眞様と約束した雪見の日が、数日を経てついに訪れた。
朝の日差しが昇り始めてからしばらく経った頃、自分たちは城を出発した。空からは、ほんのわずかに雪が舞い降りている。
影向山の麓へと続く道を、自分は眞様と並んで進んでいった。薄く積もった雪を踏みしめるたび、足元から軽やかな音が響く。
背負子の中には数本の清酒の硝子瓶を詰め、それを背負った自分は眞様に傘を差し掛けて歩く。その隣を歩く眞様の手には、上質な紫色の布で丁寧に包まれた重箱があった。
「眞様、お持ちいたします」
「いいのですよ、このくらい。あなたがお酒を背負っているのに、私の方が重箱一つすら持たないのでは申し訳ありません」
「主君に荷物を持たせるなど、侍女の役目を果たしているとは言えません。それに、今回はお招きいただいた身ですから」
自分のその言葉に、眞様はふっと笑みを浮かべた。
「そこまで言うのであれば、お任せしましょう」
眞様から差し出された重箱を、自分は受け取った。
手渡された重箱は三段に重ねられており、手に取ると心地よい重みが伝わってくる。
これから行う雪見のためのものだろうとは思うが、具体的に何が入っているのかまでは想像つかなかった。
「そんなに気になりますか?」
自分の視線に気づいたのか、眞様が問いかけてくる。
「はい。一体、中には何が入っているのでしょうか」
「さあ、何だと思います?黄金に輝く宝の山──なんてことはありませんよ」
「もしかして、高級な珍味でしょうか?」
「いいえ。正解は、私が早起きしてお忍びで作った手料理です」
「──眞様が、これをお作りになったのですか?」
自分は驚きのあまり、重箱を抱えたまま立ち尽くしてしまった。眞様が自ら料理をするなど、想像すらしていなかった。
「眞様、もし仰っていただければ、自分がすべて用意しましたのに...。主君にそのような手間をかけさせるわけにはいきません」
恐縮する自分に対し、眞様は穏やかな、それでいて少し誇らしげな笑みを浮かべた。
「そう固いことを言わないでください。私も、数十年で数回程度しか台所には立ちませんから、これは特別な贈り物なのですよ」
そういうと、眞様は重箱の蓋をやさしく撫で、そのまま自分の歩みを再開させた。
「中身は着いてからのお楽しみです。口に合うかどうか、期待して待っていてくださいね」
しばらく、歩き続ける。
「気になったのですが、眞様が城を開けても大丈夫なのですか」
「大丈夫ですよ。女官と側近が代わりに私の仕事を請け負ってくれています。優秀な方々です」
そう言って、眞様は雪の舞う空を見上げた。その横顔はいつもの優しさを残しつつも、主としての覚悟をすえた鋭さを帯びている。
「稲妻の統治者として、他国との外交や要人との会談が多々ありますが、どうしても黙って城を離れなければならないときは、影が私の身代わりとして将軍を務めてくれるのです」
「あの方が将軍を──ですか」
思わず声が漏れる。
「ええ、あの方がです」
確かに影武者という役割ならば、そうなのかもしれない。
しかし、あの厳格な風格を持つ影様が、眞様のような柔らかな所作でふるまう姿など、到底思い描くことができなかった。
「自分にはどうしても想像がつきません」
「そうでしょうね。でも心配はいりませんよ、完璧にこなしてくれていますから」
もう一度脳内でその光景を再現しようと試みたが、やはりうまくいかず、考えるのをあきらめた。
「あなたは侍女の身ですから、そういった内情は見えにくいかもしれません。いずれ、そういう仕組みも理解できるようになるといいですね」
「──それは、私に昇進しろという意味でしょうか」
眞様は少し目を細め、悪戯っぽく微笑んだ。
「そういう捉え方もできるかもしれませんね」
自分は前を見据えたまま、率直な気持ちを言葉にした。
「実を言うと、出世に興味がありませんし、自分が志す道において昇進など必要ないと考えています。それに、そもそも側近に選ばれるような方は、家柄や身分の高い人々に限られているのではないでしょうか」
「私は決してそうは思いませんよ」
眞様の声は穏やかでありながら、確かな説得力を秘めていた。
「そもそも役職の位において、生まれや身分による制限など設けてはないのです」
「本当なのですか」
「ええ、百年ほど前には、一介の侍女から側近の地位まで上り詰めた者もいました」
自分はその言葉を聞いて、足をとめそうになった。
「その方は非常に聡明で、優れた実績を残しました。それを思えば、職の位に身分や家柄は関係ないと言えます。実際に前例がある以上、これは単なる理想論ではありません」
眞様は言葉を続ける。
「ただ──」
そこで一呼吸、間を置いた。
「現実的な問題として、優秀とされる者に身分の高い者や恵まれた環境の者が多いのは事実です。それは機会の有無ではなく、育ってきた環境による影響でしょうね」
二人の間に、雪が静かに舞い落ちていった。
眞様はしばらく、道の先を見ながら歩いていた。やがて、静かに口を開いた。
「この世は不平等です」
独り言のような声だった。
「同じ稲妻に生まれながら、ある者は何不自由なく学び、選び、積み上げることができる。ある者は生まれた瞬間から、選ぶことすら許されない。努力でどうにもならないことが、この世にはあまりにも多い。生まれた場所が、親が、そのことだけで、その者の一生が大きく決まってしまう」
眞様の声に、静かな熱があった。
「私はそれがずっと悔しい。数千年この国を見てきて、何度も同じことを思ってきた。才があっても、志があっても、生まれという一点だけで潰されていく者を、何万人も見てきました。その度に、私の手の届かなさを思い知らされる」
眞様は少し間を置いた。
「だからせめて、私の手の届く範囲だけでも変えたいと思っています。位に生まれを問わないのも、そういうことです。焼け石に水かもしれない。この稲妻全体を変えることなど、私にもできないかもしれない。それでも、何もしないよりはいい。そう思ってやってきました」
眞様の声は穏やかだったが、その奥に長い時間をかけて積み上げてきた重さがあった。
自分は黙って聞いている。眞様の言葉はわかる。わかるが、何かが引っ掛かった。
うまく言葉にできないまま、雪を踏み続けた。
しばらくして、口を開く。
「眞様は──その不条理を上から見ているからではないでしょうか」
「上から?」
「見えているから、不条理だと思えるし、不平等だと気付ける」
自分は少し間を置いた。言葉を探しているのではなく、順番を探していた。
「自分がヤシオリ島にいたころ、そんなこと考えたことがなかったです。不平等かどうかも。ただ今日食えるかどうか、それだけでした。不条理だと思う余裕がなかったというより、そもそもそんな話が世の中に存在していることを、知らなかったのです」
眞様は黙って聞いている。
「眞様が悔しいと思うその景色に、最初からたどりつけない人間がいます。眞様が変えようとしているその場所の手前で、止まったままの人間が。眞様の見ている不平等と、その人間が見ている不平等は、多分別々のものだと思います。同じ稲妻にいても」
言いながら、自分でもうまくいえていないと思った。
責めたいわけではない。ただ、引っか掛かったことが口から出た。それだけだった。
眞様は何も言わなかった。
歩きながら、雪だけが落ちていた。
眞様の横顔を、横目で見た。何かを考えているのか、ただ受け止めているのか、どちらかわからない顔だった。
「眞様がそう思ってくださることは、大変ありがたいことだと思っています」
自分はそう付け加えた。それだけは伝えたかった。
また、沈黙が続いた。木々の間から、風が一筋抜けた。眞様の髪がわずかに揺れる。
「......差し出がましいことを言いました。申し訳ありません」
自分は小さく頭を下げる。
「気にしないでください」
眞様は穏やかに言った。
「相変わらず、痛いところをつきますね」
責める声ではなかった。どこか懐かしむような声だった。
しばらく、雪を踏む音だけが続いた。
やがて、眞様が口を開く。
「私は一瞬を尊いと思っています。ですが、その思想には裏があります。一瞬の美しさを語れるのは、その一瞬を生きられる者だけです。明日を生きられるかわからない者には、それは救いではなく、残酷なことかもしれない」
つまり、自分の言ったことと同じだった。眞様はとうに知っていた。知ったうえで、それでもその思想を手放せないでいる。
「数千年、答えを探してきました。ですが、出たことが一度もない」
その言葉の重さが、雪の中に静かに落ちた。数千年という時間を、自分はうまく想像できない。ただ、その長さの分だけ眞様がこの問いを抱えてきたのだということは、わかった。
「この思想は、ある者には救いになります。ですが別の者には、傲慢な綺麗ごとにしか見えない。光があれば影ができるように、どれだけ善いものにも、裏は生まれる」
眞様は一度、息をついた。
「かといって、全ての者を均等にしようとすれば、人間の可能性そのものを否定することになる。どちらの転んでも、何かが歪むのです」
答えのない話だった。答えを求めているわけでもなかった。数千年抱えてきたものを、ただ言葉にしているだけの語り方だった。
「──難儀なお方ですね、眞様は」
気づいたら、口から出ていた。
眞様が少し目を見開いた。それから、小さく笑う。
「そうですね。我ながら、そう思います」
「なぜそこまでするのですか。全ての人間を満足させることなど、不可能でしょう」
自分は口を開いた。眞様は少し間を置く。
「したいからです。見たいからです」
一拍置いた。
「それに、手に入れ──」
眞様の口がそこで止まった。言いかけて、飲み込んだ。視線が一瞬だけ遠くへ向いて、戻ってきた。
「──それだけです」
何を言いかけたのか、自分にはわからなかった。聞けなかった。聞いてはいけない気がした。
「さようですか......」
風が一瞬、木々の間を抜けた。
「それに、私が斬り捨ててきた命が、私を見ています」
「斬り捨ててきた...?」
「私は古の戦争で勝利し、稲妻の統治者になりました」
自分は黙って聞いている。
「この稲妻の安寧は、私が踏み越えてきたものの上に立っています。私の刃が届いた先に、私と同じ思いを持った者を断ち切ってきた。その積み上げた先に、今のこの国がある。その命が傲慢とも言える私をみているんです」
眞様は前を向いたまま、続けた。
「だから止まれません。その命に恥じない国を作ることが、使命の一つです」
横を見た。
眞様の目が虚無だった。穏やかな表情はそのままだが、口元も、声も、変わっていない。
だが、目だけが、どこか遠いところを見ていた。そこには何もないような、あるいは何もかもが見えているような、そういう目だ。
自分は何も言えなかった。言葉が出てこない。
「なにがともあれ」
眞様が、ふと言った。
「大事なことを思い出させてくれてありがとう」
その声は軽かった。責任を手放したわけではない。
ただ、少し楽になったような、そういう軽さだった。
自分は何も言わなかった。言わなくていい気がした。
しばらく、二人で雪道を歩いた。
「あなたは不思議な人ですね」
眞様がふとそう言う。
「自分はそう思いません」
「いいえ、不思議です。あれだけ率直に言えるものは、なかなかいない。側近でも、影でも、みんなどこかで言葉を選ぶ。あなただけが、選ばずに言う」
「選び方を知らないだけです」
「それが不思議なのですよ」
眞様が小さく笑った。自分は少し考えて、それ以上何も言わなかった。
また、雪が踏む音だけが続いた。
「あなたは、誰かを大切したいと思ったことがありますか」
「あります。眞様です」
眞様が唐突に聞くも、自分は即答した。ほぼ考えずに反射神経でしゃべったような気がする。
「私以外で」
自分はしばらく黙った。
「わかりません。大切にする、というものがどういうことなのか、理解に苦しみます」
「そうですか」
眞様は責めなかった。ただ、少し遠くを見るような目をした。
「大切にするということと、守るということは、似ているようで少し違います。守るというのは、相手を前にして立つことです。大切にするというのは、相手の隣に立つことかもしれない」
自分はその言葉を、咀嚼しながら歩いた。うまく飲み込めないまま、前を向いた。
眞様が不意に足を止めた。
獣道の脇に、牡丹が一株あった。冬の中に取り残されたように、赤い蕾を閉じたまま立っている。
よく見ると、根元から茎にかけて、藁が傘のように差しこまれていた。冬を来させるための、人の手だった。
眞様はしばらく、それを見ていた。
「誰かがこの牡丹のために、藁を差したようですね」
「はい」
「この牡丹が、それをどう思っているのか」
眞様は独り言のように続けた。
「人間には、知る由もなさそうですね」
風が一瞬、止まった。
「守ってあげたいと思って差した藁が、牡丹にとっては重荷かもしれない。息苦しいかもしれない。それでも差した者は、善いことをしたと思っている。相手のためだと思っている」
眞様の視線は、牡丹から離れなかった。
「愛というのは──与える側が決めるものではないのかもしれません。いつも少しだけ、自分のためでもある。それを忘れたとき、愛は重さを持ち始める。相手をしばりつける」
雪が静かに落ちた。
眞様がこちらを見た。
「あなたにとって、愛とはなにですか」
自分には答えられなかった。愛という言葉が、自分の中のどこにも根が張っていない気がする。
ただ、眞様という名前だけが、いつも迷いなく出てくる。それが愛なのかどうか、自分にはわからなかった。
「......愛したことは、ありません。愛し方も、わからない」
「そうですか」
眞様は黙る。続きを待っているような沈黙だった。
「強いて言うなら──相手が自分のものである、ということだと思います。自分だけが傍らにいる。自分だけが見ている。自分だけが守れる。それ以外の何物も、その間に入れない」
言い終えてから、それが答えになっているのかどうか、自分でもわからなかった。ただ、それ以外の言葉が出てこなかった。
眞様はしばらく黙っていた。
「愛は、薬にもなるし、毒にもなります」
やがて静かに言った。
「愛の反対は無関心だという者もいる。憎しみだという者もいる。どちらも正しいです。それだけ愛というものは、表と裏が同じ場所にいると思います」
「......眞様にとって、愛するということはなんですか」
眞様は少し間を置いた。空を見上げ、雪を見て、また前を向いた。
それから、少しだけ口の端が上がった。
「おかしな答えになりますよ」
「聞きます」
「愛とは軽いものだと思っています」
自分は思わず、眞様を見た。
「軽い、ですか」
「ええ、軽いのです」
眞様は少しだけ楽しそうに続けた。
「重く考えてしまうのは、人間の方です。相手への期待、相手への理想、相手はこうあるべきという像。そういうものを積み上げた瞬間、愛は重さを持ち始める」
「......」
「あ、いえ」
眞様は急に声のトーンを変えた。
「誤解しないでください。軽いというのは、あなたを軽く見ているという意味では決してなくて。そういうつもりで言ったのではなく、ただ愛という概念が本来は、その、軽やかであるべきで──」
眞様が珍しく言葉を重ねていた、慌てているのか、少し早口だった。
自分は黙って聞いている。
「......笑っていますか」
「笑っていません」
「顔が少し、そういう顔をしています」
「していません」
眞様はしばらく自分の顔を見てから、小さく咳ばらいをした。
「......話を続けます」
「はい」
眞様は気を取り直したように、前を向いた。
「そしてその重さが、ある日突然、憎しみに変わる。相手が自分の思い描いた通りでなかった時、裏切られたと感じる。ですが、そもそもそんな像は、相手の中には最初から存在しない。怒りの矛先は相手ではなく、自分が作り上げた幻なのです」
眞様は牡丹をもう一度見た。
「軽くいられる時、人は初めて相手をそのままに見ている。自分の形に変えようとせず、ただその輪郭を壊さないように。それが思いやり、期待、見守るというものなのかもしれません」
眞様は笑いかけながら、本気だった。
自分はその言葉を黙って受け取った。受け取ったが、飲み込めなかった。
軽く、か。自分が眞様に向けているものが、果たして軽いものかどうか。考えようとして、やめた。答えが出る気がしなかった。
「眞様」
「なんですか」
「自分には多分無理です」
眞様は少し目を細めた。
「今はそうかもしれませんね」
今は、という言葉が少し引っ掛かった。それ以上は聞かなかった。
雪がまた落ちる。二人の間に、静かに積もっていく。
「さあ、急ぎましょう。影と斎宮を待たせています」
眞様が歩き出した。自分もその後に続いた。
今は無理だと言った。ならば、いつかは。
その問いだけが、雪道の上にひとつ、置き去りにされたままだった。
第十三話【完】