城に戻る足取りは、出た時よりも遅かった。
自分は手慣れたように壁をよじ登り、屋根を渡り、開けたままの障子から部屋に滑り込む。
刀を鞘ごと木箱の底に沈め、雑品を重ねて隠す。それだけの動作に、いつもより時間がかかった気がした。
障子越しに景色を見る。雪はまだ降り続き、夜明けにはまだ早い。少し体を休めるが、間延びした時間を埋められるほどの長さもなく、することも見当たらない。
振り足りない──。
そう思い立ち、自分は再び帯を締めなおし、部屋を出た。
道中、あくびを噛み殺しながら巡回する兵士とすれ違う。つづけて、寝起きの気配を引きずったまま、こちらを不思議そうに一瞥する兵士ともすれ違った。こんな時間に城を出歩いている侍女など、給仕班以外いないのだから見られてもいたしかたない。
訓練場に入る。当然ながら気配など微塵もなかった。
入口の篝火が落とされているのも相まって、屋内の暗さは外よりも濃く、目が慣れるまで少し時間がかかった。天井の梁が、闇の中にかろうじて輪郭を見せている。
正面には仏壇と、習字の軸が並んでいた。筆の乱れひとつない字で、何か書かれている。自分には読めない。読めないが、こちらを静かに見ているような気がした。
闇に向かって、木刀を構えた。
上段から振り下ろす。次いで半身を引いて横に薙ぐ。踏み込みながら突く。
一連の流れを止まらずに繰り返す。
雪明かりだけが差し込む暗がりの中で、木刀の軌跡だけが空気を切り裂いていく。
呼吸が整う。腰が入る。足が地を掴む。
何も考えていない。考えなくても、体が動く。
九年前、型というものがどれだけ苦痛だったか、今となっては信じ難い。
縛られているような、削られているような、あの感覚。型通り動くたびに、自分が自分でなくなって行くような、あの息苦しさ。
今は何もない。苦しくも、息苦しくもない。
型は型として体に在るだけだ。
それに抗う自分も、それを憎む自分も、どこにもいない。
ただ木刀が動く、体が続く。それだけだ。
振り続けているうちに、ふとあの烏そのものを考え始めた。
あの烏が西へ向かって飛んでいた。ただそれだけのことだ。なのに、引っかかるのは景色でも方角でもなく、自分があの羽ばたきから目を離せなかったという事実だ。小川で血を落としながら、自分はそれを考えていた。
理解できないものは切り捨てる。それがしみついた習慣のはずだった。
なのになぜ、あの烏には目が離せなかったのか。
体が、何かを失ってはいけないと訴えていた。
──眞様。
考えるより先に、その名前だけが出てきた。
だが、それだけで全てが説明できる気がしない。
あの烏は、眞様とは別の何かを指し示していた。自分の知らない、自分自身の何かを。
知っている。その確信だけがある。
どこで、いつ、何を──そういったものは何もない。記憶を探っても、手がかりすら出てこない。
ただあの羽ばたきの静けさを、あの濃い黒を、自分はどこかで知っている。そういう感覚だけが、骨の奥に張り付いて離れない。
その時、不意に言葉が蘇った。
──お主はいずれ──。
あの日から今日まで、自分はその言葉を一度も思い返したことがなかった。完全に、跡形もなく、忘れていた。
なのに今、それが突然、何の前触れもなく戻ってきた。
鳥肌が立った。
妖の血、あの言いかけた言葉、西へ飛ぶ烏。──それが今、同じ一点に向かって集まろうとしている。
輪郭はまだない。形にもならない。だが確かに、何かが繋がりかけている。
その「何か」が何であるかを、自分の体はすでに知っていて、だから今、これほどざわめいている。
振り下ろした木刀が、空中で止まった。暗がりの中に、何かがいた。
はっきりとは見えない。形があるのかも定かではない。ただ、そこにいる──そういう気がした。
自分の背丈に近い、ぼんやりとした輪郭。闇が人の形をとろうとして、途中でやめたような。
木刀の先を、そちらへ向けた。
手が震えている。
これは──恐怖なのか?
その問いが頭をよぎった瞬間、否定する言葉が出てこなかった。恐怖だ。自分でも驚くほど、はっきりとそう感じた。
何が怖いのかわからない。あの輪郭が怖いのではない。あの輪郭が。自分の知らない自分自身の答えを持っているかもしれないことが怖い。
木刀が床に落ちた。乾いた音が、静寂に響いた。
自分の息切れだけが聞こえた。荒く、みっともなく、暗い訓練場の中で白い息だけが上がっている。
幻影は、もういなかった。闇は闇に戻っていた。
しばらく、そのまま立っていた。やがてやがて屈み、木刀を拾い上げた。手の震えはまだ残っている。木刀を壁に戻し、訓練場を出た。廊下を歩きながら、動悸だけがなかなか収まらなかった。
部屋に戻り、血の染みた萌黄色の着物を脱いで、清潔な紺色の方に袖を通す。帯を締め直し、乱れを確かめる。鏡に映る自分の顔は、いつも通りだった。動悸もことも、訓練場のことも、もう顔には出ていない。
数刻後、廊下を歩いていると、膳の匂いが漂ってきた。朝餉の時間だ。
広間には侍女たちの声が満ちていた。
自分は定位置に膳を置き、腰を下ろす。向かいの侍女と目が合ったので、軽く頷いた。相手も頷き返した。それだけだった。
「おはよう、青ちゃん」
斜め向かいから声がかかった。三つ編みにした侍女が、こちらを覗き込むように笑っている。
「おはようございます」
「また顔色悪い。昨日もそんな顔してたでしょ」
「そうなんですか」
「そうなんですか、って。もう少し心配させてよ」
「別にどっちでもいいと思います」
「じゃあせめて、自分で心配してよ」
三つ編みの侍女はむくれたように頬を膨らませ、しかしすぐに笑って味噌汁をすすった。
「ねえ、聞いた?」
少し離れた席から声が届いた。自分と同年代らしき侍女で、視線は膳に落したままだ。周りの会話が薄くなった。
「また侍女長に呼ばれてたでしょ、あなた。先月も先々月も。何やらかしたの」
「業務上の確認ですが」
「そればっかり。本当のこと言ってくれたっていいじゃない」
「本当のことを言っています」
相手は少し詰まって、膳に視線を落とした。
「──協調性がないって、また言われたんじゃないの。あなた、いつもそうじゃない。仕事はできるけど、周りと馴染もうとしない。将軍様が拾ってくださった人だから、みんな、あまり言わないけど」
「みんなといいますけど、主にあなたと友達の方だけのように感じますが」
「......。おかしいと思わない?九年もいて、まだ誰とも打ち解けようとしないなんて」
「仕事に支障はありません」
「そういうことを聞いてるんじゃないのよ」
「では、何を聞いているのですか?」
「だから、そういうのをやめなさいって...!なんで19歳になってもわからないの?」
「まあまあ」
三つ編みの侍女が両手を広げた。
「青ちゃんはちゃんとしてるって。侍女長だって、仕事の腕前は認めてるじゃない」
「仕事ができたって、それだけじゃ......」
「いいじゃない別に。青ちゃんは青ちゃんらしくて、私は好きだけどな」
相手は何かを言いかけて、やめた。三つ編みの侍女が「あははー」と場違いなほど明るく笑い、空気を散らした。
自分は黙って箸を動かした。
「ねえ青ちゃん、漬物いる?私、今日あんまり食欲なくて」
三つ編みの侍女が皿をこちらへ差し出してきた。
自分はそれを一瞥した。
「いただきます」
「え、珍しい。いつもなら断るのに」
「今日は食欲があります」
「なんかそれ、うれしいんだけど」
三つ編みの侍女がにこりと笑った。自分は何も返さず、漬物を口に入れた。しょっぱくて、少し温かい。
広間の喧騒が、また戻ってきた。自分はただ箸を動かし続けた。
───◇───◇───◇───
朝餉が終わると、仕事が始まった。
廊下に掃除道具を並べていると、侍女長が足早にやってきた。
「少しいいですか」
「はい」
「今日から新しい子が二人入ります。しばらくの間、あなたに仕事を教えてもらいたいのですが」
自分は特に何も感じなかった。
「わかりました」
新入りの二人は、廊下の端に並んで待っていた。
一人は背筋をまっすぐに伸ばし、両手を前で重ねて、こちらをしっかりと見ている。なんだか真面目な人そうだ。もう一人は、少し落ち着きがなく、廊下の天井や壁をきょろきょろと見まわしながら、それでも自分が視線を向けると、一応こちらを向く、落ち着きがない人だ。
「今日から教えることになりました。こちらに」
自分はそれだけ言い、道具の置き場へ歩き出した。二人がついてくる足音がする。一人は静かで、もう一人は足音が大きかった。
道具の置き場につくと、雑巾と桶の位置を示しながら話した。
「廊下は端から拭いていくのが鉄則です。真ん中から拭くと歩いた跡が残りますからね。──あと、雑巾は必ず2枚用意するように。水拭き用と空拭き用。濡れたまま放置すると木材が痛みます」
「はい」と、真面目な方が頷く。
落ち着きがない方も「あ、はい」と少し遅れて続いた。
それから実際に手本を見せた。雑巾の絞り具合、板の目に沿った拭き方、角の処理。
言葉にするよりやって見せた方が早い。
二人は黙って見ていた。
一通り説明し終えて、二人に雑巾を渡した。実際にやらせてみる。
真面目な方はすぐに形になった。落ち着きがない方は、力の入れ方が均一ではなく、拭き跡が波打っていたので、一度やり直しをさせた。
そうして一部の仕事の段取りを一通り伝え終えた後、真面目な方が口を開いた。
「あの」
「なんですか」
「聞きそびれてしまいましたが、先輩のお名前を教えていただけませんか」
「なんでも構いません」
二人は黙った。一瞬の間。
「な、なんでも──というのは?」
「言葉の通りです。あなたが私を呼びたい者で言えばいい」
真面目な方は僅かに眉を寄せ、何かを言おうとして、口を閉じた。もう一度開きかけて、また閉じた。
落ち着きがない方は、横目で隣の侍女をちらりと見た。真面目な方からは何も言わない。
しばらく床を見てから、意を決したように顔を上げた。
「じゃあ...お前──でもいいですか」
ふざけた調子だった。
たぶん、場を和ませようとしたのだろう。あるいは、本当に試したかったのかもしれない。
「どうぞ」
自分は即答した。
沈黙が落ちた。今度は少し長い沈黙だった。
落ち着きがない方──と言うよりもお調子者は、笑おうとしても笑えなかった。口の端が少し上がりかけて、そのまま止まった。真面目な方は正面を向いたまま、ぴくりとも動かない。
二人はそれから顔を見合わせた。何かを確認するような、あるいは確認したくないような、そういう視線だった。
「あ......はい」
真面目な方がようやく言ったが、声が僅かに上ずっていた。
お調子者はもう何も言わなかった。先程の軽さは、綺麗に消えている。
自分は雑巾を取り、廊下を拭き始めた。二人もしばらくして、黙ってそれに倣った。
そのまま、ずっと無言のまま掃除をしていた。すると、すぐ近くから足音が聞こえてくる。そして、足音が止んだ。
見上げると、侍女長がこちらを見ている。
「あの──ちょっと、こちらへ」
侍女長は人気のない方へ顎をしゃくっている。
自分は何も言わず、立ち上がり、後ろをついていった。
小部屋に入ると、侍女長はすぐに口を開いた。
「先ほどのこと、見ていました」
「はい」
「なんでも構わない、どうぞ──、新入りに向かって言うことですか」
「嘘はついていません。本当に、なんでも構わないので」
「そういう話をしているのではありません」
侍女長は静かだったが、声に芯があった。
「あの子たちは今日が初日です。あなたの名前を聞いたのは礼儀としてのことです。それに対して、あなたの返答は何ですか。新入りが困惑するに決まっているでしょう」
自分は黙っていた。
「今回あなたに教育係を任せたのは、仕事の腕前を買ってのことです。協調性はなくても、仕事そのものはできる。それは十一年間、十分に見てきました。だから任せた」
侍女長は一度、息を整えた。
「だからこそ、残念なのです。仕事を教えることと、人と向き合うことは、別の話ではない。あの子たちはあなたの背中を見て覚えていく。その最初の印象が、あれでは困る」
「...善処します」
「善処、では困ります」
侍女長の声が、少し重くなった。
「それに──もう一つ、言わなければならないことがある」
「なんでしょうか」
「そろそろ昇進してほしいのです」
「昇進──で、ありますか」
侍女長は頷いた。
「同期の中で、何の役職もついていないのはあなただけです。もう十一年になる。仕事ができても、これは異質です」
侍女長は続けた。
「人の上に立つという事は、自分の仕事をこなすだけでは務まらない。周りが何を必要としているのか、何に戸惑っているか、何を言えずにいるか──それを見て、先に動く力がいる。今日の件は、まさにそこが出た」
「仕事に支障はありません」
「それだけでは足りないのです」
侍女長はそこで一度、言葉を切った。何かを決めるような、短い沈黙だった。
「一つ...言いにくいことを言います」
その声の質が、少し変わった。
「役職のない侍女は、切られやすい。──上の女官に目をつけられてね」
自分は侍女長を見た。
「将軍様に拾われたあなたも例外ではないでしょう。恐らくですが」
「自分は別に将軍様に拾われたからと言って、虎の威を借りるつもりはありませんよ」
自分は淡々と告げる。
「もし、自分が特別視されてるなら、とっくに私が侍女長でしょう。違うということは上の方々から見たら、自分もただの侍女だ」
「そう...ですか。ということなら、なおさら言わなければなりません」
侍女長は唾をのんだ。
「幕府の侍女になりたい者はごまんといます。衣食住が揃い、守られる立場にあり、待遇もいい。代わりはいくらでもいる。それがこの場所の現実です。そんな環境で、協調性のない──昇進していない侍女がいたらどう思いますか。はっきり言って、負債でしょう。組織として」
廊下の外で、風が通り過ぎる音がした。
「本当はこんなことは言いたくないです。ですが、言わなければならないと思いました。仲間とは最後まで一緒に働きたい。それだけのことです」
自分はしばらく、何も言わなかった。
侍女長の言葉を、静かにたどっていた。
代わりはいくらでもいる。そんな現実はどうでもいい。
食えなくなっても、死なない。守られなくてもいい、そんなものは昔から当てにしていない。
自分は、侍女の駒ではなく、眞様の刃だ。それに代わりなど存在しない。自分のものだ──。
ただ、一つだけ。城を出れば、眞様のお隣にいられなくなる。それだけが、引っかかった。
刃というのは、主の傍らにあってはじめて刃になる。離れれば、ただの鉄だ。鉄に存在する理由はない。
──自分は毛頭なる気はない。
それだけのことだった。それだけの話だった。なのになぜか、その考えの端をつかんだ瞬間、胸の奥に何か冷たいものが落ちた。落ちて、沈んで、消えなかった。
「確かに──あなたの言う通りです。自分が浅はかでした。申し訳ございません」
自分は頭を下げた。
侍女長が少し目を見開いたのが、伏せた視界の端でわかった。
「いえ......」
侍女長は短く言う。
「わかっていただければ、それで十分です」
そして、目の前の人間は自分に踵を向ける。
「話は戻りますが、後ほどあの二人に謝罪してください。それだけは、忘れずに」
侍女長は部屋を出て行った。
新入りの二人は廊下の端で雑巾を絞っていた。
自分が近づくと、二人はほぼ同時にこちらを向いた。
真面目な方が表情を引き締め、お調子者は少し身構えるような顔をした。
先ほどの沈黙がまだ二人に残っているのがわかった。
「先程は混乱させてしまいました。申し訳ございません」
自分は頭を下げた。
二人がまた黙った。今度は先程とは違う種類の沈黙だった。
「あ... いえ、こちらこそ」
落ち着きがない方が慌てたように言った。
「お前って呼んでいいかって聞いたのは、本当に軽率で...」
「構いません。ただ──」
自分は少し間を置いた。
「本当になんでも呼んでも良いですから。謝った手前こんなことを言うのはあれですが」
「やはり先輩のお名前を教えてくれないんですか」
真面目な方が、慎重に口を開いた。困惑ではなく、純粋に知りたいような声だ。
「自分は本当に名前がありません、冗談ではなく」
「え......」
真面目な方は間を置いた。
「何故ですか」
答えたくなかった。自分の出生を、今日会ったばかりの者に話すつもりはない。自分は黙って廊下の先に視線をやった。
しかし、背後から視線を感じた。
侍女長だ。まだいる。
自分は小さく息をついた。
「……生まれた場所が、そういう場所だったので」
それだけ言った。それ以上は言わなかった。
真面目な方は黙って聞いていた。何かを考えるような目をしていた。やがてその目が、わずかに変わった。何かに気づいた時の目だった。
お調子者の方が、その横でそわそわしていたが、やがて我慢できなくなったように口を開いた。
「あの、でもなんで貧民の方が幕府の侍女に──」
真面目な方の手が、素早くお調子者の口を塞いだ。お調子者の方は目を白黒させた。
自分は二人を見た。
「あなたたちは、鳴神島の出身ですか」
二人が、揃って頷いた。
「鳴神島に、貧民街はない」
二人はまた黙った。
「世の中には、今日生きるために必死で、名を考える暇もない者もいます。名前など、贅沢品だと思っている者も」
真面目な方は静かに聞いていた。やがて、また口を開いた。
「……でも、今は違うでしょう。なぜ今も」
「考えていないのではありません」
自分は言った。
「待っているだけです。約束した方がいるので」
二人は黙った。
「他人が自分をどう呼ぼうと、構いません。ただ」
自分は二人を見た。
「自分から名乗ることだけは、絶対にしたくない。もし自分から名乗ることがあれば、その場で舌を噛んでやります」
冗談ではない声で言った。
二人は黙っていた。お調子者の方は口を半開きにしたまま、真面目な方の袖を静かに掴んでいた。
しばらくして、自分は口を開いた。
「それで、どう呼びますか」
二人は顔を見合わせた。真面目な方が、慎重に答えた。
「……勝手に名前をつけて呼ぶのは、失礼だと思いますので。しばらくは、先輩と呼ばせていただきます」
お調子者の方も、今度は軽さのない声で続いた。
「自分もそうします」
「ご自由に」
自分は雑巾を手に取り、廊下を拭き始めた。二人の足音が、後ろに続いた。
昼が近づいた頃、新入りを侍女長に引き渡し、自分は廊下を渡った。
城の中心へ向かうほど、空気が変わる。人の気配が薄れ、足音が吸い込まれるように静かになる。最上階へと続く階段を登りきると、廊下の質そのものが違った。板の色が深く、艶がある。欄干の彫りが細かい。飾られた花器も、掛けられた軸も、他の棟のものとは格が違う。歩くたびに、ここが別の場所であることを足裏が知らせてくる。
廊下の突き当たりに、大きな扉があった。
自分は扉の前に膝をつき、姿勢を整えた。それから、中に届くよう、普段より少しだけ声を張った。
「失礼いたします、眞様」
間があった。
「どうぞ」
扉を引く。
部屋は広かった。正面の大きな窓から、白い光が静かに差し込んでいる。雪はまだ降り続けているようで、窓の外の庭が音もなく白く塗り替えられていた。文机の上には広げられたままの書物と筆。床の間には一輪だけ活けられた花。余計なものが何もない、それでいてどこを見ても整っている部屋だった。空気までが、他の棟とは違う匂いがした。
自分は部屋の入口に膝をつき、畳に額をつけた。
「おはようございます、眞様」
眞様は窓を背にした文机の前に座っていた。背を向けたまま、肘を机につき、書類に目を通している。机の上には紙が幾枚か、普段より乱雑に広がっていた。
「……うん」
眞様が小さく呟いた。それきり、しばらく動かなかった。書類から目を離せないのか、あるいは読み終えるまで動くつもりがないのか。自分は入口で静かに待った。
やがて眞様が顔を上げ、こちらへ振り向いた。
「おはようございます」
いつもの笑顔だった。穏やかで、柔らかい。だが何かが、ほんの少し違った。何が違うのかと問われれば、うまく言葉にできない。ただ、いつもの笑顔の奥に、何かが薄く貼り付いているような気がした。
「おはようございます」
自分は短く返した。
「新入りの教育係を任されたとか」
「はい」
「どうでしたか」
「侍女長に呼び出されました」
眞様が小さく笑った。今度はさっきより自然な笑い方だった。
「それはまた、早かったですね」
「……はい」
「侍女長に何を言われたのですか」
「色々と」
「色々と、ね」
眞様はそれ以上聞かなかった。聞かないのではなく、あえて聞かないのだとわかった。
「では」
眞様は静かに立ち上がり、鏡台の前へと移った。長い紫の髪が、背に流れる。
「いつも通り、お願いできますか」
「はい」
自分は立ち上がり、眞様の背後に膝をついた。櫛を手に取る。絹のように滑らかな髪に、ゆっくりと歯を入れていく。かすかに花の匂いがした。
櫛を通すたびに、髪が静かに流れ落ちた。絡まりもなく、引っかかりもなく、ただ指の間をすり抜けていく。この感触だけは、九年経っても変わらない。自分の手が、この髪の重さを覚えている。
ただ、鏡台の鏡が、今日も空白のままだった。
いつもなら眞様はここで鏡越しにこちらを見る。目が合って、他愛のない話が始まる。それがいつもの流れだった。だがここ最近、眞様はそうしない。鏡に背を向けるようにして、手元の書類から目を離さない。今日も膝の上に紙を広げ、櫛を入れられながらそれを読んでいた。
しばらくして、小さな息が漏れた。
ため息、と呼ぶには短い。だが、そうとしか取れない音だった。
「……どうしましたか」
「なんでもありませんよ」
眞様は顔を上げなかった。答えるまでの間も、いつもより少し長かった。
自分は黙って櫛を動かし続けた。
「新入りの子たちは、どんな子でしたか」
しばらくして、眞様が話題を変えた。
「一人は真面目な子で、一人は少し落ち着きがない子でした」
「仲良くなれそうですか」
「わかりません」
「あなたらしい答えですね」
眞様が小さく笑った。今度は自然な笑い方だった。
「鳴神島の出身だと言っていました」
「そうですか。ならば、あなたとは話が合うかもしれませんね」
「どうでしょう」
眞様はそれきり黙った。櫛の音だけが、部屋に静かに満ちた。
やがて眞様が、ぽつりと言った。
「最近、顔色が優れないように見えます。あなたのことが、少し心配です」
その一言が、胸の奥で何かに触れた。
──私に言いたくなければ、せめて眞には言ってください。
影様の声が、静かに蘇った。あの雪の道で、気配もなく消える直前に残していった言葉。答えられないまま、ずっと持ち続けていた言葉だった。
答えたくなかった。
草原のことも、烏のことも、訓練場で見た幻影のことも、何一つ言葉にする準備ができていない。できていないというより、したくない。言葉にすれば、それが本当のことになる気がした。
だが眞様だった。
答えなければならない、という気持ちが、腹の底から静かに上がってきた。理屈ではない。ただそう感じた。
「……何でもありません」
重く、噛み締めるように言った。
眞様はしばらく黙っていた。
「そうですか」
それだけだった。責めも、追及もしない。ただその二文字の中に、全てを見透かしたような静けさがあった。自分はそれ以上何も言えなかった。
櫛を動かし続けた。眞様も書類に目を落とした。しばらく、部屋に言葉がなかった。
「そういえば」
やがて眞様が口を開いた。声の質が、少し軽くなっていた。
「城の梅が、今年は早いそうですよ。侍女長が言っていました」
「そうですか。雪の中に梅というのも、なかなか風情があるものです」
「……そうですね」
眞様がふふ、と小さく笑った。
「あなたが風情という言葉を使うとは思いませんでした」
「使います」
「そうですね、失礼しました」
また少しの沈黙があった。穏やかな沈黙だった。
「ねえ」
眞様が鏡台に肘をつき、少し身を傾けた。
「今度、一緒に雪見をしませんか。この雪が積もっているうちに。斎宮と影も来ます」
自分は櫛を持つ手を、一瞬止めた。
「……自分などが、よろしいのですか」
「あなたがいいのです」
眞様はそう言って、また前を向いた。
それ以上の言葉が、出てこなかった。自分は黙って櫛を動かし続けた。
やがて自分が部屋を辞する頃合いになった。
「では、失礼いたします」
「ええ。今日もありがとう」
頭を下げ、扉を閉めた。
廊下の端の障子をそっと開けると、冷気が一息に流れ込んできた。雪はまだ降り続けていた。音もなく、しんしんと。庭の木々も、石畳も、全て白く塗り潰されていく。
雪見、か。
眞様と並んで雪を見る。それだけのことだ。それだけのことなのに、胸の奥に何かが灯るような感覚があった。
ただそれと同時に、今朝の幻影が静かに蘇った。草原。波の音。西へ飛ぶ烏。あの根拠のない切迫感。
灯ったものの隣に、それが並んでいた。
自分はしばらく、雪を見ていた。白い息が出た。冷気の中に溶けて、すぐに消えた。
第12話【完】