二月。
エ・ランテルの空気はまだ冷たい。だが街の空気は、別の意味でざわつき始めていた。
「……来る」
執務室で書類に目を通していたアインズは、ぽつりと呟いた。
(とうとうついにこの日が来てしまった……)
ナザリックにおいて、“季節行事”とは何か。
それは――守護者たちの忠誠心が、勝手にイベントとして発火する日である。
しかも今回の題材は、最悪だ。
バレンタインデー。
アインズが昔、軽い冗談のつもりで語った“由来”が、
デミウルゴスの中でどのように熟成され、
どのように暴走して帰ってくるか――想像するだけで胃が痛い。
無いはずの胃が。
コン、コン。
控えめなノック。
このタイミングで控えめなのが、逆に怖い。
「アインズ様、失礼いたします」
入ってきたのはセバスだった。
相変わらず淡々としている。
(セバス……癒やし……)
「セバス、どうした」
「はい。街の風習に関するご報告です。
商人たちが“二月十四日”に向け、菓子を大量に仕入れております」
「……もう始まってるのか」
「また、孤児院にも菓子の寄付が集まり始めております」
「それは……良いことだな」
(サンタ再臨の噂が、別方向へ伸びてないといいけど……)
セバスは一瞬だけ言いづらそうに目を伏せた。
「もう一点。
ナザリック内部でも、動きがございます」
「誰だ」
「デミウルゴス殿でございます」
「だろうな!!」
ノックがある。
だが今回は控えめではない。むしろ堂々としている。
コン、コン、コン。
「アインズ様。失礼いたします」
扉が開き、デミウルゴスが入ってきた。
笑顔が完璧すぎて、もう確信しかない。
「アインズ様。来たる二月十四日――
“恋人の記念日”バレンタインデーについて、
守護者一同への周知と準備を進めております」
「進めるな」
アインズは即答した。
「準備するな。周知するな。静かにしてろ」
「かしこまりました」
(かしこまりました、って言いながら止めないやつだ)
デミウルゴスは、資料を取り出す。
背表紙に見える文字で、アインズは目を閉じたくなった。
『恋愛統治起源異聞』
出版社:民明書房
「増やすな!」
「民明書房によれば――」
「言うな!」
「『恋人の記念日とは、共同体における結束の象徴であり、
贈与によって関係を可視化する儀礼である』と」
「儀礼って言うな!!」
(チョコ配るだけの話が、統治学になってる……)
「さらに、以前アインズ様が教えてくださった
“バレンタイン大佐”の逸話」
「やっぱりそこ拾うのか!!」
アインズのツッコミを無視して、デミウルゴスは淡々と続けた。
「私は大図書館で裏付けを取りました。
その結果――大佐の存在は確認できませんでした」
「……え?」
(そこは確認できなくていいだろ)
「ですが」
「ですが、は要らない」
「“大佐が存在しない”こと自体が、
情報操作の可能性を示唆しています」
「最悪の方向に賢いな!?」
アインズは思わず声を上げた。
「お前、ないものを陰謀にするな!」
デミウルゴスは真顔で頷く。
「よって、真の情報は“秘匿されている”。
つまり――アインズ様のお言葉こそが真実」
「やめろォ!!」
(俺の冗談が、真理扱いされてる!)
そこへ、扉が勢いよく開いた。
「アインズ様!!!」
アルベドだ。
目が血走っている。いつも通りと言えばいつも通りだが、今回は特に危ない。
「二月十四日……!
女性が意中の男性に贈り物をし、愛を告白する日……!」
「落ち着け」
「つまり、私がアインズ様に――」
「落ち着けって言ってるだろ!!」
アルベドは胸の前で両手を組み、恍惚とした表情になる。
「アインズ様……。
私の愛を、形として……。
いいえ、形など不要……。
ですが形にするなら……」
「形にするな!!」
(もう手遅れだ)
ふふ、と甘い笑い声が重なる。
「まあまあ、騒がしいでありんすねぇ」
シャルティアが優雅に入ってくる。
その表情はにこやかだが、目が笑っていない。
「バレンタインは、女性が殿方に想いを贈る日。
ならば、わたくしも当然――アインズ様へ、でありんす」
アルベドが即座に睨みつける。
「当然? 当然ですって?」
「ええ。もちろんでありんす。
あなたが“当然”を語るのは少々滑稽でありんすけれど」
「……殺しますわよ」
「まあまあ。鬼は外でありんしたでしょう?」
(節分を引きずるな!!)
アウラが顔を出す。
「ねえアインズ様、バレンタインって、チョコもらえる日なんでしょ?
いいなー! ね、マーレ!」
マーレは小さく頷く。
「た、食べ物……」
(この二人、平和だ……)
パンドラズ・アクターが一歩進み、やたら真剣に言った。
「アインズ様。チョコレートは保存が難しいです。
温度管理、湿度管理、包材の劣化……」
「保存する気か」
「当然です! アインズ様へ贈られる品は、歴史です!」
「歴史にするな!」
コキュートスが深々と一礼する。
「アインズ様。バレンタインデーガ近付イテイルト聞キ及ビマシタ。
内部ノ秩序維持ノ為、事前ニルール設定ガ必要デショウカ。
例エバ、贈与ノ順序、接近距離、衝突回避――」
「戦闘計画みたいに言うな」
「失礼致シマシタ。
……しかし、衝突ハ起コリ得マス」
「起こるな」
セバスが淡々とフォローする。
「アインズ様。必要であれば、当日は動線を確保し、
混乱が起きぬよう調整いたします」
(セバス、ほんと助かる……)
アインズは咳払いをし、場を締めにかかった。
「いいか。
バレンタインは、あくまで……そうだな、文化的行事だ。
過剰に儀式化するな。統治に繋げるな。制度にするな。戦にするな」
デミウルゴスは微笑んだ。
「かしこまりました。
では、“文化的行事”として、適切に運用――」
「運用って言うな!!」
(どうしてもその単語が出るのか)
アルベドは、しっとりと言った。
「アインズ様。
私は過剰に致しません。控えめに致します」
(控えめ=死ぬほど重い、だろ)
シャルティアが、ふふ、と笑う。
「控えめという言葉ほど、信用ならぬものはありんせんねぇ」
「あなたは黙ってなさい!」
「黙りません、でありんす」
(始まった)
その夜。
守護者たちが退室し、ようやく一人になれたアインズは、椅子に沈み込んだ。
「……戦々恐々とは、このことだ」
机の上には、デミウルゴスが置いていった資料。
その一番上に、でかでかと書かれている。
『バレンタイン当日対応フローチャート(暫定)』
「フローチャート作るな!!」
アインズは頭を抱えた。
(これ、当日どうなるんだ……
アルベドとシャルティアは確実にやり合う。
パンドラは保存に走る。
コキュートスは安全規定を作る。
デミウルゴスは民明書房を持ち出す――)
そして、唯一の希望。
(セバスは……ツアレからチョコ、もらえるのか……?)
なぜかそこだけ、少しだけ気になってしまう自分がいる。
(いや、違う。俺は落ち着きたいだけだ)
無いはずの胃が痛む思いで、アインズは深くため息をついた。
「……とうとうついに、この日が来てしまった」