選ぶこと、選ばないこと 作:思い出
「リク!勉強を教えてくれ!」
その日の放課後は、ナナのそんな声から始まった。
言い放ったナナ本人は焦ったようなげんなりしたような難しい表情をしていたが、少なくとも本気で言っているであろうことはわかる。
「勉強って……別に構わないけど、なんでまた急に」
「う……それが、この前赤点取っちゃって」
ナナは言い難そうに丸められてクシャクシャになった答案用紙を、ポケットからおずおずと取り出した。
そこには、朱色で書かれた無慈悲な数字が踊っている。
「それで、今日補習で問題集解かないといけないんだけど一人じゃどうも……」
「補習を俺が手伝ったら意味がないと思うんだけど」
「そ、それはそうだけどぉ……」
うう、と目じりを下げて縋るようにこちらを見るナナ。補習のワークなら自分の力で解くか、わからないなら先生に聞くかをしないといけない……ん、だけど。
「な、な?頼むって、ホラ!このとーり!」
言いながらナナは俺の席の前で手を合わせ、ぐいっと顔を近づけて上目遣いで訴えてくる。
……もう少しで当たってしまうほどに近いのだけど、気が付いていないのだろうか。
そんな風にナナを見ている間にも「頼む!」と言いながらぐいぐいと頭を下げてくる。
垂れたツインテールが所在なさげに机に散った。
「……答えは教えない、それでいいなら」
俺がそう答えると先ほどまで拝み倒す勢いで──というかそのもの──頭を下げていたナナはパッと頭を上げ、笑顔で「あ、ありがとナ~!」と叫んだ。
勢いよく顔を上げたせいで俺たちの鼻先は触れそうなほど近く──弾けるような笑顔の破壊力を至近距離で浴びることになってしまった。
その満面の笑みからは八重歯がちらりと覗いていて──さっきまでの悲壮感が嘘のように眩しい。
……まぁこんなに喜んでもらえるならいいか。そんなことを思い、そんなことを思った自分に少し苦笑したくなった。
◇
「それで、どこがわからないの?」
「全部?」
「……じゃあ、俺は帰るから。あとは頑張って」
そう言って椅子を引いて立ち上がった瞬間、ナナが机を乗り越えんばかりの勢いで俺の肩を押さえつける。ふわり、とほのかにシャンプーの香りが舞った。
「ま、待て待て待て! 冗談だって!」
嘘だ。その目は、溺れる者が藁をも掴むような必死な色をしている。
……はぁ。やっぱり、前途多難だな。
「まあ、帰るっていうのは嘘──でもない──だけど、実際どのくらいわからないのかわからないと教えようがないよ」
「う……そう言われても
「それは……」
まあ、正論ではある。俺もいきなり違う星の歴史を全部覚えろ、なんて言われたら苦労するだろうし。でも──。
「モモやメアも条件は同じじゃない?」
「……」
俺がそう言うと、ナナは気まずそうに顔を逸らす。
「……だって、モモは頭いいし、メアは器用だろ。あたしはそういうの苦手なんだよ……」
口を尖らせてボソボソと呟くその姿は、叱られた子供そのものだった。
「ん、いや。ごめん。責めるつもりはなかったんだ」
そう言って、俺は自分の椅子を引いて、ナナの机の横──教科書を覗き込める位置まで移動させた。
「とりあえず、まずはナナだけで解いてみようか。それで、詰まったら都度教えるってことで」
「……うん、よろしく!」
そうして、二人だけの静かな教室にカリカリとシャーペンが走る音だけが響く。
時折、問題を解いているナナから「あー」とか「うーん」とかの声が漏れている。
その横顔は真剣そのもので。
──まあ、こういうのも悪くはないか。
そんなことを思った。
◇
そうして、補習を進めること一時間ほど。
「お、終わった~!」
言いながら、ナナが天井を仰ぐようにぐーっと大きく背伸びをする。
「お疲れ、ナナ」
「ありがとな!リクがいなかったらこんなに早く終わらなかったよ」
にっこりと笑ったナナがこちらを向いてそう口にする。……そうは言うけど。
「ナナだけでも十分だったんじゃない?」
問題を解いているナナはところどころ詰まりこそしたものの、一度教えればすんなりと自分の中で消化して他の知識と繋ぎ合わせることが出来ていた。
多分、苦手意識とかめんどくささとかがあって今までちゃんとやっていなかっただけなんだろう。
「そんなことないって。本当に助かったよ」
「どういたしまして、って言っておこうかな」
俺がそう返すと、ナナはデダイヤルを操作して何やらボトルのようなものを二つ取り出し「これ、デビルークのスポーツドリンクなんだ。美味しいんだぜ」と一つを手渡してきた。
そのまま美味しそうに飲むナナに釣られて、同じように一口飲んだ。
「ん、甘くておいしい」
ナナがオススメするだけあって、程よい甘さとさわやかさが同居しておりとても美味しい。俺のそんな感想を聞いたナナは目を輝かせ「だろ?昔からあたしのお気に入りなんだ!」と答えた。
「じゃあ、そろそろ提出して帰ろうか」
「そだナ。いつまでも残ってたってやることもないし」
言って、二人で帰り支度をして教室を出る。そのまま職員室の先生へ解いた問題集を提出して下駄箱へと向かった……のだけど。
──なんか急にフラフラするな。
熱でもあるのか、急に顔が熱くなって頭が若干フラついてくる。
いや、これはどちらかと言うと──。
「ごめん、ナナ。ちょっとお手洗いに寄っていくから、先に下駄箱行っててもらって大丈夫だよ」
「ん、そーか?分かった。先に行って待ってるな」
ナナへ声をかけてトイレへと向かう。足取りが安定せず、よろよろと蛇行するように歩いた。
そうしてなんとかトイレに辿り着いた俺は、実際のトイレには目をくれず洗面台へと向かい、顔を洗う。冷たい水が顔いっぱいに当たり、フラフラと定まらなかった思考が一時的にシャッキリした──が。
──ダメだ、これ。早く帰ろう。
ふと鏡を見る。そこに映っていたのは熱に浮かされたように頬を紅潮させ、目がとろんと潤んだ自分の顔。
──でも、なんで?
そんなことを思うも、こうなってしまっている以上理由を考えても意味はない、と思考を打ち切る。
結局、一時しのぎにしかならなかった洗面台を後にしてナナの待つ下駄箱へと向かう。
その間にもどんどんと熱っぽさは増しているし、床がなんだかふわふわする。……なんだか楽しくなってきたな。そんなことを思っていた時。
下駄箱の方から「アウトぉ~!」という大きな声が聞こえた。
「……アウトか。なるほど、アウトなら仕方ない」
野球なのか、それとも人生なのかは分からないが、春菜先輩が楽しそうならそれでいい世界平和だ。
そんなことを呟きながら歩き、下駄箱に着く。そこにいたのは当然ナナと、何故か帰ったはずのモモ、そして俺と同じように顔を紅潮させ、どこか楽しそうにきゃーきゃー言っている春菜さん。
「お待たせ?」
「あ、リク!」
「先輩、随分楽しそうだね」
「それが、なんか急に……」
二人でそんな話をしていると、ふと背後から「モモ達まだ残っていたのか?」と声が聞こえる。
声のした方を見ると、リト先輩が立って──「きゃー!結城くん!結城くんラブリー!」──春菜さんは元気だなあ。
そんなことを考えている間にも春菜さんはきゃーきゃーいいながらリト先輩に絡んでいる。
ナナとモモは驚いた表情でそれを見つめていて、リト先輩は嬉しそうな信じられないような顔でこちらを見ている。
空が青かった。
◇
「酔っ払ったぁ!?」
ナナの声が響く。どうやら俺は酔っているらしい。酔って……?
「ああ、俺も前にデビルークのハーブティー飲んだことがあったんだけどその時に酔っ払っちゃって」
どうにも地球人の体質に合わないらしいんだよな、と続けるリト先輩。どうやらいつものごとく経験者らしい。
「なるほど……さすが先輩」
俺は深く感心して頷くと同時に、ふらりとバランスを崩し──一番近くにいた温かくて柔らかいものに、こてりと頭を預けた。
「おっと」
「りっ!リク!?」
ナナが驚いた声を上げる。
そこでようやく、自分がもたれかかっているものがナナであると気づいた。
離れないと。そう思っているのに、体は頭とは逆にどんどんとナナを抱きしめていく。
「なぁっ!?」
「な、ナナ……もしかして、リクさんも?」
「あ、ああ……ちょ、離れろって!……補習に付き合ってくれたお礼で」
二人がなにか話している。
よくわからないが、ふわふわして気持ちがいい。
このまま眠ってしまいそうで──。
……違う、離れないと。
ぐい、とナナに引っ付いていた体を無理やりに引き剥がす。支えるものがなくなった途端、体がふらつき視界が揺れた。
「おっとと……と」
「お、おい。大丈夫か?」
「ん、や。へーきへーき。問題なし」
「いや、そんなにふらふらで言われても……」
俺とナナがそんな話をしている間にも、隣では春菜さんとリト先輩が何やら楽しそうに話している。モモはそんな俺たちとリト先輩たちを見比べ、仕方ないと言わんばかりにため息をついて口を開いた。
「お二人とも、このまま一人で帰すわけには行きませんね」
「あ、ああ。そうだな。じゃあ俺がリクを送るから──」
「はい、リトさんは春菜さんをお願いします。リクさんのことは任せてください」
「──って、モモ!?」
送る。ナナとモモが?いやいや、そんなことをしてもらわなくても大丈夫だ。一人で帰れる。
「んや、おれは一人でへーきだって」
そう言いながらふらりと足を踏み出すが、即座にガッチリと腕を掴まれる。
「平気なわけないだろ!」
「と、まぁそういうわけですので。リトさんは春菜さんをお願いします」
モモが再度そう告げると、それを聞いた春菜さんが「結城くんが送ってくれるの〜!やった〜!」とリト先輩に抱きついているのが見えた。
結局、そのままナナとモモの二人に連れられて帰ることになってしまい──。
「ん、そこを曲がってあとはまっすぐ」
「分かった。ほら、もっと捕まれって」
「だいじょーぶだって」
「さ、さっきは遠慮なんかしてなかったじゃんか」
「そうですよリクさん。転んだりしたら危ないですから」
大丈夫だ、と何度言っても「そんなことはない」の一点張りで結局腕を離してくれないナナと、何を考えているのか分からない笑顔でついてくるモモに連れられて、ようやく家へ辿り着いた。
「ここまででへーきだって、ありがとね二人とも」
そう言って、玄関のドアを開けて家へ入ろうとするもドアの段差に足を取られてよろけてしまう。
それを見たナナが咄嗟に俺の腕を掴み、自分の方へ引き寄せた。
「っと、危ねーな……!」
「……ごめん」
「気にすんなって。元はと言えばあたしのせいだし」
そんなふうにナナと話していると、モモが小声でなにやらぶつぶつと呟いている。かと思えば、バッと顔を上げ「ナナ、あとはお願いしてもいいかしら」とナナへ問いかけた。
「は?いや、大丈夫だけど……お前は?」
「私はちょっと行かないといけない場所があるの」
「はあ?」
「それじゃ、あとはヨロシク♡」
そう言って、翼を広げてどこかへ飛び立っていくモモ。残されたナナはどこか唖然とした表情をしている。
「な、なんなんだよあいつ……」
そうぼやきつつもナナは俺の腕を肩に回し、しっかりと支え直してくる。華奢な体とは裏腹にその力は強く、あっという間に玄関に運び込まれた俺は気がついたらベッドで横になっていた。
「大丈夫か?ほら、水」
横になっている俺にどこから見つけてきたのかコップに入った水を手渡してくるナナ。
受け取って、一口飲む。熱くなった頭が少しだけ冷えたような気がした。
ごくり、という水を飲む音と、時計の動く音だけが部屋に響いた。
沈黙に耐えかねたのか、ナナは落ち着きなく視線を巡らせ、部屋の隅々を興味深そうに観察していたナナが口を開く。
「そ、そういえばリクの家って結構広いのに一人なのか?」
「両親は──海外で働いてるから。ほら、その棚」
そう言って指さした先にはなんだかよくわからない木彫りの人形や国旗のテナント、果ては何に使うのか全く理解不能な謎の道具などが飾られている。
「な、なんだ?これ」
「お土産だって」
「これが」
言いながら、興味深そうな視線で棚を眺めるナナ。時折「何に使うんだこれ……?」などと呟いているのが聞こえた。
「でも、結局家では一人なんだろ?寂しくないのか?」
寂しくないのか。前に春菜さんにも聞かれたな。あの時はなんて返したっけ。
……そう、確か──。
「寂しくないよ。ナナがいるから」
「…………」
俺が答えると、ナナが口をぽかんと開いたままこちらを見つめて黙り込んでしまう。
手に持っていた謎の木彫り人形がコトリ、と床に落ちる音が響いた。
あれ、今なんて言った?
「なっ、なぁっ!?」
ナナが顔を赤くしてこちらを指さす。なんの話を……そう、ナナがいるからって話だ。
フラフラとする頭をなんとか動かして、続きを話す。
「ナナやみんなが、おれの友達でいてくれるから。だから、おれは──」
だから俺は、皆のおかげで自分のことを。そう続けようとした俺の口はそれ以上動いてくれず、言葉が発せられることはなかった。
いや、それだけではない。何やら意識まで朦朧としてきて──。
「お、お前急に何言いだして──リク!?おい、大丈夫か?」
その言葉を最後に、俺の意識はプッツリと途絶えた。
◇
目が覚める。視界が開く。目の前には、見慣れた天井。
「あったま……痛い……。完全に二日酔いのソレだなこれは……」
ガンガンと内側から叩きつけるような痛みを発する頭を抑えながら、横になっていた体を起こす。時計を見ると、短針は二十時を指し示していた。確か俺は、ナナにスポーツドリンクを貰ってその副作用で──。
「って、ナナは?」
そう。副作用で酔って前後不覚になった俺をナナが送ってくれたはず。なのだけど、部屋の中にナナの姿は見当たらない。
──もしかして、俺が寝た後に帰ったのかな。
そうであっても不思議はない。そう考えた俺は、とりあえず水でも飲もうとベッドを降りようとかけられて布団を剥がし──。
「は?」
──何故か、丸まる様にして眠っているナナのことを見つけたのだった。
落ち着け、冷静になれ。酒──ではないけど──で酔っての失敗なんて、大学生じゃないんだぞ。
違う、そうじゃない。俺は確かにあそこで気絶して、今初めて目が覚めたはず。じゃあなんでここにナナが?入った?自分から?
まとまらない思考を何とか回し、状況判断を行う。が、何故こんな状況になっているのかさっぱりわからない。なぜなら、どう考えてもナナが自分から布団に潜り込んだとしか考えられないからだ。
──いや、寝る前の俺はまともじゃなかった。なら何があってもおかしくは……。
「ないか?本当に?」
なんて、混乱しながら考えていると俺の動きが伝わってしまったのか、ナナが「んぅ……」と小さく唸って身をよじる。
そして、その少し後に閉じたままだった瞳が開かれた。
目が合う。
沈黙。
そして──。
「お、おはよう」
「…………ッ!?」
声にならない悲鳴が部屋中に響いた。
◇
「それで、どういうことなのか説明が欲しいんだけど……。とりあえず、その前に謝ったほうがいい?」
「……は?なんでリクが?」
「いや、酔っぱらった俺が無理矢理……とか、そういうのかなって」
「ち、違う!あたしが!」
あたしが?
「……その、リクが寝た後にメモでも置いて帰ろうと思ったけど、鍵開けっぱで帰るわけにもいかないし。それでリクの様子見てたらなんか眠くなってきちゃって……」
「つい、と」
こくん、と控えめに頷くナナ。いや、ついて。ついで男が寝てるベッドに一緒に横になるのはちょっと危機感が足りないのではなかろうか。
「まぁ、そういうことならよかった。ナナに変なことしたんじゃないかと気が気じゃなかったよ……」
「へ、変なコトって……!?」
そう言って、顔を真っ赤にしてしまうナナ。……藪蛇だったか。
「まぁそれはいいじゃない。それで、この後はどうするの?もうだいぶ遅いみたいだし……。とりあえず先輩たちに連絡したほうがいいんじゃない?」
「あ!そ、そうだった!」
俺の言葉を受けたナナが慌てて携帯を取り出し、俺から離れるように移動して電話をかける。少しして「ごめんって!」や「リクの家にいるから心配いらない」と誰かに説明している声が聞こえてきた。
「じゃあ、今から帰るから。メシは──うん、食べる。美柑にはごめんって言っておいて。じゃあよろしく。……は?うっさい!」
話がまとまったのか、電話を切ってこちらへ戻ってくるナナ。何やら最後に揉めていたようだけど、大丈夫なのだろうか。
「ナナ、大丈夫?」
「え?ああ、大丈夫。ちょっとモモにお小言言われただけ」
言いながら、寝ていたことで少し乱れた服装を直したり、カバンを整理したりといった帰り支度を始めるナナ。
「帰るの?送ろうか」
「いーよいーよ。あたしのせいで迷惑かけちゃったし、そんな遠くないしさ」
「でも、もう真っ暗だよ? 途中まででも──」
「だーかーら! お前は病み上がりなんだから休んでろって!」
そう言って、ナナは強引に俺を部屋に押し留めようとする。ここまで言われては、無理に送るのも逆に失礼か。
「わかった。でも、気を付けてね」
「ああ」
そう短く答えて、ナナはドアノブに手をかける。去り際に、もう一度だけこちらを見た。
「今日はホントにごめんな」
「気にしないでいいよ。それに、言われるならごめんよりありがとうのほうがいいな」
俺がそう返すと、ナナは少しの間ぽかんとした表情をして──。
「うん、ありがと!じゃあな」
と、花の咲くような笑顔でそう言い、部屋を出ていった。
一人だけ残された部屋に静寂が戻る。
ふと視線を落とせば、ベッドの端にはまだナナが丸まっていた窪みが残っていて──部屋の空気には、微かに甘いシャンプーの香りが漂っていて。
「……洗濯、しないとな」
今日は、ベッドで眠れそうになかった。