ぷるるるっ…と家の固定電話が鳴る音が家に響く。
都はその音を聞いて包丁を持つ手を止めて、受話器を取りに行こうとする。
「ん、出てくる」
そんな親の手を煩わせまいと御依が手を挙げて受話器を取りに行こうとする。
「いや、私が…」
「お母さんは食事の用意してて」
固辞して彼女自ら受話器を取りに行く。
小さい脚立を固定電話の置いている台の前に置いてからそれに乗り取る。
「はい、藍原です」
『みーちゃん!?早く来て!!』
取った受話器から耳に飛び込んできたのは大声で怒鳴るかのように張り上げられたそれだった。
「ん、誰?お姉ちゃん?」
この世界で御依を「みー」と呼ぶのは兄と姉しかいない。
そして兄は目の前で宿題をしている。消去法で姉が電話をかけていることになる。
「何?来て?どこに?」
御依の応答から母と兄の二人は楊がかけてきているのを察した。
『殺し屋がいるの!!んでっ!追われてる!一威が危ない!!』
「一威?え?殺し屋?まさか…」
楊は天然な気はあるが決して意図して貶める嘘はつかないのを知っている。
何より用意された文章を話しているのではなく、慌ててぶつ切りの単語を連発している事から、今の彼女の置かれている状況が相当に切羽詰まっているのが伝わってくる。
「みー、何かあったか?」
利人は宿題の手を止めて側まで寄って来てスピーカーに変更する。
『早くっ…!うわっ!?』
電話機から悲鳴と爆音が炸裂し、楊の声が聞こえなくなる。
「ちょっと!?お姉ちゃん!?」
「おい楊!」
ここで三人は事の深刻さを理解した。
都は無言だが手を止めて顔を青ざめさせながら固定電話の側まで来ている。
スピーカーからガチャリと擦れるような音が漏れてくる。
『お願い早く来て!』
「楊!無事なの!?」
都はここでやっと金縛りから解放されて声を出す。
「落ち着いて、どこにいるの?どこに向かえばいいの?」
『噴水広場…』
御依からの問いかけに少しばかり冷静さを取り戻して返事をする。
この近辺で噴水と言われれば一つの駅の名前が浮かぶ。
「わかったすぐ行くよ」
御依はそう返事をして一目散にリビングから飛び出す。
そしてそれを追いかけるのは兄の利人。
「ちょっと二人とも!」
都は慌てて呼び止めるが出て行く二人は聞く耳を持たない。
◎
二人はありったけの身体能力強化を使って最速最短で街中を爆走して駅前まで辿り着いた。
「ついたな…」
「うん…」
現地に到着した二人の前には、駅から道路を挟んで向かい側のアパートの方が騒々しくなっている図だった。
警察が建物周辺を封鎖しており、火災でもあったのか野次馬がこれでもかと沸いている。
二人の視線はそこではなく噴水周りにぶちまけられている水だった。
「お兄ちゃんは気がついてるよね?」
御依はこの場にいる高位の魔術師で、自身と同じ目線で話せる相手に話題を振る。
「ああ、噴水周りの水…一見すると普通に見えるが…」
彼の言う通り通行人はぶちまけられて出来た水溜りを避けて通っており、それはすなわち水が見えていると言う事だ。
純粋な魔力で出来た水は普通の人間には視認できない。
「うん、でもこれは魔力で出来た水が混ざってる」
「そうだな、恐らく噴水の水に魔力の水塊でも混ぜていたんだろうな。ただの水がぶちまけられて、そこに魔力の水の残滓が混ざったんだろう」
二人の目は細かい戦闘痕を逃さない。
先程の楊のSOSは間違いなくこの場所から発されたものだと。
「水…ね。殺人犯の特徴と一致はするね」
「ますます楊の言ってた事が現実味を帯びるけどな」
二人は不安を振り払うために会話を続けていた。そうしなければ二人とも恐怖と不安に押しつぶされそうだったからだ。
「ぴぃ!」
「お、ちーちゃんおかえり」
御依の指先に雀の式神が止まる。
利人は偵察を終えた式神から情報を得ようと問いかける。
「あのアパートの中はどうなってたんだ?」
「待ってね…中は水浸しで大量の魔力残渣があったと、うん、それで中に男の人が一人倒されてた…お姉ちゃんは中にはいない。うーん、どう見る?」
彼はその情報をもらって考え込む。
「まぁ水浸しで大量の魔力残渣は火災用のスプリンクラーを起動してそれを利用して魔術を発動したんだろうな。ただ倒れた男が殺人犯かどうかの確証はないけどな。現場付近にまだ殺人犯がうろついていると考えとかないとな」
現場に倒れているからと言って必ずしも被害者とは限らない。
この件は犯人のこれまでの手口とは明らかに違った。
スプリンクラーを使ってここまで目立つのは何かしらの交戦があったと考えるのが普通だった。
「それはないよ」
彼女は一威が現場に残っていないのかと思いそう言った。
残っているのは一威に負かされれた相手だろうと。
「…?」
その返事に相手は小首を傾げる。
「へ?」
何故相手が不審そうにしているのか分からない。
「なんでそんなこと分かるんだ?」
「え、ああ…いやそれはですね…」
ここで御依は墓穴を掘ったことに気がついた。
一威が女と分かっているのは楊と御依だけで、この前のスリ事件の時に利人は一威を見ておらずスリの犯人は小さい男の子だけだと思っているのだ。
「お兄ちゃん!みーちゃん!」
御依がどう説明をしたらいいのか窮していると助け舟がやってくる。
「楊!無事かっ!」
利人は御依への追及を一旦やめて、駆け寄り抱き締める。
御依もほっと息を吐いてから楊の頭を撫でる。
「よかった…無事だったか…よし」
彼はそのまま抱き抱えて立ち上がる。
「まって!」
取り敢えず安全な場所に移動しようとしたのだが問題の相手から待ったがかけられる。
「どうした?」
彼は静止の言葉を受けて足を止める。
「一威がまだ…!」
「いちい?」
妹から出てくる単語に不審がる。
明確に一威という名前が出て来て御依の顔色が変わる。
(お姉ちゃんを助けてくれたのはやっぱり一威なんだ!)
たった一度の邂逅に終わった相手がこの場にいるかもしれない。
そう思うと居ても立っても居られない。
「十歳くらいの一人でいる女の子を探して!」
「ぴぃっ!」
指先に止まって待機していた雀の式神に指示を出して飛ばす。
「おいっ!」
もう一人の問題児の妹がアパートの方へと走っていくのをみて彼も楊を抱えたまま慌てて追いかける。
路地裏をしらみつぶしに探しながら駆けていると。
「ぴぴぃーっ!!」
「あっちか!」
雀から見つけたと鳴き声で報告を受けてその方向へと向かう。
「血痕…」
向かって行く途中で地面が一部濡れていたり、小さな血痕が落ちた痕跡を見つける。
何より濡れた跡が何かを引きずっているように見える。その事実が彼女を不安にさせる。
「ピィ!」
曲がり角にいると式神から報告が入る。
ちょうど引きずった跡も曲がり角の先になる。
しかしそこで利人は妹に待ったをかける。
「みー、ちょっと待て。蘭出て来い」
「はい、マスター」
主人からの呼び出しに式神メイドは恭しく礼をしながら現れる。
「楊を頼む」
「かしこまりました」
そう言って抱えていた楊を渡す。
「よし、みーも式神で確認してるとはいっても油断はするなよ」
彼はそれとなく前に出てそう伝える。
「あー…うん」
御依はそう言われて頷く。
一威がそのような事はしないだろうと思ったが、最初に会った時は不意を突かれて魔術を破壊されたなと思い出した。
さすがに御依に手は出さないだろうが、利人に対してどのような対応をするかは未知数である。
「一威!?」
彼女が曲がり角の先で見たのは倒れ込んでいる一威だった。
「しっかりして!」
慌てて相手のそばまで寄って傷口の具合を見る。
息は荒くなっているが大量出血は見られない。
「魔力で…」
服が血で汚れている割にはそこまで出血していなと感じたが、魔力で傷口を無理矢理に封じ込めて固めているのを見た。
(塩水…なるほど)
そして傷口付近で生理食塩水に性質として近い物質を海属性魔力で生み出し、そして流して体のショック症状を和らげていた。
そしてそれを意識が朦朧としている状態で正確に維持する技量。
それらは残され砦の孤児だからこそ表の病院に駆け込めない身の上の証でもあるのだ。
「もう大丈夫だから」
一威の手をそっと取ると生命維持の術式を見よう見まねで再現をする。
それらは前世で何度かその手の怪我をした人の延命の為に練習した事、そしてそれを実践してきた経験があってこそ。
平安の時代は今より医療の知識が無い為、人体の浸透圧や塩分濃度など分からない手探りで困難を極める技だった。
しかし現代では一定以上の知識に技量と海属性素養があれば出来るものになっている。
そもそもこの技術が無くても現代は携帯電話と救急車がある為そこまで切羽詰まって必要なわけでは無い。
(今世でコレを使う日が来るとはね…)
彼女は内心で苦笑いをする。これでは望む平穏とは程遠いではないかと。
「みーちゃん…」
蘭に抱き抱えられていた楊は降ろしてもらい妹の隣で膝をついて容体を聞く。
「大丈夫、死ぬ事はないよ。当分寝て安静にしてれば」
「ホント!?みーちゃんありがとう!!」
安心したのかしおらしい態度から一変して嬉しそうに御依に抱きついて頬擦りをする。
「熱い…」
こんな暑い日に抱きつかれてはしんどい事この上ない。
「えと…その子は知り合い?」
二人のやり取りを見ていた利人は何が何やら状態。彼が一番この会話についていけてないのだ。
理由は彼は一度も一威と会ったことが無いこと。
「一威が助けてくれたの!」
楊は抱きつくのをやめて兄の方へと振り返ってそう言った。
「『いちい』ってあれか名前か」
彼は視線を妹達と倒れている相手に視線を巡らせてようやく合点がいったようだった。
これまで「いちい」という単語が何処に分類されているのか理解出来ていなかった。
「ふぅん…」
それを聞いてから何処かに電話をかけようとする。
その先は当然警察と救急車だろう。
「ちょっと待って!」
御依はその光景を見て焦り、相手の携帯を持つ手を握ってやめさせる。
「ん?どうした?」
「みーちゃん?」
二人は当たり前だが何故止めるのか分からない様子。
いくら応急処置をしたとはいえ医療の知識をかじっただけの素人がした事に過ぎないのだ。
「あ、いや、ええっとね…」
相手の腕を握って止めてはいたがどう説明したらいいのか分からない。
一威以前に御依も同じ様に力や身分を隠している立場なのだ。
御依の正体を隠せば隠す程に藍原家の皆の首を絞めているのか、それが分からないわけではない。
それに重ねて一威の正体を隠しつつ匿って欲しいなど言えない。
「うーん…」
彼は手を震わせながら必死に何かを絞り出そうとする御依を見て考える。
おそらく彼女は協会に報告せずに一威の事をやり過ごしたいのだと。
「分かったよ、取り敢えず事情を聞くのはうちに帰ってからにするか。つってもお母さんがなんて言うか分からないけどな」
ふーっとため息をひとつ吐いてから腕を握られてない方の手に携帯を移してからしまう。
「ちがっ…そうじゃなくて…」
相手に心の中まで読ませて気を使わせてしまった。そんな自分の意気地の無さを痛感する。
もしここで一欠片でも誠意を見せなければ、何も話さないという逃げの選択を取ったとしたら。
そうすれば恐らく家族に疎まれ嫌われるだけでなく、自分自身の事が一生嫌いになるかもしれなかった。
己すら好きになれず嫌悪の対象になる、その事が途轍もなく恐ろしい。
御依は相手の腕を握る手を離してから深々と相手に対して頭を下げる。
「お願いします。一威の事を匿ってください」
◎
藍原家のリビングに敷かれた布団に横たわる一威。
そしてリビング中央で土下座する御依。
その前でその光景を同じく床に座って見ている藍原夫妻。
利人は黙って椅子に座って静観している。
楊は一威の事に意識を割きながらも何をしたらいいのか分からない。
「つまりこの子が」
良二の視線は倒れ込んで眠りに落ちている一威に向けられる。
「動ける様になるまでウチで匿って欲しいと。協会に潜りの魔術師がいるのを隠す形で」
家の家長である良二が仕事を終えて疲れて帰ってきたら、土下座している御依とそれを冷やかな視線で見下ろしている妻の都。
そんな地獄の光景が飛び込んできて大パニックになった。
「御依、貴方に一応確認はさせてもらうけど今の自分の立ち位置は分かっているのよね?」
都の言葉に頭を深々と下げていた相手はビクリと肩を震わせてから、頭を少しだけ上げ俯く形で相手に向かい合う。
「はい、私も潜りの魔術師で協会に報告をせずに黙って貰ってます」
「それで?」
「それに重ねて一威を庇って欲しいとお願いしてます」
都はその確認を終えてからふーっと溜息を吐く。
彼女は最初は傷だらけの子を抱えて連れてきた時は焦った。
すぐに相手の体を洗ってから手当てをして落ち着くと、今置かれている状況が藍原家にとっての今際の際である事にじわじわと認識が追い付いてきた。
明確な潜り魔術師を匿っているという絶体絶命の状況なのだ。
今なら報告すれば間に合うと、その事を協会に慌てて連絡しようとしたが御依にそれを止められて今に至る。
「お母さん…みーちゃんは」
「楊は黙ってなさい」
「ひっ」
楊は何かを発言しようとしたが、それをピシャリと封殺されて涙目になって縮こまる。
「その子が楊を助けてくれたのは分かっています。感謝もしています」
もしも一威が近くにいなかったら溺死体が一つ増えていた。
こうして楊が家に帰って来れなかった。
それはキチンと理解出来ている。
これではあまりにも御依が不憫だと感じて良二が口を開く。
「都さん、少しは御依の意見も」
「良二さんは黙って」
「…はい」
家長も娘と同じ様に黙らされてしまう。よく躾けられている。
「でもそれとこれは別でしょう」
恩人である事は間違いない事実。
しかしそうだからと言って例外を許したらそれこそキリがなくなってしまう。例外の意味がなくなってしまうのだ。
「一威は…」
御依は都の懸念を汲んだ上で口を開く。
視線を母に対して顔を上げて真っ直ぐ向ける。
「いつか私達を助けてくれる…そんな気がする」
一威が御依をどう思っているかは分からないし、そんなつもりは相手には無いかもしれない。
「だから…今は私が守りたい」
その言葉に都だけでなく皆が聞き入ってリビングが静けさで満たされる。
「初めてな気がする」
最初に口を開いたのは都。
「御依が自分の意見を押し通そうとするのは」
都は一度否定をすれば簡単に諦めると思っていた、仕方ないと切り捨てると思っていた。
思えば過去に魔術師にならないと宣言した際も直接お願いされたわけでもなく、表面上は要望こそしたが仮に都か利人に協会へ突き出されてもそこは仕方ないなと達観していた部分もある。
そう割り切っていなければ利人と都の二人をとっくにあの旅行で見殺しにしているのだから。
思えば藍原御依は精神年齢ゆえか他人と意見を戦わせたり自己主張が強くない。
欲しいものをねだる事も無ければ好き嫌いも主張しない。
恐らく先日の土地神の件もダメだと言ったら引いたはず。
それは一種の達観とも言える。しかしそれは仕方ない。
御依自身の記憶があやふやとはいえ、大人数に裏切られたのが亜夜鳴の最後だったのだから対立を好まない。
しかし今回は都の意見に対抗している。
この懇願が皮肉にも都が御依という娘に対して常日頃から望んでいた我儘を通そうとする姿だった。
「……」
だからこそ悩む、悩んでしまう。
亜夜鳴が御依になるのかどうかの分水嶺を提示されている。