その日、カイトに「実家に顔を出すので付いてきて欲しい」と頼まれた。
なんか茶会だとか年寄りの話だとか、そういうのに付き合って欲しいと。
珍しくカイトがモジモジして言いにくそうにしていたので、一体どうしたんだ? とも思ったが。
まぁ、男子が一人前になり家を離れると、今度は帰るときにはどんな顔で行けば良いのかわからず、こそばゆい気持ちになるなんて話はよく聞くので、一緒について行くくらいお安い御用だと、とくに考えもなく了承した。
が、来てみて驚いた。
正確には、我が国ではもう4年も前からガソリンの使用制限により、ほぼ自家用車禁止状態のご時世なのにもかかわらず。
運転手付きの高級車『キャディラック フリートウッド』が、搭乗員宿舎代わりになっている旅館の前に横付けされた。
あの時点で、もうすでに十分驚愕したつもりだったのだが──。
……なんだこのお屋敷は。
森を抜けると日本建築の大きな屋敷や土蔵やらが建っていて
その一角が洋風の建物でテラスと広い芝の敷地があり、日本庭園や竹林が広がっていた。
どうやらカイトの実家は名門財閥一門のひとつで、お父さんは70歳、大手銀行の相談役。お兄さんは40歳、戦前まで数年に及びニューヨークやロンドンで海外勤務に就いていた重役なんてもので。世界情勢にも通じているとのことだった。
住む世界がまるで違う。説明されてもぼくにはなにもわからない。
ただ、ほとんど父親にしか見えないカイトの兄上が、17歳のカイトとは年が離れすぎていることと、顔がまったく似ていないことから、色々と事情があるのだろうと察してそれ以上は聞かなかった。聞いて良いことならカイトが黙ってぼくを連れてきたりしないだろう。
お金持ちの家に生まれるというのも大変な苦労があるんだろうなと
そういうことに疎いぼくにでも肌に刺さるほど感じていた。
鏡のようにピカピカで照明を照り返している玄関ホールの床の艶のひとつからでも……。
一旦応接室に通されてから、今度はお手伝いさんに先導されてカイトとぼくは、長い長い廊下を茶室へと案内される。
この時点でもうぼくは屋敷内のどのあたりを歩いているのかまったく分からなくなっていた。
あ、ヤバい。と思った。
前もって聞いてはいたが、こりゃぜんぜん話が違う。てっきり「暇な年寄との茶会に付き合うが、ひとりでは退屈なので一緒に来て欲しい」って程度のことを想像していたのに。どうやら相手はさっきチラッと見えた父君と兄上か!
こんな本格的な席に付き合えるわけがないだろう。
(カイト! 無理。 無理だって! ぼくこういうの無理だから!)
ぼくはにわか仕込みの茶の作法でこれに参加するのか!? と臆して小声で必死に辞退したが、それでもいいからと押し切られてしまった。
一応、来る前にカイトと茶の作法の予行演習はしてはいた。
だがそれは、ふざけ合いながらのオママゴトだ。
カイトもニコニコ笑っていたので、それで十分対応出来る程度の茶会だと思っていたのに、これはあんまりじゃないか!
僕の動揺が前を歩くカイトには、手に取るように分かるのか、さっきから声を殺して笑っているようだ。
こら、カイト。こっちを見ろ! 背中で肩を震わせて笑うな!
ダメだ。
完全にはめられた。
なすがままについていくしか無い。
もうどうにでもなれと思って、離れにある茶室に入るが
上官に呼び出されてもこんなに緊張したことはない。
カイトのお父上は物腰こそ柔らかいが、空気を張り詰めさせるチカラがあった。
なにより、いつもは飄々としているカイトの背筋の張り具合が、そのままぼくの立場をより窮屈にする。
大手銀行の重役だというお兄さんは、ぼくと目があうとゆっくり重くうなずいた。
ぼくも意味も分からないまま少しうなずく。
なんとなくあれは【きみは我らの話に口を挟むんじゃあないぞ】という文字通りに無言の圧力だった気がする。
静寂の時間。
炉壇、炉釜、柄杓、茶入、袱紗。
かろうじて予習をして名前だけはしっている高級そうな道具がいい香りのする新しい畳に並ぶ。
お父さんが立てるサラサラという茶筅の音だけが場を支配する。
障子には水墨画でもあるかのように笹の葉の影が風で揺れている。
一定の間隔で〝鹿威し〟の竹が流水を跳ね上げて鳴る「コーン」という響きがどこからともなく聞こえてきていた。
完全に自分のような庶民には異次元の空間だ。
なんでぼくは呼ばれたんだろう? 心のなかにいくつも「?」が浮かんだ。
いくらカイトの連れとはいえ、これはよほど親密な関係者でないと居てはいけない空間なのではなかろうか……?
「もうすぐ戦争が終わる、新しい時代が来る。カイトそれでもオマエはまだ戦闘機に乗るのか」
静かな、それでいてこちらの声を押しつぶすような重圧の言葉で父君に問われた
「はい、わたしの運命は彼らと共にあります」カイトは答えた。
「その空を飛ぶ自由ももうすぐ失うぞ」
「承知しております」
二人が交わした会話は、おそらくそのままの意味では無いのだろう。
カイトは父君の何らかの命令を拒絶しているのだ。
どちらも表情は変わらないが、今生の別れを告げているようにも見えた。
ぼくにはどうしようもないところで初めから決着は着いていたのかもしれない
終わりを見届ける立会人がぼくなのだろうか……?
カイトが父君の提案ではなく、ぼくらを選んでくれた事に嬉しい気持ちが湧くところなのだが。それ以上にお茶の苦味がいつまでもぼくの口に残り続けている。なぜかそれが心に引っかかって消えないままとなった──。
「ドウシャ君……と言ったかね?」
「は、はい」
急に声をかけられてドギマギする。
考えてみれば、友人や同級生の父親にあたる人と会話したことなんてほとんど無い。名前を呼ばれたことなんて皆無だ。
「うちの道楽息子は、しっかりやっとるのかね?」
「はい、隊で一番です」
「ははは……。そうか…………。だがこいつは昔から無鉄砲でな。ケンカだなんだと、寿命が縮むような苦労を散々させられてきた。キミも苦労しとるだろう?」
「いえ、ぼくは、そんな……」
「ドウシャ君、どうかこれからも、こいつと仲良くしてやっておくれな?」
そう言って笑う父君の顔は、どこか寂しそうに見える。
ぼくは自分の父親との縁が薄かった
父はずっと一生懸命働いて、働いて……。そのまま死んだのでろくに話をしたことがない。ぼくがまだ小さかったせいもあるが。
今、もし父が生きていたら……
ぼくを見て、同じように寂しそうな顔をするのだろうか…………?