コン、コン、と控えめではあるが、よく通るノックの音が響いた。
「アインズ様、失礼いたします」
「デミウルゴスか。入れ」
促す声に応じて、扉が静かに開く。
姿を現したのは、きちんとした所作で一礼する悪魔――階層守護者デミウルゴスであった。
「アインズ様。
先日お伺いした『恋人の記念日』――バレンタインデーについてですが、
大図書館にて、私なりに改めて調査を行ってまいりました」
「おお、そうか。
なにか新しい発見でもあったか?」
アインズは、椅子に座ったまま肘掛けに腕を置き、
いかにも“支配者の余裕”といった風情で問い返す。
(ついでにホワイトデーのことも、ちょっと仕入れてきてたりするのかな……
ああいう“イベント日”の話は、下手につつくとまた変な方向に拡大するんだよな……)
若干の不安を抱きつつも、表情は常の“威厳ある骸骨”のまま保つ。
デミウルゴスの口角が、ゆっくりと釣り上がった。
眼鏡の奥で、宝石のような瞳がキラリと輝く。
「記念日の元になったという、バレンタイン司祭の一件……。
諸説あるようですが、十分な信憑性を持つ資料は少なく、
どうやら、そもそも存在しない“架空の人物”である可能性が高いようです」
「ふむ?」
「これは一つの仮説ではありますが――
宗教的権威や統治者が、世論を誘導するために創作した“殉教者”であり、
人々の感情を操作するための、作為的な偉人伝……。
そのように見るのが妥当かと」
デミウルゴスは、まるで興味深い実験結果を報告する学者のように、静かに結論を述べた。
「(……あ~……?)」
アインズは心の中で盛大にツッコミを入れる。
(いやまぁ、こっちの世界だと“そういう説もある”って聞いたことはあるけどさ……
オレが適当にしゃべったの、普通に自力で検証しに行くなよ!?)
「そこまで辿り着いたか」
骨の顔には表情が出にくいのを幸いに、
アインズは、いかにも「想定通り」といった風を装って頷いた。
「そうだ。時の権力者が、架空の偉人や感動的なエピソードをでっち上げるのは、
まま、よくあることだからな」
(そうだったのか~、って今自分でも思ってるんだけど!?)
デミウルゴスは、その言葉を聞いて、ゆっくりと目を伏せる。
「アインズ様は、このような様々な手段をもって、
いかに“物語”を通じて民衆の心をつかみ、
望む方向へと導くか――その術を、私に学ばせてくださったのですね」
感極まったように、声にわずかな熱がこもる。
「このデミウルゴス、改めて感謝申し上げます」
深々と頭を垂れる姿は、完全に“弟子が師を崇める図”だった。
「さ、さすがはデミウルゴス。
よく私の真意に気づいたな」
(いや、真意なんて一ミリもなかったんだが!?)
「ありがたきお言葉!」
顔を上げたデミウルゴスの表情は、満面の笑みに変わっていた。
アインズは、どうにか“支配者の貫禄”を崩さないようにしながら、心の中でだけ頭を抱える。
「それと、アインズ様」
デミウルゴスは一呼吸おき、改めて姿勢を正した。
「バレンタインデーには、その“対”となる日――
贈り物をいただいた側がお返しをする日、
『ホワイトデー』なる記念日も設けられているそうですね」
「お、おう……」
(あ、やっぱりそこも掘ってきたか……。
日本カルチャーの浸食力、恐るべしだな)
「様々な文献を調べましたが……
“ある菓子職人組合が販促のために制定した”という俗説から、
“古代の儀礼と砂糖交易の名残”などという説まで、実に多様な説が乱立しておりました」
「そんな説まであったのか……」
(絶対どこかに民明書房が混ざってるだろ、それ)
「しかし、いずれにせよ――
“贈り物を受けた側が、その好意に応える日”という構図だけは、
どの資料にも共通しているようです」
デミウルゴスの口元に、わずかな微笑が浮かぶ。
「そして、偶然にも――今日はちょうど、そのホワイトデーにあたるようですので……」
そう言って、デミウルゴスは恭しく一歩前に進む。
その動きは、まるで舞台で決めの台詞を言う役者のように洗練されていた。
「アインズ様は、ご飲食はなさいませんので、
“白い菓子”をお贈りするのは相応しくないかと考えました。
そこで――代わりと申し上げては僭越ですが……」
黒い翼のようなマントの内側から、彼がそっと取り出したものは――
白い花々で彩られた、ひときわ美しい花束だった。
「これは……白い薔薇か」
アインズは、思わず手を伸ばしかけて、
「あ、骨の指で雑に掴んだら花びら落ちるかな」と一瞬ビビり、慎重に持ち方を修正する。
「たしか、花言葉は……?」
「“純粋な愛”――と、聞き及んでおります」
デミウルゴスは、どこか誇らしげに胸を張る。
「こちらは、我ら守護者一同の総意――
日々、至高の御方から賜る数々の御恩に対し、
ほんの、ほんの一部に過ぎませんが……
その感謝と敬愛の念を、形にしたものでございます」
(うひゃ~……ハードル高い言葉出てきたぞ!?)
アインズの心の中で、ささやかな悲鳴があがる。
「ありがとう、デミウルゴス。
ただ、私はバレンタインデーに、
お前たちにチョコをあげた覚えはないが……?」
恐る恐る、といった風に確認してみる。
「いえ、アインズ様からは――」
デミウルゴスは、穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに首を振った。
「我々は日常的に、
言葉では言い尽くせぬほどの恩恵と機会を頂いております。
ナザリックの安寧、我らを創造してくださった事実、
そして、ときに民明書房の真理や、バレンタイン大佐のごとき世界の秘史をお教えいただけること……」
(あ、それもカウントされるのね!?)
「これは、それらすべてに対する――
極々ささやかな、一つの“お返し”に過ぎません」
その声音は、誇張も嘘もない、純粋な信仰そのものだった。
アインズは、しばし言葉を失う。
(……なんかもう、変なネタも全部ひっくるめて“ありがたい教示”になってる気がするな……)
ふっと、心のどこかで、くすぐったいような、申し訳ないような感情が揺れた。
「……そうか」
短くそう答え、アインズは丁寧に花束を受け取る。
「改めて礼を言おう、デミウルゴス。
そして、他の守護者たちにも伝えておいてくれ。
私は――その気持ちを、確かに受け取ったと」
「かしこまりました」
デミウルゴスは、うやうやしく一礼した。
「それでは、失礼いたします」
静かな足音を残し、執務室を後にするデミウルゴス。
扉が閉まる寸前、横顔に浮かんだ満足げな笑みを、アインズは見逃さなかった。
――扉の外。
ナザリックの廊下を歩きながら、デミウルゴスは抑えきれない笑みを浮かべていた。
(アインズ様と私だけが知る、世界の真実――
民明書房の秘められし叡智に続き、
バレンタイン司祭と大佐、そしてホワイトデーの裏に潜む構造……。
ああ……またひとつ、尊い“秘密の宝物”が増えましたね……)
足取りは軽く、マントがひらりと揺れる。
(次は、他の守護者たちにも――
“適切なタイミング”でこの教えを広めねばなりませんね。
たとえば、来年のバレンタインデーに向けた“準備会”などを設け……
アルベドを中心に、恋慕と忠誠の表現方法についての講義を企画し……)
頭の中では、すでに謎の“バレンタイン&ホワイトデー運用計画”が組み上がり始めていた。
(ふふ……忙しくなりそうですね、これは)
自然とこぼれる笑いを押さえることなく、
デミウルゴスは廊下の角を曲がって消えていった。
一方その頃――執務室では。
「……また一つ、“よくわからない伝説”が積み上がっていく気がするんだが……」
花束を眺めながら、アインズは小さくため息をついた。
白い薔薇の花びらが、ナザリックの冷たい灯りの下で、静かに揺れている。
(ほんとうに……うっかり冗談の一つも言えないな、これ……)
骨にはないはずの胃のあたりを、
なんとなく押さえたくなってしまうアインズであった。