「そろそろバレンタインデーか……」
机上の書類の束を片付けていたアインズは、ふとそんな独り言を漏らした。
「アインズ様……?
バレンタインデーとは、一体、何でしょうか……?」
偶然執務室を訪れていたデミウルゴスが、首をかしげながら尋ねてくる。
完全に独り言のつもりだったが、どうやら聞かれていたらしい。
「ああ、すまない、デミウルゴス。
バレンタインデーとは、私が元いた世界の――とある辺境の国での習慣なのだが……」
アインズは少し照れくさそうに言葉を続ける。
「毎年二月十四日に、女性が意中の男性に“チョコレート”という菓子を贈り、
愛を告白する、という季節イベントのことだ」
(オレには完全に無縁だったけどな!)
心の中で、誰にも聞こえない本音を付け足す。
「だんだんと、そんな時期かと思ってな……」
「……奇妙な風習ですね」
デミウルゴスは、真面目な顔でぽつりと言った。
「それ以外の日に愛を告げては、何か問題や不都合でも?」
「ハハハ……それも、ある意味もっともな意見だな」
アインズは乾いた笑いを浮かべる。
その瞬間、ふと彼の脳裏に、ちょっとした悪戯心が芽生えた。
昔むかし、彼の世界で流行っていた“妙にそれっぽい作り話”のノリが、ひょっこり顔を出す。
(……まあ、少しくらい遊んでもバレないだろ。民明書房ノリで)
「本来、バレンタインデーとはな……
ある宗教の司祭が処刑された日のことなのだよ」
「……処刑、でございますか?」
食いつきの良さに一瞬だけ不安を覚えながらも、アインズは続ける。
「あれは、もうかなり昔の出来事になる……。
敬虔な教徒でもあったバレンタイン司祭は、
当時その国で禁じられていた『恋人同士の結婚』を、密かに祝福していた」
「なぜ結婚が禁じられていたのでしょう?」
「その国の皇帝が言うにはな、
『結婚すると兵士の士気が下がる!』……とかいう理由らしい」
「兵士の士気……」
デミウルゴスは、どこか納得したように、真剣な表情で頷く。
「そんなわけで、勝手に恋人同士を結婚させていたことでそれが罪に問われ、
彼は処刑された。だが、後世の人々は彼の死を悼み、
バレンタイン司祭が亡くなったその日を『恋人の記念日』――バレンタインデーとした。
……大まかには、そういう話だ」
「なるほど……そんな経緯があったのですね」
デミウルゴスは、深く感銘を受けたように目を細める。
(『恋人の記念日』バレンタインデー……
“愛しの男性に贈り物をする日”…!
これは、全守護者――特にアルベド殿たち女性守護者に至急共有し、
徹底周知すべき重要情報ですね!)
心の中でメモを取るデミウルゴス。
先日、民明書房の本から学んだ“ゴルフの秘史”を聞かされたときと同じ種類の輝きが、その瞳に宿る。
アインズは、さらに話を重ねてしまう。
「では、なぜそれが『チョコレートを贈る日』になったのか?
その裏には、こんな逸話がある」
(いや、ここからは完全にネタなんだけどな……)
「かつて、世界を巻き込んだ大戦が終わり、
敗戦国に戦災孤児があふれた頃の話だ。
戦勝国のある将校が、街中をトラックで走り、
そんな子どもたちに、あるお菓子を大量に配って回った」
デミウルゴスの目が、じっとアインズを捉える。
「貧しい孤児たちは、口々にこう叫んだという。
『ギブミーチョコレート!』とな」
「ギブ……ミー……チョコレート……」
聞き慣れぬ異国の言葉を、慎重に舌で転がすデミウルゴス。
「その戦勝国の将校――名を、“バレンタイン大佐”という」
「おお!! さすがはアインズ様!
なんでもご存じなのですね!」
(やばい、ノリだけで言ったネタを、思いっきり信じ始めたな!?)
「……あ、ああ……」
宝石のような瞳をキラキラさせて見上げてくるデミウルゴスに、
今さら「今のは冗談だ、ただのネタだよ」とは、とても言えない。
(どうしよう、これ……どう誤魔化せばいい?)
「至高の御方のまとめ役であられるアインズ様。
その恐るべき叡智と知識――
我ら守護者など、及ぶべくもございません」
(いやいやいやいや、やめろ本気で崇めるな! 余計にまずい!!)
アインズは、無いはずの胃がキリキリと痛む感覚に襲われた。
「デミウルゴス、今の裏話は他言無用だ。
世界の真理や秘密というものはな、
そう容易く一般に広めるものではない」
咄嗟に、いつもの“それっぽい威厳ある言い回し”でごまかす。
「かしこまりました」
デミウルゴスは深々と敬礼すると、そのまま満ち足りた様子で執務室を後にした。
廊下を歩きながら、彼の口元は自然と綻ぶ。
(アインズ様と私だけが知る、世界の真実……。
民明書房の秘められし叡智に続き、
“バレンタイン大佐”の逸話までも……。
ああ……新たな秘密の宝物が、またひとつ……ふふふ……)
どう見ても怪しい笑みを浮かべながら、デミウルゴスは足取り軽く去っていった。
一方その頃――
(あちゃー……本当に、うっかり冗談の一つも言えないな、これ……)
執務室に一人残されたアインズは、
“骨なのに胃が痛い気がする”という理不尽な感覚に耐えていた。