「遅い」
一威はソファーでゴロゴロしながら御依を幼稚園まで迎えに行く都たちの帰り待っていた。
しかしもうとっくに帰ってきてもおかしくないのに帰ってこない。
「まっさかね」
まさか御依がいて怪異に殺されると考えづらい。あの強さで遅れはそうそう取るはずがない。
「!」
そこで家の固定電話がぷるると鳴る。
しかし一威は藍原家の人間ではない。そして家には誰もいない以上は出るわけにもいかない。
「0110?」
一威はディスプレイに表示された番号を見てあれ?と首を傾げる。
出ているのは警察署の電話番号だった。例外はあるが警察署の番号は最後のこの番号がつくパターンが多い。
「結構やばい?」
もし仮に家に警察が来るとしたら隠れておかなくてはいけないなと警戒心を強める。
そんな不安を抱えていると家の本来の主人が帰ってくる。
「ただいまー!」
楊は玄関扉を開けて元気よく家の中に入る。
この声を聞いた一威は出迎える為に玄関口まで小走りで向かう。
「おかえり」
そして楊を確認してからお帰りの挨拶をする。
「ゲームしようぜ、ゲーム!」
「え?いや、でも宿題が」
一威は早速手を取ってリビングへと連れていき遊びの誘惑を行う。
当たり前だが都が簡単にやるべき事を後回しにして遊ばせるなどあり得ない。そんな事をしたら都に何をされるのか分かったものではない。
「いいじゃん、今なら都さんはいないしちょっとくらいさ」
「で、でもぉ…」
「ちょっとゲームしてからさ、お母さんが帰ってくる前に宿題終わらせれば関係ないだろ?」
「……」
その悪魔の甘言に心がぐらついてしまう。
遊びたい、しかし都を怒らせてしまったら自分はという二つの気持ちがせめぎ合う。
視界に入るのはゲーム機で当然遊びたい欲求を刺激してくる。
「うっ…くっ…!」
楊の口から苦悶の声が漏れ出る。
別にここでゲームではなく宿題を優先したとしても一威の機嫌が悪くなる事はまずない。そもそも本気で誘っているわけではなく軽い気持ちだと。
しかしその軽い気持ちから来る甘言が途轍もない誘惑。
「さ…」
「ん?」
相手から出てくる苦しげな声を一威は拾う。
「三十分だけ…」
最終的に楊が出した結論は少しだけ遊んでから宿題をやりますと言うもの。
一威はそれを聞いて待ってましたとばかりにテレビの電源を入れる。
しかしここで携帯がプルルと鳴る。
「おっ?」
「電話だ」
楊はだれだろう?と固定電話のそばまで行きディスプレイを眺める。
「お父さん?」
「ほんとだ、良二さんだ」
そこには登録番号であるこの家の家長の携帯の番号が写されていた。
楊は何だろう?と受話器を取る。
(もしかしてやばい?)
その一方で先ほどの警察からの電話とのセットで一威は不穏さを感じ取っていた。
また何か良くない事が起きているのではないのかと。
「はーい、え?うん、分かった。うん、うん、はい」
楊は拍子抜けした様に電話を受けて、そして直ぐに切られたのか驚いた様だった。
「なんて?」
受話器を置いて何やら眉を顰めている相手に向かって話しかける。
「今日は遅くなるか、もう帰れそうにないから自分達でお風呂に入ってご飯を食べて寝なさいって。すぐにお兄ちゃんを家に帰らせるからって」
「ほぉ?」
「うん」
「なるほど?うーん、また何かあったか」
振り返りながら伝えられた言葉に不穏な気配を更に感じる。
一威が居候を始めてからというもののかなりの事件が起きている。
影喰いに御依があわや乗っ取られかける。
夏休み最終日には御依が誘拐される。
そして魔術師育成高校で殺人未遂事件とまだ十日ほどしか経ってないのにかなりの密度の日々を送っている。
「まぁ幸いにもシチューは作り置きがあるんだよね」
一威はキッチンのコンロのそばまで行って改めて確認をする。
やはり中身はホワイトシチューが入った鍋があった。
「ねぇ…」
「ん?」
鍋の中身を確認している相手に対しておずおずと話しかける。
いつもの活発な雰囲気からは遠い不安そうな声色。
「お母さんとみーちゃんに何かあったのかな?」
「んー…まぁこの前みたいにトラブルでもあったんでしょ?」
脳裏に浮かぶのは夏休み最後の日の一件。
「だ、大丈夫かな?」
「いや、御依がいるからそうそう大変なことにはならないでしょ」
「う、うーん…そうだけど」
楊は一威には決して教えられないが藍原御依の正体は亜夜鳴と呼ばれているかつて魔術という技術の基礎を体系化した偉人である事。
そしてその戦闘能力と知識量が突出している事を知っている。
家族旅行の件では兄にひっついて事件解決と母親を守りながらも裏で手を引く黒幕を畳んだ事。
土地神の件でも落ち着いて感情に流されずに動いた事。
そして現代では希少になった舞による魔術発動。
楊の中でも頼りになる強い魔術師は兄の利人で、その次に強いのは御依と認識している。
「まぁ取り敢えずゲームする?風呂入る?ご飯にする?」
一威は出せる提案を口にする。
「取り敢えずお風呂入って宿題する」
「そ」
ちなみに楊に新婚さん的な知識は無いためスルーされてしまう。
◎
一威は自身も風呂から上がり髪を拭きながらリビングに入るとそこにはテキストと向き合う楊がいた。
「どうした?」
「うーん…めんどくさーい」
一威が覗き込むのは算数の宿題で百の位を扱う買い物とお釣りの文章題などが問題として出されていた。
「あー、十の位の足し算ね」
「一威はさ、勉強とか出来るの?学校行ってないよね?」
「んー…まぁそうね」
「羨ましい…」
一威には明確な戸籍や保護者はいない為に義務教育は果たしていない、つまり学校に通っていない。
かなり悲惨な境遇ではあるが楊の目線からは学校をサボり放題にしか見えない。
「学校は無いけど残され砦には塾みたいなところはあるから国語とか算数はするよん」
一威はそんなに楽しいものでは無いと苦笑いをしながら応対をする。
楊に孤児の現実を伝えたとしても空気を悪くするだけのためぼかして答える。
「さてと」
一威は楊から離れて踏み台を持ってきてコンロの前に置いてから火をかけてシチューを温め直す。
改めて誰かが作った温かいものを食べるのが当たり前な日がきている事実に感慨深さを感じる。
「おっ」
シチューを軽めに混ぜていると玄関から誰かが入ってくる音がする。
玄関の開く音から躊躇いの雰囲気はない事がこの家の住人である証拠。
「あ、お兄ちゃんかな?」
「そうじゃない?利人だけ先に帰るって言ってたんでしょ?」
そう言いながらも先に帰らせるという表現に今思えば変だなと感じる。
つまり何か重大な問題が起きて親たちが帰れないから息子で高校生だけを先に帰らせるとしか受け取れないからだ。
「…ただいま」
利人はリビングに入るや否や帰りの挨拶をする。
「「…?」」
しかしどこか覇気のない雰囲気に二人はキッチンとリビングのカウンター越しに顔を合わせて疑問符を浮かべる。
「何だ何だ辛気臭いな」
一威は少しだけ悩んだ末に敢えて明るく問いかけてみる事にする。
利人はそれに対して楊が宿題の為に占領しているリビングの食卓テーブルに対面になる形で椅子に座る。
それを見た楊は宿題の手を止めて、一威もコンロの火を消して同じように座る。
「二人に話しておくことがある」
二人が座り対面すると重い口を開く。
「あ?またなんか御依がやらかしたか?」
あえて軽い口調で一威は尋ねたが利人に笑顔や緩んだ雰囲気はない。
利人の重い雰囲気はそれでも晴れなかった。
(これは…)
一威はここで明るい雰囲気をやめて顔を真剣なものにする。
(ちょっとやばいかも)
その空気は楊も感じ取っており悪い知らせを困惑しながらも話を待つ。
「一威は知ってると思うけど…隣界はまだ楊は知らないよな?」
「りんかい…」
「そう、隣界だ」
楊はまだまだ魔術界の常識には疎い部分がある。
魔力の使い方は学んでいる途中でも魔術界の常識や歴史はまだ学べていない。
「隣界は怪異が住んでいる世界」
一方の一威は利人の代わりにスラスラと話し始める。
「人間社会と同じで怪異達が縄張りやルールを作って暮らしている世界。ここよりも魔力濃度が高くて独自の生態系がある世界。十二体の貴族階級によって分割支配をされている場所」
まるで見てきたかのように一威は話す。
「詳しいな。と言うか俺も知らないようなことが次々と出てくる」
「こっちは残され砦出身だぞ?その手の知識は秘密主義の協会よりも豊富でな」
「秘密主義?どういうことだ」
一威は少しだけしまったという表情になる。しかしすぐにその表情は潜めてしまう。
「まぁ、色々とあるわけさ。残され砦ってのはさ」
彼女は何かをはぐらかすように話を切ってしまう。
利人は何か大切な言葉を飲み込まれたのを感じたが今はそれどころではないと気を取りなおす。
「一威ものしり」
「年の功だよ」
楊は八歳で自称十歳の一威とは二歳差しか離れていない。
「話が逸れたな…」
利人は元々話したかった話題に戻そうとする。
問題は隣界の存在そのものでは無かった。
「神隠し…って知ってるか?」
一般的に人間がある日を境に何の脈絡もなく居なくなる現象。
「神隠しだと?」
「聞いた事ある」
その単語に対して一威と楊はそれぞれ違う反応を返す。
「……」
要は何が言いたいのか分かっていなかったが、一威はここで利人が何を切り出そうとしているのか察し始める。
神隠しと隣界の確認から何を話そうとしているのか、そして先程から本題に切り込むのを躊躇う態度から
「なぁ、そういや警察から電話がかかってきたのはさ。楊が家にいるのを確認するためか?」
恐る恐ると言った感じて話を切り出す。
楊は小学二年生で個人で携帯電話を持っていないため、無事かどうかを確認するには方法が限られる。
そもそも警察からの電話について利人が把握出来ているのかすら曖昧なのに聞いている時点で一威の動揺が透けてしまっていた。
「どっちだ?」
一威は確信的な切り込みをする。御依と都のどちらが犠牲者になったのかと。
そしてその意図は利人には伝わっていた。
「御依」
利人は静かに可能な限り動揺を出さないように努めて、渾名を使わずにそう言った。
その言葉を聞いた一威は黙りこくり、そして何かを噛み締めるように
「そうか」
そして何とか振り絞って口にしたのはその短い一言だった。
今の彼女の中には隣界と神隠しの情報が浮かんでいた。
隣界では人間はどう足掻いても一週間が時間のリミットである事、そしてその時間が過ぎると怪異に体が変質してしまう事、戻れるかは転移門のアルゴリズム次第なこと。
(問題は…)
一番の問題は御依がこの情報と時間的リミットを把握した上で動けるのかという事だった。
一威は残され砦出身のためその手の情報を持っている。
しかし御依は青風家の分家の一つの藍原家の生まれであり協会側の人間。
しかも藍原家は没落し切った家のためにさしたる権限も権威もない為そこまでの情報を得ているのかは怪しい。
「一週間だ」
一威は極力感情を出さないように告げる。
「え、何が?」
その言葉を拾った楊が何を言っているのか把握出来ずに聞き返してしまう。
楊が一威と同じ知識を持っているはずもなく呟いた言葉に反応するのは当然の結果だった。
一威は顔をゆっくりと楊の方へと向ける。
「御依が隣界に落ちたのが本当ならあと一週間で帰ってこないなら死んだと思った方がいい」
その言葉は楊だけでなく利人にも深く突き刺さる。
利人は何とかその言葉を受けて耐えた。実際神隠しに遭った人間が生還したケースはごく稀なのを知っていたからだ。
「し、しん…いや、何が…」
降って湧いてくる情報をうまく処理しきれない。
「死ぬんだよ、あと一週間経てばこの世界には帰って来れないんだ」
「死ぬって!」
動揺する楊はつい一威に対して怒鳴りながら掴み掛かかってしまう。
「……」
一威はその剣幕と掴んでいる手に対して黙って受け止めている。
あえて無駄に期待を持たせないための行動とはいえ肝が座っていた。
「あ、いやっ…これは」
楊は出してしまった手を見てから慌てて引いた。
一威はそんな態度の楊を見て御依とは違う力と暴力から無縁の世界に生まれた子供なのだなと感じた。
「ごめんね」
相手の手を優しく取って可能な限り尖りのない声色で話しかける。
自分の言い方が悪かったという自覚はあった。
「まぁ一旦さ、食事でも食べて落ち着こうか」
一威はそう言って立ち上がりシチューを温めを再開する。
焦げつかないように丁寧にかき混ぜていく。
「なぁ」
利人は楊と違い簡単に飲まれない。
「なんで一週間なんだ?」
具体的な時間を何故口に出来るのか疑問に思ったのか尋ねる。
「それね」
理由をすっ飛ばして結果と予想だけを告げてしまったのに気がつく。
思っていたよりも自身も冷静ではなかったと。
「んー…そうだね。まぁ隣界の環境がさ」
踏み台に乗ってシチューを眺めながら呟くように言葉を紡ぐ。
「こう…人にとっては隣界の空気は害があるからさ」
本当の事を隠してしまう。
人間が怪異化しかねないのだが大量に情報を与えたとして今ここで飲み込めないと感じたのだ。
(誤魔化した?)
利人は少しだけ歯切れの悪い態度を見て何かを察した。
それは個人としての理由なのか、それとも残され砦として教えてはいけないものなのかは察することも出来ない。
(い、言えない)
歯切れの悪さの理由は楊に対して妹が怪異になるぞとこの場でいいづらいだけだった。
「……」
三人は取り敢えず落ち着く為によそわれたシチューを食べる。
楊と利人はあまり喉を通ってなさそうだった。
「あー、やっぱ喉が通らん感じか」
やっぱり落ち着かないよなと自身も少しだけ胸がつっかえるような感覚を得ながらも食べる。
「逆に何で落ち着いてるんだよ」
利人は表面上は落ち着いているように見える相手にそう問いかける。
「食べられる時に食べないと、常在戦場だ」
「ここは戦場なのか?」
利人はその返事に対して苦笑いしかできない。
しかし楊は「常在戦場」の意味が分からないのかポカンとしている。
「帰ってきた」
食べていると利人は玄関の鍵を開けて誰かが入ってくる気配を感じる。
一威は席を立っていつでも隠れられるように備える。
仮に協会の人間が他にいたら姿を見られるのはまずいため。
利人はそれを察して立ち上がり玄関まで出迎えにいく。
そして何かの話し声は聞こえるが緊急性は感じないものだった。
(あの二人だけか)
廊下から聞こえてくる利人の反応からして想定外の人はいないだろうと考えて一威は自分の席に戻る。
そしてガチャリとドアが開いて入ってくる。
「…お、お母さん」
楊は帰ってきた父親に肩を支えられている母親を見やったがすぐに言葉を詰まらせる。
都は憔悴しており疲れ切っているという表現では足りない惨状だった。
とにかく理知さが今は表情から消えており、目元赤くなり腫れていた。
「…」
一威はその反応を見て目の前で御依が隣界に落ちたんだろうと予想する。
そして夏休み最終日の日を思い出して御依の母親であり藍原都は子供に対して強い責任感と愛情を抱いている人物だと知っている。
あの日告げた「人は簡単に死ぬのよ!!」には一威すらも知らない深い思いがあったはずだった。
「えと…」
楊はそれでも話しかけようとするが一威はそれを見て相手を手で制してやめさせる。
今は表面だけの中途半端な理解と優しさは不要だと考えてやめさせる。
「……」
都は俯いたままただいますら言わずに俯いて静かだった。
決してお喋りではないが基本的に朗らかな人柄だけにここまで悲壮なのは初めてだった。
「お前たちは食事とお風呂をしてから寝なさい。お母さんは疲れてるから」
良二は重い空気をなんとかしようと子供達に対してそう指示をする。
彼は妻の肩を支えながら二階の寝室へと連れていく。
「楊は食事を食べて宿題したらもう寝ようか」
利人は母親の状態に一時的に止まってしまったが直ぐに気持ちを取り直してそう指示を出す。
こうして御依神隠し最初の日は終わりを告げた。