名もなき孤児が将軍様に拾われまして   作:せっせこパパイヤ

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第七話「申し出」

「え?稲妻で最強の剣士──ですか?」

 

眞様が自分の言葉を繰り返す。その目は、少し驚いていた。

 

「はい」

 

自分は慎重に返事をする。

 

「一番、ですか......」

 

眞様は茶碗を口元に運び、一口飲んだ。少し考えるような間があって、それから口を開いた。

 

「難しい質問ですね。強さにも、いろいろな形がありますから」

 

「では──剣技という観点では、いかがでしょうか?」

 

自分は言葉を選びながら、補う形で尋ねる。

 

「剣技ですか...」

 

眞様は茶碗をゆっくりと置いた。カタリ、と小さな音が響く。

 

「それならば──影でしょうね」

 

答えは迷いなく返ってきた。

 

自分は息を呑む。

 

「覚えていますか?二年前のことですが」

 

眞様が静かに問う。

 

「はい...覚えています」

 

名前を聞いた途端、記憶が一気に掘り起こされた。

 

あの日、あの場所。あの人が放った圧は、体が覚えていた。

 

──悪い意味で。

 

「影は私の双子の妹です。そして、稲妻で最強の剣士──」

 

眞様の声が、ふと止まる。

 

自分は眞様の目を見た。

 

眞様は少し考えるような顔をして、ゆっくりと首を横に振った。

 

「いえ、違いますね。剣士という言葉では、彼女を表現しきれません」

 

眞様は窓の外へと視線を向けた。遠くを見るような目。

 

「影は剣士ではなく──武神です」

 

「武神......」

 

自分は思わず、その言葉を繰り返していた。

 

「はい。武を極めた神。それが影です」

 

眞様の声には、確かな誇らしさがあった。姉が妹を語る時の、そんな響き。

 

「彼女の剣は、私など到底及びません」

 

「えっ......眞様でも、敵わないのですか?」

 

自分は驚きを隠せなかった。

 

あの眞様が。あんなにも美しく、恐ろしいほどに強い剣を持つ眞様が。

 

「ええ。まず、勝てないでしょうね」

 

眞様は淡々と、しかし静かに答えた。

 

「私はもう数千年、剣を握っていません。ですが影は、その間もずっと、剣を磨き続けてきました」

 

眞様は再び茶を口に運ぶ。

 

「そこには、埋めようのない経験の差があります。力量の差があります」

 

その声には、誇らしさと同時に、どこか寂しげなものが滲んでいた。

 

「稲妻幕府を作る前から──いえ、それよりもずっと昔から、影は数えきれないほどの魔神を討ち続けてきました。この国ができてからも、それは変わっていません」

 

眞様は茶碗を置き、自分を見た。

 

「武神たる影の刀には──血が付きません。決して」

 

「血が......つかない?」

 

自分は思わず声を上げていた。

 

「はい。一滴も」

 

「それは、一体......」

 

想像もつかない。

 

刀を振るえば、血が飛ぶ。刃に血が付く。それが当たり前だと思っていた。

 

孤児の頃、自分が振るった刀はいつも血に塗れていた。

 

でも、血すらつかない刀──。

 

「私にも、理由はわかりません」

 

眞様は静かに答えた。

 

「ただ、神が武を極めるとは、そういうことなのかもしれませんね」

 

自分は、ただ黙っていた。言葉が出てこない。

 

やがて、眞様が小首を傾げた。

 

「それで──最強の剣士について、何か気になることでも?それとも、ただの興味ですか?」

 

自分は、深く息を吸った。

 

そして、背筋を伸ばし、改めて姿勢を正した。

 

両手を、きちんと畳に置く。

 

「眞様、一つお願いがございます」

 

「はい、なんでしょう」

 

眞様の目が、自分を見つめる。

 

「影様に──会わせていただけないでしょうか」

 

いつも通りの穏やかな表情をしていた眞様の、その口がわずかに開いた。

 

「影に......ですか」

 

「はい」

 

眞様はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと問いかける。

 

「理由を聞いてもよろしいですか?」

 

自分は、ほんの少しだけ迷った。

 

本当のことをいうべきか。

 

「眞様の刃となるためにはきっと、想像もつかないほどの鍛錬が必要になります」

 

自分はできるだけ、自然に聞こえるように言葉を紡いだ。

 

「ですから、武神である影様にその、お話を伺いたいのです。どうすれば強くなれるのか」

 

嘘である。

 

完全な嘘ではないが、それが全てではない。

 

もっと別の理由がある。

 

「そう......ですか」

 

眞様が静かに答える。その顔は穏やかで、何も疑っていないように見えた。

 

自分は少しだけ、胸を撫で下ろす。

 

──次の瞬間。

 

突然、眞様が座ったまま、ずずずっ、と畳の上を滑るようにして自分に詰め寄ってきた。

 

「えっ!?え!?」

 

気づけば、眞様の顔が目と鼻の先にあった。

 

至近距離。いや、至近距離どころではない。顔が近い。近すぎる。心臓が爆発しそうだ。

 

花のような、いい匂いがする。

 

眞様の顔は、いつもの優しい笑みではなかった。少し目を細めて、口元に笑みを浮かべた、どこか愉快そうな表情。

 

まるで、子供のいたずらを見つけた時のような。

 

「ふふ。それは──本当ですか?」

 

声が近い。耳に直接響く。

 

「ほ、ほ、ほ、本当です!」

 

自分は顔を真っ赤にしながら答える。

 

視線をそらそうとするが、眞様の目がじっと自分を捉えて離さない。

 

「本当に?」

 

「本当に!」

 

「本当に本当に?」

 

「本当に本当に!!」

 

声が裏返った。完全に裏返った。

 

眞様はじっと自分を見つめている。その目は笑っている。完全に楽しんでいる。

 

数秒の沈黙。いや、数秒どころではない。永遠のように感じる。

 

自分の心臓の音がうるさい。いや、うるさすぎる。外にも聞こえているのではないか。

 

やがて──

 

「ふふふ、あはは」

 

眞様がくすくすと笑い出した。

 

そして、ゆっくりと元の位置に戻っていく。

 

「冗談ですよ」

 

眞様は優しく微笑んだ。いつもの、あの笑顔。

 

「いいですよ。影に会わせてあげましょう」

 

「あ、ありがとうございます...!」

 

自分は深く頭を下げた。胸も熱い。

 

「ただし──」

 

眞様が付け加える。

 

「影が承知するかはわかりません。あの子は気難しいところがありますから」

 

「はい......それでもお願いします」

 

自分は顔を上げた。眞様は窓の外を見ている。

 

今日、眞様が少し意地悪な面があることを知った。だけど、嫌いじゃない。

───◇───◇───◇───

数日後──。

 

日が暮れた頃、自分は城を抜けて、眞様に教えられた場所へと向かっていた。

 

鳴神島の平原。

 

周りには誰もいない。虫が鳴く声と、風が草を揺らす音だけが、世界を満たしている。

 

目を凝らすと、少し先に人影が見えた。

 

──あの人だ。

 

その人物は、自分に背を向けて、稲妻の海を眺めている。

 

動かない。まるで風景の一部のように、そこに在る。

 

自分は一旦立ち止まり、息を整えた。それから、ゆっくりと近づく。

 

足音を立てないようにしているつもりだが、おそらく──いや、間違いなく気づかれているだろう。

 

でも、その人は振り返らない。ただ、海を見つめている。

 

「影──様、ですか?」

 

自分は恐る恐る、声をかけた。返事は来ない。

 

風が吹く。草が揺れる。数秒の沈黙。

 

「周りに人がいないことは、きちんと確認しましたか?」

 

予想外の言葉だった。

 

警戒だろうか。それとも──。

 

「え......」

 

自分は少し拍子抜けする。

 

「一応──確認はしましたが」

 

念のため、もう一度周りを見渡す。でも、やはり誰もいない。平原には自分たち二人だけ。

 

「そうですか」

 

影様が短く答えた。

 

そして──ゆっくりと、振り返った。

 

息が止まる。その顔はやはり眞様と同じだった。

 

顔の造作、背丈、立ち姿、髪の流れ方まで、何もかもが眞様と同じ。鏡を見ているかのようだ。

 

だが──違う。何かが決定的に違う。

 

眞様の顔には、いつも柔らかなほほ笑みがあった。人を包み込むような温かさがあった。

 

でも、影様の顔にはそれがない。表情は凪いだ水面のように静か。感情の波が見えない。

 

そして──圧が違う。

 

雷鳴そのものが形になったような、圧迫感。息が詰まりそうになる。足が震えそうになる。

 

「お、お久しぶりです、影様」

 

自分はとりあえず、深く頭を下げた。声が少し震えた。

 

「眞に刃を向けた時とは、随分と様子が違いますね」

 

影様の声が、静かに響く。

 

冷たくはない。でも、温かくもない。ただ、事実を述べるような、淡々とした声。

 

「一応の礼儀作法は身につけた、ということですか」

 

その目が自分を見ている。値踏みするような──いや、観察するような目。二年前と全く変わらない。まるで、自分という存在を測っているかのような。

 

「はい。眞様のおかげです」

 

自分は即答した。顔を上げる。

 

「それで話とはなんでしょう。眞からあなたに用があると聞き、来ました」

 

「はい。このような場を設けていただき、ありがとうございます」

 

「気にする必要はありません」

 

影様は淡々と答えた。

 

「ただ──あなたのためにきたわけではありません。眞のために来ただけです。それだけは忘れないでください」

 

その言葉が胸に刺さる。

 

「あっ──」

 

自分の喉から何かが込み上げてきた。

 

反論の言葉か。それとも──。でも、それを無理やり押し込む。唇を噛む。

 

「......はい」

 

自分は深く息を吸った。拳を握る。ここでひるんではいけない。

 

「単刀直入に申し上げます」

 

影様は黙って自分を見ている。その目は、何も語らない。

 

「私に──剣を、教えてください」

 

その瞬間──影様の目が動いた。本当にわずかに見開かれた。

 

沈黙が流れた。長い、長い沈黙。

 

風だけが吹いている。草がざわざわと音を立てる。

 

影様はただ、自分を見つめている。

 

その目に少しずつ何かが戻ってくる。いつもの無表情に。

 

「あの──影様?」

 

自分は恐る恐る、問いかける。

 

「......なぜですか?」

 

静かな声。でも、どこか慎重な響きがある。

 

「強くなるためです」

 

自分は答えた。

 

「魔神と戦えるほどに」

 

「なぜ──私に?」

 

「眞様から聞きました。影様は武神だと」

 

自分は言葉を選びながら続けた。

 

「数千年前から魔神を倒し続けて、武を極めたと──」

 

「......そうですね」

 

影様の声にわずかに変化があった。

 

「ですから、あなたに剣を教えていただければ──必ず、強くなれる」

 

影様は動かない。

 

ただ、自分を見ている。

 

「なぜ、強くなりたいのですか?」

 

その問いには、何か別の意味が込められているような気がした。

 

「眞様を守りたいからです」

 

自分は迷わなかった。

 

その瞬間──影様の目が、また動いた。今度はさっきよりも大きく。

 

そして、数秒。まるで時が止まったかのように、影様は静止していた。

 

風が吹く。自分の髪が揺れる。影様は自分を見つめている。

 

その目には、初めて何か「感情」のようなものが浮かんでいた。

 

「......と、いうと?」

 

影様が、さっきまでよりも少しだけ、慎重だった。

 

自分は言葉を探した。どう説明すればいい。

 

「数日前──眞様と鳴神大社に行きました。その桜の下で、眞様が刀を振ってくださったんです」

 

影様は黙って聞いている。

 

あの夜のことが蘇る。月光、桜、そして眞様の刀。

 

「初めて分かったんです。──刀は美しいんだって」

 

影様の目がわずかに動いた。

 

「今まで、刀は生きるための道具でした。でも、眞様の刀は違った。美しくて、恐ろしくて──それでいて、何か大切なものが込められていて」

 

言葉が溢れてくる。

 

「眞様は言いました。人の一瞬一瞬を尊びたい、と。その一瞬が、この国の永遠を作る、と」

 

風が吹いた。

 

「眞様は刀にこの稲妻を守りたいという思いを込めている。だったら、私は──眞様を守る刃でありたい」

 

自分の声が震えた。

 

影様は、じっと自分を見つめている。

 

「だから、強くならなければ。眞様を守るには、きっと、すごく大変で、過酷で」

 

言葉がつっかえる。うまく言葉にできない。でも、伝えたい。

 

「だから──影様に教えていただきたいのです。お願いします」

 

自分は影様を見上げた。

 

沈黙が流れた。

 

影様は動かない。ただ、自分を見ている。

 

やがて、影様が口を開いた。

 

「お断りします」

 

即答だった。

 

「えっ──」

 

「理由を述べましょう。第一に、私は眞の影武者です。それが私の存在意義であり、私の役割です。あなたがそれを担う必要はありません」

 

その声には、感情がない。淡々と、事実を並べていく。

 

「第二にあなたは人間です。神と人間の間には、埋めようのない力の差があります。それは努力では超えられません」

 

「そ、それでも──!」

 

「第三に」

 

影様の声が、少しだけ厳しくなった。

 

「あなたが言っていることは、子供の無謀な夢です。過酷な道、と言いましたね。ですが、あなたはその過酷さを理解していない。守るということは、命をかけるということです。いえ──命を捨てる覚悟を持つということです」

 

その言葉が、胸に刺さる。

 

「あなたにはその覚悟がありますか?死ぬ覚悟が?」

 

自分は言葉が出なかった。

 

「ありません。なぜなら、あなたはまだ幼いからです。以上です」

 

影様は、ゆっくりと背を向けた。そして、歩き出す。

 

「待ってください!」

 

自分は叫んだ。

 

でも、影様は止まらない。どんどん、遠ざかっていく。

 

──だめだ。このままじゃ、だめだ。

 

自分の足が勝手に動いた。走る。全力で走る。

 

そして──影様の前に回り込んだ。

 

「......無礼ですよ。眞に教えてもらいませんでしたか?」

 

影様の声が、冷たく響く。

 

「いやです」

 

自分は両手を広げた。

 

「私が──」

 

声が震える。

 

「私がふさわしいんです!!私が眞様にとって──一番なんです!!!」

 

その言葉が、口から飛び出した。自分でも驚いた。

 

──今、何を言った?

 

影様は動かない。これまで以上に。

 

数秒。いや、もっと長く感じた。

 

影様の視線が、自分の顔から、手から、全身を観察している。まるで、自分という存在を測っているかのように。

 

やがて、影様の唇が動いた。

 

「──あなたは、眞に依存していますね」

 

その声はとても静かだった。

 

自分の心臓が止まった。

 

「......え?」

 

──何を言われた?

 

「今の言葉で、分かりました。あなたが眞に向けているものは、忠誠でも、献身でもない。依存です」

 

影様の目は、自分の奥底を覗き込むような目をしている。自分は気づけば、それを逸らしていた。

 

「私がふさわしい。私が一番。それは眞を守りたいのではなく、眞を独占したいということです」

 

「ち、違います──」

 

言葉が出ない。胸が苦しい。何か、焦りのようなものがこみあげてくる。

 

違う、と言いたい。

 

でも──なぜ、言葉が出ないのか。なぜ、こんなに焦っているのか。

 

影様は、小さく息を吐いた。

 

その目に、何か別の色が浮かぶ。それは哀れみ──だろうか。

 

「ですがそれは、悪いことではありません」

 

影様の声が、少しだけ柔らかくなった。

 

「......え?」

 

自分は顔を上げた。

 

「あなたは孤児でした。眞に拾われ、居場所を与えられた。その恩義が、あなたの中で過熱しているだけです」

 

影様は空を見上げた。

 

「子供というのは、そういうものです。誰かに縋りたい。誰かに必要とされたい。それは当然のことです」

 

風が二人の間を吹き抜ける。

 

「そして──時間がたてば、それは変わります」

 

影様は再び、自分を見た。

 

「今はまだ、眞への恩義が強すぎる。ですが、やがてそれは思い出になる。穏やかな官舎になる。人は、そうやって成長するものです」

 

「......」

 

自分は何も言えなかった。

 

影様の言葉が頭の中で巡る。

 

でも、何か違う気がする。何が違うのか、わからない。

 

ただ──違う。

 

「今のあなたに必要なのは、刀ではありません」

 

影様はゆっくりと歩き出した。

 

「時間です。自分と向き合う時間です」

 

影様は自分の横を通り過ぎる。

 

「話は以上です。城下町まで、送りましょう」

 

自分は戸惑った。送ってはくれるのか。

 

「来なさい」

 

影様が少し振り返る。

 

「......はい」

 

自分は渋々、そのあとを追った。

 

何を言えばいいのか、わからない。

 

影様の言葉は、正しいのだろうか。

 

自分は本当に、依存しているのだろうか。

 

月は完全に昇っている。

 

二人は並んで、草原を歩く。

 

影様は何も言わない。自分も何も言えない。

 

ただ、草を踏む音だけが、静かに響いていた。

 

やがて自分は、口を開いた。

 

「影様」

 

「はい」

 

「影武者とは──どういうことですか?」

 

影様は、少し間をおいてから答えた。

 

「眞は、執務を担当しています。国の政を。民との対話を。私は戦場を担当しています。魔物の討伐を、国境の守りを」

 

「......そう、なんですか」

 

「ええ。双子ですから、姿が同じです。役割を分担するのは、合理的でしょう」

 

淡々とした説明だった。事実を、ただ並べているだけ。

 

「では──なぜ、影様が影武者になったのですか?」

 

自分は問いかけた。

 

影様の足が、わずかに止まりかけた。ほんの一瞬。

 

でも、すぐにまた歩き出す。

 

「......眞の思想が、理にかなっているからです」

 

影様は前を向いたまま答えた。

 

「思想......」

 

「ええ。人の一瞬一瞬が、国の永遠を作る。変化こそが、命の証である。その思想に従えば、この国は正しい方向に進む。それが、私の判断です」

 

影様の声は、変わらず淡々としていた。

 

「私は武を極めました。だから、戦場に立つのは当然のことです。眞が未来を見据え、民と対話する。私がその間、敵を排除する。それが最も効率的です」

 

影様は、少しだけ視線を空に向けた。

 

その言葉には、迷いがなかった。

 

でも──、何か引っかかるものがあった。

 

「それだけ──ですか?」

 

自分は、思わず問いかけていた。

 

影様が立ち止まり、ゆっくりとこちらを見る。

 

その目には、何も映っていないように見えた。

 

「......それが理由です」

 

影様はそういった。それだけ。

 

でも、その言い方がまるで何かを隠しているような──。

 

「そうですか」

 

自分は、それ以上聞けなかった。

 

影様は、また歩き出す。

 

風が、また吹いた。

 

「あなたには、まだわからないでしょう」

 

影様が、静かに言った。

 

「ですが、いずれわかる時が来ます」

 

「......」

 

「人は時間をかけて変わっていくものです。焦る必要はありません」

 

その声は、どこか遠かった。

 

自分は影様の横顔を見た。その横顔は何もないように見える。本当は何かあるのかもしれない。

 

──それを見せないだけなのか?

 

やがて、城下町の灯りが見えてきた。遠くに人々の営みがある。

 

「ここまでです」

 

「......はい」

 

自分は立ち止まる。

 

「焦らなくて結構です。あなたには、時間があります。その時間を大切にしてください」

 

影様の声が、夜に溶ける。

 

自分は静かに頷いた。

 

影様は背を向け、草原の闇へと歩き出した。

 

自分は町へ向かって進んだ。だが、ふと後ろを振り返る。

 

もう誰もいなかった。影様の姿は、どこにもない。まるで、最初からいなかったかのように。

 

その時、自分は拳を強く握りしめていることに気づく。

 

そして、それを開くと、大量の汗と少量の血が滲んでいるのが見えた。

第七話【完】

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