一人飯を食っていると、机の下から顔を覗かせた少年。
おヌシとは、そこで出会ったんじゃったの。レイン。
「なんじゃ、おヌシ、っ……」
痩せこけた体に、うっすら汚れた体。
当時五歳だったはずのおヌシは、とてもそうは見えないほど小さな体をしていた。
「ご飯……おなか、空いてて……」
「……」
人との関わりを避けていた妾だったが。まだ善意が消えたわけではなかった。と、思う。
仕方なく、パンとスープを差し出してやると。おヌシは、それをすぐには食わず……震える手で、ゆっくりと持ち去ろうとしていた。
「待て、どこにいく」
この際じゃ。飯のことはまあ、いい。じゃが、店の皿を持って行かれるのは困った。
呼び止めると、奴は申し訳なさそうな顔をして。
「弟……」
「ぬ?」
「弟、が……お腹を、空かせてるんです……家で、待ってる……」
「……」
腹が空いたというのは、自分のことでなかった。家族のことだったらしい。
自分だって、まともに歩けないほどふらふらじゃろうに。あやつは、自分よりも周りを慮っていたのだ。
「わかった。もっとやる。だから、おヌシも飯を食え」
「はは……ありがとう、ございます。でも、急がないと……先に、食わせてやりたいんです」
「……」
ひどく、強い衝動に突き動かされた。
「わかった。来い」
「え……?」
「しっかり掴まっておけよ?」
もう、深く人と関わるなど。勘弁願いたかったんじゃがのぉ。
「は、はい」
ぎゅっと込められた力は、今にも消え入りそうな程弱々しかった。心配になって、そっと尾で包んだのじゃ。
「わ……」
魔道具の中に、攻略用の携帯食料くらいはあったか。
いきなり固形物を食わせるのは良くない。豆のスープがあったはず。まずはそれのスープだけを飲ませて、あとは米の煮汁で最低限の栄養を。
「は、はや」
「おう。どうじゃ、綺麗か?」
「……は、はい! とても!」
「ふふ、そうかそうか。家はこっちでいいかのぉ?」
「あ、合ってます!」
そうして、たどり着いたのは。
さして小さくもない、かと言って人並みほど大きいわけでもない。一軒家じゃった。
「……」
嫌な匂いがした。老廃物と腐敗物の匂い。
アンモニア臭を煮詰めたような酸っぱい、劈くような衝撃に、無意識に鼻を押さえた。
「おヌシ、ここで少し待っていられるか?」
「は、はい……?」
扉を開けて、先へ進む。
弟の歳は、確か三歳だと言っていただろうか。
「……」
色の悪くなった、百センチにも満たない肉の塊。溶け出したように、赤黒い液体の跡が地面についていた。
「ああ……」
あの子は、知らないのだ。即座に理解した。
「その、どうかされましたか?」
「っ……待っていろと言っただろう」
「す、すみません……でも、早く……ご飯を……」
慣れた手つきで這いずる蛆虫を取り払い、飯を口元に寄せる。咀嚼する様子は、なかった。
当たり前じゃ。死人は、飯を食わないのだから。
「……その、最近。ずっと、こんな調子なんです。ずっと、寝ていて……弟は、食べることが好きでした。だから、ご飯があれば……」
「……死んでおるよ」
「え?」
そう、あの子は。レインは、知らなかったのだ。
「死ぬ、って。なんですか?」
死を、理解していなかったのだ。
「さぁのぉ……なんなんじゃろうな。死とは。生とは」
ゆっくりその子を抱きかかえ、外に連れて行った。
「や、やめてください! いきなり、何を」
「よいか」
死とは、何か。難しい質問じゃが。
「この子には、もう会えぬ。生き物には、その命には、必ず終わりが訪れるのじゃ」
「……あえ、ないって。なんですか。だって、弟はそこ、そこに。そこにいる」
「そうじゃな。だが、もう話せない。動くこともない。ここにあるのは、弟そっくりな十数キロの肉の塊じゃ」
「なにを、っ……!」
だらんと垂れ下がった腕が。そのまま落ちた。
「……すまんのぉ。今、眠らせてやるからの」
妾が拾い上げるのを、その子は黙って見ておった。
「人は、終わるのですか?」
「そうじゃ」
「もう、弟には会えないのですか?」
「そうじゃ」
「……もう、彼は。いないのですか?」
「……そうじゃ」
そこで、理解した。
この子は、死がわからなかったわけではない、この子は。
「永遠の別れ。永遠の終わり。それが、死じゃ」
「……!」
受け入れられなかっただけなのだ。人の死を。
「よし、と」
妾が遺体を埋め終わるまで。その子は、黙って様子を見ておった。
「来い。手を合わせてやれ」
「……なぜですか?」
「……さぁ。なんでだろうのぉ」
わからない。肩をすくめて見せると、子は諦めたように、縋るように横へ来て。手を合わせた。
「のぉ」
「はい」
「弟に会いたいか?」
「はい」
子どもから無感情に溢れた涙は、血潮の匂いがした。
「そうだろう。妾もじゃ。妾も、会いたい者がたくさんおる」
「……あなたにも」
「ああ。だが、もうできん。……それは、辛いことじゃ。とても、辛い」
漏れ出る本音を閉じ込めて、それでもあやつに語りたかったことは。
「だから、人は拠り所を求める。それが、祈りなんじゃと妾は思う。いつか会えるように。遠く見えないどこかでも、幸せになっていると思えるように」
「……」
「だから、泣くなとは言わない。じゃが、どうだ。天から我らを見ていると、そう思うと……多少は、生きる気力も湧いてくるじゃろう」
「……はい」
ボロボロに溢れ出てきた涙を、全て抱き寄せて受け止めた。
身体中の水分など、とうに果てているだろうに。それでも、あやつは泣き続けた。
「誰だ、お前」
「おぅ。お早い帰りじゃのぉ、屑共」
彼に飯を食わせ、寝かしつけて、部屋を掃除し。彼の親が帰ってくるまで待った。
なんでも、元々弟は母の再婚相手の連れ子。それからというものの、ほとんど食事も与えられず、外にも出れず。
今回はその期間が長く続き、いよいよ限界を感じて外に出てきたらしい。
「ちょっと、誰、この子」
「知らん」
子を心配する様子などなく、大層イラついた様子で、男は口を開いた。女は、黄色く濁った目で睨みつけていた。
「弟の方は死んだぞ」
「あ?」
「何か思うところはないのか」
言葉に詰まる。わけではなく。妾に不気味さを感じたのだろう。ツノと尾と翼を隠しても、この身の憎悪だけは隠しきれなかった。
「……ないのか」
なぜ、このような奴らに子ができる。妾は、産むことはおろか。授かることもできなかったのに。
「あぁぁああああああああ!!」
「何、これ!! なんなのよこれぇ!!」
初めて。己の力を、ただ己の感情を満たすだけに使った。
「やめろ!! やめろ!! 離せ!!」
風魔法で宙に浮かせ。天候はぐちゃぐちゃに書き換わり。嵐が訪れていた。
「このまま数日。溺れるまで干してやってもいいが」
自分の体が、制御から外れた感覚だった。
「貴様らの無価値な命でも、幾分かの弔いにはなるだろう。死んで償えい、塵芥共」
「ダメです!」
地面に叩きつける、寸前。何かに、抱きしめられた。
「離せ」
「ダメです!! ソラ様!! 死んじゃう!!」
「だから、なんだ。あの程度の命。どうせ、数十年の違いじゃ」
自分の中で、急激に命の価値が軽んじられていくのを感じた。命を踏み躙ることでしか、この怒りは収まらない気がした。
「っ……でも! 今、生きてる!」
「すぐに死ぬ」
「だとしても!!」
そして、あやつの言葉は。
「あなたに失ってほしくない!! あなたに、壊してほしくない!!」
「……」
「あなたは、優しい
何よりも、まっすぐで。
「あなたが痛みを忘れたふりをしても!! 僕が無視なんてさせない!!」
「……!」
何も知らぬはずの癖に。やけに、妾に突き刺さる言葉を吐いてきた。
「……わかった」
「ソラ様……」
「それはそれとして、やっぱムカつくからのぉ」
殺すのは、やめた。
「しばらくゲロしかできんようにしてやるわ」
「ソラ様!!」
代わりに、暴風でめちゃくちゃに振り回してやった。ゆっくり降りてきた二人に向かって。
「この家とこの子
「は、何を勝手、な、おぇっ……!」
「逆らうか? 妾をどなたと心得る」
変身を解いた。
「当代の英雄、ソラ・シーカー!! その人であるぞ!!」
「っ……!!」
「この子の優しさに免じて、命だけは助けてやる!! だが、貴様らの人生に今後二度と幸福などが訪れると思うなよ!?」
半ば、八つ当たりに近かったと思う。
「その全てを、妾がぶち壊す!! 恐怖しろ!! 絶望しろ!! 永遠に供養し、悔い、懺悔し続けろ!! この子たちの命にな!!」
「ぐ、ぅ……!」
「行けぇッ!!」
情けなく四つん這いで逃げ去って行く姿を見て。気分が良くはならなかったが。多少は、胸が空いた。
「すまんのぉ。おヌシの親に向かって」
「いえ。いいんです。……きっと僕の両親は、あまりいい人でなかったから」
目の前の子供は今し方。全てを失った。
両親も。弟も。帰る場所も。命を除いて、全てを。
「僕、行きますね」
「ぬ? どこへじゃ?」
「さぁ……けど、この家はもうあなたのものだ。僕がいつまでも、いるわけにはいかないでしょう」
なんだか、妾と重ねてしまってのぉ。
「……その、時々。弟に、会いにきても」
「何を言っておる。おヌシもすでに妾のものじゃ。勝手にどこかへ行くことなど許さんぞ?」
「っ……!」
引き止めてしまったのは。そのまま姿を見失えば、死んでしまいそうだったからか。
「……いえ。これ以上、ご迷惑は」
「ふむ。では、どうする? このまま家を出て、野垂れ死ぬか?」
「それも、悪くありません」
実際、それは合っていたらしくて。
「僕には、もう……生きる理由が、ないから」
「だったら妾がなってやろう」
自分と重ねた理由も、そこではっきりしたものじゃ。
「だから、死ぬな」
「……なぜ。なぜ、生きなければいけないのですか? こんなにも、苦しいのに」
「さぁのぉ……」
齢五歳で、同じ苦しみを持っていた。その全てが同じとは言わないが、大体似通ったものだったと思う。
「それでも、生きていけば。その理由も、見つかるかもしれないからかの」
見捨てることが、できなかった。
「……そんな、曖昧な答えで」
「かかかっ! なんじゃ、不安か?」
「……」
「案ずるな。妾がついておる。ヌシの人生は今、ようやく始まったのじゃ」
この
「……そうじゃ。名をやろう。名は全てではない。だが、我らの足跡を後世に残してくれる。……受け売りじゃがの!」
「名前、ですか?」
「うむ!」
……また誰かと寄り添い、生きることができるのなら。
「そうだな……よし、決めたぞ!」
少しの間だけ。忘れることができるから。
「『レイン』! それがおヌシの名じゃ!」
「『れいん』……?」
「うむ! 雨という意味じゃ!」
「雨……雨は、嫌いです」
だから、その場の流れでしかないが。何か明確な目標があったわけではないが。
「そうか? 雨があるから、晴れがある。雨があるから、恵みがある。全ての悲しみを包んで、満たして、流してくれる」
「……」
「これから変わりゆくおヌシの人生に、ピッタリな名だと思っての」
もう一度だけ。誰かと生きてみようと思った。
「なぁ……雨のように、妾の人生を満たしておくれ。レイン」
「……素敵な、名前です」
「そうだろう……ああ、そうだろう」
たとえそれが。再び、耐え難い痛みを与えるのだとしても。
◇
おヌシとの生活は、大変なことがいっぱいだったのぉ。
「ソラ様。これはどうやって読むのですか?」
「む? それは、えぇとな……」
まずおヌシに教えたのは勉強じゃ。学習の重要さは、奴隷時代に身をもって知っている。
おヌシは利口で聡くて、みるみるうちに全てを吸収していったのぉ。親バカがすぎるじゃろうか?
「ソラ様。調理器具はいきなり水につけないでください。表面の樹脂が剥がれて痛みます」
「お、おう……すまぬ……」
……いや、そんなことはないな。あいつ妾よりも頭良かった。
すっごいけどずっこいのぉ。不公平じゃ。
「……弟は、あの世では腹一杯食べれているでしょうか?」
「わからぬよ。そう、信じるしかあらぬ」
孫のような、息子のような。そんな目で、妾はおヌシのことを見ていた。
……見ていたん、じゃが。
「ソラ様。好きです。婿に迎え入れてはくれませんか?」
「あー……そうじゃのぉ。十年後くらいにまた伝えておくれ」
「その時は、応えてくれますか?」
「……考えておくよ」
おヌシがどうだったかは、もはや聞かんとわからんのぉ。
「ソラ様。シーカーの名をください」
「おう、養子としてならいいぞ」
「チッ……」
これで母親として見てたとか言われたらそれはそれで困るが。
「ソラ様……その、あなた様もそろそろいい年です。私ではダメでしょうか?」
「ダメじゃ。仮に受け入れたらしょたこん極まっとるじゃろ、妾」
「私は構いません。むしろウェルカム」
「妾が構うんじゃ!」
いや、マジで。とんだマザーコンプレックス超えて、マザーファッカーじゃ。
「妾はもう、恋はしない」
……まあ、年齢など関係なく。おヌシが何者だろうと。結婚など、できんがのぉ。
妾の心は、ペアに捧げた。それと無関係に、子も成せぬ身。
深い関係になりすぎると。別れが、辛くなる。
「では、私がさせて見せましょう」
こんな
おヌシはいつも、妾を困らせておったのぉ。
「好きなあなたの、全ての表情を知りたいですから。落ち込んだ顔ばかりではなく、もっと色々な顔を」
「……」
いや。それは、妾も同じだったかもしれぬ。
妾も、おヌシを困らせていたのかもしれぬ。
「ソラ様は、本当はおいくつなんですか?」
「あ?」
レインが十二を迎えた頃。ふと、そんなことを問われた。
「おま、デリカシーとかな……別に年齢詐称なぞ」
「嘘です」
「……」
深い藍色の瞳で、そんなことを言うおヌシが。今までと、違って見えた。
思えば、あの時点ですでに出会ってから七年も経過していたのか。
「私には、嘘を見抜く力があるようなのです。だから、あなた様の嘘はわかります」
「……わかった、悪かった。妾は年齢を偽っておるよ……内緒じゃぞ」
「老いれない。不老、なのでしょう?」
「……!?」
だが、そこまで見透かされているなどとは。露ほども。
「なぜ、それを……」
「さぁ。好きな相手、だからでしょうか?」
「真面目に答えよ」
「大真面目ですよ」
好きだから。たった、それだけの理由で。数百年、数千年、隠し通した事実を?
「好きな相手だから、一挙手一投足全てに注意が行ってしまう。ふとした瞬間に、あなたのことを考えている。そうすれば、どんな隠し事に気づいてしまうのも……さして、不思議なことではないでしょう?」
「お前な……」
「まあ、本当は図書館で色々調べたりしていたのですが」
主に、不老の秘術についてだとか。
姿の変わらぬ妾と違い、あやつはどんどん成長して行く。その違いを埋め立てたかった。あの子は、そう語った。
「……バレては、仕方ないな。その通り。妾は……不老の、化け物じゃ」
「人ですよ。あなたは。素敵な人だ。私としては、幸甚極まります。好きな相手が、ずっと生きていてくれる」
「……そう、か」
「ですが、あなたにとってはその逆なのでしょう」
あの子は。
「この世の者たち全てに、先に逝かれてしまう。独り、残されてしまう。あなたの苦しみは、察するに余りある」
「……」
全てを理解して、その上で。
「だから、あなたの苦しみは。私が終わらせて見せましょう」
「……え?」
そんな、無謀な絵空事を。
「あなたの不老を解き、共において死ぬ。それが、私の人生の目標です」
「んな……レイン……」
今までも、いないわけではなかった。そんなことを宣う、愚か者が。
じゃが、齢十二にして。そこまでの世迷言を口にする者など、一人として。
「私の寿命は、どれだけ頑張ってもあと百年。いえ、共に老いたいのです。六十……五十年以内には、なんとかして見せましょう」
「レイン、無理じゃ。無理なんじゃ、それは」
「私は認めません」
妾でさえ、諦めていた。この身が果てること。共に老いること。人間として、死ぬことを。
「私の人生を新たに始めてくれた。命を与えてくれた。故に、私はあなたに最高の、最幸の終わりをお返しします」
「……」
「だから、その時は……私と結婚してくれませんか?」
「それは嫌じゃ……」
「では、そちらは要りません」
そっちはすんなり諦めるんじゃな。可笑しな気がして、少し笑ってしまった。
「これが私の人生なのです。私の人生は、きっとこのためにあるのです。このために、私は生きねばならなかったのです」
一方的に手を取られ。握って、額を合わせられた。
ツノが刺さってしまったが。それは、この国での魂を賭けた誓いの合図だった。
「あなたの苦しみは、私が必ず終わりにします。だから、どうか……その時は。心から、笑ってください。あなたの人生は美しいのだから」
「……のぉ……よいのか?」
忘れていたはずの、気持ちが。期待が。溢れてきてしまって。
「信じて、よいのか……!? 妾は……妾と共に、死んでくれるのか……!?」
「えぇ。約束しましょう。誓いましょう」
「妾は……妾は……!」
ずっとずっと、抑えていた。涙が。
「ありがとう、レイン……! ありがとう……! ありがとう……!」
その日から。妾の不老を消す、無謀な研究が始まった。