雷鳴が遠くで低く唸る。障子の向こうで稲光が走るたび、部屋の奥まで一瞬、青白く照らし出された。
湯気でほてった肌を拭いきれず、少女は別室へと案内される。清潔すぎるほどの広い部屋。新しい畳の香り。真ん中には、彼女だけのための布団が一枚。
侍女が膳を運んでくる。湯気の立つ白飯、焼き魚、味噌汁。どれもが、彼女の知る「食事」とは別物だった。
「お召し上がりください」
侍女は無造作に置くと、去っていった。
城に来てから、すべてが非現実的に感じられる。奪うことしか知らない彼女にとって、「与えられる」という行為そのものが信じられなかった
食欲がないわけではない。むしろ、喉が鳴るほどだ。だが、目の前の温もりが怖かった。
すると、障子が音もなく開いた。雷電眞が立っている。
「食べないのですか?」
彼女はもう食べ終わっているだろうと期待していたのか、少し驚いた表情を浮かべる。
「毒なんて、入れてませんよ」
少女は俯いたまま、答えない。
眞は小さく息をつき、膳の前に座る。
「では、毒味として私がいただきましょうか」
箸を手に取ったその瞬間、少女の体が反射的に動く。
「やめて!」
彼女は眞の箸が届く前に食器に飛びついた。箸は使わない。焼き魚を手で裂き、白飯を鷲掴みにする。米粒や魚の欠片が盆や畳に散らばる。無様で野蛮な食べ方だった。
「ここには、あなたの食べ物を盗る者などいませんよ」
眞はにこやかに笑う。しかし、その目は少女をしっかりと捉えていた。そこには羨望にも似た、言葉にできない深い感情が潜んでいる。
「毒よりも……奪われることを恐れたのですね」
完食した少女に、眞が呟く。
少女は唇を噛んだ。図星だ。だが、認めたくない。
「違う……知らない奴が作ったものは……信じられないだけ」
「信じられないのに、守ったのですか?」
「……うるさい!」
少女は膝を抱え、背を向けた。
眞の声はさらに優しくなる。
「怖いのですね……無くすことが」
少女の肩がわずかに震える。そして、ゆっくりとうなずいた。
「なくなったら……悲しくなる。だから、奪うしかなかったんだ」
「奪えば、その者が悲しむ。その矛盾を、どう思います?」
「うるさいな! 今日を生きるために必要だったんだ! あいつらが悲しもうが、私は悲しまない! どうせ……明日が来る保証なんてどこにもないんだから!」
「それでいいのです」
眞の声は静かだが、確かに響く。
「その矛盾こそが、命の証。生きているということの証なのですから」
「生きてるだけじゃ……何も変わらない」
「そうでしょうか。『変わらないこと』を選び続ける……それもまた、強さです」
少女には理解できなかった。ただ、眞の温かな眼差しだけが、じんと胸に染みる。
「夜も更けました。さあ、お休みなさい。今日から、ここがあなたの部屋です」
眞は立ち上がり、障子を開ける。去り際、ふと振り返って呟いた。
「居場所とは、時間をかけて……育てていくものだから」
足音が遠ざかる。
部屋には、ご馳走の残り香と、深い静寂だけが残された。
少女は指に付いた魚の脂を舐めた。しょっぱくて、少し温かい。
──この温もりが“神の温度”だと気づくには、まだ少し時間がかかる。
───◆───◆───◆───
眞が部屋を出ると、誰もいない渡り廊下をしばらく歩いていたが、立ち止まる。
「何か言いたげな様子ですね。大丈夫ですよ、今は誰もいません」
眞が闇に語りかけると、しばしの沈黙の後、影が姿を現した。
「本当によろしいのですか? あの子を城内に置くことが」
影の声には迷いがにじむ。
「それは、孤児を引き取ったこと? それとも……将軍に刃を向けた者を庇ったこと?」
「……両方です。どんな戦いにも、犠牲はつきものです。子供一人の家と、魔神を倒して得られる稲妻の利益……現実的に考えれば、後者を選ぶべきです。犠牲者一人一人を引き取ることなど、できはしません」
影は月を見上げる。眞もそれに倣った。
「何かを得るためには、何かを犠牲にしなければならない……これが世の理です。数千年前の魔神戦争の時も、そうでした」
影の手が、かすかに震えている。
「眞……やはり、私は冷酷なのでしょうか」
その声は、今にも闇に消え入りそうだった。
眞は微笑んだ。
「一度も、あなたを冷たい神だと思ったことはありません。私が民を通して国を愛するように、あなたは現実を通して国を愛している。それでいいのです」
眞は一息つき、月明かりに照らされながら続ける。
「理想だけでは現実は動かない。かといって、現実だけを見ていては、理想は遠ざかる。美しいものも、醜いものも、すべて認める……たとえこの世がどれほど残酷でも、『美しさを求める心』だけは、失ってはいけない」
「美しさを……求める心」
「ええ。美しさが、心を動かす。命は、不変に縛られると虚無に囚われてしまう。だからこそ……私は『変化』を愛するのです」
眞は月光を浴び、まるで誓うように言った。
「私もかつて、虚無を感じていました。ですが……あの子の、あの純粋すぎる『生きたい』という渇望が、私の心を動かしたのです」
「……眞らしいお話です」
影はようやく納得したように、踵を返した。
「完全に理解したわけではありませんが、眞がそう言うのなら」
気配が消える。いつの間にか、影の姿は闇に溶けていた。
眞は一人、再び月を見上げる。そして、静かに微笑んで、歩き出した。
───◆───◆───◆───
2年後───。
障子の隙間から差し込む淡い朝もやが、部屋の中を優しく照らす。鳥のさえずりが遠くから聞こえてくる。
少女──いや、侍女になった彼女は、目を覚ますと同時に身を起こす。もう、いつ襲われるかわからないという警戒心で目を覚ますことはなくなっていた。代わりに、1日の始まりを告げる、静かな緊張感が身を包んだ。
彼女は枕元に置かれた肌着と、淡い萌黄色の服に着替える。布地は柔らかく、肌にまとわりつくことはない。かつてのボロ布とは比べ物にならなかった。帯をきつく結び、裾のみだれはないか確認する。この2年間で、身だしなみを整える意味を、ようやく理解し始めた。
井戸から組んできた水を冷やし、顔を洗う。手鏡に映る自分の顔は2年前よりもいくぶんふっくらとした。それでも、どこか鋭い、野性的な輝きを宿した目は変わっていない。
彼女は細心の注意を払って髪をとかす。かつては鳥の巣のように絡みついていた髪も、今ではある程度まとまるようになっていた。とはいえ、複雑な結び方はできず、後ろでひとつに束ねるのが精一杯だった。
私はこの2年間、侍女としての基礎を叩き込まれた。
箸の正しい持ち方、歩き方、お辞儀の角度、敬語の使い分け。どれもこれも生きるためには必要のない’'’型’’の連続だった。なぜ食べるのに作法がいるのか。なぜ歩くのに美しさが求められるのか。それは今でも分からない。
朝餉は他の侍女たちと一緒に取る。黙って膳に向かう彼女の隣では、同じぐらいの年の少女たちが昨夜の夢話や、噂話で賑やかだった。
自分はほとんど口を挟まない。ただ、聞き役に徹する。今はただ、その無邪気なおしゃべりを、どこか遠くの物のように聞いている。
「ねえ、雀。漬物1個貰っていい?」
隣から呼びかける声がする。城に来てから毎日のように話しかけてくる侍女だ。相変わらず、彼女の食べ物に手を出そうとしてくる。
「ちっ」
聞こえぬほどの舌打ちをして、僅かに膳を隣から遠ざけた。
「雀、また機嫌悪い顔してる」
彼女は気づくと、相手をゴミでも見るような目で睨んでいる自分に気づいた。
「すみません...。癖で」
「こらこら、青ちゃんが困ってるでしょう、やめなさい」
向かい側に座る先輩侍女がたしなめる。隣の侍女は不満そうながらも、「はーい」と素直に引き下がった。
──雀。青。
彼女はそう呼ばれている。侍女たちは彼女にばらばらな名前をつける。彼女自身はどう呼ばれようと構わない。名前など、生きていきていく上で何も関係ない、と本気で思っている。
食事が終わり、1日の仕事が始まる。仕事場に向かう廊下を足音立てずに歩く。これも訓練の賜物だ。
そして、とある一室にたどり着く。
その引き戸の前で正座し、「失礼いたします、眞様」と呟いた。
1秒も満たずに部屋の中から「うん」と聞こえてきたので、慎重に引き戸を開けた。
戸の向こうには、眞が1人、髪を下ろした状態で鏡台の前に座っていた。長い紫髪が床に触れそうなほど広がっている。
「おはようございます、眞様」
侍女は部屋に入ると改めて正座し、深々とお辞儀をする。
「おはようございます」
眞は鏡越しに私を見て、穏やかに微笑む。その笑顔は、いつも私の警戒心を少しだけ緩める。
「では、失礼いたします」
私は彼女の背後に座り、櫛を手に取る。そして、慎重に髪をほどき始めた。
絹のように滑らかな髪。櫛を通す度に、かすかに香る花の匂い。自分の髪とは比べ物にならないほど美しい。最初の頃は、こんな神聖なものに触れていいのかと手が震えたものだが、今ではこの役目が何よりも落ち着く時間になっていた。
「昨夜は、よく眠れましたか?」
眞が静かに尋ねる。
「はい」
短く答える。実際には、夜中に1度目が覚めた。誰かに襲われる夢を見たのだ。だが、それを言う必要はない。
「そうですか」
眞は鏡越しに私を見つめる。その瞳は、私が何も言わないことを知っているかのようだった。
櫛を通し続ける。静寂が部屋を満たす。だが、それは居心地の悪い沈黙ではなく、むしろ心地よい静けさだった。
「そういえば...」
不意に、眞が口を開く。
「時々...侍女長からあなたに関しての苦情が届きます」
侍女が櫛を持つ手を止めた。
「内容をお聞かせ願います」
「彼女は一見、侍女らしい立ち振る舞いを装っているが、気性が荒くなった時は手に負えないのだと」
心当たりがありすぎた。
今日の朝もその荒さを周りに散らしたばかりなので、余計に気まずさが膨れ上がる。
「そう...でしたか...。申し訳ありません」
「まだ怖いですか?」
「......はい。今日の朝食の際も隣の侍女が私の漬物を貰おうとしてきたところ、どうやら私が睨んでいたようで...」
「恐らくその子は、あなたと対話をしたいがために要求したのではないのでしょうか」
眞の声には、責めるような響きはない。ただ、穏やかな好奇心があるだけだ。
「分かっています...。わかってはいるんです....」
侍女は俯く。
「ここでは誰も奪いません。それは、頭では理解しています」
「でも?」
「でも......体が勝手に....」
侍女は自分の手を見る。
「誰かが手を伸ばすと、つい警戒してしまうのです」
眞は少しの間、沈黙する。
「それは仕方の無いことです」
「......仕方ない?」
「ええ。たったの2年間では、まだまだ足りないのでしょう。あなたが生きてきた8年間の記憶は、そう簡単には消えません。身体が覚えていることを、無理に忘れる必要はありません。ゆっくりと、時間をかけて変わっていけばいいのです」
「はい」
侍女は今にも消えそうな声で応える。
そこから、黙々と櫛を動かす。
「もしかすると、隣の侍女とは前々から言っている、あなたに毎日話しかけている子のことですか?」
「はい。しつこいぐらいに」
思わず、本音が漏れる。
眞は鏡越しに微笑んだ。
「それは、あなたに興味があるからですよ」
「興味...ですか?」
「あなたは、ほかの子たちとは少し違う雰囲気を持っています。だから、気になるのでしょう」
自分には、その意味がよく分からなかった。
「私はただの孤児上がりの侍女です。そこまで人と違うのでしょうか」
「いえ、あなたは10歳でありながらも、その目に鋭い野性味を感じます。そこが彼女の興味を引いたのでしょう。あの子が周りの侍女と暮らしていく中で、あなたが新鮮に映ったのではないでしょうか」
「......」
「あなたの目は常に何かを探しているように見えます。だから、みんなあなたという存在を、なにかに例えたくなるのです。ちなみに、あなたは隣の侍女から何と呼ばれているのですか?」
「えっと.........。確か、雀と」
侍女は数秒ほど考えると、記憶をひねりだす。
「雀...。ふふ。その子はあなたを鳥に例えたのですね」
眞は短く、微笑むと鏡台越しに侍女を見た。
「あなた自身は、どう呼ばれたいですか?」
その質問に、先ほど以上にこたえにつまる。
「......分かりません」
正直に答える。
「名前なんて、どうでもいいと思っています。呼ばれれば、それでいい」
「そうですか」
眞は少しだけ寂しそうにした。
「でも、いつか...。自分で名乗りたい名前が見つかるかもしれませんね」
「そんなこと、あるのでしょうか」
「ええ。人は、生きていく中で、自分が何者であるかを知っていきます。その時、自然と名前を決まるのです」
自分は眞の言葉を反芻する。
───自分は何者なのか?
それが何なのか、私にはまだ分からない。
しばらくして、眞が話題を変えた。
「そういえば、今日から刀の訓練が始まりますね」
侍女の手が微かに震える。
「どうですか、楽しみですか?」
「......分かりません」
正直に答える。
「私は、刀を``ただの道具``としか思っていません。訓練で何を学ぶのか、まだ想像できないのです」
眞は少しの間、沈黙する。
「そうですか。では、まずは体験してみてください」
「はい」
「きっと、何か......見えてくるものがあるはずです」
眞の声には、何か期待するような響きがある。
「私は、あなたがこれから何を学んでいくのか、楽しみにしていますよ」
侍女は黙って櫛を動かし続ける。
何を学ぶのか。それが何なのか、自分にはまだ分からない。
「さあ、髪も整いましたね」
眞は座ったまま、こちらに振り向く。
「焦らなくても大丈夫です。ゆっくりと...自分のペースで進んでください」
「はい、眞様」
侍女は退出する前に今一度、扉の前でお辞儀をした。
「それと......」
引き戸を半分引いた時、眞が口を開く。
「あの子......隣の侍女の子ですが、たまには、少しだけ優しくしてあげてくださいね」
その言葉に、侍女は少しだけ頬が赤くなった。
「......尽力いたします」
そうして、部屋から出た。
全開した障子の向こう側に桜の花びらが風に舞っていた。
───優しく、か。
私は自分の手を見た。この手で、これから刀を握る。それが何を意味するのか、まだ分からない。
だが、眞の言葉が、心の奥底で静かに響き、まるで呪文のように、何度も心の中で繰り返された。
訓練場へと向かう足取りは、重くもあり、軽くもあった。期待と不安が入り混じる。だが、それは悪い感覚ではなかった。
第2話[完]