格納庫の奥、分厚いコンクリートの壁に囲まれた区画で、みどり色の小鳥のような戦闘機が待機していた。
菱星航空機 キ201、ロケット推進戦闘機 愛称【麁正(アラマサ)】
――蛇之麁正(おろちのあらまさ)だ。
麁正に搭載されている国産ロケットモーター特呂三号エンジンは、互いに接触すると爆発的に反応する二種類の液体燃料,(ハイパーゴリック推進剤)を使用する。
そのため、作業は厳重に分離された。
通常の航空機燃料のように滑走路脇で手軽に行うことはなく
整備格納庫の近隣にある指定された専用の安全なエリアで二段階の注入が実施されるのだ。
まず、T-液 (過酸化水素)を、専用の給油車とクルーが注入し。
次に、C-液 (ヒドラジン水和物などの混合物)が、別の給油車と別のクルーによって注入される。
そして、一方の液体を注入し終えるたびに、機体やエンジン周辺を大量の水で洗い流し、燃料の残留物がないことを確認してから次の作業に移るという、非常に手間のかかる手順で行われた。
この厳重な手順が必要とされた理由は、燃料の危険性にある。
どちらの液体も非常に強い腐食性・毒性があり、取り扱いには防護服が必須で、わずかでもT-液とC-液が混ざると爆発的に反応するため、作業エリアは厳重に管理され、事故を避けるために細心の注意が払われるのだ────。
ドウシャは防護服を兼ねた分厚い飛行服に身を包み、ゴーグルを額に上げた。
彼のすぐそばに立つ整備班員たちの顔は、厳重な防護服の下でさえ、緊張に引きつっていた。先刻終わったばかりの燃料注入作業が、いかに神経を使うものだったかを物語っている。
猛毒の過酸化水素(T-液)と、それに触れれば即座に爆発する(C-液)。
二つの猛烈な液体が、今、機体のタンクの中で静かに分離し、出番を待っているのだ。
「充填完了!」
整備班の一人が、喉を詰まらせたような声で叫んだ。
燃料注入を終えた後の麁正は、自力で移動(タキシング)するのではなく、牽引車が機体をゆっくりと滑走路の先端まで運ぶ。
機体の下には、離陸専用のドーリー,(台車)の二輪の車輪が付いていた。
上昇と同時に打ち捨てられる運命の装置だ。
滑走路の端まで来ると牽引車が切り離され、スタートラインに立つ短距離走者のように麁正は静かに佇んだ。
周囲は妙に静まり返りやけに遠くの雑踏が聞こえる、嵐の前の不気味な予兆を思わせた。
ドウシャは空を一瞥したあと、機体によじ登る。
狭いコックピットに滑り込むと、目の前には最小限の計器類。そして、その下には、この小さな翼を成層圏へと叩き上げるための起動スイッチがあった。
……それは地獄の門を開く鍵だ!
ドウシャは風防を閉じると深呼吸し、集中した。
視線を滑走路の彼方、白く霞んだ空との境界線に固定する。
「点火!」
スイッチを入れる。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、背後で世界を切り裂くような轟音が炸裂した。
それはジェットエンジンの雄叫びではない。
爆発が持続するような、形容しがたい絶叫だ。
機体後部から、青白い炎と蒸気が猛烈な勢いで噴き出し、ロケットエンジンが牙を剥く。
ガツン!
背中を巨大な拳で殴られたような衝撃と共に、機体は滑走路を突き進む。その加速は、他のいかなる航空機とも異なる。まるで、ドウシャ自身が発射された巨大な弾丸になったかのようだ。
加速度aは凄まじい。
体中の血液が重力に逆らってシートに張り付き、視界の端がグレーに染まる。
ドウシャは呻いた。速度計の針が、狂ったように回る。わずか数秒で、麁正は揚力を掴み、空に舞い上がった。
ガタッ、タン!
軽い振動と共に、滑走路に二つの車輪が跳ねる音が響く。
ドーリーが切り離されたのだ。
もはや、この機体を地上に繋ぎ止めるものは何もない。
麁正は、ただ上昇あるのみ。
白い尾を長く長く引いて、彗星のごとく空高くへとまっすぐ昇って行く。
その姿を見送るものは皆、惚けるように黙って見上げていた。
ドウシャは推力レバーを最大に保ったまま、機首を可能な限り上に向ける。
ロケットの咆哮は最高潮に達し、その小さな翼は一瞬で雲を突き抜け、濃い青の空へと吸い込まれていった。
ドウシャの意識は、爆音とGに耐えることだけに集中する。
眼下に広がる大地は、瞬く間に遥か遠い地図へと変わっていく。
麁正が燃料を燃やせる時間は、あとわずか数分しかないからだ。
その短い猶予の中で
『敵機を捕捉し』
『打ちのめし』そして……
『生きて帰らなければならない!』
────神剣は、今、戦術軌道に乗ったのだ。