――こんな事、前にもあったような気がする……。
デジャヴや既視感といった単語が次々に脳裏を掠め、眼前で現在進行形で繰り広げられている光景に、思わず溜息を洩らしてしまう。
ブラックスーツのようなデザインをした勾田高校の制服に身を包んだ黒髪の少年――里見蓮太郎は、瞑目して、ぐったりと頭を項垂れさせる。
夏場は室外機が壊れるのではないかと心配するほど、四六時中フル稼働していたエアコンも、今や静かなものだ。『冬は夏と違って着込めば何とかなるのよ』という雇い主のありがたい事この上ない御言葉のおかげで、本体代だけで一〇万円は優に超え、取りつけ工事で五万円は掛かった家電は、もはや単なる置き物と化している。
季節はすでに冬も深まる一二月。
築数十年はくだらない天童民間警備会社の事務所の入っている雑居ビルは、当時のおおらか極まる建築基準の甲斐もあってか、全くと言って良いほど断熱材の恩恵を感じられない。床からは絶え間なく冷えた空気が立ち昇り、吐いた息は白く染まる。雨風を凌げるというだけで、これでは実質外と変わらない。
冷蔵庫のごとき事務所の中には、蓮太郎を含めて六人の人間が卓を囲っていた。
細かい傷だらけな上に、前の持ち主が吐き出したであろうヤニが染みついたガラステーブルには、その辺の百均ショップで購入したであろうチャチな平皿が並んでいる。
この場にいる一名を除き、全員が一様に苦虫を噛み潰したような顔を崩さない。
部屋の一角に掛けられた時計の秒針が一定のリズムで音を刻む。時刻は午後の七時を過ぎたところだった。
すでに日は完全に暮れており、時代錯誤な蛍光灯の明かりが、事務所内を頼りなく照らす。
「さあ皆、いただきますするわよ」合掌と共に、痛々しい静寂を切り裂いたのは、黒地に赤のアクセントが利いた美和女学院のセーラー服の上からエプロンを羽織った少女だった。説明するまでもなく、この会社の社長を務める天童木更だ。
蓮太郎の目から今度こそ光が抜け落ちる。奇しくも木更の言葉は、この既視感が気のせいでも何でもなく、紛う事なき過去の再演だと確信させるに足るものだったからだ。
少しばかり露出の多めな緑のドレスの上から、それとは正反対の雰囲気のレザージャケットを羽織る白人の少女、ティナ・スプラウトが泡を食ったような表情で、「待ってください!」と叫ぶ。これも前と同じだ。我慢ならぬといった剣幕で、平皿を指差す。「これは一体何なんですか!?」
「何って――」と皿を持ってきた張本人の少女は、小首を傾げて答える。「――塩昆布だけど」
「F×××××××××××――――――――――――――――――――Kッッッ!!」
前回とは違い、早々に堪忍袋の緒がブチ切れたティナが、アメリカ人らしいドギツいスラングを吠えた。普段の物静かで穏やかな言葉遣いはどこへやらだ。
ティナの豹変ぶりに、びくりと木更の肩が強張る。
そんな社長の態度など、お構いなしに金髪の少女は捲し立てる。「初手から! 初手からおかしいんですよッ! もうサツマイモから段階を踏む事さえしないんですか!? 豆とモヤシも! 素うどんも! パンの耳も経由せずにいきなり塩昆布ってどういう事なんですかッ!?」
各自に配膳された皿に乗っているのは、ひとつまみほどの分量の海藻だけだ。それ以外には、コップに注がれた水があるくらい。ひもじいを通り越して、もはや悲惨としか形容のしようがない食卓だった。
ティナよりは天童民間警備会社にいる期間の長い藍原延珠は、もうこんな状況に慣れてしまっているのか、それとも諦観が溢れて突っ込む気力も失っているのか。どちらなのか判別はつかないが、黄色いウサ耳パーカーの少女は、蓮太郎の隣でモソモソと添加物塗れの加工食品を食んでいる。
ティナの鬼気迫る追及に押されて、すでに木更は泣き出しそうだ。「だ、だって……」と今更ながらに弁解を始める。「もう今月、食費に回せるお金がなくて……」
「じゃあわざわざ晩御飯のために呼び出さないでくださいッ!!」
ティナの両手がバンッ! とテーブルの天板に打ち下ろされる。コップの中の水が跳ね、平皿の昆布達が一瞬だけ宙を踊る。空中に投げ出された黒い紐みたいなのを、延珠が器用に捕まえては口に放り込んでいく。
「――……なあ。お前達は、いつもこんな生活を送ってるのか……?」それまで沈黙を貫いていた者が、不意に口を開いた。
筋肉質な体躯を黒いカーゴパンツとオリーブドラブのワークシャツで覆った、短い黒髪の男性――天童民間警備会社入社二ヶ月の藤沢リカルドは、この世の理不尽を真正面から叩きつけられたような顔で、「これが……東京エリアを何度も救った英雄達の食事事情だってのか……!?」と誰にともなく問うていた。
木更、蓮太郎、ティナの三人が居た堪れなくなって視線を逸らす。
ワナワナと震えるリカルドは、突如として椅子から立ち上がると、ティナに負けじと叫ぶ。
「食べ盛りの子供達が! こんな食事してたら駄目でしょうがああああああああああああああああああああああああ――――――――――ッッッッ!!」
リカルドは着席する者達を指差しながら、「あなた達は! 今絶賛成長期なんです! 分かりますか!? ねえ!?」とどこかおかしい口調で、十代の少年少女達を見やっていく。「この時期にちゃんと栄養を摂れるかどうかで、そのあとの成長と健康に関わってくるんだ! 身長も伸びねえ、免疫も弱る! 少なくとも自衛隊じゃ、食う事だって仕事の一環だったッ! こんなもん、ただの幼児虐待じゃねえか!」
さすがは弊社の最年長かつ元国防を司る公務員だ。ようやくまともな感性の人間が身近に現れてくれた事に、蓮太郎は思わず泣き出しそうになる。
「……リカルドの意見はいったん置いておいて」激昂する模範的社会人の横で、多少なりとも平静を装った少女が、律儀に挙手してから話し始める。白いブラウスと黒ネクタイ、黒いリブニットカーディガンとショートパンツ姿の占部里緒は、ジトリと木更を睨めつけて、「あたしの記憶が確かなら、この会社は直近の功績だけでも、天秤宮騒動の解決に貢献してるはず」と言った。
はず――と黒髪癖っ毛の少女は言ったが、先の言は疑うまい事実だ。
晩夏に起こった一大事件。
アンドレイ・リトヴィンツェフと、その部下達が引き起こした、ステージⅤガストレア疫病王天秤宮の召喚と使役に端を発する、東京エリアと仙台エリア間の一触即発の睨み合い。
あわや、あと一歩のところで全面戦争が勃発する寸前だったが、天童民間警備会社の面々や、当時傭兵だったリカルド、外周区のマンホールチルドレンだった里緒、あるいは三ヶ島ロイヤルガーダーや警視庁の特殊急襲部隊といった様々な勢力の奮闘の甲斐もあり、最悪の展開だけは回避できたのだ。
かつて世界を滅ぼしたゾディアックが絡む空前絶後のテロ事件――それを解決に導いたとなれば、その功績は極めて多大なものとなる。事実、出来事の中心で活躍し続けた蓮太郎と延珠のペアは、事件終結後に国際イニシエーター監督機構から特一級戦果を認められ、IP序列を大きく伸ばしている。
「相当な報奨金が入ったはずだけど」と里緒は淡々と詰めていく。「当時は民警ですらなかったリカルドが、特例とはいえ、聖居から多額の報酬を受け取っているの。だから木更さん、教えて――あるべきお金は、どこにいったの?」
「うう……それはあ……」
新入社員達から有無を言わせぬ胡乱げな視線を突き刺され、さすがの天童一族の心も折れてしまったらしい。「里見くうん……」と助けを求めるように、蓮太郎の方を涙目で見てくる。
とはいえ、蓮太郎とて彼女を庇ってやる気は毛頭なかった。過去に自分の内臓を担保に、勝手に闇金から金を借りられていた身としては、当然の事と言えば当然の事なのだが。
蓮太郎は、事務所の天井――四階にオフィスを構える『光風ファイナンス』のあるであろう場所を指の先で示し、「……今度は何を担保にしてたんだ?」とだけ訊いてみる。
木更は苦笑いと共に、あからさまに顔を背けて、「……里見君の……血液と骨髄液」と猫撫で声で言った。どれだけ可愛らしく繕おうが、出力される単語の一つ一つが悍まし過ぎて、これっぽっちも中和できていない。
空になった平皿を寂しそうに見つめる延珠に対し、ティナは自分の分を無言で差し出す。
「天童社長」とティナも加勢する。「前にお兄さんの臓器を担保に融資を受けた時は、事務所のリース料の支払いのためでしたよね? 今度は何のためにですか?」
さすがは梟の因子を持つイニシエーターとでも言うべきか。ティナの細められた眼光は、まさに獲物を前にした猛禽類さながらだった。
ちなみに闇金の話を聞いた瞬間、リカルドと里緒の二人はあからさまにドン引きしていた。これが常識ある人間の反応だろう。
そして観念した様子の木更が渋々と答える。「……あれよ。民間警備会社の経営許可証……その更新料よ。ちょうど一ヶ月前が更新期日だったから……」
「それって会社の規模にもよりますが、多くても、せいぜい四、五〇万程度ですよね」しかしティナの追及の手が緩む様子はない。「まだ全然お釣りがくるはずです。あとは何ですか?」
ひとまわり近く歳下の少女に根掘り葉掘り訊かれて、自社の汚点を根こそぎ炙り出されていく木更。その様相はもはや公開処刑や、魔女狩りの火刑にも等しかった。
蓮太郎は、すでに今日何度目かも分からない疲れた息を吐く。
「――里見」と不意に何かの憑き物が落ちたような声が、蓮太郎を呼んだ。その方向を見やれば、恐ろしいほどにポーカーフェイスのリカルドが立席したところだった。「行くぞ。皆、俺に着いてこい」
「藤沢さん?」蓮太郎だけでなく、他の面々も何事かと目を丸くしている。
リカルドは、オフィス内にある自分の席に掛けていたファーつきモッズコートを手に取ると、ワークシャツと同じ色のそれに、サッと袖を通した。
「お前らの食事事情は良く分かった。ここはアラサーの俺が甲斐性を見せる時だ」
そして彼は言う。
食べ盛りの子供達の不満を瞬く間に解消し、未来永劫の信頼を勝ち取る決定的な誘いの一言を。
「今日は俺の奢りで焼肉食いに行くぞ」
その瞬間、延珠の瞳に光が戻り、ティナの興味の矛先が木更から離れる。里緒はそそくさと防寒用のケープコートを羽織って、とてとてと彼に着いていく。
それまでの通夜のごとき空間から一転、事務所内の空気がライブハウスを思わせる熱狂に変貌する。
弾かれたように立ち上がった延珠がようやく声を発する。「ふおおおおおおおおおおおおっっ!」とここ一番のテンションで叫びながら、「本当に良いのか!? 嘘ではないな!?」と目を輝かせてリカルドへと詰め寄っていく。
「ああ、男に二言はない」「本当に何でも食べて良いのか!?」「ああ」「カルビもハラミもロースも!?」「もちろんだ」「ジュースも!?」「当然」「食べ終わったあとのデザートも!?」「言うまでもなくだ」
フード部分についたウサ耳風の装飾品と、自前のツインテールを揺らしながら、感極まった延珠が小動物よろしく飛び跳ねる。
「聞いたか蓮太郎っ!」と紅潮した顔で、こちらを振り返ってくる。「お肉なんていつぶりだっ!? しかも何でも頼んで良いって! やはり藤沢のおっちゃんは良い奴なのだ!」
「こら」と蓮太郎は興奮覚めやらぬ相棒へ言う。「藤沢のお兄さんだろ。まだそんな歳じゃ……」
「一〇歳の子からすりゃ、二八なんて、ただのおっさんだろうよ」当のリカルドは特に気にした様子はない。
蓮太郎は申し訳なさそうに首の後ろを掻きながら、「本当に良いのか」と確認する。「さすがにこの人数じゃ……」
「気にすんなよ。これでも元公務員だ。それなりの蓄えはある。それに、さっき里緒ちゃんが言ったように、天秤宮騒動解決の報酬もあるしな」
精悍な顔立ちに、爽やかな笑みを浮かべるリカルドを見て、蓮太郎はそれならばと甘える事にした。「ほら、延珠、ティナ。藤沢さんに『ありがとう』は?」
「「ありがとうございます!」」と二人の声が語尾以外重なる。
延珠は愛用のパーカーの上から、琥珀色のPコートを着込んで、事務所の出入口へと歩いていく。
蓮太郎もソファに投げ出したままだった黒地のチェスターコートを手に取ると、制服の上から羽織った。
リカルドを先頭に、里緒、延珠とティナ、蓮太郎、そして――最後尾にダッフルコートを着た木更が続く。
「ああ、そうだ。これは自衛隊時代に上官から良く聞かされた格言なんだが」と思い出したように、リカルドが振り返る。彼の冷め切った目線の先には、自らの雇い主がいた。「――『指揮官の最も重要な能力は、兵士達に軍装備を揃え、糧食を与え続けられる点にある』。紀元前にソクラテスが説いた言葉だが、俺は全面的にこの言説に賛同する立場だ。要するに、従業員をまともに食わせられない経営者に、贅沢をする権利は微塵もないって事なんだが……皆はどう思う?」
「その通りだと思う」と里緒。
「木更には元より贅沢の極みのようなおっぱいがついてるから、これ以上栄養はいらないと思うのだ」と延珠。
「毎回毎回お金を借りるのに、お兄さんに迷惑をかけているのは私としても良い印象はなくて……」とティナ。
三者三様の蔑みの視線を向けられ、それまで笑顔だった木更の口許と目許が引き攣った。「え、えっ?」と今更ながら慌て出す。自分だけが歓迎されていない事実に、ようやく気がついたらしい。
「悪いが社長――おたくは留守番だ」
無慈悲な宣言に、木更の相貌がみるみる内に絶望に染め上げられていく。
もう用はないとばかりに、そっぽを向いたリカルドが子供達を引き連れて事務所を出ていく。
静寂に覆われたフロアには、蓮太郎と木更だけが取り残される。すでに涙が決壊寸前となった木更が、最後の望みを賭けてこちらを見つめてくる。「ねえ、里見君……」
「ごめん、木更さん」
しかし現実は無常である。蓮太郎とて、まだまだ高校生。胃袋の欲求には理性では打ち勝てない。
両手を合わせて謝罪だけすると、駆け足でリカルド達を追いかける。扉を閉めた直後、「何でえええええええええええええええええええッッ!?」という悲痛な悲鳴が轟いた。