名もなき孤児が将軍様に拾われまして   作:せっせこパパイヤ

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第十一話「九年①」

小さな金属音が、闇を打った。鉄片が灰の山を叩く。その乾いた音だ。

 

鳴り終わる前には体は半身を起こしていた。目が覚めたというより、音が来ることを体は知っていたようだ。

 

しばらく、そのままでいた。眠気は少しだけある。しかし夢の名残はない。静寂だけが部屋に満ちている。

 

立ち上がり、障子を少し開けた。夜の色がまだ深い。夜明けまで三刻はあるだろう。

 

枕元に二つの着替えを置いている。清潔な紺色の布地と汚れている萌黄色の布地。萌黄色の方は、あちこちに血の跡が滲んでいた。洗っても落ちなかった染みが重なり、元の色がどこだったのか、もうわからない箇所がある。それなりに年季が入っている。

 

自分は迷いなく萌黄色の着物をつかんだ。

 

袖をまくり上げてたすきを掛ける。紐を引き締めると、肩から背にかけて布がぴんと張り、体の感覚が少し戻ってくるような感覚があった。

 

桶の水で顔を洗う。昨晩に汲んだ水は芯まで冷え切っていた。両手で掬い、顔に押し付ける。冷気が皮膚の奥まで刺さり、思考の霞を一息に吹き飛ばした。

 

麻布で顔を拭きながら、ふと壁に貼ってある暦に目が止まった。幕府の印が半分以上消えかけている。そろそろ交換を申し出なければ、役人にまた小言を言われる──そんなことを考えながら日付を確かめて、気が付いた。

 

もう九年近くになる。影様に弟子入りしてから、九年。

 

自分はしばらくその場に立ち尽くした。感慨があるかと問われれば、よくわからない。特別な感情はわいてこなかった。

 

ただ、なぜか今朝は、記憶が静かに動いていた。九年という数字が、普段は閉めておく扉を、少しだけ押し開けてしまったのかもしれない。

 

木箱を引き寄せ、蓋を開ける。雑品の下に隠してあるそれを手探りで取り出した。黒い鞘。ずしりとした重さがいつも通り手のひらに収まる。

 

親指の腹で鯉口を押す。わずかに覗かせた刀身に、かすかな光が走った。

 

欠けなし。錆なし。油の膜、均一。

 

さらに引き抜いていくと、刀身に自分の顔が映り込んだ。

 

そぎ落とされた頬。鋭い顎のライン。右頬に走る一寸ほどの古い傷は、三年前に魔物の爪を受けたものだ。痛みはとうに消えた。

 

だが何より、目がぎらついていた。何かを見定めるような、静かでむき出しの光が、奥からこちらを睨み返している。

 

きっと11年前もこんな顔をしていたのだろう。

 

自分は無言で刃をおさめ、障子を完全に開け切った。

 

雪だった。音もなく、しんしんと降り続けている。庭も梢も稜線も、世界が一晩かけて、静かに塗り替えられようとしていた。差し込む冷気を体で受け止め、縁から屋根へと乗り出す。

 

瓦の雪が足裏に軋む。城壁の端まで歩み寄り、石畳まで続く暗い空間を一瞥する。

 

ためらいはなかった。体が宙に出る。

 

落下の一瞬が腹の底を浮かせ、足が戸をとらえた。衝撃を足から腰、背へと流す。ただそれだけのことだった。雪に残った一対の足跡だけが、誰かがここから降りてきたことを静かに示している。

 

自分は振り返らず、城を出た。今から修行場所に向かう。

 

修行はたいてい、城がまだ寝静まっている夜明け前か、侍女の業務が終わった夜に行う。非番で外出許可が下りている日は、夜明け前から日暮れまで丸一日だ。そんな日々を九年だ。よくここまで露見せずにいられたものだと、雪を踏みながら思う。

 

侍女に認められている刃物は護身用の短刀だけだ。帯に差したこの刀のことを、城の者は誰も知らない。木箱の底に雑品を重ねて隠してきた。九年、それで通してきた。

 

手に入れた時、眞様はいつも通りだった。影様は少しだけ、間があった。何かを言いかけたが、やめた。

 

あの人が言葉を飲み込むのは珍しい。きっと修行のためだと、そう判断してくれたのだろうと思っている。それ以上は考えていない。

 

修行を開始した次の日から、すぐに刀を手に入れることができた。訓練場の片隅においてある誰も使わなくなった訓練用の真刀。それをこっそりと持ち帰り、自分の部屋で刃を磨こうとしたものの、やり方を知らなかった。城の蔵書からそれらしき本を借りたものの、自分は文字なんて少ししか読めない。

 

羅列文の横にある絵を見よう見まねで一晩中研ぎ、修行場所に向かうと最初の2年間は刀は握らせないと影様からいわれた。

 

どうやら、最初はひたすら体を作ることを課すらしい。それを聞かされた時のガッカリ感は少しだけ記憶に残っている。

 

走り、持ち上げ、堪え、また走る。終わりの見えない反復の中で、自分は何度、地面に倒れ込んだか分からない。あの頃は鍛錬が終わっても一刻ほどその場から動けなかった。仰向けに転がったまま空を見上げて、それだけで精一杯だった。

 

しかしこれのおかげか、城の高所から飛び降りても何事もない。あの頃の自分と今の自分が同じ人間だとは、少し信じ難い。

 

ヤシオリ島の入口が見えてくると、空気が変わった。よどんだ瘴気が肌にまとわりつく。この感覚には、九年経っても慣れない。いや、正確には慣れた。

 

ただ、決して気を許せない重さがある。この島は他の島よりも瘴気が濃く、湧き出る魔物の力も一回り強い。油断が命に直結する場所だ。

 

足を踏み入れた瞬間、先ほどまで積み上げた連想が、すうっと遠のいた。体が勝手に切り替わる。

極寒の中、魔物の気配だけがかすかに蠢いている。

薮をかき分けて、いつもの場所にでた。森の奥の、人目の届かない一角。苔むした丸石の台座が目の前にある。

 

影様の姿はまだなかった。

 

「まだ、こられていないのか...」

 

そんなことをつぶやいた。

 

来られるまでに精神統一でもしておこう。そう思い立ち、台座に腰を下ろす。そして、ゆっくりと目を閉じた。

 

毎回この作業を修行前にやっている。どうやら精神を平らにして、修行に集中するためらしい。

 

何も考えず、自然と融合するような感覚をつかむようにと影様に言われている。

 

修行を始めた時は意味がわからなかった。だが、五年前程にようやく言っている意味がわかった。

 

しかし──、最近それができなくなっている。

 

目を閉じると、決まって同じものが見える。どこまでも続く広い草原だ。

 

風が吹く度に穂先が波のように揺れ、地平線の向こうまで緑がうなっている。

 

空は夕焼けでも夜でもない、その狭間のような色をしていた。茜がまだ地平線の端に滲んでいるのに、頭上には星がくっきりと瞬いている。昼とも夜ともつかない、奇妙に明るい空だ。

 

そして、波の音がする。

 

草原の真ん中に立っているというのに、波が打ち寄せる音が聞こえる。近くに海などないはずなのに、その音だけが妙にはっきりと、耳の奥まで届いてくる。

 

寄せては返し、寄せては返す。その規則正しい響きが、やけに強く、やけに近い。

 

自分はその真ん中に、ただ立っている。夢なのか、まどろみなのか、よく分からない。

 

寝ている時に見ることが多いが、ぼんやりとしている時にも、ふとそこへ引き込まれることがある。

少し前から、繰り返し見るようになった。

 

何かの暗示なのか、ただの疲れなのか──。自分には判断できないし、する必要もないと思っている。

 

ただあの草原には何も無い。何も起こらない。

 

「──雑念が入っていますね」

 

聞き慣れた声が、闇を割った。

 

波の音が遠のいた。草原が滲むように消えていく。星も、茜色の空の残滓も、音もなく溶けて──。

 

目を開ける。

 

影様が立っていた。雪の中に、音もなく。まるで最初からそこにいたかのように、静かにこちらを見ている。

 

「申し訳ありません」

 

立ち上がりながら、淡白に言った動揺はない。

 

目線が、影様の顔と同じ高さに並ぶ。

 

「いつから、いらっしゃいましたか」

 

「一、二分ほど前でしょうか」

 

影様は少しの間、自分を見た。

 

「自主的に取り組んでいること自体は結構なことです」

 

一拍、置く。

 

「が──途中から、明らかに意識が飛んでいました。統一の意味がありません。だから止めました」

 

「......わかるんですか」

 

「瞑想中の呼吸と、雑念が入った時の呼吸は、まるで違います。あなたの場合は特に顕著です」

 

自分は少し黙った。言われてみれば、心当たりがある。

 

あの草原に引き込まれる時、呼吸がどこか遠くなる感覚があった。

「少し前にも言った通り」

 

影様が続ける。

 

「余計なものを追い出そうとするから、それが居座ろうとするんです。戦おうとしてはいけません。──はじめは呼吸を意識してください。ただ、冷気が肺に入ってくることだけを感じるのです。この島の瘴気でも、雪の匂いでも構わない。体の外にあるものと、自分の境界を少しずつ溶かしていくのです。そうすれば自然と一体化できるはずです」

 

言葉が、雪の中に静かに落ちた。

 

「この間、あなたはそれができました。今度もできるはずです。あの時の感覚を思い出すように」

 

「はい」

 

短く答え、台座に戻る。

 

影様も無言のまま、傍らに腰を下ろした。

 

目を閉じる。今度こそ──そう思った。

 

まずは呼吸だけを意識した。冷気が肺に入る感覚を探る。雪の匂いが、かすかに鼻の奥をかすめた。瘴気の重さが、肌にじわりとまとわりつく。このまま呼吸を繰り返せば、自分の輪郭が溶け出していくと思った。

 

しかし、どうしてもあの景色が脳内にへばりついている。集中できない。

 

すると視線を感じた。

 

目を開ける。

 

影様がこちらを見ていた。

 

「......今から集中しようと思いました」

 

「子供みたいな言い訳はやめてください」

 

影様は静かに立ち上がった。

 

「まあいいでしょう、修行を開始してから九年──もう刀の研鑽を積まなければならない年数です。瞑想に時間を割くことは現実ではありません。今日は飛ばしましょう」

 

「ご配慮感謝します」

 

「かといって、瞑想を省いていいわけではありません。瞑想での精神統一は基礎中の基礎。いいですね?」

 

「はい」

 

自分は短く答えた。

 

影様はそれを見るや否や、藪の奥へ視線を向けた。

 

「あれを」

 

影様の視線を追う。向こう、木々の合間に魔物の群れが蠢いていた。大小合わせて十数体。低く唸る声が、冷えた空気を震わせている。

 

「今日も単独で全体仕留めてください」

 

自分は群れとの距離を測りながら、一つの問いを口にした。

 

「なぜ影様はこの修行を繰り返すのですか。あの程度の魔物ならば、簡単に殺せます」

 

「実戦に終わりがないからです」

 

影様の答えは短く、迷いがなかった。

 

「魔物は同じ種といえども、同じ個体ではありません。しかも群れの構成も、その場も地形も、瘴気の濃度も、毎回違う。剣技は素振りでは育たない。変数の中でしか、真の対応力は磨かれないのです」

 

「分かりました」

 

自分は刀の柄に触れながら、魔物の群れに近づいていく。

 

刀を抜いた。雪の上を駆ける。

 

群れの先頭が振り向いた──その瞬間、刃が走った。

 

止まらなかった。踏み込みながら腰を入れ、刀を横に薙ぐ。

 

一閃。体ごと群れを貫くように、後方の個体まで刃の軌跡が繋がった。

 

片手で、刀を止める。

 

静寂。

 

自分は群れの中心に立っていた。十数体が、まだそこにいた。倒れてもいない。逃げてもいない。ただ斬られたことに、まだ気づいていない。

 

それだけの一閃だった。

 

遅れて、血が噴いた。

 

全方位から一斉に頭上から血の雨が降り注ぎ、頬を、首筋を、萌黄色の袖を赤く濡らした。

 

自分はそんなものを気にせずに、刀についた血を払って、鞘に納めようとした。その時、鉄の匂いが鼻腔を満たす。

 

また、例の景色に意識を持っていかれていた。自分でも驚いた。今までは予兆というものが存在していた。だが今回は気づいたら、この草原に立っていた。

 

いつもの場所、いつもの波の音、茜と夜の狭間に燃える空。風が青草を揺らし、地平線の果てまで緑がうねっている。いつもと変わらない、あの光景のはずだった。

 

ただ──空に、烏が一羽いた。

 

それはやけに黒い。あの奇妙に明るい空の中で、その一点だけが墨を落としたように濃く、くっきりと浮かび上がっていた。羽ばたいているのに、音がしない。波の音だけが満ちる草原の中を、烏はただ静かに、西へ向かって飛んでいた。

 

おかしなことではない。烏が空を飛んでいるだけだ。なのに、目が離せなかった。

 

なぜ西なのか。なぜこの草原に烏がいるのか。そもそも自分はなぜ、この光景を繰り返し見るのか。

 

問いが湧いても、答えは来ない。

 

波の音だけが寄せては返し、烏はその問いなど知らぬように、ただ翼を動かし続けている。黒い影が小さくなっていく。地平線に溶けていく──。

 

消えてしまう前に、何かを掴まなければならない気がした。

 

そんな根拠のない切迫感が、胸の奥で静かに膨らんでいた。

 

何かを、知っている気がする。

 

この烏が、何かを──。

 

「──」

 

自分を呼ぶ声がした。

 

草原が滲んだ。波の音が遠のいた。烏の影が、霧の向こうに溶けるように消えた。

 

目の前に、影様が立っていた。血まみれの自分を、静かに見ながら。

 

「何をしているのですか。敵の生死を確認しないまま立っているとは、言語道断です」

 

影様の声は静かだったが、その目は自分の顔をまっすぐ捉えていた。

 

「......血を拭おうとしていました」

 

影様はその答えを一瞬で見透かしたように、短く息をついた。だが追及はしなかった。

 

それよりも先に聞くことがある──そういう沈黙だった。

 

「最近、あなたの様子がおかしい」

 

淡々とした口調だったが、どこか重さがあった。

 

「ぼんやりとしているというより──どこか遠くにいるような。それが修行中にも出ている。呆けている範囲を超えています」

 

一拍、置いた。

 

「何かありましたか」

 

自分はしばらく考えた。草原のことを、烏のことを、あの波の音を。

 

言葉を探しながら、しかし何一つ形にならないまま、時間だけが過ぎた。

 

「......何でもありません」

 

影様は黙った。責めるわけでも、追及するわけでもなく。

 

ただ静かに、雪の降る空をしばらく見上げていた。

 

「今日は修行をやめましょう。夕方も結構です」

 

やがてそういった。

 

「い、いえ──」

 

「これは命令です。師として」

 

その口調は珍しく強かった。

 

「さすがにおかしい。このまま続けても、刃を扱う集中力が保てません。それは修行ではなく、ただの危険です。たまには休息をとることも──、己と向き合うことも──、修行の一環です。これが続くようであれば、修行そのものがままならなくなる」

 

「......わかりました」

 

「ただ、このまま解散というわけにもいきません。鳴神島の手前までは送ります。その前にいつもの小川で血を落としてください」

 

「はい」

 

小川はすぐそこにある。

 

膝をつき、両手を水に浸す。骨の芯まで届くような冷たさ。指先が痺れ、感覚が遠のいていく。

 

それでも構わず、顔についた血を手で拭い、水面に落とした。赤がゆっくりと広がり、流れに溶けて消えていく。

 

烏のことを、考えていた。

 

あの草原に烏が現れたことより──、自分がそれを見つめていたことのほうが、引っかかっている。

 

自分は普段、意味の分からないものを前にしても、深追いはしない。理解できないから切り捨てる。それがしみついた習慣だ。

 

あの烏から、目が離せなかった。

 

なぜだ。

 

水面に指を走らせる。赤が広がり、また消える。

 

烏が西へ飛んで行った。それだけのことだ。草原も、波の音も、あの奇妙な空も──全部、ただの夢かもしれない。意味などないのかもしれない。

 

だが体は正直だった。血の匂いを嗅いだ瞬間、引き寄せられた。まるで、そこへ行かなければならない──、そこにいかなければ、何か大切なものを失ってしまうかのようにいわれているようだ。

 

自分の体が、自分の知らない何かを、知っている。

 

大切なもの。

 

眞様。

 

考えるよりも先に、その名前が出てきた。それ以外は、何も出てこなかった。ただそれだけが、迷いなく、当然のように浮かんできた。

 

もう一度水を掬い、顔に押し付けた。冷気が皮膚を刺し、思考の端を切り取っていく。あの残像が少しだけ遠のいた。

 

立ち上がり、影様の元へ戻る。

 

鳴神島への道を影様と共に歩いた。言葉はなかった。

 

雪だけが降り続け、足跡だけが増えていく。

 

ヤシオリ島の瘴気が薄れ、潮の匂いが混じり始めた頃、影様が口を開いた。

 

「私に言いたくなければ、せめて眞には言ってください」

 

自分は答えなかった。答える言葉が、見つからなかった。

 

瞬きをした。

 

影様の姿は、もうなかった。

 

気配すら残っていない。自分はしばらく、影様がいた方向を見ていた。何もない。雪、暗闇と静寂だけがある。

 

口から白い息が出た。冷気の中に溶けて、すぐに消えた。

 

自分は城の方向へ、歩き出した。

第11話[完]

 

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