ネッ友(自称行き遅れ)の「結婚してくださいよ~」にOKしてみた翌朝、玄関に綺麗なお姉さんがいた 作:古野ジョン
突然に始まった共同生活も、日を重ねるごとにサイクルが固定化されていった。朝早く、綾音さんが家に来てご飯を作ってくれる。俺はそれをいただいてから大学に行き、日によってはバイトなんかをこなしてから家に帰る。
一方で、綾音さんはずっとアパートで仕事をしているらしい。俺が出かけるのを見送った後、いろいろと家事を消化してから集中して作業しているみたいだ。
炊事はともかく、トイレ掃除までしてもらうのは流石に申し訳ないと伝えたのだけれど、綾音さん曰く「そう思っていただけるだけで十分です」ということだそうだ。腕まくりをして一所懸命に便器を磨いている姿を見ると、この人は本当に自分との結婚を真剣に考えているのだと身の引き締まる思いがする。
要するに、俺たちはまるでサラリーマンと主婦の二人暮らしのような生活を送っているのだ。朝は忙しいから、実質的に一緒に過ごせるのは俺が帰宅して綾音さんが山形に帰るまでのほんの数時間だけ。
バイトが長引いたときなんかには、数十分しか会えないこともある。それでも、綾音さんは俺の帰りを待ってくれていて、必ず「おかえりなさい」と言ってくれるのだ。ここ数年間、ずっと無人の家に帰宅していた俺にとって――それはとても幸せなことだった。
***
「ねむ……」
朝七時半、静かに目を覚ます。今日は共同生活が始まってから最初の土曜日。いつもなら昼まで爆睡しているのだけど、綾音さんがもうすぐ来るような気がして……つい起きてしまった。
「ひゅーがさーんっ!」
「ん」
噂をすれば、ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえてきた。ちなみに、綾音さんには既に合鍵を渡してある。一般的に言えば、会って数日の人間に家の鍵を預けるというのは良くないかもしれないけど、今さら綾音さんを疑うような理由も動機も持ち合わせていないしな。
「おはようございまーすっ!」
扉が開く音がして、さらにリズミカルな足音が耳に届く。軽快にステップを踏む綾音さんの姿を想像しながら、俺はゆっくりと布団を出て和室の襖を開いた。
「おはようございます、綾音さん」
「あーっ、やっぱり寝てましたね? このねぼすけさんっ」
「だめですか?」
「土曜だからって寝坊しちゃだめなんですよっ! 早寝早起き早結婚!」
「すいません、いつものくせで」
「スルーしないでっ! くせよりその寝ぐせを気にしてくださいっ」
綾音さんは自分の頭の上を指さしながら、ふんと言って背中を向けてきた。今日は白いふわふわのセーターにジーンズを履いているんだな、シンプルだけどよく似合っている。
しかし――よく考えると、この人は俺よりずっと早く起きているはず。七時半に起きて寝ぐせをつけている俺と、(おそらく)六時前に起きて化粧まで済ませている綾音さん。……大人の女性ってすごいな。
「じゃ、私は朝ごはん作りますねっ」
綾音さんはいつものようにヘアゴムを口にくわえて、長い髪をまとめ始めた。綺麗な黒髪が光を反射して、眩しいくらいに美しく輝く。やっぱり……女性のこういう所作には弱い。
「あのっ、ひゅーがさん」
「はい?」
「いつも見てるの、気づいてますからねっ」
「えっ」
そう言って、綾音さんはクスリと笑みをこぼした。今まで言わないでいてくれただけなのか、と恥ずかしくなってつい赤面してしまう。なんだかんだ言って、やっぱりこの人は年上のお姉さんなんだな。
「も~、意外とむっつりさんですねっ」
「……い、いいじゃないですか」
「私を見るのはいいですけど、他の子をそんな目で見てたら嫌われちゃいますよっ」
「……」
なんか悔しい。大人の余裕がある綾音さんは素敵なんだけど、あんまり子ども扱いされるのも悔しいんだよな。どうせなら、ここは堂々と正面突破するか。
「むっつりついでに、我儘を聞いてもらっていいですか」
「へっ?」
そう呼び止めると、台所に向かおうとしていた綾音さんが振り返った。柱に掛けてあったエプロンを手に取って、今にも羽織ろうとしている。
「なんですか、ひゅーがさん?」
「……お料理の時以外も、ずっとその髪型でいてくれませんか」
「えっ?」
「結んでるの、よく似合ってます。僕はこっちの方が好きです」
「それって……」
困惑したのか、綾音さんは固まってしまう。しかし、間もなく言葉の意味を咀嚼したのか――急に顔を赤くして、俺のもとに駆け寄ってきた。
「べっ、別にただのポニーテールじゃないですかっ! そんなに似合ってないですっ!」
「綺麗ですよ。何がダメなんですか」
「ポニテはあぜ道を自転車で走る女子高生にしか許されない髪型なんですっ!!」
「そんなことはないですけど!?」
綾音さんはポカポカと俺の胸板を叩き、必死に苦情を申し立ててくる。別に痛いということはなく、むしろ可愛らしくて仕方ない。実際、よく似合ってると思うんだけどなあ。
「も~、なんですかっ! 何が目的なんですか!?」
「目的って、別にそんな――」
「分かった、うなじだな!? ひゅーがさんはうなじフェチ、そうなんですね!?」
「違いますけど!?」
勝手にフェチを決められた!? 否定はしないけど! ちょっとうなじフェチだけど!
「それならそうと言ってくださいよっ! ほらっ、いくらでも見せてあげるから早く婚姻届にサインしてくださいっ!」
「ポニテをぴろぴろしないでくださいよ!! 魅力半減じゃないですかっ!!」
「じゃあやっぱりうなじに魅力を感じてるんですね!? このむっつり色男!」
「色男!?」
「どうせ他のうなじにも同じことを言ってるんですよね!?」
「言ってませんっ! っていうか他のうなじってなんですか!?」
「も~~っ! 本当に~~~!」
「あ、綾音さん!?」
「えいっ!!」
――その瞬間、自分の体が温もりに包まれたのを感じた。まるで逃がさないぞと言わんばかりに、力強く抱きしめられる。下を見ると、綾音さんは俺の胸元に顔を埋めていた。
「えっと、綾音さん……」
「……仕方ないから、今日だけはこの髪型でいてあげますっ」
「えっ、いいんですか?」
「でもいつもはだめですっ! お料理するときだけっ!」
「ど、どうして……」
そう問うと、綾音さんは静かに顔を上げた。その頬は赤く、目はやや潤んでいるようにも見える。何か言葉をと思った瞬間――綾音さんが、先に口を開いた。
「飽きられたく、ないんです……」
不安そうな声色。いつも同じ髪型でいると俺の熱が冷めてしまうんじゃないか、と心配しているみたいだ。こう表現していいのかは分からないけど……今の綾音さんは愛らしくて仕方がない。
「綾音さん」
「は、はい……?」
綾音さんの顔をじっと見る。この人の不安を取り除くのに必要な言葉。それは……今の気持ちを正直に打ち明ければ、自然と出てくるはず。
「――飽きるほど一緒にいられるのなら、素敵なことだと思いませんか」
そう言葉にした瞬間、綾音さんが目を見開いた。しばらく何も言わず、ただひたすら俺の瞳を見つめ続ける。そして……絞り出すように、一言。
「……そんなこと言っても、今日以外はダメですからねっ!」
綾音さんは顔を隠すようにエプロンをまとって、台所に向かって歩きだした。照れているのを見られたくなかったのかな、なんて思うとこちらまで照れるような気がする。
小さい背中を見送って、居間の方に歩を進める。今日はいい日になりそうだな。講義がなければバイトもない。そのうえ……綾音さんとずっと一緒に過ごせるんだ。
何もない土曜日なのに、ほのかな喜びを感じた朝であった。