ネッ友(自称行き遅れ)の「結婚してくださいよ~」にOKしてみた翌朝、玄関に綺麗なお姉さんがいた 作:古野ジョン
二人でお茶を飲んでから、俺たちはそれぞれの作業に戻った。綾音さんは変わらずパソコンに向き合い、何か唸っては文字を入力したり消したりしている。俺は俺で、ひたすらレポートに向き合っていた。
「……あれ、今何時ですか」
「えっと……」
ふと、綾音さんが疲れたように声を上げた。相当集中しているのか、額に皺を寄せて画面を注視している。時計に目をやると、ちょうど長針と短針が一直線上に並んでいた。
「六時ですね」
「えっ、六時!?」
綾音さんが慌てた様子で顔を上げ、わたわたとこたつ布団から這い出た。何か用事でも思い出したのかな、なんて考えていた次の瞬間――俺はこたつを跳び越す成人女性を見た!
「はーーっ!!」
「!?」
何してんのこの人!?
「ちょっ、どうしたんですか!?」
「ひゅっ、ひゅーがさん! お願いです捨てないでくださいコンポストで肥料にしないでくださいっ!!」
「なっ、何のことですか!?」
駆け出そうとしていた綾音さんのセーターの裾を掴み、慌てて引き留める。この人、今度は何をしでかすつもりなんだ……!?
「あのっ、あのっ……!」
「落ち着いてください! いったい何があったんですか!?」
「あったんじゃなくて、忘れてたんですっ!」
「な、何を!?」
「だからっ、そのっ……!」
綾音さんは台所の方を指さして、俺の方を向いた。そして涙目になりながら、大きな声で叫ぶ。
「ば、晩御飯の準備を忘れてたんですっ……!」
「……へっ?」
「今日もっ、ご飯作ろうと思ってたのにい……!」
その場にへたり込む綾音さんを見て、俺はあんぐりと口を開いた。晩御飯を作り損ねただけで、こたつを跳び越すほど焦ることが出来るなんて……もはや一種の才能だとすら感じる。
「だ、大丈夫ですよ。むしろ毎食作ってもらったら申し訳ないですし」
「ダメですっ! お嫁さんとして精一杯頑張るって言ったのにい……!」
「夕飯くらいどうとでもなりますって。だから――」
「ひゅーがさんっ!」
「はい!?」
綾音さんは床に正座して、じっと俺の方を見つめる。何をするのかと思えば、綺麗に床に手をつき、頭を下げて……荘厳に口を開く。
「……お詫びに、謹んで今すぐお嫁に行かせていただきますっ」
「それ綾音さんが得してるだけじゃないですか!?」
「もう耐えきれません! どうか! どうか今すぐ婚姻届にサインを!」
「土下座しながら言うことがそれなんですか!?」
「煮るなり焼くなり好きにして構いませんから! 今すぐ区役所に行きましょう!」
「頭下げてる人の台詞じゃないですよ!?」
わあわあと言い合っているうちに、だんだん状況が分からなくなってきた。ええと、どうしてこうなったんだっけ。綾音さんが夕飯を作り忘れて、それで……
「あっ!」
「えっ?」
あることを思い出し、急いで隣の和室に向かった。収納棚を探し回り、その中から商品券やらクーポンやらの入った袋を見つけ出す。ええと、たしか――
「ありましたっ!」
「えっ、何がですか?」
居間に戻ると、額を赤くした綾音さんが顔を上げ、不思議そうにこちらを見ていた。俺が手に持っていたのは、ずっと前に近所の福引で引き当てた商品券。千円の券が五枚、すなわち五千円分が手元にある。
「綾音さん、せっかくなら外食しませんか?」
「えっ、でも……」
「一緒に暮らし始めた記念ってことで。昔から通っている中華屋があるんですけど、どうです?」
「……」
綾音さんはきょとんとして、何も言わないまま。しかしゆっくりと立ち上がると、こちらに歩み寄ってきて商品券ごと俺の手を握った。
「ひゅーがさん、私を責めないんですか?」
「あんなに頑張ってお仕事していたんですから。それで夕飯を作らなかったからって、責める方がおかしいですよ」
「そ、そうですか……」
照れたように、俺から視線をそらす綾音さん。この人はちょっと抜けてるところもあるけど、それを補って余りある責任感も備えている。やっぱり見習うべき大人だな――
「さあーって、餃子でも食べましょうかっ!」
「切り替え早っ!?」
「お腹空いたんですよー! 早く行きましょっ?」
「は、はーい……」
綾音さんは俺から商品券を奪い取るようにして、るんるんとスキップしている。さっきまでの殊勝な態度は何だったんだろうか。やっぱり見習わない方がいいかもしれないな、なんて訝しんだ俺であった……。
***
「こんばんはー」
俺は綾音さんを引き連れ、中華屋の扉を開いた。まだ六時過ぎということもあってか、店内にいる人数はそこまで多くない。座れそうだな。
厨房に近いカウンター席に、部屋の中央にいくつかあるテーブル席、そして二つある座敷席。どこに座ったものかと見回していると、馴染みのおばちゃんが気づいてくれた。
「はい、いらっしゃ……あらあら」
「どうも。二人なんですけど」
「ああ、じゃあお座敷にどーぞ」
言われるがまま、俺たちはおばちゃんの指し示す方向に向かった。座敷に上がろうと思い、運動靴を脱いで床に並べると、綾音さんがすぐ隣に自分の靴を並べた。
「いっつもお隣ですねっ」
「綾音さんが自分で並べたんじゃないですか」
「つれないこと言わないでよ~」
なんて声を聞きつつ、俺たちはテーブルを挟んで向かい合わせに座った。俺があぐらをかいているのに対して、綾音さんはやっぱり正座をしている。厳しい家で育ったんだろうか。
「水、置いとくから~」
「あっ、どうも~」
その時、おばちゃんがやってきた。お盆からコップを取ってテーブルに置く間、何やらじっと綾音さんの方を見ている。
「随分綺麗な人連れてきたこと。彼女さん?」
「ええっと、違うんです。彼女というか……」
「お嫁さんですっ!」
「あら! いいこと~!」
「ちっ、違いますからねっ!?」
弁解も空しく、おばちゃんは空になった盆を引っ提げて帰っていってしまった。どうしたものかと頭をぽりぽりとかいていると、綾音さんが目を皿にしてメニューを見ている。
「どうしました?」
「ビール……チューハイ……あっ、紹興酒もある……」
「えっ、綾音さん?」
綾音さんはドリンクのページが特に気になっているみたいだった。そういえば、この間にウイスキー工場でしこたま試飲したとか言ってたしな。お酒が好きだってボイスチャットでも聞いてはいたけど、どれくらい飲むんだろう。
「な、何か飲まれますか? だったら先に」
「日本酒もいいな……いやでもまずはビールか……」
「話聞いてます!?」
酒を前にして自分の世界に入り込んでる!? やっぱり酒豪なのか……? どうしよう、五千円分で足りるかな。
「何にします?」
「!」
いつの間にか、おばちゃんが注文を取りに来ていた。メモ用紙片手にじっと俺たちのことを見ている。
「ええっと、じゃあ……」
綾音さんはメニューを見たまま口を開いた。……大丈夫かな。紹興酒のウイスキー割りとか言い出さないだろうか? いやっ、まさかこの人でも――
「ノンアルビールでっ!」
「えっ!?」
「あっ、ひゅーがさんも飲みます?」
「じゃ、じゃあ……」
「そしたらグラス二つください!」
「はいよ~、ノンアルの瓶ね」
おばちゃんはさらさらとペンを走らせ、厨房の方に去って行った。俺は唖然としたままその背中を見送るしかない。
「どうしたんですか? 鳩が豆鉄砲食らってぽっぽっぽみたいな顔して」
「お、お酒飲まなくていいんですか!?」
「今日は飲まない日なので。あっ、もしかして飲みたかったですか?」
「いえっ、別にいいんですけど……。拍子抜けしました」
「拍子抜け? 変なこと言いますねっ」
なんて言いながら、綾音さんは再びメニューを開いた。そして食い入るように酒の写真を見つめ、ぶつぶつと呟く。
「チューハイじゃ薄いか……でも中華に日本酒ってどうなんだろう……紹興酒かな……」
「……本当にお酒飲まなくていいんですか?」
「今日は飲まない日なのでっ」
やはり、この人の行動は読めないのであった……。
***
「じゃあっ、私たちの前途を祝して! かんぱ~い!」
「か、かんぱいっ!」
綾音さんが嬉しそうに差し出してきたグラスに、そっと自分のグラスを重ねた。なみなみと注がれたノンアルビールの黄色が揺れて、泡が弾ける。綾音さんはグラスを口につけ、一気にビールを流し込んでいった。
「……ぷはーっ! 人生、この瞬間のためにありますねっ!」
「もう飲んじゃったんですか!?」
「はいっ! 旦那さんならお酌してっ!」
「は、はい……」
俺は瓶を手に取り、綾音さんのグラスに注いでいった。瓶ビールと言っても小びんだから、二人で飲むとすぐになくなってしまう。追加で頼もうとしたとき、ちょうどおばちゃんがお盆に小皿を載せてやってきた。
「はいこれ、お通しのザーサイ……あらあ、もう飲んだの?」
「すいません、ノンアルもう一本ください」
「
「だから違いますよ!?」
否定する間もなく、おばちゃんは空になった瓶を回収して去っていった。はあとため息をつきつつ正面を向くと、綾音さんが首をかしげている。
「どうしました?」
「『ひなた』くん……っていうのは?」
「ああ、本名ですよ。今更ですけど、僕は
「もしかして……漢字の読み方を変えて『ひゅーが』さんってことですか?」
「そういうことです」
「なるほど~!」
納得したのか、綾音さんがうんうんと頷いていた。ネットで会った人に本名を知られるなんて……という考えもあるけど、一緒に暮らしていればどうせバレるだろうしな。
「もしかしてっ、本名でお呼びした方がいいですかっ?」
「というと?」
そう問うと、綾音さんはこほんと咳ばらいをした。姿勢を正して、改まった態度で……静かに口を開く。
「
やや照れたように顔を赤くして、綾音さんはパッと視線をそらした。大人らしい優雅な声で本名を呼ばれると、こちらまでこっぱずかしく感じる。ひゅーがって呼ばれるのは慣れてるけど……これは照れ臭いな。
「えっと、その……やっぱり『ひゅーが』でお願いします」
「そっ、そうですか?」
「今度ボイチャがあったときに、間違って皆の前で本名を呼ばれたら困るのでっ」
「あっ、そうですよね! じゃあ今まで通りにしますっ!」
綾音さんはグラスを手に取り、ビールを口につけた。今言った理由はあくまで建前。実際のところは、名前を呼ばれるだけで照れる状況は避けたい……という、中学生みたいな理由だったのである。
「ところで、私の名前は言わなくていいですか?」
「ん?」
その時、綾音さんが指を口元に当てて考えていた。俺だけ本名がバレているのは申し訳ない、なんて考えてくれたのかもしれない。でも、この人は事情があるわけだし。
「大丈夫ですよ。綾音さんはあまり自分の情報を知られたくないんですよね」
「えっ? まあ、そうですけど……」
「だから、今教えていただかなくても構いませんよ。本当に結婚することになれば、どうせ分かることですし」
「……」
「綾音さん?」
綾音さんは俯いて黙り込んでしまった。なぜだろうと不思議に思っていると……いきなり顔を上げて、威勢よく声を張り上げた。
「ひゅーがさんはっ、私のことが知りたくないんですかっ!?」
「へっ!?」
「たしかに! 私のために配慮していただいたのはとてもとても有難くて今すぐ結婚したいくらいなんですけどっ!」
「は、はあ」
「興味を持たれないのもそれはそれで寂しいんですっ! もっと私に興味持って! ほらっ! こうやって熟年離婚の危機が始まるんですよっ!」
「ええ……?」
不満そうに唇を尖らせ、やいのやいのと騒ぐ綾音さん。いつの間にか顔が真っ赤になっており、まるで酔っ払いみたいだ。ちょっと面倒くさいけど、これはこれで可愛らしい……なんて思っていると、おばちゃんがビールを載せた盆を持って現れた。
「はい日向くん、ビール持ってきたよ」
「あっ、すいません」
「も~っ! どうせ私は面倒くさい行き遅れ女ですよ~っ! ほらっ、早くお酌してっ!」
「あらあ……私、間違って普通のビール出しちゃったかしら」
「いえっ、この人が変なだけなので……」
「ずいぶん嫁さんに尻に敷かれてること~」
「だから違うんですってー!」
結局、俺が一杯も飲まない間に綾音さんは二本目のノンアルビールも飲み干してしまった。それでも、飲んで食べて楽しそうに過ごしている綾音さんを見ていると、ついついこちらまで幸せを感じてしまう。
また機会があったら一緒に外食に来ようかな、なんて思った俺であった。