名もなき孤児が将軍様に拾われまして   作:せっせこパパイヤ

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第五話「野性と理性④」

夜闇が城を覆い、深い静寂が訪れていた。

 

月明かりすら雲に遮られ、訓練場は闇に沈んでいる。昼間は掛け声と熱気で溢れていた場所が、今は別世界のように静まり返っていた。風が吹くたびに、砂がさらさらと音を立てる。その音さえもすぐに闇に吸い込まれていく。

 

自分は訓練場の入口で立ち止まり、しばらくその暗がりを見ていた。

 

本当に、ここに来てよかったのだろうか。

 

迷いが胸をよぎる。だが、足は既に一歩を踏み出していた。引き返すことなど、できるはずもなかった。

 

壁際に並んだ木刀の中から一本を手に取る。ひやりとした冷たさが掌に伝わってきた。夜気に冷やされた木の感触は、昼間に握ったそれとは全く違う。まるで正気を失った何かのように、ただ冷たく、重い。

 

ゆっくりと訓練場の中央へと歩を進める。足音が不自然に大きく響いた。自分一人しかいないのに、まるで誰かに見られているような妙な感覚がある。

 

立ち止まり、周囲を見回した。

 

人影はない。当然だ。こんな深夜に訓練場に来る者などいない。

 

それでも、視線を感じる。背筋がざわりとした。誰かに咎められるのではないか、という根拠のない恐怖が這い上がってくる。深夜の徘徊を禁じる規則があるわけではない。だが、こんな姿を誰かに見られたら──見られたら、何と説明すればいいのだろう。

 

深呼吸をする。冷たい夜気が肺に満ちる。

 

記憶を手繰り寄せた、教官の声。あの退屈な説明。

 

──左手で柄頭を握る。右手で鍔元。卵を握るように、優しく、力を入れすぎないように。

 

木刀を両手で構える。剣先が、漆黒の空へと向けられる。

 

「......こう、か」

 

呟きが、闇に溶けていった。

 

振り上げる。そして、振り下ろす。

 

ヒュッ

 

空気を裂く音が耳元で鳴った。それだけだった。

 

木刀の切っ先が弧を描き、下段で止まる。型どおりの動き。教わった通りの動き。

 

だが、胸には何も湧いてこない。

 

達成感も、充足感も、何もない。水面のように、ただ平らなままだ。

 

──まだ一振り目だ。まだ何もわからなくて当然だ。続けよう。

 

自分に言い聞かせるように、再び木刀を振り上げた。

 

二振り目、三振り目。四振り目。──何も感じない。

 

五振り目。六振り目。七振り目。──むしろ、虚しさが募ってくる。

 

形は整っているはずだ。軌道も、構えも、教わった通りに動かしている。なのに、そこには何の手ごたえもない。空っぽだ。ただ木の棒を振り回しているだけ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

それでも、振り続けた。

 

いつしか数えることもやめていた。何振り目なのか、もうわからない。真っ直ぐ振るとか、軌道を整えるとか、そんなことは頭から消えていた。

 

ただ、振る。また、振る。何度も、何度も──。

 

額から汗が滴り落ちる。髪が頬に張り付き、視界を遮った。呼吸が荒くなる。奥歯を噛みしめ、唇が歪む。腕が、肩が、悲鳴を上げ始めた。

 

それでも止められなかった。止めてしまえば、ここに来た意味がなくなる。止めてしまえば、また答えのない問いだけが残る。

 

ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ──。単調な音の繰り返し。それが、やけに大きく響いた。

 

そして、雑音が忍び込んできた。

 

 

──本当にこれであっているのか? 

──振り続けても、何も見えてこないじゃないか。

──これで本当に何かが変わるのか?

 

考えるな。

 

自分を叱りつける。この違和感を、この苦しさを、払拭することだけ考えろ。それ以外は要らない。

 

雑念を頭から追い出そうとした。だが、無理だった。

 

水に落とした墨汁のように、黒い思考がじわじわと広がっていく。押し込めようとすればするほど、それは勢いを増して自分を侵食してくる。

 

──早く。

──早く、この苦しさから解放されたい。この気持ち悪さを消してほしい。

 

もがいても、あがいても先にあるのは闇だけだ。

 

出口が見えない。答えが見えない。何も見えない。

 

──頼む、邪魔をしないでくれ。

──消えてくれ、消えてくれ、消えてくれ。

 

「くそっ......!!」

 

限界だった。地面を木刀に叩きつける。

 

ガンッ

 

鈍い音が闇に響き渡った。木刀が地面で跳ね、砂煙が舞い上がる。その余韻だけが、ゆっくりと静寂に飲み込まれていく。

 

’’無理だ’’。諦めが胸を満たした。

 

膝に手をつき、うつむく。髪から汗が滴り落ち、地面に黒い染みを作る。

 

何をしているんだ、自分は。何がしたいんだ、自分は。こんなことをして、一体何になるというんだ。

 

行き場のない怒りが頭を駆け巡る。自分に向けられた怒り。やり場のない苛立ち。

 

その時だった。遠くから足音が聞こえてきた。

 

はっと顔を上げる。複数の足音。こちらに向かってくる。しかも、近い。

 

慌てて、近くの木の陰に身を潜めた。息を殺し、顔だけを出して音の方向を見る。

 

松明の明かりが揺れている。兵士が三人、訓練場の入口に現れた。

 

「お、おい。誰もいないぞ?」

 

一人が当たりを見回しながら、疑わしげに呟いた。

 

「さっき、こっちから音がしたんだが......確かに聞こえたんだ」

 

「気味が悪いな。まさか、出るのか?この訓練場」

 

「怖いこと言うなよ!」

 

三人目の男が声を荒げた。そして、闇に向かって叫ぶ。

 

「誰かいるのか!いるなら返事をしろ!」

 

声が訓練場に反響する。

 

自分は息を殺したまま、じっと動かなかった。心臓が早鐘を打っている。

 

数秒の沈黙。

 

「......誰もいないみたいだな」

 

「だから言ったろ。気のせいだって」

 

「そうだったらいいんだが......」

 

三人は不安げに辺りを見回してから、ようやく背を向けた。松明の明かりが遠ざかっていく。やがて、完全に消えた。

 

再び、静寂が訪れる。

 

自分はゆっくりと息を吐いた。全身から力が抜けていく。少しだけ、落ち着いた。

 

木の陰から出て、地面に転がった木刀を見下ろす。

 

「......一日中、木刀を振っても何も変わらなかった」

 

呟きが、虚しく響いた。

 

訓練初日。一日中、教官の指示通りに振り続けた。それでも、何も見えてこなかった。何もわからなかった。

 

ならば、こうして深夜に一人で振ったところで、何が変わるというのだろう。

 

そんな当たり前のことも分からず、こんな夜中に忍び込んで、必死に木刀を振っている自分。

 

滑稽だった。惨めだった。

 

苛立ちが再びこみあげてくる。

 

それに、日を追うごとに、あの違和感が増していく。訓練場にいると、自分が少しずつ削られていくような、消えていくような、あの感覚。

 

もう耐えられない。これ以上、素振りを続けることは無理だ。

 

「なぜ......こんなことで悩まなければならないんだ」

 

刀が駄目なら、別の方法を探せばいい。眞様にそう説明すればいい。侍女として、別の形でお仕えすればいい。

 

そうすれば──そうすれば、この苦しみから逃れられる。なのに、できない。

 

自分の足は、訓練場に向かってしまった。自分の手は、木刀を握ってしまった。

 

なぜだ。なぜ、刀にこだわっているんだ。なぜ、訓練を諦めきれないんだ。

 

──自分は一体何なんだ?

 

その問いに答えは返ってこなかった。

 

「......考えるな」

 

頭を振る。

 

 

「考えても、意味がない......」

 

ゆっくりと腰を下ろした。地面の冷たさが、汗で濡れた着物を通して肌に伝わってくる。

 

膝を抱え、うつむく。

 

視界の端に転がった木刀が映る。月明かりを受けて、それはぼんやりと浮かび上がっていた。

 

──もう、戻ろう。

 

そう思った。

 

だが、しばらく動けなかった。立ち上がる気力すら、残っていなかった。

 

答えの見えない疑問だけが、胸の内で渦巻いている。

 

どのくらいそうしていただろうか。

 

ようやく立ち上がり、木刀を拾い上げる。砂を払い、元の位置に戻した。

 

音を殺しながら、訓練場を後にする。

 

振り返ることはしなかった。振り返れば、また迷いが生まれそうで怖かった。

 

暗闇の訓練場には、静寂だけが残された。

 

そこには、答えも、救いも、何もなかった。

───◇───◇───◇───

翌朝。

 

目が覚めたとき、体中が痛んだ。昨夜の無茶な素振りのせいで、腕も肩も悲鳴を上げている。掌を見れば、赤く腫れていた。

 

それでも、起き上がらなければならない。

 

いつも通りに身支度を整え、いつも通りに廊下を歩く。そして、すれ違う侍女たちに挨拶をした。だが、胸の奥にあるものは、いつも通りではなかった。

 

昨夜からずっと、ある決意が固まりつつある。

 

──自分1人では、どうにもならない。このままじゃ行けない。

 

ならば──。

 

自分はいつも通り、眞様の部屋の前に立つ。

 

深呼吸をする。心臓が、やけに大きく脈打っていた。

 

硬い床に正座し、障子を軽く叩いた。

 

「失礼いたします、眞様」

 

「どうぞ」

 

穏やかな声が返ってくる。いつもと変わらない、あの声。

 

障子を開け、中に入る。

 

眞は文机に向かって座していた。何かの書類に目を通しているようだった。顔を上げ、こちらを見る。

 

自分は無言のまま、障子の前で再び正座した。両手を畳につけ、深く頭を下げる。額が畳の目に触れた。い草の匂いが鼻腔をくすぐる。

 

「おはようございます、眞様」

 

「ええ、おはようございます。どうされました?今日は確かあなたは当番ではありませんでしたよね?」

 

眞の声が、上から降ってくる。だが、自分は頭を上げなかった。いや、上げられなかった。

 

沈黙が流れる。長い、長い沈黙。自分の呼吸音だけが、やけに大きく聞こえた。

 

「......あの」

 

眞の声に、わずかな困惑が混じっている。

 

「そのまま頭を下げ続けて、どうかなさいましたか?もう、よろしいのですよ?」

 

自分の手が、ぎゅっと握りしめられる。爪が、掌に食い込んだ。痛みが走る。だが、その痛みが、かえって自分を落ち着かせた。

 

──言わなければ。

 

言わなければ、何も変わらない。

 

でも──。喉の奥に何かが詰まっている。言葉が出てこない。

 

なぜだろう。

 

眞様は自分を拾ってくださった。居場所も与えてくださった。こうして話も聞いてくださっている。

 

なのに──なぜ、こんなにも言葉が出ないのだろう。

 

胸の奥で何かが抵抗している。弱さを見せてはいけない。内側をさらしてはいけない。そんな声がどこからともなく聞こえてくる。

 

理由はわからない。ただ、恐ろしかった。この感情の正体が何なのか、自分でもわからない。わからないまま、それは自分を縛り付けている。

 

でも、限界だった。1人ではどうにもならない。

 

「......眞様」

 

ようやく声が出た。掠れた、震えた声。

 

「お願いがございます」

 

「はい、なんでしょう」

 

眞の声は、いつも通り穏やかだった。急かすわけでもなく、ただ待っている。その優しさがかえって胸を締め付ける。

 

自分は、額を畳に押し付けたまま、言葉を絞り出した。

 

「私に......私に、教えてください」

 

「教える、ですか」

 

「はい」

 

息を吸う。大きく、深く。

 

そして──堰を切ったように、言葉が溢れ出した。

 

「訓練を抜けたのは......本当は、ただ合わないからではありませんでした。訓練場にいると......自分が、削られていくような、消えていくような、そんな感覚に襲われるんです。型を繰り返すたびに、自分が自分でなくなっていくような......」

 

呼吸が浅くなる。言葉が、途切れ途切れになった。

 

「この数日間、自分なりに......自分なりに考えて、昨夜も一人で訓練場に行って、木刀を振ってみました。型を繰り返せば何か見えてくるのではないかと......そう思って」

 

爪がさらに深く掌に食い込む。生温かいものが、掌に滲んだ。

 

「でも、駄目でした。何も変わりませんでした。いえ、むしろ......悪化しています。何をしているのか分からないんです。何のために刀を握っているのか、なぜ訓練にこだわっているのか、何も......何も分からないんです」

 

胸が苦しい。

 

「このままでは、私は......私は──」

 

言葉が詰まった。

 

自分でもその先がわからない。このままでは、どうなってしまうのか。

 

ただ、恐ろしかった。恐ろしくて、恐ろしくて、たまらなかった。

 

「何をどうすればいいのか、教えてください。お願いします」

 

最後の言葉はほとんど懇願だった。

 

沈黙が落ちる。眞は何も言わなかった。

 

自分はただ頭を下げたまま、返事を待った。心臓が、早鐘のように打ち続けている。

 

やがて──眞の声が、静かに響いた。

 

「......分かりました」

 

その一言に、自分の体から力が抜けていく。

 

「顔を上げてください」

 

ゆっくりと、顔を上げる。

 

眞は、静かにほほ笑みを浮かべていた。だが、その瞳の奥には、何か深いものが宿っている。

 

「実は...あなたが訓練を抜けたと報告を受けてから、私はあえて何も言いませんでした。......なぜなら、あなたに自分で見つけてほしかったからです」

 

「自分で......見つけるですか?」

 

「ええ」

 

眞は静かに頷いた。

 

「あなたが何に苦しんでいるのか。なぜ訓練場で違和感を覚えるのか。そして──本当は何を求めているのか。...それは、私が言葉で説明しても、あなたの中に落ちることはありません。あなた自身が、自分で気づかなければ意味がないのです」

 

「でも......私は何も気づけませんでした」

 

「いいえ」

 

眞は首を横に振った。

 

「あなたは、もう気づき始めています。ただ、それを言葉にできないだけです」

 

自分の胸に、眞の視線が注がれる。

 

「だからこそ、今こうして私の前で頭を下げ、助けを求めたのでしょう?」

 

その言葉に、自分は何も言えなくなった。

 

眞は立ち上がり、窓辺へと歩いていく。外の景色を眺めながら、静かに続けた。

 

「今夜、鳴神大社にいらっしゃい」

 

「鳴神大社...ですか?あの影向山の山頂にある...」

 

「ええ。日が暮れる頃に。ちょうど、今日は業務のために夕方になれば入口を閉めるはずで、人も居ないでしょう」

 

「閉めているのに、入ってもよろしいのですか?」

 

「大社の宮司に古い友人がいます。きっと大丈夫でしょう。そこであなたに見せたいものがあります」

 

眞が振り返る。その表情は、どこか決意を秘めているようだった。

 

「それを見れば、あなたの迷いも少しは晴れるかもしれません」

 

自分は、ただ頷くことしかできなかった。

 

「はい......参ります」

 

「では、今夜」

 

眞は再び微笑んだ。だが、その微笑みには、どこか寂しげなものが混じっていた。

 

「今は、少し休んでいらっしゃい。昨夜、随分と無理をしたようですね」

 

「......はい」

 

自分は再び頭を下げ、部屋を後にした。障子を閉める瞬間、眞の姿が視界から消える。

 

廊下に出て、ようやく息をついた。

 

掌を見る。爪の跡がくっきりと残り、僅かに血が滲んでいた。

 

それでも、胸の奥の重苦しさが、少しだけ軽くなっていた。自分一人で抱え込んでいたものを、ようやく吐き出せた。それだけで、少しだけ楽になれた気がした。

 

今夜、鳴神大社で何が待っているのだろう。その答えは、まだ分からない。

 

だが、何かが変わる。そんな予感だけが、胸の内にあった。

第五話【完】

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