都市のどこか。
表向きには何の変哲もない、薄暗い一室。
だが、そこに流れる空気だけは、裏路地の雑多な気配とは明らかに違っていた。
無駄がない。
乱れがない。
そして、静かだった。
三人の人物がそこにいた。
一人は、座しているだけで場を支配する男。
声を荒げるでもなく、威圧的な仕草を見せるでもなく、ただそこに在るだけで、見る者に“この場の主は誰か”を理解させるような存在感を持っていた。
ジア・チォウ。
小指の天罡星にして、フィクサーとしては“玉麒麟”の名でも知られる男。
都市の実力者を語る時、特色ではないにもかかわらずその名が挙がることすらある、規格外の人物だった。
その傍らには、弟子であり側近でもある二人――ズールゥとズーゴンが控えていた。
最初に口を開いたのは、ズーゴンだった。
ズーゴン「主君、近頃噂の灰色の怪物について……我々はどのように致しますか?」
ジア・チォウは、しばし沈黙したのち、低く答えた。
ジア・チォウ「……灰色の怪物か」
その声音は静かで、感情の波を表には出さない。
だが、ただ無関心というわけでもないことが分かる声だった。
ズールゥが補足するように続ける。
ズールゥ「おそらく、セブン協会北部支部が発信元と思われる情報が入ってきました。灰色の怪物の配達ルートです」
一拍置いてから、彼女は淡々と結論を添えた。
ズールゥ「セブン北部支部長の性格を考えると、我々と灰色の怪物の接触が狙いかと」
ジア・チォウは否定しなかった。
ジア・チォウ「……彼の者の実力は把握している」
少しだけ目を伏せる。
ジア・チォウ「敵対すれば、俺でも勝てるかは怪しい……が」
ズーゴンが静かに続けた。
ズーゴン「敵対する可能性は低いかと。あの者の特徴は既に有名ですから」
ズールゥも頷く。
ズールゥ「小指の百八の席のうち、現在いくつか空席はございます」
ズーゴンが問いかける。
ズーゴン「では、勧誘しますか?」
その問いに対して、ジア・チォウはすぐには答えなかった。
彼は力を持つ者だった。
だが同時に、力をどう使うべきかを知る者でもあった。
ジア・チォウ「……今、俺たちがすべきは、乱れている小指の仁を立て直すことだ」
その一言で、部屋の空気がさらに引き締まる。
ジア・チォウ「故に、勧誘はあくまで怪物の意思を尊重しろ。強制は仁義に反する」
そして、静かに言い切る。
ジア・チォウ「最後まで断れば、諦める」
ズールゥは短く頭を下げた。
ズールゥ「承知しました」
ジア・チォウは今度はズーゴンへ視線を向ける。
ジア・チォウ「ズーゴン。接触するなら、交渉の上手いお前だ。灰色の怪物が単独でいる時に行け」
ズーゴンは迷いなく頷いた。
ズーゴン「仰せのままに」
その言葉に、無理はない。
ズーゴンはジア・チォウの弟子であると同時に、戦場よりも交渉の場に強い女だった。
柔らかく話し、相手の警戒を解き、気づけばこちらの理屈を受け入れさせる。そういう才覚があった。
そして、この件にはその手の才が必要だと、ジア・チォウは見抜いていた。
灰色の怪物は単純だ。
だが、単純であるがゆえに、雑に扱ってはならない。
誠意を示し、筋を通し、それで断られるなら引く。
それが、小指としての“仁”だった。
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ヂェーヴィチ協会、西部支部。
その頃、当の灰色の怪物は、まったく別の意味で平和だった。
ナイスネイチャが書類を確認しながら声をかける。
ナイスネイチャ「じゃあオグリさん、今日の配達もよろしくね」
オグリキャップはいつも通り頷いた。
オグリ「ああ、任せてくれ」
ネイチャは少し肩をすくめる。
ナイスネイチャ「いやぁ、まさかタマモさんが風邪引くとはね。めっちゃ悔しがってた姿を見るの、久しぶりだったよ」
オグリは少し真面目な顔になる。
オグリキャップ「ならタマの分まで配達しないとな。頑張るぞ」
ナイスネイチャ「うんうん、その意気その意気」
ネイチャは柔らかく笑ってから、改めて指を立てた。
ナイスネイチャ「それじゃあオグリさん。単独配達時の約束、確認するよ」
オグリが素直に姿勢を正す。
ナイスネイチャ
「ひとつ、怪しい人にはついていかない」
「ふたつ、まっすぐ帰ってくる」
「みっつ、危なくなったら逃げる」
「良い?」
オグリキャップはきちんと頷いた。
オグリキャップ「わかった。約束だな」
ネイチャ「なら良いね。行ってきて」
オグリキャップ「行ってきます」
タッタッタッ――と軽やかな足音が遠ざかっていく。
それを見送りながら、ネイチャはぽつりと呟いた。
ナイスネイチャ「……オグリさんってほんとうに最近、幼女気質が加速してるよね」
もちろん本人はまったく自覚がない。
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数時間後。
M社13区、裏路地。
配達を終えたオグリキャップは、荷物のない両手を軽く振りながら帰路についていた。
オグリキャップ「よし、配達も終わったし、まっすぐ帰ろう。ネイチャとの約束だからな」
言いながら走るその姿は、傍目にはただ真面目な配達員にしか見えない。
都市中の勢力が注目している怪物だなどと、誰が思うだろうか。
その時。
前方に、人影が見えた。
オグリキャップはぴたりと足を止める。
オグリキャップ「む……」
街路の先に立っていたのは、一人の女だった。
細い目。
長く濃い赤髪。
手には軍配。
立ち姿にはどこか柔らかい余裕があり、いかにも“話ができる人間”という雰囲気があった。
オグリが警戒と礼儀のちょうど中間くらいの調子で尋ねる。
オグリキャップ「君は?」
女はすぐに一礼した。
ズーゴン「どうも、灰色の怪物。私はズーゴンという」
オグリキャップ「ヂェーヴィチ協会のオグリキャップだ。よろしく頼む」
初対面でいきなり自然に挨拶する。
もはやそれはオグリキャップの揺るがぬ個性だった。
ズーゴンは、そこで無理に笑わなかった。
ただ、少しだけ柔らかく目を細める。
ズーゴン「これはご丁寧に……ヂェーヴィチ協会に向かっていた途中ではあったのだが、まさか道中で会えるとは奇遇だな」
オグリ「ヂェーヴィチ協会に用があったのか?」
ズーゴン「正確には、そなたにだ」
オグリキャップ「私に?」
ズーゴンは回りくどい言い方をしなかった。
ズーゴン「うむ。率直に言おう。そなた、副業をする気はないか?」
オグリキャップは目をぱちくりさせた。
オグリ「副業……?」
ズーゴン「簡単に言えば、そなたのフィクサーとしての仕事を残したまま、別の仕事も並行して行うのだ。有り体にいえば、私の仕事を手伝ってほしい」
オグリは少し考えた。
オグリ「手伝うか……私は難しいことは苦手なんだ。それにネイチャが、怪しい人にはついて行くなと……」
ズーゴンはそこで話を無理に押し通さなかった。
ズーゴン「ならば、私の身分を話せば考えてもらえるか?」
オグリは納得したように頷く。
オグリ「そうか、自己紹介だな」
ズーゴン「その通り」
ズーゴンは一歩だけ踏み出し、静かに告げた。
ズーゴン「……私は五本指のひとつ、小指の天機星という役職についている」
オグリ「小指……?」
ズーゴン「左様。小指だ」
そして、さらに率直に言う。
ズーゴン「有り体に言えば、そなたを小指に勧誘したい」
オグリはすぐには返事をしなかった。
だが、それは警戒しているからではなく、単純に母親の言葉を思い出していたからだ。
オグリ「む……でも母さんが、指にはあまり関わるなと言っていた。それはできない……」
その返答を聞いて、ズーゴンは内心で少し感心した。
この怪物は単純だが、母親の言葉だけは決して軽く扱わない。
ならばそこを正面から壊しにいくのではなく、両立できる形を出すべきだ。
ズーゴン「ふむ。よくできた母親だな」
ズーゴンはすぐに別案を出した。
ズーゴン「ならこうしよう。そなたに小指の席のひとつを与えるが、普段は関わらなくて良い」
オグリが首を傾げる。
オグリ「関わらなくていい……?」
ズーゴン「たまに呼び出しをする時はある。だが、そうでない時はフィクサーとして普通に働くのも自由だ。……あくまで副業であるからな」
オグリの頭の中で、少しずつ整理されていく。
オグリ「つまり……どういうことだ?」
ズーゴンは根気よく説明した。
ズーゴン「そなたは普段はヂェーヴィチ協会に所属したままで良い。必要な時だけ、小指として働いてもらう。それ以外では、こちらからは一切接触しない……これでどうだ?」
オグリキャップの一番気になっている点は、そこだった。
オグリ「……フィクサーの仕事はやめなくていいのか?」
ズーゴン「左様」
ズーゴンは頷く。
ズーゴン「小指であることを口外しなければ、ずっと続けて良い」
オグリは少し考えたあと、あっさりと言った。
オグリ「……分かった。それなら構わない」
オグリキャップはチョロかった。
ズーゴンは表情を崩さなかったが、内心では交渉成立を静かに確認していた。
やはり、この怪物は“奪う”より“譲る”方が早い。
ズーゴン「では、そなたに小指の証である烙印を授ける。肩を出しなさい」
オグリ「ああ」
オグリは何の疑いもなく袖をまくり、肩を見せた。
ズーゴンはそこへ、小さな儀式めいた手順を踏んで印を刻む。
ズーゴン「では刻むぞ」
熱も、痛みも、ほとんどなかった。
だが、肩には確かに小指の証が残っていた。
ズーゴンは説明を続ける。
ズーゴン「呼び出す時は、この烙印が熱を帯びる。それが合図だ。それ以外は、いつも通り過ごして良い。それと、小指でのそなたの階級は地孤星だ。まあ、あまり深くは考えずに仕事をすれば良い」
オグリは素直に頷いた。
オグリ「わかった」
ズーゴンはもう一つだけ付け加えた。
ズーゴン「本来なら、小指の武器である星刀も渡したいのだが……今日は勧誘のみだ。後日、改めて渡すことにしよう」
オグリ「ああ、わかった」
そして最後に、ズーゴンは少しだけ声を低くする。
ズーゴン「今日の出来事は内緒だ。約束であるぞ」
オグリはそれを聞いて、いつものように頷いた。
オグリ「分かった。約束だな」
ズーゴンは一礼し、その場を去っていった。
残されたオグリキャップは、しばらく肩の印を見つめてから、いつもの調子で呟いた。
オグリ「……よく分からないが、呼ばれたらあの人の仕事を手伝えばいいんだな。ひとまず今は、帰るとしよう」
そして本当に、何事もなかったかのように帰路につく。
こうして灰色の怪物は、
ヂェーヴィチ協会所属の特色フィクサーであり、
F社理事の孫娘であり、
都市中の人脈をつなぐ情報の結節点であり、
さらに――
小指・地孤星の属性まで得ることになった。
……もう情報過多である。