春の柔らかい光が開かれた障子を突き抜け、居室の畳を温める。縁側の向こうには、満開の桜が微風に揺れ、はらはらとはなびらが舞っている。幾枚もの薄桃色の花びらが、縁側の床を淡く彩り、時折、室内にまでひらりと舞い込んでくる。
眞は縁側に近い席に座し、ちらりと外の景色を眺めながら、ゆっくりと茶碗を傾けている。その向かいでは、自分がひたすらに茶筅を握り、抹茶を点てる作業に集中している。茶筅が茶碗の縁を擦るかすかな音だけが、静かな部屋に響いていた。
「今年は見事な散り桜ですね」
眞が静かに口を開いた。
「咲き誇る頃の華やかさもさることながら、散り際の潔さ、そして地面を彩る様は、また格別の趣があります」
「はい......」
自分はうつむいたまま、かすかにうなづいた。茶筅を動かす手がわずかに震えている。
いつもなら、もう少し声をあげて返事をしていた。だが、今は眞の口から数日前の訓練を抜けた話をされることを恐れている。そのせいでこの数日間は、眞の部屋に行くたびに心臓が裂けそうな思いをしていた。
「ところで......」
ふと、眞が茶碗を置いた。その音が、やけに大きく響いた。
自分の手が止まる。茶筅をもつ指先が、ぎゅっと柄を握りしめる。
ゆっくりと眞が自分に向き直る。心臓が一拍、大きく跳ねた。
「昨日、報告を聞いたところ、数日前にあなたが指導役と言い合い、訓練を抜けたと......」
眞の声は穏やかだった。怒気も、落胆も含まれていない。
「これは本当ですか?」
自分の手から力が抜けていく。茶筅ががたんと茶碗の縁に当たった。
本題だ。ついに来てしまった。
「はい.......」
声がかすれた。
「その件に関しては、ご報告もせず、大変申し訳なく思っております」
「いえ、お詫びになることはありません。ただ、なぜ抜けたのですか?」
なぜ。
その問いに自分の中で何かがざわついた。
「ただ単純に......私とは合いませんでした」
自分は茶碗の中の抹茶を見つめながら、言葉を絞り出した。
「私はもっと効率的に強くなりたい。しかし、あの訓練では回りくどいことをずっと繰り返しているだけです。型を覚えて、構えを直されて、また同じことの繰り返し。それに辟易して抜け出しました」
本当はもっと別の理由がある。
訓練場にいると、胸が苦しくなる。まるで、自分が少しずつ削られていくような感覚。
だが、それを言葉にすることはできなかった。
「そうでしたか......。もう戻られるおつもりはないのですか?」
その問いに、自分は息を呑んだ。
戻るべきなのだろうか。戻らなければ、強くなれない。だが、戻れば、また同じ苦しみが襲ってくる。
「......わかりません。この数日間ずっと落ち着きませんでした。訓練にもどるべきなのか戻らないでいいのか、ずっと迷っています」
眞は黙って聞いている。その沈黙が、自分の言葉を促しているように感じた。
「ただ、ひとついえるのは......。あの訓練場にいると私がきえてしまうような気がして──」
言葉が途切れた。
自分でも何を言っているのか分からない。消えるとは、一体どういう意味なのか。
眞は静かに自分を見つめている。その瞳の奥になにがあるのか、自分には読み取れなかった。
沈黙が流れる。長い、長い沈黙。
自分は眞の言葉を待った。なにか言って欲しかった。
訓練に戻りなさいと、叱ってくれてもいい。
あなたの気持ちは分かります、と慰めてくれてもいい。
こうすればいい、と道を示してくれてもいい。
なんでもいいから、この苦しみに答えを──。
「ふむ......事情は分かりました。あなたが心安らぐ道が見つかるといいですね」
それだけだった。
その一口を発すると、眞は再び茶碗を手に取った。
「それで先ほどの桜の件ですが──」
そして、何事もなかったかのように、話題を変えた。
「(......え?)」
自分は思わず顔を上げた。眞の横顔が目に入る。穏やかな表情で、桜を眺めている。
──これで終わり?
自分の中で、何かが音を立てて崩れた。
答えは。道は。自分はどうすればいいのか、その答えは──。
「散り際の潔さと申しましたが、実のところ、桜は散ることを選んでいるわけではありません。ただ時が来れば散る。それだけのことです。しかし、それを人は美しいと感じる。なぜだと思います?」
眞の声が、遠くから聞こえてくるようだった。自分は何も答えられなかった。喉の奥に、言葉が詰まっていた。まるで、自分の悩みだと些細なことだといわんばかりに。
いや、違う。些細だと思われているわけではない。
ただ、眞は何も言わないことを選んだのだ。
なぜ、何も言わないのだろう。
「地面に積もった花びらは、やがて土に還り、また桜の養分となります。散ることは終わりではなく、また新たな始まりでもあるのです。永遠とは、そういう巡りの中にあるのかもしれませんね」
眞の言葉が続く。だが、その意味は頭に入ってこない。
自分の中でもやもやとした何かが渦巻いていた。
訓練場の違和感。消えてしまいそうな感覚。そして今、眞が何も超えてくれなかったという事実。
全てが、胸の奥で重く沈んでいく。
「さて、お茶が冷めてしまいますね。続きを点てていただけますか?」
「......はい」
自分は茶筅を手に取った。手が震えていた。
茶筅が茶碗の中で音を立てる。その音が、やけに大きく響いた。
縁側の向こうで、桜の花びらがまた一枚、ひらりと舞い落ちた。
──自分は一体どうすればいいのだろう。その答えはどこにあるのだろう。
混乱と疑問だけが、胸の内に残った。そして、日を追うごとに、少しずつ、少しずつ、大きくなっていくのだった。
───◇───◇───◇───
それから数日が経った。だが、あの日眞が何も言わなかったという事実は、自分の中でくすぶり続けていた。
昼下がり、廊下の掃除を任されていた。隣では、別の侍女が箒を動かしている。自分も箒を手に取り、木の継ぎ目に沿って掃き始めた。
箒が廊下を撫でる、乾いた音。
同じ動作の繰り返し。前に進み、箒を引く。また前に進み、箒を引く。
──これも型なのだろうか。
自分の手が、わずかに止まった。
「(眞様はなぜ何も言わなかったのだろう)」
そんな疑問が、また頭に浮かぶ。
訓練を抜けたことを問われたとき、自分は答えを期待していた。叱責でも、助言でも、なんでもよかった。だが、眞は何も言わなかった。
──「あなたが心安らぐ道が見つかるといいですね」──
そう言って、話題を変えただけだった。
──それはどういう意味だったのか。
自分で答えを見つけろということなのか。それとも、自分に失望したのか?
その考えが頭をよぎった途端、手が止まった。箒が床の上で静止する。
──仲間と協調できないような侍女など必要なく、いずれ、この城から追い出されるのではないか。
心臓が、早鐘を打ち始めた。
居場所を失う。その恐怖がじわじわと自分を侵食してくる。
「あの、大丈夫ですか?」
隣の侍女の声に、はっと我に返る。侍女が、心配そうに自分を見つめていた。
「手が止まってますけど......」
「あ、ああ。すみません」
自分は慌てて箒を動かした。だが、手は震え、動きはぎこちない。箒の先が床に引っ掛かり、変な音を立てる。
──落ち着け、落ち着くんだ。
自分は必死に手の震えを抑えようとした。しかし、抑えようとすればするほど、震えは大きくなる。
「本当に大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」
「だ、大丈夫です。少し、疲れてるだけで......」
自分はそう答えたが、声が上ずっていた。
侍女は納得していない様子だったが、それ以上は何も聞かずに掃除を再開した。
自分も箒を動かす。だが、頭は別のことでいっぱいだった。
──眞様はもう自分を見限ったのだろうか。
──このまま変わらなければ、いずれ...
恐怖が胸を締め付ける。
箒を動かす手に力が入らない。掃き残しがあることに気づかず、自分はただ機械的に箒を動かし続けた。
───◇───◇───◇───
その日の夕方、自分は訓練場の近くを通りかかった。そこから、木刀が空を切る音が聞こえてくる。
なぜか知らないが、足が勝手にその場に立ち止まっていた。
──自分は訓練に戻りたいのか?
その答えはまだ出ていない。
何人かの兵士と侍女が木刀を振っていた。型どおりの動き。教官の声に合わせて、一斉に木刀を振り下ろす。
その光景を見ていると、胸の奥がざわざわとした。
──なぜ、みんなは疑問を持たないのだろう。
そんな時、訓練が終わったと思われる1人の侍女が近くを通りかかった。
自分と同じくらいの年齢の、見覚えのある顔だった。
「あ......」
侍女は少し驚いたような顔をしている。
「久しぶりですね。お元気でしたか?」
「ええ、まあ......」
自分はあいまいに答えた。
侍女は汗をぬぐいながら、訓練場のほうを振り返った。
「また戻ってくるんですか?」
「いえ、たまたま通りかかっただけで」
自分はそう言いかけて、ふと言葉を継いだ。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「はい、なんでしょう」
侍女は首を傾げた。
自分は少し躊躇したが、思い切って口を開いた。
「あなたはなぜ訓練に参加しているんですか?」
「え?」
侍女はきょとんとした顔をした。
「なぜといわれても......」
侍女は困ったように笑った。
「戦い方を知っていても、損はないからですかね。それに、幕府に仕えるものとして強くならないと......」
「では、なぜ型を繰り返すことに従っているんですか?」
「型を繰り返すこと......ですか」
侍女は少し考え込むように、視線を宙に泳がせた。
「うーん......正直、よくわかりません。先生が、型を覚えることが大事だと仰るので、その通りにしているだけで」
侍女は苦笑いを浮かべた。
「あまり深く考えたことがなかったです。ただ、繰り返していけば、いつか強くなれるんだろうなって」
「いつか、強くなれる......」
自分は、その言葉を繰り返した。
「でも」
侍女はふと、まじめな顔になった。
「型を繰り返していると、時々、体が勝手に動くことがあるんです。考える前に、木刀が動いている。あれは不思議な感覚です」
「それは......ただ単に同じことをやっていることと違うんですか?」
「違うんですよね。型を繰り返していると、逆に自由になれるというか......」
「自由に.....?」
自分は思わず聞き返した。
型に嵌められることが自由になること?
それは矛盾しているのではないか。
「ああ、でも、これは私の勝手な感覚なので。あなたには、あなたの感じ方があると思いますし、無理に戻ってくる必要はないと思いますよ」
侍女はそう言って、にっこりと笑った。
「それじゃあ、私はこれで」
そうして、侍女は手を振って、去っていった。
自分はその場に立ち尽くしていた。
──型を繰り返すことで、逆に自由になれる?
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
意味が分からなかった。だが、なぜか心に引っかかった。
自分は再び、訓練場を見る。兵士と侍女たちが、まだ木刀を振っている。
同じ動き、同じ振り方。だが、今は少し違って見えた。
──型を繰り返すことで、体が勝手に動く。考える前に木刀が動く。
それは一体どういうことなのか。自分の中で、何かが動き始めた。言葉にならない衝動のようなもの。
──もう一度、木刀を握ってみよう。
その考えが自然と浮かんだ。訓練場に戻るわけでもない、教官の下で学ぶわけでもない。ただ、自分で確かめたかった。
そうして、自分は訓練場を後にした。その足取りは少しだけ軽くなっていた。