A社1区――A社本社、調律者執務階層。
その中でも一際整えられた空間、クモハタの執務室。
壁際には整然と並ぶ茶葉の瓶。玉露から安価な煎茶まで、種類は異様なほど豊富だ。
室内にはほんのりとした茶の香りが漂っている。
そして――
部屋の隅に、不釣り合いな“異物”が置かれていた。
黒い石板。
光を吸い込むような、鈍い漆黒。
クモハタはそれを横目に見ながら、書類に目を落としたまま呟く。
「……さて、手に入れたはいいけど。どうしようかな、これ」
軽い声色。
しかし、その裏にはわずかな警戒が混じっていた。
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コンコン
「どうぞ」
扉が開く。
マンハッタンカフェ「……失礼します」
ルリ「邪魔するぜ」
テト「おじゃましま〜す」
入ってきたのは三人。
マンハッタンカフェ、ルリ、テト。
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「来たんだね、呼び出しに応じてくれてありがとう」
「ええ……お呼びですか、クモハタさん?」
ルリは腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「おいおい、アタシは最近ヘマしてねえぞ?
この前の調律だって問題なかったはずだが?」
「ウチも心当たりないんだけど〜」
クモハタは小さく笑う。
「うん、別に君たちが何かしたわけじゃないよ。
単純に“今、手が空いてそうな子”を呼んだだけ」
クモハタは穏やかに微笑む。
そして――
「これを見てほしい」
指し示した先。
黒い石板。
「……なんだこれ?」
ルリが眉をひそめる。
テトも興味深げに覗き込む。
「黒い石……?」
その時。
マンハッタンカフェだけが、わずかに表情を変えた。
「……クモハタさん。これは……」
「うん、カフェは知ってるみたいだね」
クモハタは頷く。
「モノリスだよ」
空気がわずかに重くなる。
「モノリス……?」
ルリが繰り返す。
クモハタは淡々と説明した。
「簡単に言えば――人工的に人をねじれにする装置」
「……は?」
ルリの目が鋭くなる。
「今はオフにしてるから安全だけどね」
クモハタは淡々と説明する。
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「人工的にねじれ……そんなの出来るの?」
テトが軽く言うが、その目は笑っていない。
「出来てるから問題なんだよ」
クモハタは続ける。
「B社の監視で、都市各地で関連事件が確認されてる。
それに……いくつかの“翼”や組織が、大量に入手している」
「……それは、いいのですか?」
マンハッタンカフェの問い。
「良くはない。けど――悪くもない」
クモハタの答えは、いかにも“頭”らしいものだった。
「ねじれは人間の定義の一部。
だから基本的に禁忌にはならない。
つまり……何をしようと自由だ」
「つまり――」
テトが肩をすくめる。
「いつも通り“放置”ってこと?」
「現時点ではね。上層部の判断はそうだ」
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「チッ……相変わらずだな。じゃあ、なんでアタシら呼んだ?」
ルリが苛立ち気味に問う。
「意見を聞きたいからだよ」
クモハタは机に軽く指を置く。
「来月の会議で正式議題にする前にね。
モノリスをどう扱うか――そして」
一瞬の間。
「販売元であるリンバスカンパニーへの対応について」
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「リンバスカンパニー……」
マンハッタンカフェが呟く。
「代表ディアスが、“頭”に取って代わろうとしている企業ですね」
「はっ、身の程知らずもいいとこだな」
ルリが笑う。
「まあでもさ〜」
テトが口を挟む。
「反逆ってだけなら禁忌じゃないしね。人間らしくていいじゃん?」
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「その通り」
クモハタは肯定する。
「目的自体は問題ない。だから“頭”は動かない」
そして――
「でも、僕の懸念はそこじゃない」
視線がモノリスへ向く。
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「……どういう意味ですか?」
マンハッタンカフェが続きを促す。
クモハタの視線が鋭くなる。
「このモノリス――」
軽く石板を叩く。
「果たして調律者に効くのか?ということだよ」
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沈黙。
空気が、わずかに張り詰める。
「……それは」
マンハッタンカフェが静かに言う。
「調律者がねじれる可能性、ということですか」
「……試す気じゃねえだろうな?」
ルリの声が低くなる。
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「それはないよ」
即答。
「ねじれは戻せることもあるけど、成功率は低い。
それに――」
少しだけ苦笑する。
「ただでさえ調律者の枠が一人空席の今、減るのは困る」
ガリオンの不在。
誰も口にしないが、重い事実
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「じゃあどうするの?」
テトが首を傾げる。
クモハタは三人を見渡す。
「モノリスを放置するか。
それとも、A社として回収に動くか。その是非を聞きたい」
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テトが最初に口を開く。
「ウチは放置でいいと思うよ〜
禁忌じゃないなら、わざわざ動く理由ないし」
ルリも腕を組んだまま言う。
「まあな。
ただ――もし調律者が巻き込まれた時の対策は必要だ。“戻す手段”は確保しとけ」
マンハッタンカフェも静かに頷く。
「……同意します」
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「分かった」
クモハタは小さく息をつく。
「君たちの意見は上層部にも伝える。
来月、正式に議論しよう。ありがとう、もう下がっていいよ」
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「……では、失礼します」
「おう」
「またね〜」
三人が部屋を後にする。
扉が閉まる。
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三人は退室する。
扉が閉まり、静寂が戻る。
クモハタは再びモノリスを見る。
黒い石板は、何も語らない。
だが――
そこには確かに、“人の心を歪める何か”が宿っていた。
その黒は、光を吸い込むように沈んでいる。
「……調律者がねじれ、か」
小さく呟く。
「考えたくはないけど――」
視線が細まる。
「起こり得る以上、対策は必要だね」
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黒い石板は、何も答えない。
ただ静かに、そこに在るだけだった。