ナザリック地下大墳墓・第九階層。
玉座の間へと続く大広間の手前で、アインズは足を止めた。
「……ふむ?」
いつもは静まり返っているはずの空間から、妙にざわざわとした空気が漏れてくる。
騒がしいわけではない。だが、落ち着いたナザリックには似つかわしくない、微妙な熱気がある。
(なんだ? なにかイベントでもやっているのか?
……いや、イベントと言えば、最近は――)
脳裏に、白い薔薇の花束と、デミウルゴスの満面の笑みがよぎる。
(バレンタイン&ホワイトデー絡みの“何か”だったりしないよな……?)
嫌な予感を抱えつつ、アインズは扉を開いた。
「アインズ様!」
最初に駆け寄ってきたのはアルベドだった。
今日はいつにも増して気合の入った装いだ。普段の黒いドレスに、なぜか胸元には小さな白いリボンが増えている。
「お越しくださり光栄です! ちょうど今、“準備会”の真っ最中でして!」
「準備会……?」
その言葉を反芻した瞬間、すぐ後ろから慣れた声が続く。
「お忙しいところ恐れ入ります、アインズ様。
本日は“バレンタインデー運用に関する事前学習会”の場を設けさせていただきました」
眼鏡を光らせながら一礼するデミウルゴス。
その足元には、整然と並ぶ椅子と机、そしてその上には――
「……資料?」
アインズの視界に、数冊の本と分厚い紙束が飛び込んでくる。
その中でも、とびきり目立つ背表紙が一つ。
『恋愛贈答起源異聞』
出版社:民明書房
(出たな民明書房――!!)
アインズは思わず内心で叫んだ。
「ええ、本日は――」
デミウルゴスが嬉々として説明を始める。
「以前アインズ様からお教えいただいた、
『恋人の記念日』バレンタインデー、並びにホワイトデーについて。
それらを守護者一同が適切に理解し、
今後、忠誠と敬愛の表現に活用していくための指針をまとめる場でございます」
「……そうか」
(まさかここまで話が大きくなっていたとは……)
室内を見渡せば、アルベド、シャルティア、アウラ、マーレが前列に並び、
後方にはコキュートスとソリュシャン、さらにはパンドラズ・アクターまで座っている。
「パンドラズ・アクター、お前までいるのか」
「当然ですとも!
かつての世界における文化イベントの研究は、
わたくしの“ナザリック広報戦略部門”にとっても重要なテーマでして!」
(そんな部門勝手に作るな)
頭を抱えたい気持ちをぐっとこらえ、アインズは無言で頷いたフリをする。
デミウルゴスは、手にしていた分厚い紙束――どうやら自作の資料を掲げた。
「本日の議題は三つです。
一つ、バレンタインデーの歴史的背景と、その“プロパガンダ構造”について
二つ、“ギブミーチョコレート”現象とバレンタイン大佐が残した教訓について
三つ、ホワイトデーと贈答文化の『等価交換原則』について」
「ちょ、ちょっと待て二つ目!」
アインズは思わずツッコミを入れてしまう。
「……バレンタイン“大佐”は、そんな大層な教訓残してないからな?」
「アインズ様、謙遜でいらっしゃいますね」
デミウルゴスが穏やかに微笑んだ。
「“戦災孤児に菓子を配る”という、一見ささやかな行為を通じて、
敗戦国の世代間感情を融和し、長期的な支配構造の礎を築いた――
これは、支配者として極めて重要な示唆に富む行いです」
(やばい、話が勝手に政治学講義レベルに引き上げられてる……!)
「しかも、その名が“バレンタイン大佐”であったこと。
これは、恋人たちの記念日と結びつけることで、
“個人的な幸福”と“国家的安定”をさりげなくリンクさせる、高度な意図を感じざるをえません」
「感じなくていいからな!?」
思わず声が裏返りそうになるのを、アインズは必死にこらえた。
「それと、こちらをご覧ください」
デミウルゴスが、机の上の一冊を持ち上げる。
『恋愛贈答起源異聞』
出版社:民明書房
「……民明書房か」
アインズは思わず低い声を漏らす。
その響きに、デミウルゴスの瞳が一瞬きらりと光った気がした。
「はい。アインズ様から以前お教えいただいた“スポーツ起源異聞”と同じく、
世界の裏側に潜む真実を伝える、選ばれし叡智の書でございます」
(違う、そんなこと一度も言ってない。
“ネタ本だよ”とは言った記憶はあるけど、“叡智の書”って言った覚えはない)
「この書によれば――」
デミウルゴスはページを開き、恭しく朗読を始める。
『本命贈答(ほんめいぞうとう)
古代より続く“戦略的好意表明術”の一種である。
もっとも重き対象にのみ捧げられる贈答であり、
その内容は“砂糖含有率”と“稀少性”に比例して、
想いの強さを示すという。
一方、義理贈答(ぎりぞうとう)は、
戦国の世において血の雨を防いだと言われる調停術の一つであり、
敵対勢力の家臣にも等しく配ることで、
“表面的友好”を演出、公平さを示す役割を果たしていた――』
(……それ、絶対どこかでツッコまれてるやつだと思うぞ)
アインズは、心の底からの確信を込めてそう思った。
しかし、デミウルゴスの表情は至って真剣だ。
「この“本命贈答”と“義理贈答”の区別は――
我々が今後、バレンタインデーを運用するにあたり、極めて重要な概念だと判断しました」
「うむ。たしかに重要だな」
そこに横からすっと割って入ったのは、アルベドだった。
「本命贈答は、当然アインズ様お一人にのみ。
義理贈答は、それ以外の全員に――もしくは、一つも配らなくても構いません」
「それ義理の扱いひどくない?」
アウラが半眼で突っ込みを入れる。
「しかも、“砂糖含有率と稀少性に比例して想いの強さを示す”って……
なんか、やたら物騒な指標じゃない?」
「フム……」
後方で腕を組んでいたコキュートスが、うなり声を上げた。
「強キ 思イホド…… 希少ナ 品ヲ ササグ……。
ツマリ、極メテ 貴重ナ 武具ヤ 魔道具ヲ……?」
「ちがう! それは本気でやめてくれ!」
アインズは即座に制止の声を上げる。
(なんだこのままいくと、来年のバレンタインには
“世界に一つしかないアーティファクト級チョコ”とか作られそうなんだが!?)
「……おっと」
アインズは咳払いをし、場の空気を立て直そうとした。
「民明書房の書はな、“諸説ある”中の一つだ。
真理の一面を示しているに過ぎず、必ずしも唯一絶対というわけでは――」
「なるほど、“真理には多層構造がある”という教えですね」
デミウルゴスが、すかさずまとめた。
「表層の“公式説”と、
民明書房に記されたような“裏側の真実”。
両方を照らし合わせることで、
より立体的に世界を理解できる……と」
(待て、それはそれで正しそうに聞こえるからややこしいんだよ!!)
「さすがアインズ様……
表だっては語れぬ真実と、語っても差し支えない真実――
その使い分けを、我々に示してくださるとは……!」
(違う違う違う! オレそんな深いこと考えてないからな!)
叫びたい衝動を、アインズはどうにか押し殺した。
代わりに、少しだけ声のトーンを落として言う。
「……とにかくだ。
バレンタインとホワイトデーに関しては、“やりすぎない”ことが重要だ」
「やりすぎない……ですか……」
デミウルゴスは、その言葉を慎重に反芻する。
「過度な贈答は、かえって相手に負担を与えかねない。
適切な距離感と、相応の規模で――これが肝要だ」
「なるほど、“やりすぎは逆効果”……。
民衆操作だけでなく、贈答文化においても通じる原則……」
デミウルゴスがうんうんと頷いている横で、
アルベドがそっと手を挙げた。
「アインズ様。
“適切な規模”とは、たとえば――
ナザリックの予算の三割程度まで、というような?」
「そんなわけあるか!! お前は本当に予算の概念をもっと学べ!!」
アインズのツッコミが、ついに声に出てしまった。
ひとしきり騒ぎになったあと――
どうにか「バレンタイン準備会」は、“ほどほどに”という結論でまとまり、散会となった。
守護者たちがそれぞれの持ち場へ戻っていく中、
アインズはそっと民明書房の本に目をやる。
『恋愛贈答起源異聞』
(……たしかに、面白いっちゃ面白いんだけどな)
ページの端には、見覚えのあるような、ないような挿絵付きで、
“本命贈答の極致”やら“義理贈答による戦乱回避”やらが、それっぽく書き連ねてある。
(けど、これを真に受けて行動し始めるデミウルゴスたちを想像すると――
うん、胃が痛くなる未来しか見えない)
「アインズ様」
いつの間にか、デミウルゴスがすぐそばに立っていた。
「本日は、お忙しい中お時間を頂き、ありがとうございました。
おかげさまで、“恋慕と忠誠の表現”についての方針が、
だいぶ明確になってまいりました」
「そ、そうか……」
(明確になっていい方向なのか、それ……?)
「今後も、必要とあらば――
たとえば、“冬に子どもたちへ贈り物をする謎の老人”の話や、
“死んだ者が蘇って街を練り歩く仮装祭”など、
アインズ様の元いた世界の文化について、
ぜひご教授いただければと」
「……」
アインズは、ゆっくりと、実にゆっくりと首を振った。
(それ絶対、クリスマスとハロウィンのことだろ!?
そんなもん民明書房と結びつけられたら、
この世界の宗教観がとんでもないことになるわ!!)
「……機会があれば、な」
そう、極めて曖昧な返答で、お茶を濁すにとどめる。
デミウルゴスは、それでも満足そうに微笑んだ。
「はい。その日をお待ちしております」
恭しく一礼すると、
彼は“新たな運用計画書”と書かれた紙束を大事そうに抱え、廊下の向こうへ消えていった。
アインズは、その背を見送りながら、深く、深くため息をつく。
「……本当に、うっかり雑談一つできないな」
ナザリックの支配者は、静かにそう呟いた。
白い薔薇の花束は、
今もなお、執務室の一角で静かに咲き続けている。