選ぶこと、選ばないこと 作:思い出
──日も落ち、夕焼けの赤さと夜の暗さが同時に街を包む頃。
結城家の食卓には、その人数に相応しい量の夕食が並んでいた。
唐揚げに煮物。サラダ、漬物にご飯と味噌汁。
ここまでならごく普通の食卓なのだが、ただ一つこの食卓において異彩を放つ物体があった。
何故か俺の席にのみ鎮座しているそれは明らかに普通ではなく、かつ誰がそれを作ったのかも一目瞭然であった。
(いや、いくら何でも
悲劇である。確かに味噌汁にあんこを入れる郷土料理もあるにはあるが、これはそういうレベルではない。
ケーキとラーメンが好きだからケーキラーメンを作ってみました、みたいなそんな突拍子もないシロモノだ。
あまりの衝撃に思わず監督する立場であったはずの美柑さんを見つめてしまう。
──なんで止めなかったの。
──ヤミさんが楽しそうで、つい。
──ついて。
絶句している俺がたい焼き味噌汁を飲みたくないと考えていると思ったのか、隣に座るリト先輩とモモさんがこっそりと耳打ちをしてきた。
「な、なぁ。無理して飲まなくてもいいんじゃないか?」
「そ、そうですね。人には、その、好みというものがありますから」
ヤミさんは何も言わずに、ただじっとこちらを見つめている。
「いや、飲むこと自体はまぁ最初から決めているんですけど……どうやって飲もうかと」
「飲むのか!?」
「そりゃ、せっかく作ってもらったものですから」
とはいえ、ここで手をこまねいていても事態は何も進展しない、か。
お椀を手に持つ。
「いただきます」
軽くお椀を傾けて、味噌汁を喉に流し込む。途中でたい焼きが口に入ってきたので、噛みちぎって同じく飲み込んだ。
味噌汁のしょっぱさと、餡子の甘さ。そしてデロデロになったたいやきの生地がなんとも言えないハーモニーを奏でており、お世辞にも美味しいとは言えない。
──おい、リクのやつ本当に飲んだぞ。成瀬さん、そこまで……。お、ナー美柑、リクが飲んでるのってなんだ?あれ。あー、あれはまぁ、思いの結晶?みたいな──
そんな会話が聞こえた気がした。
数秒か、あるいは数十秒かけて全てを飲み干した。
正直今なら何を食べても美味しいと言える自信がある。
「ごちそうさまでした」
何とか飲み干すと、こちらをじっと見つめるヤミさんと目が合った。
表情こそ変わっていないけど、その瞳はどこか不安に揺れている──というのは自惚れだろうか。
とにかく、味の感想を求めているであろうことはわかった。
感想を口に出すため、一度お茶を飲んで口を濯ぐ。
にっこりとした笑顔を浮かべて、俺は口を開いた。
「うん、不味い」
言った瞬間、食卓の空気が死ぬのを感じる。
この空間にいる全員が信じられないものを見たという表情でこちらを見つめていた。
そして、ヤミさんは。
「そう……ですか。すみませんでした。残りは、すぐ、片付けるので」
見るからに消沈していた。それこそ、俺でなくとも分かるほどに。
それを見た美柑さんやナナが声を上げようとするのを視線で制し、ヤミさんへ声をかける。
「ヤミさん」
「なん、ですか?」
「おかわり」
はい、と飲み干したお椀を手渡した。俺の行動の意味がわからないのか、ヤミさんだけでなく他のみんなも目を白黒させている。
「何故、ですか。私の料理はまずかったのでしょう。同情ですか?でしたら結構です。私の腕が未熟だっただけですので」
まぁ、彼女がそういうのは当然だろう。自分が作った料理を不味いと言われて気分のいい人はいない。たとえそれが事実でも。
「残りは私が責任をもって処理しますので、リクが気にする必要はありませ──」
「えい」
矢継ぎ早に話を続けるヤミさんの口に俺が作った唐揚げを放り込む。
ヤミさんはもぐ、と数回咀嚼してそれを飲み込んだ。
「……急に何ですか」
「美味しかった?」
「……ええ、それがなにか?」
「もしその唐揚げが美味しくなかったら、ヤミさんは俺のことを嫌いになった?」
「それとこれは……話が違います」
それは違う。
「一緒だよ。確かにヤミさんの味噌汁は、味だけ見れば料理としては失敗だ。でも、美柑さんから聞いたでしょ?」
「え、私!?」
「そう、私」
驚いた声を上げる美柑さん。空気が重いので正直助かる。いや、重いのは自業自得なのだけど。
「誰かを思って作ること。それが一番大事だって。ヤミさんが俺のために作ってくれた。で、俺はそれが嬉しかった。それだけだよ」
俺の言葉を聞いたヤミさんは少し俯くと、今度はしっかりとお椀を受け取ってキッチンへ向かっていった。
食卓に気まずい沈黙が流れる。
──俺も、そろそろ限界だった。
「ガフッ!」
「リク!?」
「げほっ、ごっほ!」
止まらないえづきを、お茶を飲んで何とか無理矢理せき止める。
「ふぅ~…………ちょっとやばかったですね……」
「リク、お前……色んな意味で凄いな」
リト先輩がそう言ってくれるけど、正直過分な評価だ。
「そうですか?味が最悪なことと、自分を思って作ってくれたことは別って、みんなわかってることじゃないですか」
「そりゃそうだけど、そっちじゃなくて」
言いにくそうに口を濁す先輩。
代わりにとでも言わんばかりに、ナナが答えた。
「よく人ん家であんなこっぱずかしいこと言えるよナ。お前」
聞いてるこっちが熱くなっちまうよ。そういってふい、とそっぽを向いてしまった。
その横で、モモさんだけは「あらあら、ごちそうさまです」と口では言いながら、目は全く笑っていない笑顔を貼り付けている。
……まぁ確かにバカみたいに気障なセリフだなとは自分でも思うよ。
でも仕方ないじゃないか!ああでもしないとあの場は乗り越えられなかったんだ……!
不味いものは不味いという。でもヤミさんは傷つけない。そんな夢のような方法があるならむしろ教えてくれ……!
「ま、ま。リクさんが不味いって言ったときは正直どうなるかと思ったけど、丸く収まってよかったよ。できればもう少し人の家ってことを意識してほしかったけど~……」
そう言いながらジトっとした目線をこちらに向ける美柑さん。
「それを言うならせめて作ってる段階で軌道修正をしてほしかったよ……」
「しょうがないじゃん。あんなヤミさん初めて見たんだもの」
「じゃあ、しょうがない……ってなると思う?」
「思う。だってリクさんヤミさんのこと大好きでしょ?」
「それとこれとは話が別です」
そうこうしているうちに、ヤミさんがおかわりを手に戻ってくる。
「リク」
「うん、ありがとうヤミさん」
ヤミさんから再度お椀を受け取る。……心なしか、さっきより量が多くなっている気がするな?
唐揚げや煮物で口を潤しながら、味噌汁を喉へ流し込んでいく。
「煮物は、普通に美味しいな」
「そっちは、美柑に教わった通りに作ったので……」
「じゃあ、今度美味しいたい焼き味噌汁でも一緒に作ろっか」
「……できるのですか?」
実際に作ったことはないけど、餡子と味噌汁を組み合わせる料理がないわけではないし、頑張ればなんとかなる……だろう、多分。ならなくても、これよりは美味しく作れるはず。
先ほどとは感じの違う視線を向けるヤミさんを隣に、そんなことを思いながら食事を続けるのだった。
◇
「ごちそうさまでした」
そう言って食器を片付ける。あれだけあった料理たちも、すっかり食べつくされ今は影も形も残っていない。
日もすっかり落ち切り、家の外は暗がりが覆っていた。
「食べたねぇ」
「えへへ~、美柑の料理は美味しいからね!今日はヤミちゃんとリクの料理もあったし!」
「そう言ってもらえると嬉しいね」
にこにこと満足気な笑顔を浮かべるララへ返事を返す。
ララと話しながら食器を片付け、テーブルを拭く。美柑さんは「私がやるから大丈夫」と言っていたが、結城家の食卓の平和を乱した身としては、せめてこの程度の罪滅ぼしはやらせてほしい。
というか、この程度じゃ足りないくらいだ。
「リクはさ、本当にヤミちゃんのことが大切なんだね」
「急にどうしたの?」
「さっきの話!」
ララが嬉しそうに話す。
「不味い!ってはっきり言った時はびっくりしたけど、その後の話聞いてすごいなぁって」
「そう?友達なら当たり前だと思うけど」
「そうだけど、そうじゃなくて……う~ん、うまく言えないや」
うんうんと唸ってなんとか言語化しようとしているララ。
「でも、多分リト先輩だって似たようなことをしたんじゃない?あの人なら、もっとうまくやるかもしれないけど」
「そうかな~?リトだったらもっと大騒ぎになってたかも。わー!ってリトが叫んで、ヤミちゃんや美柑がそれに怒るの。でも──」
「でも?」
「最後はなんだかんだでみんな笑顔になってるの。きっとね」
そう言うララの顔は──今日初めて会ったくせに何を、と思うけど──今までの天真爛漫さからは想像もつかないほどに酷く大人びて見えた。
「それは──」
「ん?」
「想像できるね。リト先輩には悪いけど」
「でしょー!」
きらきらと、本当に嬉しそうな顔で笑いながら言うララ。
「ララこそ、リト先輩のことが本当に大切なんだね」
「え、当たり前だよ!大好きだもん!」
そんな眩しい笑顔と言葉を聞いていると、リト先輩とモモさんがキッチンを通りがかる。
「お姉さま……に、成瀬さん?」
「あれ、二人で何話してるんだ?」
「え、う~ん……。惚気?」
「は?」
何言ってんだこいつ?みたいな顔で俺を見るリト先輩。いや、でもそれ以外に言いようが……。
「リト先輩とモモさんはなにしに?」
「え、ああ。ちょっとコンビニにな」
「こんな時間にですか?」
「洗顔クリーム切らしてたの忘れててさ。ついでに牛乳とかも買ってこないと」
「よかったら代わりに行きましょうか?何買うか教えてもらえれば大丈夫だと思いますが……」
「いいよいいよ。ちょっと外の空気も吸いたいし」
言いながら靴を履き、モモさんと連れ立って扉を開くリト先輩。
「あ、そうそう。風呂とかも先に入って構わないから。まぁ、その辺は美柑に聞いてくれ」
「覗いちゃダメ、ですよ。成瀬さん♡」
「初対面の家で覗きをする人間だと思われてるの?俺……」
それはもう変態とかそういうレベルを超えているのではなかろうか。
「まぁ、美柑さんに聞いておきます」
俺がそう答えると、リト先輩とモモさんはそのまま外へ出かけて行った。
ララも「私もお風呂入るね!」と言い残してキッチンを去る。
残されたのは俺と、シンクにいっぱいの洗い物。
「さて、風呂のことを聞く前にこいつを片付けるか」
スポンジを手に取り、洗剤をつける。そうして、黙々と洗い物を始めた。
スポンジの擦れる音と、水の流れる音だけがキッチンに響く。
静かな時間は好きだ。心配事がないときは、と注釈が付くが。
(それにしても、まさか殆ど初対面の先輩の家に泊まることになるとは……思いもしなかったな)
と、そんなことを考えながら洗い物をしていると、どこからともなく視線を感じた。
誰か来たのかな、と思い後ろを見るもそこには誰もいない。
「あれ」
気のせいか、と視線を戻そうとしたその時。
足元に衝撃を受けた。
「まう~!」
「うわっ……。花?」
そこにいたのは、頭から花が生えた裸──なんで?──の幼女だった。……花?ああ、いや。確かに食卓にも当然のようにいたけれど……。
「まうっ!」
「おおう、アクティブ」
困惑している俺をよそに、花の生えた幼女はがしがしと俺の体を掴んでよじ登り、あっという間に頭にまで到達する。
「ま~う♪」
登り切ったことにご満悦なのか、嬉しそうな声を出す女の子。そこまで重い、というわけでもないのでいいのだが、この状況。どうしたものか……。
「ちょっとセリーヌ!まだ洗ってる──」
廊下の奥からそんな声が響き、次いで人影がこちらへやってくる。
──バスタオル姿の美柑さん、が。
「──途中、で、しょ……」
結っていた黒茶色の髪は下ろされていて、先ほどまでお風呂に入っていたのか、水が滴っている姿はなんとも艶めかしい。
……じゃなくて!とりあえず、急いで目を閉じた。暗闇の視界に、美柑さんの声が聞こえる。
「リ、リクさん!?なんで……ってここキッチン!?う~わ、なんで私……じゃなくて!その、見ました……よね?」
「……本当に申し訳ない。気休めにもならないけど、一瞬だけだから」
「や、やだな~、謝らないでよ。よく確認しなかった私が悪いんだし……。というかセリーヌ、いつまで登ってるの!早く戻るよ!」
「まうっ!」
セリーヌと呼ばれた女の子は、返事をしたもののまるで降りる気配を見せない。
「もう、降りてこない……。リクさん、悪いんだけど、降ろしてもらってもいい?」
「そうしたいのは山々なんだけど、その……目を開くわけにもいかないからなんとも……」
「あっ……。それも、そうですね」
俺が降ろすこともできないし、美柑さんでは俺の頭まで届かない。八方塞がりだが、どうしたものか……。
「しょうがない、よね……?リクさん、その……しゃがんでもらっていい?」
「しゃがんで?」
「うん。そうすれば、私でも届くから」
「それは……いいの?」
「しょうがないから」
そんなことより早く、という美柑さんの声に急かされ、腰を落とす。
ぺたぺたと小さな足音が段々と近寄り、嗅ぎなれないシャンプーの匂いと、先ほどまで湯舟に入っていたであろう体の温かさが空気を通じて伝わってきた。
やがて、目の前に美柑さんが来た気配を感じる。目を閉じている分、他の感覚が鋭敏になっているのか、先ほども感じた匂いだけでなく呼吸音や水が床に落ちる音などまでも聞こえてきて、非常に心臓に悪い。
(何を考えているんだ、俺。相手は小学生だぞ。しかも今日が初対面、冷静になれ)
セリーヌちゃんが自ら降りる気配はやはりなく、少しの静寂が走る。
その後、美柑さんが諦めたように「ふう」と息を吐き、腕をこちらへと伸ばした音がした。
ごそり、とバスタオルが擦れる音と、薄布一枚を隔てた程度の近さに感じる人の温かさ。やがて、どんどんと気配が近寄ってきて──。
(と、いうか。美柑さんに戻ってもらって、その間に俺がセリーヌちゃんを降ろして帰せばよかったのでは?)
今更そんな考えが頭をよぎるも、もはや遅い。今この状況では指先一つ動かすことはできず、俺にできることと言えば早く状況が過ぎ去ることを待つのみだ。
一秒が永遠にも感じられたその時が過ぎ去り、セリーヌちゃんが頭から離れていくのを感じる。
──よかった、何とかなりそうだ。
そんなことを考えたのがいけなかったのか、あるいはこの家には何か不思議な力でも働いているのか。
あと少し、というところで「まうっ!」という声と、セリーヌちゃんが暴れる気配が頭上で巻き起こり、その少し後に美柑さんのか細い「きゃ!」という悲鳴と何かが床に落ちる音がキッチンに響き、ふに、と柔らかい何かが顔に押し当てられる。
目こそ見えないが、状況を推察することは、できるわけで。
(非常に、まずい)
「み、見えてないよね!リクさん?」
「うん、何も。というか、何がなんだか……」
例え状況がわかっても、俺にできることは何もない。タオルを拾おうにも目を開くことはできないし、美柑さんへ声をかけて逆にパニックを引き起こす可能性もある。
(頼む、できるだけ早くタオルを拾って戻ってくれ……!)
そんなことを思っていた時。廊下の奥から、再度人がこちらへやってくる音が聞こえ──。
「美柑、随分とかかっているようですが、何かあったの──」
「や、ヤミさん!?今はダメ!」
「──です、か?」
さて、少し状況を整理しよう。
今、この場には(恐らく)バスタオルが落ちて裸の美柑さんと、俺の頭に乗ったセリーヌちゃん、そして目を閉じて中腰になっている俺がいる。
そして、
そんな状況を、何も知らない人が見た時果たしてどう思うのか、答えは──。
「リク、まさか美柑に手を出すとは……見損ないました」
一つだ。
「何か言いたいことはありますか?一つだけ聞いてあげましょう」
「ヤミさん」
「はい」
「誤解だ」
「そうですか」
ヤミさんはそれだけ言うと黙り込み、数瞬の後に轟、と──放課後とは比べ物にならない──音が聞こえ、全身を凄まじい衝撃が襲った。
痛い、だとかの声を出す暇もなく、意識が朦朧とし全身を痛みが走る。
──待ってヤミさん!本当に誤解だから!──
そんな美柑さんの声を聞きながら、俺は意識を手放した。
◇
夢を見ている、とすぐに気づいた。
「あら、今度も満点だったの。凄いねえ」
「お前、この間の試合も勝ったんだろ?今度助っ人に来てくれよ」
「お前の学力ならもっと上も狙えると思うが……。どうだ?頑張ってみないか?」
顔の見えない人影が次々に口にする。
「ねえ、あそこの子──大に行くらしいわね」
「ご両親も鼻が高いでしょうに」
「ウチの子も見習ってほしいわ」
期待されることは嫌いじゃなかった、はずだ。
「本当に──大でいいのか?無理をする必要はないんだぞ」
「他にやりたいことはないの?……そう、そこまで言うならいいけど」
人の期待と、自分の思いが一つになって──。
「リク?」
──目が開く。眼前には、逆さまになったヤミさんの顔。
……というか、この姿勢はもしかして。
「ヤミさん?」
「その……、美柑から聞きました。私の早とちりで……すみませんでした」
そういうヤミさんの瞳はどこか揺れていて──気のせいでなければ、だが──なんだか不安そうに見える。
「別に、イツッ……別に気にしてないよ。あの状況じゃ、勘違いしたってしょうがないさ」
「しかし……」
「ところで、他の人たちは?」
周囲の景色を見るに、リビングのソファで寝ているのだろうけれどそれにしては随分と静かだ。
「皆は、もう寝ています。その……私がリクを気絶させてしまってから、結構時間が経っているので……」
……間違えたか。またしてもヤミさんが落ち込んでしまった。
「そんなに長い間、看ててくれたんだ」
「それは……当たり前です。私のせい、ですから」
「違うよ」
「違いません」
「あれは、ちょっとした事故みたいなものだ。ヤミさんは美柑さんを守ろうとしただけ。そうでしょ?」
さっきも言ったけど、あの場面を見たら誰だって勘違いして当然だろうし。
「誰が悪いといえば……、そう。間が悪かったんだよ」
「間が……?」
「そう。俺も悪かった。ヤミさんも、美柑さんも悪かった。この話はそれでおしまいだ」
「そんな、簡単な……」
「そんな簡単でいいんだよ。大体の問題は、難しく考えすぎなんだ」
こちらを見つめるヤミさんの瞳にまっすぐと視線を返しながら答える。
「それに──」
「はい?」
「殴られた代わりに、
「…………、ッ!な、なにを!」
ヤミさんの顔にサッと赤みが差す。
「……えっちぃのは、キライです」
「あらら、嫌われちゃった」
チクタク、と時計の針が動く音や、ぽとり、と蛇口から水滴が落ちる音だけがリビングに響く。
窓の外からは、眩しいくらいの月光が差し込んでいた。
「名残惜しいけど、そろそろ起きようかな。いや、これから寝るのに『起きる』って言うのも変な話か」
そう言って、体を起こそうとする。……いや、本当に体が痛いな?とはいえ、このままヤミさんの太ももを借りているわけにもいかない。
と、その時。
額に力を感じたかと思えば、起き上がりかけた体がどさり、と元に戻った。
今この場所にいるのは、俺とヤミさんだけ。つまり、今のは当然──。
「……ヤミさん?」
「……」
聞こえているのか、いないのか。カーテンのように垂れ下がった綺麗な金髪と逆光に遮られて、ヤミさんの表情は俺からは窺い知れない。
「あの、起き上がれないん……ですけど」
「……もう少し」
「?」
「もう少しだけ、ですから」
消え入りそうな声でそう告げるヤミさん。
……ここは人の家のリビングで、いつ、誰が来てもおかしくはない。
もっと言えば、ヤミさんは俺を殴ってしまった罪悪感なりなんなりが綯い交ぜになっていて、言っては何だが動揺してる状態で、正しいことを言うのなら俺はこれを断るべきなのだろう。
……でも──。
「……そうだね。体も、まだ痛いから」
「そう、ですよ」
──でも、今だけは。
もう少しだけ、このままで。