犠牲者たちはなんとか快方へと向かっている。
幸いにして死者は無く、今日は被害は出ていない。
犯人を追わなくていい、という訳ではないが、この調子ではどこかへ逃げていってしまったのではないか。
「はぁ……」
思えば、自分一人で何かを成せたことが無い気がする、とノナはため息を吐いた。
ここに来るまではずっと師匠が居たし、こちらに来てからだって、ライラやライエンが居た。
あの淫魔も一人の力だけで倒したわけではない。
そういえば、あの二人はなんとなく雰囲気が似ているような気がする……。
「……あっ」
あれやこれやと考えていると、不意にスープの入ったコップから指が離れた。
そのままコップはテーブルを掠め、逆さまになってノナの膝に落ちた。
じわり、と温かいスープがシスター服のスカートに染み込んでいく。
(……洗わないとなぁ)
退魔シスターの制服にはいくつかのエンチャントが施されている。その中には、ある程度の時間が経過すれば清潔になる、というものも含まれる。
だが、エンチャントがあろうと結局は服なのだ。たまには洗った方が良いだろう。
それに、あくまで時間が経過すれば、だ。魔力を消費すれば今すぐに発動することもできるが、ここ最近のように急患が来た場合、治療のための魔力が無ければ困る。
そんなわけで、朝食を終えたノナは洗濯をすることにした。洗濯用の魔道具も魔力を消費はするが、エンチャントの起動よりは消費量も少ない。
思えば、聖騎士が来てからというもの全く洗濯ができていなかった。
なんとなく、洗濯した衣服を見られるというのはあまり良くないことのような気がした。家に招いた客には普通そんなものは見せないだろう。
それに、ここ数日は犯人探しに時間を取られていた。これからも犯人探しは続けるが、そろそろ洗濯ぐらいはしてもいいのではないだろうか。
洗濯をするならば、まずは今の服から着替えるべきだ。
ノナは着替えを探したが、いつも着ている服は既に洗濯籠に入れてしまった。残っていたのは、近所の人にもらった娘のお古だとかいう地味なワンピース程度だった。
「……」
いつもシスター服を着ているからといって、ノナには女装趣味は無い。シスター服は制服だから着ているのであって、女装だという認識は無いのだ。
そんなわけで、ノナはワンピースをそっと仕舞った。
そもそも、いつ事件の犯人と戦うことになるか分からないのだ。今はきちんとした防御力がある服装の方が良い。
ということで、今度はつい先日届いたばかりの装備を取り出した。それはどこからどう見ても白いワンピースだった。
元々ミトラのために作られたものであるためか、スカート丈は長く、露出は少ない。そして、ところどころに女の子の衣服らしく、レースや小さなリボンの装飾などがされている。
だがノナはこれを着ることにした。なぜなら女装ではないからである。
これはあくまでも装備であり、たとえどこからどう見ても女性ものの服だとはいえ、ノナにとっては女装ではないのだ。
「なんか、これ……」
そうして着てみると、サイズ補正のエンチャントでも掛かっているのか、サイズはぴったりだった。
だが、妙に背中がくすぐったい。触れてみると、なんと肩甲骨のあたりには布地が無いではないか。そこに髪の毛先が触れるとどうにもくすぐったく感じる。
上に何か羽織ろうかとも思ったが、ちょうどいいものが無い。しょうがないので、ノナは低い位置で括っている髪をポニーテールにすることにした。
「……よし」
ひとまず、これで肌に髪が触れることは無くなった。
これなら大丈夫だろう、と鏡で姿を確認する。
「……」
なぜだろうか。何か……恥ずかしい気がする。
これは装備であって、シスター服と大して変わらないはずなのに。
なんか……こう。女装しているみたいだ。
いや、装備だから女装ではない。何も問題は無い。
そうやってノナは自分を納得させ、洗濯をすることにした。
庭へ出て、洗濯用の魔道具に軽く魔力を流し、水を出す。これぐらいならば治療にも差し支えない。
そのままじゃぶじゃぶと服を洗い、庭に設置したロープに洗った服を掛ける。あとはしばらく置いておけば乾くだろう。
「ふー……」
そうだ。せっかく庭に来たのだし、裏庭の植物の様子も見ておこう。どうやらライラは何かの鉢植えを育てていたようだし、水ぐらいはあげた方が良いのではないだろうか。
そう考えたノナがそちらへ向かうと、そこには奇妙な先客が居た。
「うっま! この草、うっま!」
「……」
むしゃむしゃと鉢植えの中の魔香草を食べているのは、小さな人影だった。
背中と尻を丸出しにした格好をしていて、そこからは黒い蝙蝠のような翼と、先端が独特な形をした尻尾が生えていた。頭からは角も生えている。
つまりは悪魔である。しかも、姿からすれば淫魔だろう。
ここ数日の事件の犯人だろうか。ノナは息を潜めながら後退し、槍を持って戻ってきた。
「んっま! 何この草!? 美味すぎるんだけど!」
淫魔はまだ草を食べていた。まだ気づかれていなさそうだ。
ならば、とノナは密かに悪魔祓いの魔法を唱え、踏み込んだ。
「んぐっ!?」
しかし、その直前に淫魔が飛び退いた。槍は食い荒らされた魔香草の植木鉢を破壊し、僅かに壁を傷つけた。
「ちょちょちょっとぉ! あたしが食事中……げぇっ! 退魔シスター!」
そのままノナは間髪入れずにもう一度突きを放つ。それを淫魔はギリギリのところで避けた。
「こ、こうなったら……
ばっ、と淫魔が腕を広げて魔法を使う。時間停止。かなり難易度の高い魔法で、並大抵の悪魔には使えない。
淫魔がそれを使った瞬間、草花が動きを止めた。効果を受ける範囲はかなり狭いが、それでも強力な魔法だ。
当然ながら、ド田舎の退魔シスターに抗えるわけもない。それを放った淫魔はほくそ笑んだ。
「ふっふっふ。やっぱりあたしって最強かも! なんたって時間を止められるんだからね! 女装してるし、あんまり好みじゃないけど……邪魔したお仕置きってことで!」
淫魔は手をわきわきとさせながらノナに近づいていった。
そして、そのスカートに手を掛けようとした瞬間、槍の柄で顔面を強打された。
「ぶべらっ」
「……」
なんと、ノナには時間停止は効いていなかった。ライエントゥーラがノナが時間停止をされている間に身体を好き勝手される、という想像に耐えられなかった結果、その対処法を睡眠学習で教え込んでいたからだ。
そして、自分が時間停止を受けたこと、無詠唱の抵抗呪文、動ける場合の戦法などをどういうわけか一瞬にして把握したノナは、わざと停止したふりをして淫魔の油断を誘ったのだ。
「い、いったぁ〜……。あたしの顔にこんなことしておいて、ただじゃ……!」
いきり立って反撃しようとした淫魔だったが、何かに気がついたのか、気勢をそがれたかのように声が小さくなっていった。
油断せずに淫魔を見つめるノナだったが、どういうわけか淫魔は反転して逃げ出そうとしていた。
「
「あっ、待てっ!」
そのまま淫魔は教会の壁に穴を開け、その穴を通って逃げようとする。
あの胸の大きさでスムーズに通れるとは思えない小さな穴だったが、意外にも淫魔はすぐにそれを通り抜けてしまった。
ノナもそれを追いかけて咄嗟に穴に飛び込む。
「
だが、腰の辺りまで穴を通ったところで、淫魔の魔法により穴が縮小し、ノナは身動きが取れなくなった。
ちょうど下半身だけが教会の裏庭側に出ている状態だ。
「くぅっ!」
「うわっ、危なっ!」
ノナはそれでもなんとかしようと槍を投げたが、淫魔はそれをかわしてしまった。
まずい。この状態では何をされても抵抗ができないのではないか。もしや、これは淫魔の罠だったのだろうか。
流石に焦りすぎた。槍を投げなければ、まだ抵抗ができたかもしれないのに。いや、そもそもこの穴に飛び込むことすら掌の上だったのかもしれない。
どうする? 武器の引き寄せは間に合うか?
間に合わないなら、これから一体どうなるというのか。この状態で戦わなければならないのか。並大抵の魔法は悪魔に効かないと聞いた。果たして、今の自分に抵抗する手段はあるのだろうか……。
ノナの背中に冷や汗が伝った。
「じゃ、あたしはあんたに構ってる暇、無いから!」
だが、ノナの予想とは違い、淫魔はすぐにその場を去っていった。後に残されたのは壁に埋まったノナだけである。
「……」
拍子抜けしながらも、壁を押して抜け出そうとする。だが、まるで身体が壁と一体となってしまったかのようにピッタリと嵌って抜け出せない。
「……あれ?」
じたばたと手足を動かしてみるものの、やっぱり抜け出せない。壁を壊そうか、と一瞬考えたが、下手に壊したら何が起こるかは分からない。
(……どうしよう)
誰かが来るのを待つか。しかし、こんな間抜けな姿を見られるのは恥ずかしい。
説明をしようにも、その場合は自分が淫魔を取り逃がしたことがバレてしまう。いや、早く警告するべきなのだから、それは悪いことではない。
しかし、あの淫魔からはそこまで魔力を感じなかった。自分でも倒せそうなほどに。
ノナは密かに一人で淫魔を倒すことで、自信を身につけようとしていた。そのためには、なるべく誰の手も借りたくはなかった。
「……ふんぬぬぬ。ぐぬぬ……」
まずはここを抜け出さなければ何も始まらない。抜け出すには壁を壊すしかなさそうだが、そうすれば教会の建物がどうなるのかが分からない。
穴が空く程度で済むならば後で直せばいい。今は綺麗なものの、この村に訪れた頃にはこの教会の外見は随分と劣化していたように見えた。それなりに年季の入った建物なのだから、下手に壊せば壁一枚ぐらい崩れてしまうのではないだろうか。
(……誰か呼ぼうかな)
まあ、自分一人でどうしようもないのならばしょうがないことである。ちょっと恥ずかしいが、それぐらいは平気だ。
ノナは使えないが、村人の誰かはこの壁を変形させるような魔法も使えるだろう。なんなら、あの淫魔の使っていた聞き慣れない魔法のように、穴を空けるだけの魔法でも良い。
そうやってノナが誰かを呼ぼうとした瞬間、馬の甲高い
それは、とんでもなく機嫌が悪いそれに聞こえた。
(何かあったのかな……?)
下手に馬を刺激したらまずいな、とノナは沈黙した。
槍を引き寄せの魔法で引っ張ってこようか悩んだあたりで、パカラッ、パカラッ、と馬が走る音が聞こえてきた。
その音は確実にノナの方へと向かってきていた。
「……あれ?」
流石に教会の裏庭には入ってこないだろう。馬も教会の塀は超えてこないはずだ。
だが、万が一。もし入ってきたらどうしよう。尻を蹴られなければいいのだが。
そうでなくとも、裏庭には洗濯物やライラの植木鉢がある。荒らされると大変なことになってしまう。
とりあえず、入ってこないように祈ろう、と手を組んだところで、ダカッ、と大きく飛んだかのような踏み込みの音がした。
そして、壁越しにくぐもった音ながらも、ノナの後ろのあたりに着地したのが分かった。
(……い、今これ、どうなってるの!?)
状況を確かめるためにも慌てて脱走しようとしたところでくぐもった声がした。
それはノナにとっては聞き馴染みがある声だった。
「ノナさん、大丈夫ですか!?」
「ライラさん!? なんでここに!?」
ここから最寄りの町までは数日は掛かる。たとえ馬に乗ったとしても、往復するには短すぎるだろう。
これはもしや、あの淫魔が化けているのではないだろうか? 一瞬そう考えるも、まずは会話を続けてみることにした。
「急いで帰ってきただけです。ユニコーンに乗って」
「ゆ、ユニコーン!?」
悪魔のような魔の存在はユニコーンには乗ることができない。乗る前に蹴られて死ぬからだ。
それに、ユニコーンは乗るだけでも相当な技量が必要な代わりに、疲れを知らず、並大抵の馬よりも速く走る。
本当にユニコーンに乗ったのならば、このライラは少なくとも悪魔ではないし、帰ってくるのがやけに早いのも説明が付く。
「……ユニコーンはどこにいるんですか?」
「私の隣に」
「……こちら側に来てもらうことはできますか?」
「できますが……ノナさん、なぜこのような状況に……?」
「後でお話しします。なので、早く……」
「はい……」
ライラは槍を直したのだから、壁を変形させる魔法ぐらいは使えるだろう。
そして、ライラが本物かどうか、というのはユニコーンによって確かめることができる。
ならば、まずはユニコーンが本物なのかどうかを確かめなければ。
ノナは壁に埋まったまま、その正体を確かめようと気を引き締めた。
……でも、本人だと、なんだかものすごく恥ずかしい気がする!