選ぶこと、選ばないこと 作:思い出
目が覚める。どうやらあのまま寝てしまっていたようで、時計を見ると短針は既に朝の五時を指し示そうとしていた。
「誰かが起きてくる前だったのは、不幸中の幸いかな」
そんなことを言いながら体を起こそうとしたとき、纏わりつくような重みに気が付く。それと同時に、鼻をくすぐる甘い匂いと、首筋にかかる規則的な寝息を感じた。
いったい何が、と目をやると、膝枕をしていたはずのヤミさんが何故か覆いかぶさるようにして俺の体に乗って眠っている。
彼女の右手は俺の左手にしっかりと絡まっており、引き剥がすのは容易じゃなさそうだ。
──あのまま寝落ちしたとしても、こうはならないはずだが。
ヤミさんが乗っている、と気づいた途端、先ほどまでは感じなかった体の温もりや、心臓の鼓動までもが聞こえてくる気がした。
俺の呼吸と、ヤミさんの呼吸が一体化して、密着している体も相まってまるで一つの生命になったような錯覚を受ける。
……ただ、俺の心臓だけが早鐘を打っていて、その鼓動が彼女に伝わってしまわないかだけが心配だった。
昨日と同じように、チクタクという時計の音だけが室内に響く。
昨日と違うのは、これが何の言い訳も効かないということ。
(どう、しよっか)
時間的にも、ヤミさんを起こして支度をするのが正しいのだけど……。
「ん……ぅ……」
「どうにも、昨日から調子が狂うなぁ……」
もっと言うのなら、昨日の夜から、だろうか。
(あんな話をしたから、かな)
後悔はしても、納得できる生き方を。
何の因果か生まれ変わって、前世の記憶を認識した時最初に思った気持ち。
『そう』なれるように生きてきたつもりだったけど、自分の心なんて自分でだってわかりはしない。
俺が彼女の手を握るのは、彼女が望んだからか、それとも俺が誰かに必要とされたかったからか。
優しさなのか、同情なのか、それとも──。
思考がぐるぐる回っていたそんなとき、ヤミさんの右手がぎゅっ、と俺の左手を握りこむ。
「……寝起きの頭で考えることじゃないね」
ただ一つ言えることは、俺と彼女は今ここにいて、俺の心臓はうるさいくらいに早鐘を打っているということ。
──今は、それで十分か。
なんて、そんなことを考えながら手を握り返したのがいけなかったのか。
俺の上に乗るヤミさんが小さく呻き、ゆったりと目を開く。
宝石のような深紅の瞳は、まだ焦点を結ばずにぼんやりと虚空を映していて。
それがゆっくりと、目の前にいる俺の顔を認識する。
数秒か、あるいは数十秒か。
ただ朝の静けさだけが流れる中、俺とヤミさんは見つめ合い──。
「……ぉはよぉ……」
へにゃり、と笑ったヤミさんが、聞いたことのない声色でそう言った。
「……おは、よう」
驚きで言葉に詰まりながら挨拶を返す。すると、先ほどまでどこかとろんとしていた彼女の瞳に徐々に生気が戻り、跳ね上がるように飛び起きて俺の上から飛びのいた。
途端に、今まで重なっていた温もりが消え、朝の冷たい空気が肌に触れる。
ヤミさんは着地と同時に距離を取り、髪が視界を遮るように動く。
顔を隠す金色の髪の毛先が、行き場のない感情を持て余すようにワサワサと忙しなく揺れている。
そこから顔を半分出しながら彼女は告げた。
「……違います」
俺は何も言っていないのだが。
「違います。先ほどのは、そう。少しばかり寝ぼけ──いえ、そうではなく……。とにかく、違うんです」
普段の冷静さなど欠片もなく、ただ「違います」とだけ言っているヤミさん。
これは。
「ヤミさん」
「ちが──、なん、ですか?」
「おはよう」
「…………はい。おはようございます、リク」
髪の隙間から、まだ少し赤みが差した顔をおずおずと覗かせて、彼女は小さく答えた。
──ところで、なんで上に乗ってたの?そ、それは、だから……──
◇
そんなことがあっても、当然その日は平日で、学校はあるわけで。
「おはよう」
「おっす、成瀬。珍しいなお前がこんな時間なの」
「まぁ、ちょっとね」
あの後起きてきた美柑さん──昨日のことを謝られた──に泊めてもらったお礼を言い、夜に入れなかった分手短にシャワーをお借りした。
その後、時間も時間なので一度家に戻って登校。
なんとか時間には間に合ったが、少し早足になったせいで折角浴びたシャワーが汗で台無しだ。
……それに、自分の家とは違うシャンプーの匂いが微かに残っている気がして、妙に落ち着かない。
「あれ、リクくんだ。今日はお休みなのかと思った」
席に着くと、隣で窓の外を眺めていたメアから声がかかる。
「おはよう、メア。今朝は……色々あってね」
「色々って……」
言いながらメアがすん、と鼻を鳴らし、俺の胸元へ顔を近づける。
「……この
「うん、昨日は突発的に先輩の家に泊まることになってね。……というか、そんなに匂う?」
髪から匂いを下ろすように手で扇いでみるが、自分ではイマイチわからない。
「先輩って、この間の?」
「この間……ああ、違う違う。メアも知ってるんでしょ?リト先輩だよ」
俺がそう言うと、メアはスッと胸元から離れ、笑いながら口を開く。
「なーんだ。でも、いつのまにせんぱいと仲良くなったの?」
「なんていうか……、共通の友人がいて、そこから?メアがナナと引き合わせてくれたのと同じで」
「リクくん、思ったより友達多いんだね」
「それって褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
その割には随分と投げやりな──と、思っているとHRの開始を告げる鐘が鳴る。
教室のドアが開き、担任の小川先生が入ってきた……まではいいのだが、またしてもその背後に見慣れない──いや、ある意味ではとても見慣れた──人影が続いていた。
「……はじめまして、ヤミです。今日からこのクラスでお世話になります。よろしくお願いします」
短くそういった彼女がぺこり顔を上げた際、ほんの一瞬だけ、彼女の赤い瞳と目が合った気がした。
その直後、クラスに歓迎の拍手と男子生徒の歓声が響き渡る。
「じゃあ、ヤミさんは後ろの空いてる席に座ってくださいね」
「はい」
小川先生にそう促され、頷いたヤミさんが席へ向かう。
その間も男子の視線は釘付けで、同じように──理由は違えど──俺も同じように見つめてしまう。
(いや、行動早すぎないか?昨日の今日とかいうレベルじゃないが)
ちくり、と脇腹に尖ったものが当たった気がした。
「いつっ」
「リクくん、見すぎ~」
「そんなに……、まぁ、見てたかもね」
「ああいうコが好きなんだ?」
すう、と目を細めながら聞いてくるメア。
「違うよ。さっき話したでしょ?共通の友人。それが彼女なんだ。まさか転入してくると思わなくてびっくりしたってだけ」
こんなに早く、と頭につくけど、嘘は言っていない。
「……ふ~ん、そうなんだ」
にこり、と笑いながらメアが呟く。その視線は、ヤミさんをまっすぐと見つめていて。
とてもではないけれど、ただの転入生へ向ける視線とは思えなかった。
◇
朝のSHRが終わり、先生が教室から退室してすぐ。窓際最後列に座っているヤミさんの席に、我先にと男子生徒が詰めかける。
「や、ヤミさん!俺、本読むの大好きなんだ。友達になろうよ!」
「たい焼き好きなんだよね。俺、たい焼きに似てると思わない?」
あからさまにデレデレしながらそんなことを言う男子。……いや、たい焼きに似てるってなんだよ。
そんなアプローチに対して、一瞥もすることなく髪で拳を作り、しっしと追い払うようにして断るヤミさん。
あ、
「や、こんにちはヤミさん」
「はい、リク。……ひとつ聞きたいのですが」
そういったヤミさんは前方──窓際でナナと話しているメアに目をやりながら口を開いた。
「あの赤毛の生徒と随分仲がいいようですが、友人なのですか?」
「メアと?うん、友達だね」
俺がそう答えるとヤミさんの瞳が一瞬、カミソリのように鋭く細められた……気がしたが、すぐに普段の無表情に戻る。
何やら考え込んだヤミさんはやがて口を開くと「そうですか」とだけ短く告げた。
「それより、早かったね。まさか昨日の今日で転入して──というかできるとは思わなかったよ」
「それは……その、色々と。あの
そう答えるヤミさんの顔は、露骨に歪んでいて本当に嫌だったんだなという気持ちが伝わってくる。
校長……、確かになんであんな人が校長でいられているのかはウチ最大の謎だな。
「まぁ、
「どう……って──、ああ、なるほど。似合ってる。
そう告げると、ヤミさんはすっと目を細め、髪の毛先をフルフルと揺らした。
「そうですか」
それだけ言って、黙り込んでしまうヤミさん。
これは、俺からなにか言った方がいいのだろうか。そんな風に悩んでいると、横合いから声がかかる。
「転入早々モテモテですね、ヤミさん♡」
「……モテモテなのは貴方でしょう、プリンセスモモ」
「あら、私なんて……」
声をかけてきたのはモモさんだった。彼女は挨拶もそこそこにヤミさんの耳元に顔を近づけると、何かを小声で話している。
それを聞き終えたヤミさんは、ただ一言「結構です」とだけ断る。
あ、モモさんが笑顔のまま石像のように固まってる。
心なしか、彼女の周りにヒビが入るような「ピキッ」という幻聴が聞こえた気がした。
……よくわからないけど、モモさんはフラれたらしい。
「あ、あはは。お姉様や美柑さんに比べたらまだ付き合いが短いですもんね〜。でも、いいんですか?お一人では限界があるでしょう。ヤミさんさえよろしければ、成瀬さんをお守りすることも吝かではありませんが」
ちらり、と俺を見ながらそう言うモモさん。
「あの、守るって?」
「成瀬さん、あなた……自覚なかったんですか?この間の昼休み、何者かに襲われたでしょう。あそこでああまで啖呵を切った以上、あの騒動の黒幕が貴方にも何かしらのアクションを起こしてくる可能性は十分考えられます」
それは……その通りだ。あれから暫く動きがなかったせいか、思考の外に追いやってしまっていた。
それを受けたヤミさんは、どこか底冷えのする声で返事をする。
「……脅迫ですか?」
ヤミさんから、朝の教室には似つかわしくない、冷ややかな空気が放たれる。
これには流石のモモさんも驚いたのか目を軽く見開き、答えを返した。
「それは──誓って本当に──違います。私に成瀬さんや、ヤミさんを害する気持ちは絶対にありません。証拠はないので、信じてください、というしかありませんが」
その声色はいつもとは違い真剣そのもの、といった様子で、とてもではないが嘘を言っているようには感じられない。
何秒間か沈黙が続き、ヤミさんが纏っていた空気を霧散させる。
「失礼しました、プリンセスモモ。その気持ち、礼は言っておきましょう。ですが、先ほども言った通り結構です」
「そう、ですか。それは残念です♡ですが、もし心境に変化がありましたら是非に。私の方はいつでも結構ですので」
モモさんはそれだけ言うと、踵を返して自席へ戻っていく。
その去り際に、俺に何か種子のようなものを渡しながらヤミさんに聞こえぬよう「何かあったらこれを地面にたたきつけて下さい♡」と言い残して。
◇
そうして何事も──授業中にメアからちょっかいはあったが、いつものことなのでカウントしない──なく、昼休みになった。
いつもであれば、持参している弁当を食べるのだが、生憎今日──昨日はリト先輩の家に泊まっていたので、弁当の用意がない。
「さて、どうするか」
「あれ。リクくん、今日はおべんとないの?」
「朝言った通り突発的な宿泊だったからね。流石に用意がない」
「へー、そうなんだ」
じゃあこれ食べる?なんて言いながら食べかけのロリポップキャンディを差し出してくるメア。
「いや、気持ちは嬉しいけどそれで腹は膨れないかな……」
「えー、美味しいのに」
言いながら、再度キャンディを口に含むメア。というか、そもそも食べかけを人にあげるということに抵抗はないのだろうか。
このまま教室にいても、腹が膨れることはない。まぁ、一食くらい抜いたところで──気持ちは落ちるが──死ぬわけでもない。最悪抜いてもいいんだが……。
(やっぱり食べたいよな、折角なら)
「ん、どこ行くの?」
「購買にでも行って何か買おうかなって」
「ん~、いってらっしゃ~い」
はいはい、と返事を返して席を立つ。そのまま教室を抜け、購買へ向かった──のはいいのだが。
「あら、今日のはもう売り切れちまったよ」
「え、全部ですか?」
「そ。このくらいの時間は大体なくなってるからほしいならもうちょっと早く来ないとね」
おいおい、まだ昼休みになって十五分も経ってないのに。
「どうしたもんかな……」
残るは食堂だけど、こうなってくるとちょっと面倒になってきたな。
「もう抜きでもいいか……?」
そんなことを考えていた時、後ろから声がかかる。
「ああ、リク。ここにいたのか」
「あれ?リト先輩。どうしたんですか?」
「お前のこと探してたんだよ。これ渡そうと思って」
そう言った先輩の手には、可愛らしいクロスに包まれた小ぶりな弁当箱が握られている。
「……随分と可愛らしいお弁当ですね?あと、申し訳ないのですが、俺は異性愛者なので……」
「ちっちちち、ちげーよ!急にぶっこんでくるな、おい!これは美柑が!昨日のお詫びと、お前弁当ないだろうからって!俺はただの運び屋で……って、なんで俺がこんな必死に言い訳しなきゃなんねーんだよ!」
美柑さん……。それならもう朝に謝ってもらったし、そもそも悪いのは俺なのだから謝る必要はないとも伝えたのに、随分と義理堅いというか、真面目というか。
まあ、そこが彼女のいいところなのだろう。
「すみません、冗談です。わざわざありがとうございます、リト先輩」
「お前でもそんな冗談言うんだな……。昨日会ったばっかだけど、イメージ変わるぜ」
「そうですか?別によくいる男子高校生ですよ、俺は」
言いながら、先輩の腕からお弁当を受け取る。
リト先輩は本当に届けに来てくれただけのようで、俺が受け取ると「んじゃ、またな」と言って帰ってしまった。
さて、図らずも昼食にありつけることになったわけだが……。
ちらり、と手元に視線を落とす。そこには、先ほど受け取った可愛らしいお弁当箱。箸箱なども綺麗に整えられており、
「教室で食べると、色々面倒なことになりそうだな……」
とはいえ、メアを待たせている手前戻らないわけにもいかない。
手に持った弁当箱を揺らさないように気をつけながら教室へ戻る。
「あれ、リクくん。それどうしたの?」
メアの視線は、俺の顔ではなく、手元の弁当箱に釘付けになっている。
「なんて言えばいいのか……、
「?なにそれ」
俺の言葉の意味が分からないのか、不思議そうな顔をしてこちらを眺めるメア。
「まあ、俺の運も捨てたもんじゃないってことかな」
「???」
未だによく分かっていなさそうなメアをさておいて、席に着いた俺は弁当の包みをとく。
……これは、なかなか。
お弁当は、右半分にご飯、もう半分におかずといったシンプルな構成をしている。
ご飯には梅干しがちょこんと乗っており、その存在を小さくもしっかり主張していた。
おかずも昨日の余りではなく──そもそも全部食べたので余りがない──、朝に新しく作ったであろう鮭の切り身や卵焼きといった主菜から、ほうれん草の煮浸しなどの副菜まで満遍なく配置されている。
量こそ控えめなものの、その中身はとても整っており、見目だけで美味しそうな空気が伝わってきた。
(なんて言うか……昨日も思ったけど本当に小学生か?美柑さん)
「わ、美味しそう!リクくん、ひと口もらっていい?」
俺が弁当の中身に──というか美柑さんの家事スキルに──圧倒されていると、いつの間にか横から覗き込んでいたメアがそんなことを聞いてくる。
これが俺が作った弁当であれば一も二もなく了承するのだが、流石に人がわざわざ作ってくれた物をあげる、というのは美柑さんに悪い。
「ん、これはダメ。くれた人にも悪いし」
「え〜、こんなに美味しそうなのに」
「そんなに食べたいなら、このお弁当の代わりにはならないけど今度俺が作ってきてあげるから」
俺がそういうとメアはパッと顔を輝かせ「リクくんのおべんと……素敵!」と少し大きな声で返す。
……ただでさえチラチラと感じていたクラスメイトの視線が、さらに強まるのを感じた。
背中に感じる視線を無視しながら、卵焼きを一つ摘んで口に入れる。
程よい甘さと、少しのしょっぱさが口いっぱいに広がり──。
「うん、おいしい」
そのままメアと雑談をしながら、弁当を食べ進める。卵焼きだけでなく、他のおかずも当然のように美味しく、美柑さんの家事スキルの高さが窺える素晴らしい弁当だった。
そして、弁当も食べ終わり、昼休みも終わる頃。
俺は、一つの事実に気が付いた。
……
俺が心中で零したそんな疑問に答える人は当然おらず、仕方なく弁当箱を鞄にしまい、午後の授業に備えるのであった。