、黒尾に伝わらなかったのなら良いけれど。

黒尾のまっすぐな黒の瞳が、未だに閉じた瞼の裏から離れない。必死な声音は耳に染み付いて、紗代子の心を揺らがせる。

大人と子供なんて、言い訳に過ぎない。きっと自分は怖いのだ、と紗代子はうっすら悟っていた。前の様に、放ってしまえるのが、自分が悪いとはいえ裏切られるのが怖いのだ。

抱き締められた時に感じた、黒尾の早い鼓動の感覚が手の平から離れない。逞しい胸板と、それから爽やかなボディソープの香りも。

どうして忘れられないか、なんて考えないようにして、紗代子はもう一度ギュッと瞼を閉じた。




第5話です。
あいみょんの「裸の心」を聞きまくりながら書きました。アオハル感出てますでしょうか?多少は出てると嬉しいです。

「黒尾さんは包容力の塊」というイメージがありますが、私も本当にめちゃくちゃ同意なんですけど、普段は包容力あって余裕もある人が、切羽詰まってる姿ってよくないですか?私は好きです。大好物です。
そんな訳で、あんまりかっこいい黒尾はいないかもしれません。悶えてる黒尾はいますw
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