鉛色に閉ざされた空からは、絶え間なく雪片が舞い落ちる。
吹き荒ぶ冷たい風は刃物のように皮膚を刺し、防寒着の僅かな隙間から侵入しては、末端の血管から否応なしに体温を奪い去っていく。
見渡す限りの銀世界のさなか、粉砂糖を塗したような木立の陰に身を隠した眞壁恵は、白い息を薄く吐き出しつつ、無線機を口許に寄せた。
「応答せよ。こちら眞壁。ポイントB4地点で、討伐目標のガストレアを確認。あれが群れの司令塔で間違いないはず――」
ややもしない内に、『……ッ、ザザ……』というノイズを枕詞に、応答があった。男性の低い声が鼓膜を震わせる。『須永だ。良くやった眞壁。発見したのはお前自身か? それとも――』
「もちろんマロンが――ですよ。須永隊長」と恵は微笑と共に、自由な方の左手を下へ伸ばす。冷え切った指先が、柔らかく温かい感触に触れる。彼女の傍らに控えていたジャーマンシェパードが、「はふっ」と嬉しそうに押し殺した鳴き声を洩らす。
『――こちら安斎だ。はははっ、先を越されちまったな』
『――こちら益子。今日の配給はマロンの独り占めかな、これは』
スピーカーからは続々と隊員達の楽しそうな声が聞こえてくる。
『心配せずとも』と須永が言う。『ご褒美には小田桐お手製のジャーキーがあるだろう?』
「だってさ。良かったね、マロン」
「わふんっ」とジャーマンシェパード改め、マロンが得意げに答える。尻尾が左右に揺れ、歓喜の感情をこれでもかと表すが、決して大声は出そうとしない。
恵を見上げる瞳には、確かな知性が宿っており、この場が数多のガストレアが跋扈する危険地帯――『未踏査領域』である事を理解しているようだ。
『――……どうにもこうにも……緊張感って奴が足りないんじゃないかな?』和気藹々とした雰囲気の中に、前触れなく刺々しい指摘が差し込まれた。『目の前にいるのはステージⅣだろう? 良い加減に……』
『何だ保脇、俺達の腕が信じられないっていうのか?』
須永の冗談めかした言い方に、スピーカーの向こうから雑音混じりの舌打ちが返ってくる。『……懸念材料を挙げただけさ』と呆れたように、声の主は続ける。『君達の緩んだ空気に巻き込まれちゃ、たまったものじゃない』
『三日前にステージⅡの目の前で泣きべそかいてた奴に言われちゃ、俺達も気を引き締めざるを得なくなってしまうな』
『……ッ! あれは、たまたま発作がッ。元聖天子付き護衛官の僕が、あんな下劣な化け物ごときにッ……!』
弁解しようとした保脇に、益子が失笑を返す。『はいはい。何度も聞いたって、その話は』
『…………くそッ』さすがの彼も、この空気の中でこれ以上の悪足掻きは無理と踏んだのだろう。わざとらしく毒づくと、『それにしても』と露骨に話題を転換してきた。『さっきから、鬱陶しくてしょうがいないよ。普段は僕らの事なんて、露ほども気にしていないくせして――』
保脇の言に釣られるように、恵は視線を上空へと滑らせた。
白と灰だけがぶち撒けられているはずの空に、小さな黒点がいくつか点在していた。
それらは未確認飛行物体のように、陣取った座標から大きく離れる事なく、ふわふわと浮遊し続けている。
直径五〇センチほどの黒光りする機体の四隅から、短い柱状のパーツが地面に対して垂直になるように伸び、その先端にはプロペラが取りつけられている。
バラニウム製のマルチコプター型偵察用ドローン――五エリア連合の作戦本部が所有する無人偵察機だった。
黒塊の前面には、無駄に仰々しいカメラ・アイが覗き、宙空に浮かぶ無機質な群れは、瞬き一つしないレンズの瞳で、ただ一点を凝視し続けていた。
渇いた鱗が、少ない光を反射して、瓦屋根のように煌めく。何も知らない者が姿だけを見れば、白亜紀の恐竜が、某映画のごとくバイオテクノロジーで蘇ったのかと勘違いするかもしれない。
だが違う。
恵や、他の者達は知識と経験を元に知っている。
尻尾の先から顎先まで――体長一五メートルは優に超えるであろう巨大な爬虫類が、既存の生物をモデルとして巨大化した末に産まれたものである事を。
コモドオオトカゲの因子を発現したステージⅣガストレア。
極寒のさなかでも、その山のごとき巨体からは、陽炎を思わせる湯気が立ち昇っていた。体内から練り出される熱気が、変温動物という生物学的常識を嘲笑うかのように融雪を促している。
紅く発光する虹彩がギョロギョロと蠢き、グロテスクな口の先から粘液塗れの舌を出し入れしつつ、巨大トカゲの異形は、朽ちかけたビルの外壁に爪を立ててしがみついている。
悍ましさの具現化のような存在を改めて視界に収め、恵は無意識に生唾を飲み込んでいた。
無線機からは、なおも保脇の悪態が突き出てくる。『現場を知らないデスクワーカー共め。頼むから、あいつを刺激してくれるなよ……』
『気に食わんのも理解はできるが』と須永が、やんわりと言う。『向こうさんも仕事でしょうがなく……ってところだろう。記念すべき最後の掃討戦だ。自分らの上司のご機嫌取りのために、何としてでも良い絵を撮っておきたいんだろう。ここは大人の俺達が理解を示して、歩み寄ってやるべきとは思わんかね?』
『それで僕達に甚大な被害が出るとしてもかい?』しかし保脇は、なおも食い下がる。
『もう一度言ってやろうか保脇――』言葉尻が下がるにつれて、須永の声色が目に見えて冷え込んだ。『――俺達の腕が、信用できないっていうのか?』
針で突き刺すような鋭利な言葉に、『……ッ』と今度こそ、保脇の戯言が途絶える。
しばしの沈黙が滞留したのち、『疑っている……訳じゃない』と、保脇はかろうじて言葉を搾り出す。『あんた達の強さは……良く知っている。何度も間近で見てきたんだから……』
『なら、良い』
すでに他の隊員達が放つ空気も、別次元のそれに変貌していた。目が届く範囲にいなくとも、声が聞こえなくとも分かる。粗悪品のスピーカーから洩れてくる息遣いだけで、彼らのスイッチが完全に切り替わった事が確信できる。
それは当然、恵や足許にいるマロンも例外ではなかった。
降りしきる雪と変わらないくらい冷たくなった脳が、思考を極限まで研ぎ澄ましていく。腰に備えつけた二つの鞘から、バラニウムで鍛造されたサバイバルナイフを抜き放つ。
肉眼でステージⅣを捉え、その周囲一帯を見回す。「――予定通り、奴の周囲に他のガストレアはほとんどいません」
『別働隊が上手くやってくれているんだろう』と須永が言う。『小田桐、そっちはどうだ』
『目の前に広がっている光景が、そのまま答えだ』無線機から新たな声が聞こえてくる。副隊長の小田桐は平坦な調子で、『だが稼げる時間はそう長くない』と断りを入れてくる。『作戦本部の連中の目があるせいで、あいつの協力は得られない。手持ちの磁場増幅装置で包囲網を敷くにしても限度がある』
『十分だ。それに最後くらい、俺達だけの力でやり切るのも悪くない』須永はそう締め括り、『さあ』と全員へと呼びかける。『ここが正念場だ。この局面を全員で乗り切り、英雄達を迎える準備を整えるとしよう。俺達のこれまでの戦いが――散っていった仲間達の命が、無駄ではなかったと証明するために。――先遣隊の志は、皆と共にあり』
『『『先遣隊の志は、皆と共にあり』』』
須永に追随するかのごとく、宣言の重奏が木霊していく。
当然、恵も同じ文言を繰り返していた。マロンも人間達が何を口にしているのかが分かっているかのように、呼応して短く唸る。
「行くよ、マロン」手の甲で愛犬の背中を小突いて合図する。ダブルコートの短毛が一気に逆立ち、筋肉質な後ろ脚が弾かれるように立ち上がる。「ゴー!」
瞬間、マロンが雪煙を巻き上げて弾丸のごとく駆け出す。何の躊躇も逡巡もなく、ただ主人の命令のままに、ガストレアの親玉めがけて突っ込んでいく。
あっという間に小さくなっていく体躯を見送りながら、恵は静かに息を吐いて両目を閉じた。
厚ぼったい雲の間からは、ほとんど陽の光が差し込む事はなく、閉ざされた瞼の裏側は途端に闇一色に包まれる。
何も写さぬ視界のさなかで、恵は自身の意識を冷たい水の底に沈める。自らの体内に根を張る『それ』を、ゆっくりと呼び起こす。溶鉱炉に火が点いたかのごとく、体の内側が熱されていき、血管と神経を経由して灼熱が全身へと行き渡っていく。
「――――…………」
閉ざされていた眼瞼を、再度外気へと晒す。冷却された外気が瞳の粘膜に触れた瞬間に、蒸発するような感覚だった。
恵は、改めて獲物を見据える。
人類の敵が湛えるものと瓜二つの――鮮紅色の眸子を以ってして。
二〇三一年一二月六日。
先遣隊より作戦本部へ報告。
旧日本国未踏捜領域内、旧石川県金沢市木ノ新保町――JR金沢駅跡より、半径五キロ範囲からガストレアの脅威を取り除き、携帯型モノリスの設置に成功した。
計画を実行に移すなら、今このタイミングしかないだろう。至急、五エリアの統治者達に連絡を求む。
領土奪還の機会は、今この時を置いて他にない。
これは攻め入ってくるガストレアから、生存圏を守り抜くための防衛戦ではない。
こちらから奴らの領域へ仕掛ける侵攻戦だ。
人類がガストレアに対し、反撃の狼煙を上げるための戦い。
東京、大阪、仙台、博多、北海道――日本の五エリア全てが手を取り合い、かつて失われた領土を取り戻すのだ。
人類に暗澹たる影を落とし続ける天蓋を打ち破るための矛は、すでに手許にある。
皆が烈日を見上げる日は、そう遠くない未来にあるはずだ。