宿の主人から告げられたていたのは、「今は三部屋空いております」という、あまりにも絶妙な報告だった。
それを聞いたピヨエンが、少し考えてからあっさり言った。
「せっかくだし、星野一家は一部屋でいいだろ。久しぶりに落ち着ける時間も必要だ」
異論が出る間もなかった。
部屋に入った瞬間――アイとルビーの表情が、ぱあっと花開いた。
「ルビー!」
「ママ!」
次の瞬間、二人は勢いよく抱き合い、そのままベッドへダイブ。
「ふにふに~!」
「もぞもぞ~!」
柔らかい音を立てながら、二人はベッドの上を縦横無尽に転がり回る。右へ、左へ、縦へ、横へ。まるで感情そのものが制御不能になったかのようだった。
再会から時間は経っていたが、“何も考えなくていい時間” は、これが初めてだった。
感情が、再び天元突破したらしい。
アクアはその様子を、部屋の隅から微笑ましく眺めていた。
転がる。
笑う。
転がる。
また笑う。
ひとしきりやって、ようやく二人が落ち着く。
そして――同時に、ぱっとアクアを見る。
「アクアも!」
「お兄ちゃんも来て!」
「いや、俺は……」
遠慮しようとするが、二人の目は完全に“逃がさない”光を帯びていた。
結局、二人に弱いアクアが強く出られるはずもなく、観念して近づく。
次の瞬間、ぎゅっと両側から抱きつかれた。
「――あ」
そのままバランスを崩し、三人は一緒にベッドへ。
柔らかい感触と、安心する温度。幼い頃の記憶。全てが混じり合い、張り詰めていたものが、静かにほどけていく。
「……」
アクアは、抵抗する暇もなく――すやすやと眠りに落ち
、その寝息は、すぐに規則正しいものになった。一日の疲れも、張り詰めていた気持ちも、すべてが安心感に溶かされていくような、深い眠りだった。その寝顔を見下ろしながら、アイとルビーは自然と声を落とす。
ランプの淡い光に照らされて、アクアの表情はどこか幼く見えた。
「……可愛いね」
アイのその一言には、母としての響きと、それだけではない、微妙に混じった感情が含まれていた。
「ねー」
ルビーは、アクアの腕にしがみついたまま、指先で髪の毛の端をくいくいと引っ張る。
眠っているのに、離れてしまいそうで不安なのだと言わんばかりに。
「ルビーって、お兄ちゃんっ子だよね」
その言葉に、ルビーは間髪入れず、満面の笑みで答えた。
「うん! おにいちゃん大好き~」
言い切るその声に、迷いは一切ない。ぎゅっと、さらにアクアに抱きつく。
腕も、足も、体温も。自分の存在を刻み込むように。
「結婚しちゃうくらいの勢いだね~」
冗談めかしたアイの言葉に、ルビーは一瞬も考えずに答えた。
「する~!わたし、おにいちゃんと結婚する~!」
「えぇ?!」
思わず声が裏返るアイ。
その反応が面白かったのか、ルビーはくすくすと笑う。
「……でも」
アイは、ふと天井に視線を向けた。
異世界。
血の繋がり。
常識。
倫理。
それらを一つずつ思い浮かべて、そして、どれもここでは曖昧でこの体でさえも前の世界と同じとは限らないという事実に行き着く。
「……異世界だし……気にしなくてもいいのかも?」
「そうだよそうだよ!」
ルビーは、それが“正解”であるかのように元気よく頷いた。
少し間を置いて、ルビーが続ける。
「でも、私だけじゃないし」
「そうなの?」
アイは、今日の昼間を思い出す。
「今日出かけてた二人?」
「うん」
ルビーは指を折りながら説明する。
「あかねちゃんは彼女だったし、先輩もアクアが口説いて連れてきたし、態度で丸分かりだし」
言葉は軽い。でも、その内容は、決して軽くない。
「……いっぱいいるんだね~……」
アイの声が、少しだけ遠くなる。
羨ましさとも、諦観とも違う。ただ、事実をそのまま受け止めるような響きだった。
そして、少し間を置いてから。
「じゃあ……」
アイは、そっとアクアの寝顔に視線を戻す。
「ママも、アクアに貰ってもらおうかな?」
その言葉は、たぶんに冗談を含んでいたが、冗談だけではない様子を秘めていた。
「やったぁ!」
ルビーの顔が、ぱあっと輝く。
「ママもお揃いだぁ!」
二人は自然と体を寄せ合い、そのままアクアを挟むようにして、ぎゅっと固まった。
誰も、それ以上は何も言わない。
言葉にしなくても、今はこの時間が壊れてしまうことが無いことだけは、本能的に分かっていたから。
ランプの灯りが揺れ、三人分の呼吸が、少しずつ重なっていく。
こうして――星野一家は、静かに、同じ夢へと沈んでいった。
翌朝。
階段を降りてきた時、三人はぴったりとくっついたままの状態だった。
まだ半分眠そうなアクア。左右に密着するアイとルビー。
その光景を見た瞬間、ピヨエンの口が勝手に動いた。
「……ヤったのか!?マジでヤったのか!? シンイチィ!!」
「だからヤってねぇ!!ていうか本当にシンイチって誰だよ!!」
アクアのツッコミが響く。
階段の下で立ち尽くす、かなとあかね。
あんなことを言った翌朝のこの様に、言葉を失ったままの二人の視線が、アクアに突き刺さる。
説明しなければ。そう思った瞬間だった。
背後から、ふわりと影が動く。
アイが、何の躊躇もなく一歩踏み出し、そのまま――かなとあかねにぎゅっと抱きついた。
腕を回す動作は自然で、迷いも計算も一切ない。
体温を確かめるように、安心するように。
そして、にこっと笑って。
「私が二人のお母さんだからね~」
一瞬。
世界が、止まった。
かなの脳内が真っ白になる。あかねの思考回路が、完全にフリーズする。
「………………?」
理解が追いつかない。意味が繋がらない。情報量が、致死量を超えている。
二人の口から、ほぼ同時に零れたのは――
「??????????」
疑問符だけで構成された混乱が、その場の空気を支配した。
情報量が多すぎる朝だった。
「……これ、どう収集つけるの?」
「わかんない!」
廊下の向こうで、外から様子を見ていたMEMちょとルビーが、完全に他人事の顔でそう呟いた。
港町ポルトガの朝は、こうして誰一人正解に辿り着けないまま始まった。
――まだ、休暇一日明けただけである。