「え?稲妻で最強の剣士──ですか?」
眞様が自分の言葉を繰り返す。その目は、少し驚いていた。
「はい」
自分は慎重に返事をする。
「一番、ですか......」
眞様は茶碗を口元に運び、一口飲んだ。少し考えるような間があって、それから口を開いた。
「難しい質問ですね。強さにも、いろいろな形がありますから」
「では──剣技という観点では、いかがでしょうか?」
自分は言葉を選びながら、補う形で尋ねる。
「剣技ですか...」
眞様は茶碗をゆっくりと置いた。カタリ、と小さな音が響く。
「それならば──影でしょうね」
答えは迷いなく返ってきた。
自分は息を呑む。
「覚えていますか?二年前のことですが」
眞様が静かに問う。
「はい...覚えています」
名前を聞いた途端、記憶が一気に掘り起こされた。
あの日、あの場所。あの人が放った圧は、体が覚えていた。
──悪い意味で。
「影は私の双子の妹です。そして、稲妻で最強の剣士──」
眞様の声が、ふと止まる。
自分は眞様の目を見た。
眞様は少し考えるような顔をして、ゆっくりと首を横に振った。
「いえ、違いますね。剣士という言葉では、彼女を表現しきれません」
眞様は窓の外へと視線を向けた。遠くを見るような目。
「影は剣士ではなく──武神です」
「武神......」
自分は思わず、その言葉を繰り返していた。
「はい。武を極めた神。それが影です」
眞様の声には、確かな誇らしさがあった。姉が妹を語る時の、そんな響き。
「彼女の剣は、私など到底及びません」
「えっ......眞様でも、敵わないのですか?」
自分は驚きを隠せなかった。
あの眞様が。あんなにも美しく、恐ろしいほどに強い剣を持つ眞様が。
「ええ。まず、勝てないでしょうね」
眞様は淡々と、しかし静かに答えた。
「私はもう数千年、剣を握っていません。ですが影は、その間もずっと、剣を磨き続けてきました」
眞様は再び茶を口に運ぶ。
「そこには、埋めようのない経験の差があります。力量の差があります」
その声には、誇らしさと同時に、どこか寂しげなものが滲んでいた。
「稲妻幕府を作る前から──いえ、それよりもずっと昔から、影は数えきれないほどの魔神を討ち続けてきました。この国ができてからも、それは変わっていません」
眞様は茶碗を置き、自分を見た。
「武神たる影の刀には──血が付きません。決して」
「血が......つかない?」
自分は思わず声を上げていた。
「はい。一滴も」
「それは、一体......」
想像もつかない。
刀を振るえば、血が飛ぶ。刃に血が付く。それが当たり前だと思っていた。
孤児の頃、自分が振るった刀はいつも血に塗れていた。
でも、血すらつかない刀──。
「私にも、理由はわかりません」
眞様は静かに答えた。
「ただ、神が武を極めるとは、そういうことなのかもしれませんね」
自分は、ただ黙っていた。言葉が出てこない。
やがて、眞様が小首を傾げた。
「それで──最強の剣士について、何か気になることでも?それとも、ただの興味ですか?」
自分は、深く息を吸った。
そして、背筋を伸ばし、改めて姿勢を正した。
両手を、きちんと畳に置く。
「眞様、一つお願いがございます」
「はい、なんでしょう」
眞様の目が、自分を見つめる。
「影様に──会わせていただけないでしょうか」
いつも通りの穏やかな表情をしていた眞様の、その口がわずかに開いた。
「影に......ですか」
「はい」
眞様はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと問いかける。
「理由を聞いてもよろしいですか?」
自分は、ほんの少しだけ迷った。
本当のことをいうべきか。
「眞様の刃となるためにはきっと、想像もつかないほどの鍛錬が必要になります」
自分はできるだけ、自然に聞こえるように言葉を紡いだ。
「ですから、武神である影様にその、お話を伺いたいのです。どうすれば強くなれるのか」
嘘である。
完全な嘘ではないが、それが全てではない。
もっと別の理由がある。
「そう......ですか」
眞様が静かに答える。その顔は穏やかで、何も疑っていないように見えた。
自分は少しだけ、胸を撫で下ろす。
──次の瞬間。
突然、眞様が座ったまま、ずずずっ、と畳の上を滑るようにして自分に詰め寄ってきた。
「えっ!?え!?」
気づけば、眞様の顔が目と鼻の先にあった。
至近距離。いや、至近距離どころではない。顔が近い。近すぎる。心臓が爆発しそうだ。
花のような、いい匂いがする。
眞様の顔は、いつもの優しい笑みではなかった。少し目を細めて、口元に笑みを浮かべた、どこか愉快そうな表情。
まるで、子供のいたずらを見つけた時のような。
「ふふ。それは──本当ですか?」
声が近い。耳に直接響く。
「ほ、ほ、ほ、本当です!」
自分は顔を真っ赤にしながら答える。
視線をそらそうとするが、眞様の目がじっと自分を捉えて離さない。
「本当に?」
「本当に!」
「本当に本当に?」
「本当に本当に!!」
声が裏返った。完全に裏返った。
眞様はじっと自分を見つめている。その目は笑っている。完全に楽しんでいる。
数秒の沈黙。いや、数秒どころではない。永遠のように感じる。
自分の心臓の音がうるさい。いや、うるさすぎる。外にも聞こえているのではないか。
やがて──
「ふふふ、あはは」
眞様がくすくすと笑い出した。
そして、ゆっくりと元の位置に戻っていく。
「冗談ですよ」
眞様は優しく微笑んだ。いつもの、あの笑顔。
「いいですよ。影に会わせてあげましょう」
「あ、ありがとうございます...!」
自分は深く頭を下げた。胸も熱い。
「ただし──」
眞様が付け加える。
「影が承知するかはわかりません。あの子は気難しいところがありますから」
「はい......それでもお願いします」
自分は顔を上げた。眞様は窓の外を見ている。
今日、眞様が少し意地悪な面があることを知った。だけど、嫌いじゃない。
───◇───◇───◇───
数日後──。
日が暮れた頃、自分は城を抜けて、眞様に教えられた場所へと向かっていた。
鳴神島の平原。
周りには誰もいない。虫が鳴く声と、風が草を揺らす音だけが、世界を満たしている。
目を凝らすと、少し先に人影が見えた。
──あの人だ。
その人物は、自分に背を向けて、稲妻の海を眺めている。
動かない。まるで風景の一部のように、そこに在る。
自分は一旦立ち止まり、息を整えた。それから、ゆっくりと近づく。
足音を立てないようにしているつもりだが、おそらく──いや、間違いなく気づかれているだろう。
でも、その人は振り返らない。ただ、海を見つめている。
「影──様、ですか?」
自分は恐る恐る、声をかけた。返事は来ない。
風が吹く。草が揺れる。数秒の沈黙。
「周りに人がいないことは、きちんと確認しましたか?」
予想外の言葉だった。
警戒だろうか。それとも──。
「え......」
自分は少し拍子抜けする。
「一応──確認はしましたが」
念のため、もう一度周りを見渡す。でも、やはり誰もいない。平原には自分たち二人だけ。
「そうですか」
影様が短く答えた。
そして──ゆっくりと、振り返った。
息が止まる。その顔はやはり眞様と同じだった。
顔の造作、背丈、立ち姿、髪の流れ方まで、何もかもが眞様と同じ。鏡を見ているかのようだ。
だが──違う。何かが決定的に違う。
眞様の顔には、いつも柔らかなほほ笑みがあった。人を包み込むような温かさがあった。
でも、影様の顔にはそれがない。表情は凪いだ水面のように静か。感情の波が見えない。
そして──圧が違う。
雷鳴そのものが形になったような、圧迫感。息が詰まりそうになる。足が震えそうになる。
「お、お久しぶりです、影様」
自分はとりあえず、深く頭を下げた。声が少し震えた。
「眞に刃を向けた時とは、随分と様子が違いますね」
影様の声が、静かに響く。
冷たくはない。でも、温かくもない。ただ、事実を述べるような、淡々とした声。
「一応の礼儀作法は身につけた、ということですか」
その目が自分を見ている。値踏みするような──いや、観察するような目。二年前と全く変わらない。まるで、自分という存在を測っているかのような。
「はい。眞様のおかげです」
自分は即答した。顔を上げる。
「それで話とはなんでしょう。眞からあなたに用があると聞き、来ました」
「はい。このような場を設けていただき、ありがとうございます」
「気にする必要はありません」
影様は淡々と答えた。
「ただ──あなたのためにきたわけではありません。眞のために来ただけです。それだけは忘れないでください」
その言葉が胸に刺さる。
「あっ──」
自分の喉から何かが込み上げてきた。
反論の言葉か。それとも──。でも、それを無理やり押し込む。唇を噛む。
「......はい」
自分は深く息を吸った。拳を握る。ここでひるんではいけない。
「単刀直入に申し上げます」
影様は黙って自分を見ている。その目は、何も語らない。
「私に──剣を、教えてください」
その瞬間──影様の目が動いた。本当にわずかに見開かれた。
沈黙が流れた。長い、長い沈黙。
風だけが吹いている。草がざわざわと音を立てる。
影様はただ、自分を見つめている。
その目に少しずつ何かが戻ってくる。いつもの無表情に。
「あの──影様?」
自分は恐る恐る、問いかける。
「......なぜですか?」
静かな声。でも、どこか慎重な響きがある。
「強くなるためです」
自分は答えた。
「魔神と戦えるほどに」
「なぜ──私に?」
「眞様から聞きました。影様は武神だと」
自分は言葉を選びながら続けた。
「数千年前から魔神を倒し続けて、武を極めたと──」
「......そうですね」
影様の声にわずかに変化があった。
「ですから、あなたに剣を教えていただければ──必ず、強くなれる」
影様は動かない。
ただ、自分を見ている。
「なぜ、強くなりたいのですか?」
その問いには、何か別の意味が込められているような気がした。
「眞様を守りたいからです」
自分は迷わなかった。
その瞬間──影様の目が、また動いた。今度はさっきよりも大きく。
そして、数秒。まるで時が止まったかのように、影様は静止していた。
風が吹く。自分の髪が揺れる。影様は自分を見つめている。
その目には、初めて何か「感情」のようなものが浮かんでいた。
「......と、いうと?」
影様が、さっきまでよりも少しだけ、慎重だった。
自分は言葉を探した。どう説明すればいい。
「数日前──眞様と鳴神大社に行きました。その桜の下で、眞様が刀を振ってくださったんです」
影様は黙って聞いている。
あの夜のことが蘇る。月光、桜、そして眞様の刀。
「初めて分かったんです。──刀は美しいんだって」
影様の目がわずかに動いた。
「今まで、刀は生きるための道具でした。でも、眞様の刀は違った。美しくて、恐ろしくて──それでいて、何か大切なものが込められていて」
言葉が溢れてくる。
「眞様は言いました。人の一瞬一瞬を尊びたい、と。その一瞬が、この国の永遠を作る、と」
風が吹いた。
「眞様は刀にこの稲妻を守りたいという思いを込めている。だったら、私は──眞様を守る刃でありたい」
自分の声が震えた。
影様は、じっと自分を見つめている。
「だから、強くならなければ。眞様を守るには、きっと、すごく大変で、過酷で」
言葉がつっかえる。うまく言葉にできない。でも、伝えたい。
「だから──影様に教えていただきたいのです。お願いします」
自分は影様を見上げた。
沈黙が流れた。
影様は動かない。ただ、自分を見ている。
やがて、影様が口を開いた。
「お断りします」
即答だった。
「えっ──」
「理由を述べましょう。第一に、私は眞の影武者です。それが私の存在意義であり、私の役割です。あなたがそれを担う必要はありません」
その声には、感情がない。淡々と、事実を並べていく。
「第二にあなたは人間です。神と人間の間には、埋めようのない力の差があります。それは努力では超えられません」
「そ、それでも──!」
「第三に」
影様の声が、少しだけ厳しくなった。
「あなたが言っていることは、子供の無謀な夢です。過酷な道、と言いましたね。ですが、あなたはその過酷さを理解していない。守るということは、命をかけるということです。いえ──命を捨てる覚悟を持つということです」
その言葉が、胸に刺さる。
「あなたにはその覚悟がありますか?死ぬ覚悟が?」
自分は言葉が出なかった。
「ありません。なぜなら、あなたはまだ幼いからです。以上です」
影様は、ゆっくりと背を向けた。そして、歩き出す。
「待ってください!」
自分は叫んだ。
でも、影様は止まらない。どんどん、遠ざかっていく。
──だめだ。このままじゃ、だめだ。
自分の足が勝手に動いた。走る。全力で走る。
そして──影様の前に回り込んだ。
「......無礼ですよ。眞に教えてもらいませんでしたか?」
影様の声が、冷たく響く。
「いやです」
自分は両手を広げた。
「私が──」
声が震える。
「私がふさわしいんです!!私が眞様にとって──一番なんです!!!」
その言葉が、口から飛び出した。自分でも驚いた。
──今、何を言った?
影様は動かない。これまで以上に。
数秒。いや、もっと長く感じた。
影様の視線が、自分の顔から、手から、全身を観察している。まるで、自分という存在を測っているかのように。
やがて、影様の唇が動いた。
「──あなたは、眞に依存していますね」
その声はとても静かだった。
自分の心臓が止まった。
「......え?」
──何を言われた?
「今の言葉で、分かりました。あなたが眞に向けているものは、忠誠でも、献身でもない。依存です」
影様の目は、自分の奥底を覗き込むような目をしている。自分は気づけば、それを逸らしていた。
「私がふさわしい。私が一番。それは眞を守りたいのではなく、眞を独占したいということです」
「ち、違います──」
言葉が出ない。胸が苦しい。何か、焦りのようなものがこみあげてくる。
違う、と言いたい。
でも──なぜ、言葉が出ないのか。なぜ、こんなに焦っているのか。
影様は、小さく息を吐いた。
その目に、何か別の色が浮かぶ。それは哀れみ──だろうか。
「ですがそれは、悪いことではありません」
影様の声が、少しだけ柔らかくなった。
「......え?」
自分は顔を上げた。
「あなたは孤児でした。眞に拾われ、居場所を与えられた。その恩義が、あなたの中で過熱しているだけです」
影様は空を見上げた。
「子供というのは、そういうものです。誰かに縋りたい。誰かに必要とされたい。それは当然のことです」
風が二人の間を吹き抜ける。
「そして──時間がたてば、それは変わります」
影様は再び、自分を見た。
「今はまだ、眞への恩義が強すぎる。ですが、やがてそれは思い出になる。穏やかな官舎になる。人は、そうやって成長するものです」
「......」
自分は何も言えなかった。
影様の言葉が頭の中で巡る。
でも、何か違う気がする。何が違うのか、わからない。
ただ──違う。
「今のあなたに必要なのは、刀ではありません」
影様はゆっくりと歩き出した。
「時間です。自分と向き合う時間です」
影様は自分の横を通り過ぎる。
「話は以上です。城下町まで、送りましょう」
自分は戸惑った。送ってはくれるのか。
「来なさい」
影様が少し振り返る。
「......はい」
自分は渋々、そのあとを追った。
何を言えばいいのか、わからない。
影様の言葉は、正しいのだろうか。
自分は本当に、依存しているのだろうか。
月は完全に昇っている。
二人は並んで、草原を歩く。
影様は何も言わない。自分も何も言えない。
ただ、草を踏む音だけが、静かに響いていた。
やがて自分は、口を開いた。
「影様」
「はい」
「影武者とは──どういうことですか?」
影様は、少し間をおいてから答えた。
「眞は、執務を担当しています。国の政を。民との対話を。私は戦場を担当しています。魔物の討伐を、国境の守りを」
「......そう、なんですか」
「ええ。双子ですから、姿が同じです。役割を分担するのは、合理的でしょう」
淡々とした説明だった。事実を、ただ並べているだけ。
「では──なぜ、影様が影武者になったのですか?」
自分は問いかけた。
影様の足が、わずかに止まりかけた。ほんの一瞬。
でも、すぐにまた歩き出す。
「......眞の思想が、理にかなっているからです」
影様は前を向いたまま答えた。
「思想......」
「ええ。人の一瞬一瞬が、国の永遠を作る。変化こそが、命の証である。その思想に従えば、この国は正しい方向に進む。それが、私の判断です」
影様の声は、変わらず淡々としていた。
「私は武を極めました。だから、戦場に立つのは当然のことです。眞が未来を見据え、民と対話する。私がその間、敵を排除する。それが最も効率的です」
影様は、少しだけ視線を空に向けた。
その言葉には、迷いがなかった。
でも──、何か引っかかるものがあった。
「それだけ──ですか?」
自分は、思わず問いかけていた。
影様が立ち止まり、ゆっくりとこちらを見る。
その目には、何も映っていないように見えた。
「......それが理由です」
影様はそういった。それだけ。
でも、その言い方がまるで何かを隠しているような──。
「そうですか」
自分は、それ以上聞けなかった。
影様は、また歩き出す。
風が、また吹いた。
「あなたには、まだわからないでしょう」
影様が、静かに言った。
「ですが、いずれわかる時が来ます」
「......」
「人は時間をかけて変わっていくものです。焦る必要はありません」
その声は、どこか遠かった。
自分は影様の横顔を見た。その横顔は何もないように見える。本当は何かあるのかもしれない。
──それを見せないだけなのか?
やがて、城下町の灯りが見えてきた。遠くに人々の営みがある。
「ここまでです」
「......はい」
自分は立ち止まる。
「焦らなくて結構です。あなたには、時間があります。その時間を大切にしてください」
影様の声が、夜に溶ける。
自分は静かに頷いた。
影様は背を向け、草原の闇へと歩き出した。
自分は町へ向かって進んだ。だが、ふと後ろを振り返る。
もう誰もいなかった。影様の姿は、どこにもない。まるで、最初からいなかったかのように。
その時、自分は拳を強く握りしめていることに気づく。
そして、それを開くと、大量の汗と少量の血が滲んでいるのが見えた。
第七話【完】