夜闇が城を覆い、深い静寂が訪れていた。
月明かりすら雲に遮られ、訓練場は闇に沈んでいる。昼間は掛け声と熱気で溢れていた場所が、今は別世界のように静まり返っていた。風が吹くたびに、砂がさらさらと音を立てる。その音さえもすぐに闇に吸い込まれていく。
自分は訓練場の入口で立ち止まり、しばらくその暗がりを見ていた。
本当に、ここに来てよかったのだろうか。
迷いが胸をよぎる。だが、足は既に一歩を踏み出していた。引き返すことなど、できるはずもなかった。
壁際に並んだ木刀の中から一本を手に取る。ひやりとした冷たさが掌に伝わってきた。夜気に冷やされた木の感触は、昼間に握ったそれとは全く違う。まるで正気を失った何かのように、ただ冷たく、重い。
ゆっくりと訓練場の中央へと歩を進める。足音が不自然に大きく響いた。自分一人しかいないのに、まるで誰かに見られているような妙な感覚がある。
立ち止まり、周囲を見回した。
人影はない。当然だ。こんな深夜に訓練場に来る者などいない。
それでも、視線を感じる。背筋がざわりとした。誰かに咎められるのではないか、という根拠のない恐怖が這い上がってくる。深夜の徘徊を禁じる規則があるわけではない。だが、こんな姿を誰かに見られたら──見られたら、何と説明すればいいのだろう。
深呼吸をする。冷たい夜気が肺に満ちる。
記憶を手繰り寄せた、教官の声。あの退屈な説明。
──左手で柄頭を握る。右手で鍔元。卵を握るように、優しく、力を入れすぎないように。
木刀を両手で構える。剣先が、漆黒の空へと向けられる。
「......こう、か」
呟きが、闇に溶けていった。
振り上げる。そして、振り下ろす。
ヒュッ
空気を裂く音が耳元で鳴った。それだけだった。
木刀の切っ先が弧を描き、下段で止まる。型どおりの動き。教わった通りの動き。
だが、胸には何も湧いてこない。
達成感も、充足感も、何もない。水面のように、ただ平らなままだ。
──まだ一振り目だ。まだ何もわからなくて当然だ。続けよう。
自分に言い聞かせるように、再び木刀を振り上げた。
二振り目、三振り目。四振り目。──何も感じない。
五振り目。六振り目。七振り目。──むしろ、虚しさが募ってくる。
形は整っているはずだ。軌道も、構えも、教わった通りに動かしている。なのに、そこには何の手ごたえもない。空っぽだ。ただ木の棒を振り回しているだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
それでも、振り続けた。
いつしか数えることもやめていた。何振り目なのか、もうわからない。真っ直ぐ振るとか、軌道を整えるとか、そんなことは頭から消えていた。
ただ、振る。また、振る。何度も、何度も──。
額から汗が滴り落ちる。髪が頬に張り付き、視界を遮った。呼吸が荒くなる。奥歯を噛みしめ、唇が歪む。腕が、肩が、悲鳴を上げ始めた。
それでも止められなかった。止めてしまえば、ここに来た意味がなくなる。止めてしまえば、また答えのない問いだけが残る。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ──。単調な音の繰り返し。それが、やけに大きく響いた。
そして、雑音が忍び込んできた。
──本当にこれであっているのか?
──振り続けても、何も見えてこないじゃないか。
──これで本当に何かが変わるのか?
考えるな。
自分を叱りつける。この違和感を、この苦しさを、払拭することだけ考えろ。それ以外は要らない。
雑念を頭から追い出そうとした。だが、無理だった。
水に落とした墨汁のように、黒い思考がじわじわと広がっていく。押し込めようとすればするほど、それは勢いを増して自分を侵食してくる。
──早く。
──早く、この苦しさから解放されたい。この気持ち悪さを消してほしい。
もがいても、あがいても先にあるのは闇だけだ。
出口が見えない。答えが見えない。何も見えない。
──頼む、邪魔をしないでくれ。
──消えてくれ、消えてくれ、消えてくれ。
「くそっ......!!」
限界だった。地面を木刀に叩きつける。
ガンッ
鈍い音が闇に響き渡った。木刀が地面で跳ね、砂煙が舞い上がる。その余韻だけが、ゆっくりと静寂に飲み込まれていく。
’’無理だ’’。諦めが胸を満たした。
膝に手をつき、うつむく。髪から汗が滴り落ち、地面に黒い染みを作る。
何をしているんだ、自分は。何がしたいんだ、自分は。こんなことをして、一体何になるというんだ。
行き場のない怒りが頭を駆け巡る。自分に向けられた怒り。やり場のない苛立ち。
その時だった。遠くから足音が聞こえてきた。
はっと顔を上げる。複数の足音。こちらに向かってくる。しかも、近い。
慌てて、近くの木の陰に身を潜めた。息を殺し、顔だけを出して音の方向を見る。
松明の明かりが揺れている。兵士が三人、訓練場の入口に現れた。
「お、おい。誰もいないぞ?」
一人が当たりを見回しながら、疑わしげに呟いた。
「さっき、こっちから音がしたんだが......確かに聞こえたんだ」
「気味が悪いな。まさか、出るのか?この訓練場」
「怖いこと言うなよ!」
三人目の男が声を荒げた。そして、闇に向かって叫ぶ。
「誰かいるのか!いるなら返事をしろ!」
声が訓練場に反響する。
自分は息を殺したまま、じっと動かなかった。心臓が早鐘を打っている。
数秒の沈黙。
「......誰もいないみたいだな」
「だから言ったろ。気のせいだって」
「そうだったらいいんだが......」
三人は不安げに辺りを見回してから、ようやく背を向けた。松明の明かりが遠ざかっていく。やがて、完全に消えた。
再び、静寂が訪れる。
自分はゆっくりと息を吐いた。全身から力が抜けていく。少しだけ、落ち着いた。
木の陰から出て、地面に転がった木刀を見下ろす。
「......一日中、木刀を振っても何も変わらなかった」
呟きが、虚しく響いた。
訓練初日。一日中、教官の指示通りに振り続けた。それでも、何も見えてこなかった。何もわからなかった。
ならば、こうして深夜に一人で振ったところで、何が変わるというのだろう。
そんな当たり前のことも分からず、こんな夜中に忍び込んで、必死に木刀を振っている自分。
滑稽だった。惨めだった。
苛立ちが再びこみあげてくる。
それに、日を追うごとに、あの違和感が増していく。訓練場にいると、自分が少しずつ削られていくような、消えていくような、あの感覚。
もう耐えられない。これ以上、素振りを続けることは無理だ。
「なぜ......こんなことで悩まなければならないんだ」
刀が駄目なら、別の方法を探せばいい。眞様にそう説明すればいい。侍女として、別の形でお仕えすればいい。
そうすれば──そうすれば、この苦しみから逃れられる。なのに、できない。
自分の足は、訓練場に向かってしまった。自分の手は、木刀を握ってしまった。
なぜだ。なぜ、刀にこだわっているんだ。なぜ、訓練を諦めきれないんだ。
──自分は一体何なんだ?
その問いに答えは返ってこなかった。
「......考えるな」
頭を振る。
「考えても、意味がない......」
ゆっくりと腰を下ろした。地面の冷たさが、汗で濡れた着物を通して肌に伝わってくる。
膝を抱え、うつむく。
視界の端に転がった木刀が映る。月明かりを受けて、それはぼんやりと浮かび上がっていた。
──もう、戻ろう。
そう思った。
だが、しばらく動けなかった。立ち上がる気力すら、残っていなかった。
答えの見えない疑問だけが、胸の内で渦巻いている。
どのくらいそうしていただろうか。
ようやく立ち上がり、木刀を拾い上げる。砂を払い、元の位置に戻した。
音を殺しながら、訓練場を後にする。
振り返ることはしなかった。振り返れば、また迷いが生まれそうで怖かった。
暗闇の訓練場には、静寂だけが残された。
そこには、答えも、救いも、何もなかった。
───◇───◇───◇───
翌朝。
目が覚めたとき、体中が痛んだ。昨夜の無茶な素振りのせいで、腕も肩も悲鳴を上げている。掌を見れば、赤く腫れていた。
それでも、起き上がらなければならない。
いつも通りに身支度を整え、いつも通りに廊下を歩く。そして、すれ違う侍女たちに挨拶をした。だが、胸の奥にあるものは、いつも通りではなかった。
昨夜からずっと、ある決意が固まりつつある。
──自分1人では、どうにもならない。このままじゃ行けない。
ならば──。
自分はいつも通り、眞様の部屋の前に立つ。
深呼吸をする。心臓が、やけに大きく脈打っていた。
硬い床に正座し、障子を軽く叩いた。
「失礼いたします、眞様」
「どうぞ」
穏やかな声が返ってくる。いつもと変わらない、あの声。
障子を開け、中に入る。
眞は文机に向かって座していた。何かの書類に目を通しているようだった。顔を上げ、こちらを見る。
自分は無言のまま、障子の前で再び正座した。両手を畳につけ、深く頭を下げる。額が畳の目に触れた。い草の匂いが鼻腔をくすぐる。
「おはようございます、眞様」
「ええ、おはようございます。どうされました?今日は確かあなたは当番ではありませんでしたよね?」
眞の声が、上から降ってくる。だが、自分は頭を上げなかった。いや、上げられなかった。
沈黙が流れる。長い、長い沈黙。自分の呼吸音だけが、やけに大きく聞こえた。
「......あの」
眞の声に、わずかな困惑が混じっている。
「そのまま頭を下げ続けて、どうかなさいましたか?もう、よろしいのですよ?」
自分の手が、ぎゅっと握りしめられる。爪が、掌に食い込んだ。痛みが走る。だが、その痛みが、かえって自分を落ち着かせた。
──言わなければ。
言わなければ、何も変わらない。
でも──。喉の奥に何かが詰まっている。言葉が出てこない。
なぜだろう。
眞様は自分を拾ってくださった。居場所も与えてくださった。こうして話も聞いてくださっている。
なのに──なぜ、こんなにも言葉が出ないのだろう。
胸の奥で何かが抵抗している。弱さを見せてはいけない。内側をさらしてはいけない。そんな声がどこからともなく聞こえてくる。
理由はわからない。ただ、恐ろしかった。この感情の正体が何なのか、自分でもわからない。わからないまま、それは自分を縛り付けている。
でも、限界だった。1人ではどうにもならない。
「......眞様」
ようやく声が出た。掠れた、震えた声。
「お願いがございます」
「はい、なんでしょう」
眞の声は、いつも通り穏やかだった。急かすわけでもなく、ただ待っている。その優しさがかえって胸を締め付ける。
自分は、額を畳に押し付けたまま、言葉を絞り出した。
「私に......私に、教えてください」
「教える、ですか」
「はい」
息を吸う。大きく、深く。
そして──堰を切ったように、言葉が溢れ出した。
「訓練を抜けたのは......本当は、ただ合わないからではありませんでした。訓練場にいると......自分が、削られていくような、消えていくような、そんな感覚に襲われるんです。型を繰り返すたびに、自分が自分でなくなっていくような......」
呼吸が浅くなる。言葉が、途切れ途切れになった。
「この数日間、自分なりに......自分なりに考えて、昨夜も一人で訓練場に行って、木刀を振ってみました。型を繰り返せば何か見えてくるのではないかと......そう思って」
爪がさらに深く掌に食い込む。生温かいものが、掌に滲んだ。
「でも、駄目でした。何も変わりませんでした。いえ、むしろ......悪化しています。何をしているのか分からないんです。何のために刀を握っているのか、なぜ訓練にこだわっているのか、何も......何も分からないんです」
胸が苦しい。
「このままでは、私は......私は──」
言葉が詰まった。
自分でもその先がわからない。このままでは、どうなってしまうのか。
ただ、恐ろしかった。恐ろしくて、恐ろしくて、たまらなかった。
「何をどうすればいいのか、教えてください。お願いします」
最後の言葉はほとんど懇願だった。
沈黙が落ちる。眞は何も言わなかった。
自分はただ頭を下げたまま、返事を待った。心臓が、早鐘のように打ち続けている。
やがて──眞の声が、静かに響いた。
「......分かりました」
その一言に、自分の体から力が抜けていく。
「顔を上げてください」
ゆっくりと、顔を上げる。
眞は、静かにほほ笑みを浮かべていた。だが、その瞳の奥には、何か深いものが宿っている。
「実は...あなたが訓練を抜けたと報告を受けてから、私はあえて何も言いませんでした。......なぜなら、あなたに自分で見つけてほしかったからです」
「自分で......見つけるですか?」
「ええ」
眞は静かに頷いた。
「あなたが何に苦しんでいるのか。なぜ訓練場で違和感を覚えるのか。そして──本当は何を求めているのか。...それは、私が言葉で説明しても、あなたの中に落ちることはありません。あなた自身が、自分で気づかなければ意味がないのです」
「でも......私は何も気づけませんでした」
「いいえ」
眞は首を横に振った。
「あなたは、もう気づき始めています。ただ、それを言葉にできないだけです」
自分の胸に、眞の視線が注がれる。
「だからこそ、今こうして私の前で頭を下げ、助けを求めたのでしょう?」
その言葉に、自分は何も言えなくなった。
眞は立ち上がり、窓辺へと歩いていく。外の景色を眺めながら、静かに続けた。
「今夜、鳴神大社にいらっしゃい」
「鳴神大社...ですか?あの影向山の山頂にある...」
「ええ。日が暮れる頃に。ちょうど、今日は業務のために夕方になれば入口を閉めるはずで、人も居ないでしょう」
「閉めているのに、入ってもよろしいのですか?」
「大社の宮司に古い友人がいます。きっと大丈夫でしょう。そこであなたに見せたいものがあります」
眞が振り返る。その表情は、どこか決意を秘めているようだった。
「それを見れば、あなたの迷いも少しは晴れるかもしれません」
自分は、ただ頷くことしかできなかった。
「はい......参ります」
「では、今夜」
眞は再び微笑んだ。だが、その微笑みには、どこか寂しげなものが混じっていた。
「今は、少し休んでいらっしゃい。昨夜、随分と無理をしたようですね」
「......はい」
自分は再び頭を下げ、部屋を後にした。障子を閉める瞬間、眞の姿が視界から消える。
廊下に出て、ようやく息をついた。
掌を見る。爪の跡がくっきりと残り、僅かに血が滲んでいた。
それでも、胸の奥の重苦しさが、少しだけ軽くなっていた。自分一人で抱え込んでいたものを、ようやく吐き出せた。それだけで、少しだけ楽になれた気がした。
今夜、鳴神大社で何が待っているのだろう。その答えは、まだ分からない。
だが、何かが変わる。そんな予感だけが、胸の内にあった。
第五話【完】