暗い。冷たい。そして、腐った臭いがする。
それが、俺――いや、「私」が最初に感じた感覚だった。
意識が泥の中に沈んでいるようだ。
(俺は確か…昨日『エルデンリング』をプレイしていたはずだった。そうだ、何周目か…もう数は覚えていないエンドを迎え、画面の前で意識が遠のいて……。)
気がつけば、俺は漂っていた。魂だけの存在となって、狭間の地へ。
そして目の前には、巨大で醜悪な『人のような形のナニカ』があった。
俺はそれを知っていた。深き根の底に鎮座する、人面魚のごとき異形。黄金のゴッドウィンの成れの果て。死王子。
俺の魂は吸い寄せられるように、その巨大な肉塊へと潜り込んだ。
(まさか最近流行りの異世界転生……?
いや、これは憑依って言うのか?まさかのフロムゲーかよ!でもゴッドウィンに憑依できるのか?やった!この世界でデミゴットは強者!
しかもデミゴットの中でも武に秀でているゴッドウィン!これは勝ったなガハハ!)
歓喜したのも束の間、俺の浅はかな自我は、圧倒的な「黄金」の奔流に直面した。
空っぽだと思っていた器は、空ではなかった。そこには、魂が砕かれたはずの半神の、強烈すぎる「残留思念」と「肉体の記憶」が渦巻いていたのだ。
『――何者だ』
声なき声が響く。それは拒絶であり、同時に審判だった。
俺は悟った矮小な魂など、蝋燭の火を太陽に投げ込むようなものだ。俺の自我は瞬く間に溶解し、拡散し、そして吸収されていく。
「俺」という人格は消滅した。
だが、「俺」が持っていた知識、ゲームの攻略情報、未来の記憶、アイテムの配置、デミゴッドたちの秘密……それらすべてが、膨大なデータとして、黄金の意思に統合された。
そして、主が目覚める。
ゴッドウィンは目を開いた。
視界にあるのは、どんよりとした地下の空洞と、自分にまとわりつく死衾の乙女の感触だった。
思考が澄み渡っている。
かつて黒き刃によって背中に死のルーンを刻まれ、魂のみを殺されたあの夜の苦痛は、遠い過去のようでもあり、つい先程のことのようでもあった。
「……嗚呼、愛しき方……。その温もりを、どうか……」
足元で、黒いローブを纏った女が祈っている。フィアだ。
彼女は私のこの醜い身体――死に生きる者たちの源流となってしまった、膿と根にまみれた肉塊――を抱きしめ、新たな生命を宿そうとしている。
不快だ。
フィアに対してではない。この、「今の己の姿」に対してだ。
ゴッドウィンは己の肉体を見下ろした。
腫れ上がり、魚のように爛れ、目は虚ろに白濁し、背からは無様なヒレが生えている。かつて黄金の寵児と呼ばれた栄光は見る影もない。
(これが私か。……いや、違う)
脳裏に、異界の知識が閃く。
『死王子の修復ルーン』。このままでは、私は世界を呪うだけのシステムの一部と化す。
だが、今の私にはわかる。魂の空白を埋めた「異界の知識」と、肉体に刻まれた「死のルーン」の欠片。これらが、私の黄金の血と化学反応を起こしている。
魂が死んだ? 否。
肉体が死んだ? 否。
私は今、生と死の境界を越え、その双方を統べる理 そのものへ至ろうとしている。
「……退くがよい、死衾の乙女よ」
ゴッドウィンの口から言葉が紡がれた瞬間、深き根の底の大気が震えた。
それは唸り声ではない。かつて王都ローデイルの民を魅了した、威厳ある王の声だった。
「ひっ……!?」
フィアが弾かれたように飛び退き、腰を抜かす。
彼女の目の前で、信じがたい現象が起きていた。
巨大な人面魚のような肉体が、内側から輝きだしたのだ。黄金の光、しかしその縁は漆黒の炎に彩られている。
バキボキと湿った音が響き、巨大な肉が圧縮されていく。
余分な脂肪が、ヒレが、鱗が、黄金の雷によって焼き払われ、昇華していく。
数千年の時を経て、王が還る。
光が収束したとき、そこには一人の男が立っていた。
流れるような黄金の長髪。筋骨隆々たる巨躯。大理石のように美しい肌は、しかし死人のように青白く、血管の代わりに黒い死の脈動が走っている。
背中には、呪痕が焼き付いているが、それはもはや呪いではなく、王の権能を示す紋章のように見えた。
下半身には死王子の名残である黒い腰布と、古竜の鱗で作られた脚甲が自然と形成されている。
ゴッドウィンは自分の手を見つめ、握りしめた。
力が満ちている。
全盛期の力。いや、それ以上だ。黄金の恵みと、全てを終わらせる運命の死。相反する二つの力が、この身の中で完全に調和している。
「あ、ああ……死王子、様……?」
フィアが震える手で彼を見上げる。彼女の知る「死に生きる者」とは決定的に違う。腐臭がない。ただ、圧倒的に神々しいのだ。
「フィア、だったか。大儀であった」
ゴッドウィンは静かに彼女を見下ろした。異界の知識が、彼女の目的と、その献身を教えてくれる。彼女は彼女なりに、迫害された者たちを救おうとしていたのだ。
「そなたの願い、そして死に生きる者たちの悲願。……私が引き受けよう。だが、それは呪いによる世界の上書きではない。正しき律への組み込みだ」
彼が手をかざすと、フィアの体を蝕んでいた微弱な死の汚れが浄化され、純粋な魔力へと変換された。フィアは呆然と涙を流し、その場に平伏した。
さて、次だ。
ゴッドウィンは視線を虚空へ向けた。そこには、彼の夢の中に囚われ、精神を病んでいた友がいる。
「フォルサクス」
名を呼ぶ。
空間が裂け、赤黒い雷と共に巨大な死竜が現れた。
その体は腐敗し、死に侵されている。友であるゴッドウィンの死と戦い続け、力尽きかけた哀れな姿。
竜は狂乱の咆哮を上げようとした。だが、ゴッドウィンの瞳と視線が交差した瞬間、ピタリと止まる。
――友よ、終わったのだ。悪夢は去った。
ゴッドウィンの手から、黒と金の混じった雷の槍が生成される。
「古竜の雷撃、そして運命の死。これでお前の病を断つ」
彼は慈悲を持って、その槍をフォルサクスの眉間へと突き入れた。
破壊ではない。浄化だ。
死のルーンの力は、フォルサクスの体内に巣食う「制御できない死」を「制御された死」へと書き換える。
竜の濁った瞳に理性が戻る。腐り落ちた鱗が再生し、かつての石の肌を取り戻していく。
『……我が友、ゴッドウィン? 貴公、戻ったというのか!!』
テレパシーのような念が届く。
「久しいな、フォルサクス。随分と待たせた。…空へ行くぞ。このじめじめした場所は、再会の宴には不向きだ」
ゴッドウィンがフォルサクスの首元を撫でると、死竜は歓喜の咆哮を上げ、頭を垂れた。
ゴッドウィンはその背に飛び乗る。
その時だった。
ズズズズズ……ッ!
地鳴りが起きた。いや、これは深き根そのものの震えだ。
頭上、遥か彼方にある黄金樹が、共鳴している。
通常、黄金樹は死に生きる者を拒絶する。根から排除しようとするはずだ。
だが、今は違った。
絡み合っていた巨大な根が、まるで道を譲るように左右へ開き始めたのだ。
上へ、上へ。
王都ローデイルへと続く直通の道が、光の粒子と共に開かれていく。
(……母上か。あるいは、大いなる意志か)
脳内の知識が告げる。本来なら、褪せ人が大ルーンを集め、拒絶の刺を焼かねば王都には入れない。
だが、黄金樹は知ったのだ。
「正当なる後継者」が、死の概念すら克服して帰還したことを。
「行くぞ」
フォルサクスが翼を広げ、深き根の底の暗闇を蹴る。
目指すは地上。黄金の王都。
そこには、今もなおボロボロになりながら玉座を守り続けている、愛すべき愚弟がいるはずだ。
「待っていろ、モーゴット。お前の荷は、私が半分……いや、全て持とう」
黄金の流星が、地底から逆流するように駆け上がっていく。
狭間の地の歴史が、今、大きく変わろうとしていた。
【第1話 完】