先月とは比較にならない寒さに、思わず自身の太ももを擦り合わせる。
季節の深まりを全身で感じられるのは、確かに日本に生まれた故の特権かもしれないが、それに耐えられるかどうかはまた別の話なのである。
「ううう……何でこんなに寒いのよ……。女の子にとって冷えは天敵なのに……」
「じゃあ、もうちょっとマシな格好をしたら良いんじゃない?」
「制服は女子高生にとっての正装なの! それに、せっかく入れた國明館だもん! 余計な防寒具なんて言語道断でしょ!」
「御大層な事言ってるけど、単に学校指定のコートが買えないだけじゃないの……」
呆れた様子で嘆息する相棒に、「それは言わないでよ……」と志咲香帆は声のトーンを落とす。「仕方ないじゃん。あの情報を手に入れるのに、本業の稼ぎのほとんどを使っちゃったんだから……」
「はあ、そうやって、いつも考えなしに動くから……」
ジットリとした視線が香帆を見上げてくる。季節にそぐわない國明館学院高等学校のブレザーのみの彼女とは異なり、久尾千都世の服装は、寸分の隙もなく気候に適応していた。
ブロンドヘアに合わせたような、チョコレートを想起させる色合いの長袖シャツと、チェック柄の吊りスカート、その上から深いブラウンのウールコートを着用している。足許についても、傍らにいる生脚上等のアホとは違い、暖かそうな厚手のタイツにスノーシューズを合わせたものだ。
全体的にもこもこしたシルエットの少女は、投げやりな調子で訊ねる。「別にアウターなんて何でも良いでしょ。普段私服で着てる奴はどこいったの?」
「指定以外の着てたら、先生に怒られるし……」
「校則で禁止されてるバイト二つも掛け持ちしてるくせに、そういうところは気にするんだね」
「ちーちゃん、何か今日冷たくない!? 私、ただでさえ懐がすかんぴんで傷心中なのに! 私達パートナーでしょ!? 傷ついた私を慰めてよおおおおおおおおおッッ!!」
「寄らないで。周りから変な目で見られる。あと鼻水拭け」
半ば強引に抱きついてきた香帆を片手であしらいつつ、千都世は目線だけを動かして周囲を見回す。
「それにしても」と忌々しそうに切り出す。「ずいぶんとまあ治安の悪そうなところだね。新宿の歌舞伎町そっくり。さすがに活気はあっちの方があるけど」
「だね……」とポケットティッシュを数枚抜き取りながら、香帆も同意する。「警察の人に摘み出されたりしないよね……?」
「そうされないための民警許可証でしょ」
「そうだけどさ……」
香帆達の踏み入れた夜の勾田町は、今しがた千都世が言及した通り、未成年が散策するには少しばかりセンシティブな光景が多過ぎる。
右を見ても左を見ても、色とりどりのネオンサインが入り乱れ、大通りに面した店舗のほとんどはアダルトな雰囲気を漂わせるものばかりだ。キャバクラ、スナック、ホストクラブ、そして某ピンクなサロンや、入浴介助をする女性とされる男性が偶然恋に落ちてあんな事やこんな事をするお風呂屋さんなどなど……列挙していけば枚挙に暇がない。たまに目に入るコンビニや飲食店の存在が唯一の安らぎだった。
酩酊して千鳥足を踏むサラリーマンが、香帆の横を通り過ぎる。すぐ横では風俗店の客引きが大学生くらいの一団を執拗に誘っている。交差点の向こうでは、派手なメイクをしたドレス姿の女性が、養豚場の豚を見るような目と共に、小太りのおじさんを足蹴にし続けていた。
混沌を重ね塗りして煮詰めたような景色に胸焼けしそうになる。
香帆は迫り上がってくる不快感に目を細め、「勾田町って、確か普通に学校とか大学病院もあったよね……?」と念を押すように問う。「それなのにこんな……」
「別に住宅街とかは普通の場所だよ」千都世は淡々と答える。「ちょっと通りを跨いだら世界が一変なんて、どこの街でもそうだよ。大阪エリアの西成のライブカメラ見た事ある?」
「そんなところ頼まれても見たくないよう……」
「まあでも、確かに不思議だよね」とウールコートの袖口を口許に持ってきて、幼い少女は思案する素振りを見せる。「――これまで何度も東京エリアの危機を救ってきた英雄が、こんな場末の歓楽街に事務所を構えてるなんて」
「本当だよ……」香帆は力なく首肯して、「ヒーローならヒーローらしく、一等地にどーんと構えててよ」と愚痴った。
「もしかしたら何か特別な理由があるのかもね」
「例えば?」
「さあ? 私には何とも」と千都世は肩を竦める。真面目に考える気も答える気もないのは明白だった。
軽くいなされた事に唇を尖らせて抗議する香帆を無視して、チョコレート色の少女はとある一点を指差して言った。
「あそこじゃない?」
「えっ? どこ?」
「あっちだ間抜け」
千都世は、目を丸くしてキョロキョロとする香帆の頭を鷲掴みして、無理矢理首を回転させる。「ぐええッ」という潰れた蛙みたいな悲鳴が洩れたが、涼しい顔でシカトした。
二人の視線がようやく同じ方向を捉える。
周囲の喧騒から僅かに離れた場所――廃れた雑居ビルが建ち並ぶ区画。その中の一棟に探し求めていた文字列を発見する。
四階建ての事業用賃貸物件の外壁には『ハッピービルディング』のロゴがでかでかと輝いており、道路側に迫り出した看板や窓ガラスには、入居している店子の事業者名が記載されている。
一番上から『光風ファイナンス』『天童民間警備会社』『マ⭐︎シェリ』『シュパールゲピート』と続く。
香帆は背筋にぞくりと悪寒を覚える。「いやいやいや、ちょっと待ってよ。キャバクラとゲイバーはともかくとして、一番上の階ってどう考えても、いわゆるヤーさんって奴じゃ……」
「シノギでやってる闇金だね、どう見ても」
恐れ慄く香帆に対し、先月一〇歳になったばかりの千都世は全く表情が変わる気配がない。
目的の階の電気が点いているのを確認すると、ずかずかと一切の迷いのない足取りで入構していく千都世。「早く来ないと置いてくよ」と脅されると、香帆は慌てた様子で相棒に追従した。
心が乙女なお兄さん達の発する野太くも麗しい声が聞こえてくる廊下を抜け、照明の切れかかった薄暗い階段を上がっていく。
キャバクラの入っているフロアをスルーし、三階まで辿り着くと、二人は揃って眉を顰めた。
「ねえ、ちーちゃん。聞こえる……? 聞こえるよね?」
「うん、まあ……聞こえてる、けど……」
ゲイバーとキャバクラがある階と比べて、三階は人の気配がない分静かなものだ。だが、だからこそ――扉の向こうから滲み出てくる『それ』は良く響く。
「女の人の……声……?」香帆は恐る恐るといった様子で、廊下と事務所を隔てるドアに近づく。慎重に音を立てないようにして戸板に耳を当てると、確かに声の出どころはこの向こうだと分かる。
「何て言ってる?」
千都世が訊くが、香帆は口を引き結んでかぶりを振った。
「何て言ってるかまでは分からないよ……。ただ……」
「ただ?」
「何ていうか……もの凄く悲しそうな声がする……」
香帆の言に、千都世は困惑を表出させながら頭を捻る。「どうするの? 出直す?」
「もう一回ここまで歩いてくるの嫌なんだけど」
「じゃあ行くしかないね」
「……ちーちゃん、私の代わりに先行ってくれない?」
直後にゴミを直視したような眼光が刺さる。
「ウソウソウソ!」と香帆はとっさに取り繕う。得意気に腰に両手を当て、「これでもプロモーターだもん!」と高らかに宣言する。「自分のイニシエーターを守るのも義務だからね! もちろん私が行くよ! 当ったり前じゃない!!」
なおも蔑みの目を向けられ続け、居た堪れなくなった香帆は、勢い任せにレバーハンドルへ手を伸ばす。「ええい! ままよ!」と昨今の女子高生が使うには余りにも時代遅れな掛け声と共にノブを回す。ばしーん! という音が聞こえてきそうなほどに勢い良く扉を開け放った香帆は、理性がストップを掛ける前に喉を震わせる。「頼も――っ! この度天童民間警備会社の皆様方に折り入って依頼したい事……が……――」
しかし、そのなけなしの威勢はみるみる内に萎んでいく。
一拍遅れて立ち入ってきた千都世が怪訝な表情を浮かべて、「何、これ……?」と誰にともなく問いかける。
事務所の中にいたのは、香帆と同年代くらいの少女だった。
同性である自分でさえも見惚れてしまうほどの美貌を持つ彼女は、屋内にいるというのに、なぜかダッフルコートを着たままだった。上半身を脱力して立ち竦む謎の美少女は、口から魂でも抜けていっているんじゃないかといった様子で、「ふふ、ふふふ……」と不気味に笑っている。「ふふふふ……しょせん私は敗戦の将よ……。皆に美味しいもの一つ食べさせてあげられない駄目駄目な社長……里見君も延珠ちゃんもティナちゃんも……アハハッ、皆藤沢さんに懐いちゃってさ……私のいる意味って……」
少女がぶつぶつと呟く度に、周囲に菌糸が撒き散らされてキノコが生えてくるようだった。
虚ろな面持ちの少女は、訪問者たる香帆達に気づいた様子はない。あれだけの音を立てたにも関わらず、自分の世界に入り込んだままでいるところを見るに、相当な何かがあったようだ。
香帆は意を決して事務所内へ足を踏み入れると、危険物にでも触れるかのように、様子のおかしい少女の肩を叩いた。「ええと……天童民間警備会社の天童木更さん……ですよね? もしよろしければ、ちょっとだけで良いので、こちら側に戻ってきてはいただけないでしょうか……?」