先ほど蓮太郎にはああ言ったが、実のところ、全く心当たりがない訳ではなかった。
リカルドがまだ自衛隊にいた頃、こんな話を聞いた事がある。
東京エリア北西のモノリス近郊防衛任務は、過酷な訓練と任務の骨休めにちょうど良い――。
なぜならば――。
――あそこだけが、他の場所と比較して、目に見えてガストレアの出現比率が少なかったから……。
ついぞリカルド自身は、自衛官でいる間に当該の場で任務に就く事はなかったが、隊員の間でまことしやかに囁かれていた噂話は、ずっと意識の片隅に引っ掛かっていた。
今なら、その噂が全く根も葉もない話ではなかったのだと断言できる。
東京エリア北西――その延長線上に存在するのは、旧石川県、旧福井県、旧富山県、旧新潟県を含む北陸地方だ。
そこに跋扈するガストレア達が、何者かによって事前に排除され続けていたのならば、関東まで辿り着く個体が異様に少なかった話にも信憑性が生まれてしまう。
――現場の連中はあえて報告を上げるような事はしなかったが、自衛隊上層部がそれに勘づいていなかったとは考えにくい。
――北陸で実際に戦っている連中が、正規の軍事組織である可能性は限りなく低いが……彼らの『上』には、間違いなく正規の実力組織が噛んでるはずだ。
今回の大規模軍事作戦において、普段は睨み合っている五エリアがあっさりと手を組もうとしている――その点から推測するに、やはり計画自体はずっと水面下で脈動していたのだろう。
日本の各エリアの軍や自衛隊によって構成された連合本部のような存在は、確実にある。
おそらく先遣隊は、そこから物資の補給を受けながら戦っていたはずだ。
であれば――。
――分かっているのか、里見。
――俺の予想が正しければ……お前が懇意にしているあの人は……聖天子様は、この事実を把握していたって事だぞ?
日本各地から集めた犯罪者達を秘密裏に死地へと送り込む、非人道極まる悪辣な所業。
その片棒を聖天子が担いでいるという可能性――。
未熟ではあっても、高潔な精神を持ち、国家を正しき方向へ導く――その体現者たる聖天子が、悪人とはいえ、他者の命を使い潰す事を許容しているのかもしれない。
脳裏に浮かび上がった一つの蓋然性を、リカルドは自分自身で否定したくなる。
天秤宮騒動で共に戦った事もあるからこそ、あの純白の少女の持つ崇高な信条が、決して薄っぺらいハリボテなどではない事を知っている。
彼女の掲げる理想に賛同したからこそ、リカルドや蓮太郎達は、あの時、彼女を稲生紫麿首脳との会談の場へ送り出す選択をしたのだ。
「…………」リカルドは固く目を瞑り、静かにかぶりを振って邪念を掻き消す。
――里見には、まだ言うべきじゃない。
――こいつはあくまで可能性の話だ。
意識を切り替えると、依頼主の志咲香帆へと視線を注ぐ。
「ここに映っているのが、君の親戚のお兄さんなのか?」とリカルドは訊ねた。
香帆のノートPCには、先ほどと変わらず、雪原で小銃を握る青年の姿が映し出されている。
「……うん」とブレザーの少女が頷いた。「六年経った今でも忘れられないの。たくさんの警察と聖居の人達に囲まれて、連行されていく慎お兄ちゃんの姿が……」
香帆の目許には薄っすらと涙が浮かび始めている。
幼き日の忌まわしき記憶が、彼女の精神を未だに締めつけているのだろう。
息を飲む蓮太郎や木更が、次の句を紡げないままでいるのを確認すると、リカルドは率先して口を開いた。「志咲さん、辛いのは分かるが、順を追って話してくれるか? 君が天童民間警備会社に依頼する理由の根幹が、その安斎さんにあるのなら――俺達は君の抱えている事情を知っておかなきゃいけない」
「…………」
「――香帆。話してやりなよ」口を噤んでしまった相棒を促すように、千都世が言った。「協力を仰ぐ以上、隠し事はなし。それに、やっと掴んだ手掛かりを、こんなところで棒に振って良いの?」
「……大丈夫、分かってるよ」香帆は真剣な眼差しで全員を見渡すと、「――皆は『モルフォ蝶事件』って覚えてる?」と切り出した。
いち早く反応したのは蓮太郎だった。「内地に侵入したステージⅢ……『テレスコピウム・ハーシェル』と、大量の空棲ガストレアが引き起こした集団幻覚事件だよな?」
リカルドもその名には覚えがある。蛭子影胤テロ事件より以前に起きた、東京エリア屈指の大事件の一つだ。
感染爆発寸前まで事態が進行した『狐狩り事件』と双璧を成す大騒動。
史上もっとも美しい破滅と謳われた毒鱗粉による集団幻覚――それを引き起こしたのが、現存しない星座の名を冠するステージⅢガストレア、『テレスコピウム・ハーシェル』だった。
本来なら、特別なステージⅣにのみ付与される識別コードネームを、特例で与えられた初の事例。だからこそ、深く関わっていなかった者でも、鮮明に記憶に焼きついている。
だが、そこで一つの食い違いに気づく。
件の『モルフォ蝶事件』は、僅か二年ほど前の出来事ではなかったか。
被害規模は相当なものだったが、最終的に『テレスコピウム・ハーシェル』及び侵入したガストレア群は、当時の陸上自衛隊精鋭部隊と、その指揮下に組み込まれた民警のアジュバントによって殲滅されている。
リカルドと同じ疑問を、黒衣の少年も持ったらしい。「話してもらったとこ悪いが……それが、どうアンタの身内の話に繋がるんだ?」と首を捻る。「その安斎さんの件は、六年前だろ? どう考えても時系列が合わない」
「疑うのも当然だと思う。突拍子もない話だから」しかし当の香帆は素直に認めた。その上で、「これを見てほしいの」とPCを操作して、新たなウィンドウをポップさせる。「……『モルフォ蝶事件』は正確には最近の事件なんかじゃない。これは……六年前から仕組まれていたの」
「こいつは……」とリカルドの瞳孔が細められる。「事件の主犯格連中のデータか……!?」
「羅列されてる名前には見覚えがあるわね……」木更は自身の記憶を掘り起こすように、しばしの間を置いてから、「確か……大学教授の一団、だったのよね」と口にした。「『ハーシェル』の鱗粉から精製したフェロモン誘発剤を使って、一時的にそのガストレアを操ろうとした。『ハーシェル』を筆頭に、ガストレアの集団に上昇気流を捕まえさせて、モノリス磁場が減衰する座標から群れを侵入させる……。その思惑自体は上手くいったけれど……」
そう。そこまでは良かった。
だが主犯達は失念していたのだ。
自らが首輪を巻いた獣は、人間の脆弱な拘束など、いとも容易く引き千切れてしまう化け物である事を――。
「結局、内地に侵入した直後に、ガストレア達はコントロール不能に陥った」と木更は、つらつらと言葉を紡ぎ出す。「最初の犠牲者は、当の本人達。どんな幻覚を見せられたのかは知らないけど、彼らのほとんどは自身の喉や頸動脈を掻き毟って絶命……。生き残った人についても、完全に精神と脳を壊されていたせいで、逮捕後の事情聴取もままならなかった。動機や背後の存在含めて、全ての真相は完全に闇の中――それが、一般人が知れる限りの『モルフォ蝶事件』の全容ね」
木更が話し終わると、釣られるようにリカルドと蓮太郎が相槌を打つ。おおむね、リカルドの把握している内容と大差ない。
だから、本題はここからだ。
香帆が重い口を開く。「……主犯の大学教授達は、全員、新塚医科薬科大学の研究員でもあったの。彼らは六年前には、すでに『ハーシェル』を操る目処をつけてた。フェロモン誘発剤の試薬品は、あの事件よりも前から完成していたんだよ」
「だが、それが六年前の時点で使用される事はなかった……」蓮太郎が目許を歪ませる。
それが意味するところは――。
「おそらくは作戦実行前に情報漏洩が起きたんだと思う」と香帆は告げる。「当時、警視庁の特殊捜査班が、研究員達の企みの一端を嗅ぎつけて捜査に乗り出した。でも……」
少女の瞳の奥に、押し殺した憎しみの色が灯ったのを、リカルドは見逃さなかった。
「……捜査線上に浮上したのは、大学教授じゃなくて彼らの研究室の学生達だった」
背筋に悪寒を覚える。
悍ましい話が繋がろうとしている。
「もう分かるよね……? その時に名前が上がった内の一人が……慎お兄ちゃん。主犯格の教授達は、自分の教え子に罪を押しつけたんだよ。何も知らない、ただ真面目に研究に励んでいただけの学生や院生達を――」
「……腐ってやがる」と蓮太郎が溢れる怒りを露わにした。
憤怒を滲ませる少年とは対照的に、リカルドは努めて冷静に、「だが、事件の捜査を担当してたのはSITなんだろ?」と念を押すように訊いた。「彼らは捜査と制圧のスペシャリストだ。たとえ学生が主犯だと当たりをつけてたとしても、それで教授達へのマークを外すはずがない。いくら何でも、そんなお粗末な結末を良しとする訳――」
「『モルフォ蝶事件』が、のちの『ブラックスワン・プロジェクト』に繋げるための仕込みだって言ったら?」
「……――ッ!?」全員の息が詰まる。まさか、そこまで掴んでいるとは、誰も思っていなかっただろう。
五翔会。
リカルドの記憶に、かつて対峙した廉価版機械化兵士の姿が想起される。
天秤宮召喚に伴う一連の騒動、その裏で暗躍していた謎の組織。天童民間警備会社の古株達にとっては、それ以前からの因縁を持つ者達――。
櫃間親子が失脚するまで、警視庁には幾人もの五翔会構成員が潜り込んでいた。その事実だけで、当時、裏で何が行われていたのかは想像に難くない。
香帆がある程度の情報を把握しているのを鑑みて、話しても問題ないと判断したのだろう。
蓮太郎は真剣な面持ちで少女を見やり、「『ブラックスワン・プロジェクト』では、バラニウム磁場に耐性を持つ『抗バラニウムガストレア』の量産、生物兵器としての運用を進めてた」と言う。「そのためのガストレアの制御方法……俺が知っているのは既存の薬物を使った条件づけだけだ」
「それは研究のかなり後半に検討された方法みたい。初期の記録では、何パターンかの制御方法が候補に挙げられてた。フェロモン誘発剤を用いるやり方も、その一つだよ」
香帆の説明に耳を傾けながら、リカルドは考える。
五翔会の陰謀に巻き込まれ、無実の罪を着せられて逮捕された安斎慎の境遇が、かつての黒衣の少年と重なる。
庇護を求めてしかるべき国家から、容赦なく犯罪者として扱われ、全ての人権を取り上げられる。
それまでの人生も、生活も、家族も、友人も、尊厳も、未来も――自身を構成する一切を奪い尽くされた末に、希望のない死地へと置き去りにされる。
彼はいったい、どんな気持ちで六年もの月日を戦い抜いてきたのだろう。
それを想像し、寄り添おうとする事すら、烏滸がましく感じてしまう。
「……私は」と香帆が悲痛な声色で話し出す。「慎お兄ちゃんの無実を信じてきた。でも、周りの大人達は子供の言い分なんて一つも聞いてくれなかった。お兄ちゃんが捕まってから、面会もさせてもらえなかった。秘匿裁判で刑が確定して、私の前からいなくなっていくお兄ちゃんを、ただ見ている事しかできなかった……ッ!」
東京エリアに蔓延る濁った闇――その一端に触れてしまった、力なき者の結末。
この場にいる誰もが、志咲香帆にかけるべき言葉を見つけられずにいた。
「……慎お兄ちゃんを失ってからの人生は、全部お兄ちゃんの行方を追うのに使ったよ。探偵になったのも、民警として命を賭けてきたのも……全部全部、慎お兄ちゃんを探し出すため。六年かけて、ようやく見つけた手掛かりなの。絶対に無駄にする訳にはいかないッ!」
香帆が懐から取り出した小さな冊子を、ガラステーブルに叩きつける。
それは銀行の通帳だった。
「一〇〇〇万」と少女が躊躇いなく言い放つ。「これが依頼の報酬だよ」
「なッ……!?」と蓮太郎が面食らう。
「北陸奪還戦に私を連れて行って、慎お兄ちゃんと会わせて欲しいの。私から、あなた達に求めるのはそれだけ」
やや間を置いてから、蓮太郎はゆっくりと口を開く。「…………もう一度だけ訊かせてくれ」と香帆を見据える。「本当に覚悟はできてるんだろうな?」
「……大丈夫、二言はないよ」
「分かった」
蓮太郎が首肯すると同時に、携帯電話の着信音が鳴り渡る。
音の出どころは黒衣の少年の制服からだった。少年はスラックスのポケットから自身の端末を取り出して画面を見ると、「どうやら、アンタの掴んだ情報に間違いはなかったみたいだな」と言った。
「聖天子様か?」とリカルドが訊ねると、黒衣の少年は神妙な顔で頷いた。
蓮太郎は携帯電話を耳に翳すと、静まり返った事務所内で、スピーカーの向こう側にいる国家元首と言葉を交わす。
やがて通話を終えると、少年は真摯な目で周りを見回した。
「天童民間警備会社は、三日後に始まる五エリア共同の大規模軍事作戦――北陸奪還戦に正式に参加する。異論はあるか?」
全員が沈黙を答えとした。
今この時を以ってして、志咲香帆と久尾千都世を迎えた新生アジュバントの結成が決定した。