ウマ娘×ProjectMoon   作:桜餅 ステラ

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切り捨てる

chapter:始まる地獄

セブン協会本部、協会長室。

 

都市中の情報が集まり、精査され、価値へと組み直される場所。

普段のこの部屋は静かだが、死んではいない。

 

誰かが端末を叩き、誰かが記録を読み上げ、誰かが別の区の資料を引っ張り出す。

目に見える喧騒こそ少ないが、常に頭脳が回転し続けている部屋だった。

 

けれど今は違った。

 

静か、ではない。

 

息を呑んでいるのだ。

 

壁面の情報投影盤は普段通り明滅している。

都市各地の動向、翼の公開記録、裏路地の抗争履歴、協会間の接触ログ。

情報は変わらず流れ続けているのに、この部屋にいる者たちだけが、その流れから一瞬切り離されたように固まっていた。

 

部屋の中央。

協会長席にいるトランセンドが、いつになく静かな顔で言ったからだ。

 

「…ということで、来期のセブン協会の予算が四分の一消えることになりました」

 

一拍。

 

誰も、すぐには理解しなかった。

 

いや、理解はした。

ただ、脳がそれを現実として受け取るのを拒んだ。

 

フォーエバーヤングが最初に口を開く。

 

「……冗談?」

 

その声は笑っていなかった。

いつもの軽口ではなく、確認だった。

 

トランセンドは即答する。

 

「違う」

 

エアシャカールの喉がわずかに動く。

 

「……まじか?」

 

「まじ」

 

フリオーソの手元のペン先が止まったまま、微動だにしない。

 

「ハナ協会から?」

 

「ハナ協会から」

 

ビリーヴが静かに、だがわずかに強張った声で言う。

 

「つまり……」

 

トランセンドは一度だけ目を伏せた。

 

「人員整理」

 

その瞬間だった。

 

空気が落ちた。

 

ただ重くなったのではない。

床が抜けたように、全員の感覚が一段下へ落ちた。

 

フォーエバーヤングの顔から血の気が引く。

 

エアシャカールの肩が跳ねる。

 

フリオーソが息を止める。

 

ビリーヴの瞳が初めて、はっきり揺れる。

 

カレンチャンだけは数秒遅れて首を傾げたが、その意味を理解すると笑顔の角度がわずかに下がった。

 

「今までみたいな仕事は」

 

トランセンドは容赦なく切る。

 

「無理」

 

そこでエアシャカールが立ち上がった。

 

椅子が床を擦る音が、部屋の静けさを乱暴に裂く。

 

「いやふざけんな!!」

 

声が低い。

怒鳴っているのに、妙に低い。

本気で怒っている時の声音だった。

 

「なんでフィクサー一人に俺らの仕事持ってかれんだよ!?」

 

フォーエバーヤングも机に身を乗り出す。

 

「まじまじまじ!? 総予算の四分の一削減!? 人員整理!? リストラ!?」

 

彼女の声は普段より高かった。

それがそのまま動揺の大きさだった。

 

フリオーソが顔を青くしたまま、半歩前に出る。

 

「いくらなんでも不味すぎます!協会の規模縮小なんて前代未聞です! しかもセブン協会で!?」

 

ビリーヴは声量こそ変わらなかったが、逆にそれが怖かった。

 

「……非常事態ですね、対応を急がなくては」

 

淡々としている。

だがよく見れば、書類を持つ指先に力が入りすぎて白くなっていた。

 

カレンチャンが小さく呟く。

 

「うーん……全っ然カワイくないかな♡」

 

その声音すら、いつもの軽さが少し薄い。

 

エアシャカールが即座に吐き捨てた。

 

「今その感想しか出ねぇのかよ!」

 

「だって全然カワイくないもん!」

 

「そういう話じゃねえ!」

 

怒鳴り返しながらも、シャカールの額には薄く汗が滲んでいた。

 

彼女は理詰めの人間だ。

だからこそ、この話のどこが最悪なのかを一瞬で理解していた。

 

予算四分の一削減。

 

それは装備更新の延期とか、出張費の削減とか、そういうかわいい話では終わらない。

 

セブン協会の資産は情報だ。

だが情報は、勝手に整理されない。

現地に行く者。

読み解く者。

照合する者。

報告書に落とす者。

他協会や翼へ安全に流す者。

 

全部、人間だ。

 

そして都市で一番重い経費は何か。

そんなもの、誰でも知っている。

 

人件費だ。

 

エアシャカールが歯を食いしばる。

 

「つーかなんでそうなった!?セブン協会の情報業は単なる収集だけじゃなくて、分析や流通なんかも請け負ってるんだ! それをオグリキャップただ一人に請け負えるわけ……!」

 

その叫びは反論というより、ほとんど願望だった。

 

だがトランセンドは、その願望を現実で切り落とすしかない。

 

「分析はディエーチ協会や顧客が自ら行えるケースも多いから、わざわざセブンがする必要なくね? って言われたよん……」

 

静まり返る。

 

ビリーヴが、苦い薬を噛み潰すみたいに続けた。

 

「加えて、流通もオグリさんを通せば素早く、しかもほぼ直接的に届きますからね……」

 

カレンチャンが小さく指を折る。

 

「オグリさんって、ご飯ひとつで動くんだよね〜♡」

 

一拍。

 

「あれ、詰み?」

 

その言葉に、フォーエバーヤングが本気で頭を抱えた。

 

「詰みって言うな!えっ待って、リストラさせるの!? 本当に!? 人員整理!? 給料カット!? 大量失職!?」

 

言葉がどんどん具体的になる。

 

それはつまり、彼女の頭の中に浮かんでいるものも具体的だということだった。

 

西部支部の机。

よく走る現地調査員。

無茶ぶりに付き合う分析員。

夜中まで端末叩いてる部下。

軽口叩いて笑ってた連中。

 

その誰かに、自分が言わなければならない。

 

君の席、なくなるかも。

 

フリオーソもとうとう声が揺れた。

 

「……協会長、流石に人員整理は早計では……」

 

その言い方は理性的だった。

だが表情が理性的ではなかった。

 

秘書として、彼女は組織の人員配置を知っている。

どこが過剰で、どこが限界か。

誰が抜けたらどの部署が死ぬか。

誰を残したら誰を切るしかなくなるか。

 

知っているからこそ、この言葉はほとんど懇願だった。

 

トランセンドはそれを理解していた。

理解した上で、逃げなかった。

 

「でもさ〜……」

 

口調だけは努めて軽くする。

 

「組織運営で一番削りたいのってどこだと思う?」

 

誰も答えたくなかった。

 

だが沈黙は、逆に答えを肯定するだけだった。

 

エアシャカールが先に言う。

 

「……人件費だな」

 

フォーエバーヤングが続く。

 

「人件費かな……」

 

カレンチャンが、今度はまったく楽しそうでなく言った。

 

「人件費♡」

 

フリオーソが目を伏せたまま。

 

「人件費ですね」

 

ビリーヴも短く。

 

「人件費かと」

 

トランセンドは、そこでようやく息を吐いた。

 

「……そういうことなんだよ」

 

その一言が、部屋にいる全員の逃げ道を塞いだ。

 

予算四分の一減。

 

情報組織。

 

設備を削っても限界がある。

外部契約を切っても焼け石に水。

残るのは何か。

 

人。

 

人を減らすしかない。

 

その現実が、ようやく全員の腹の底まで落ちた。

 

フォーエバーヤングがソファに座り直す。

いや、座り直したというより、力が抜けて落ちたに近かった。

 

「……西部、かなり削られるよね」

 

トランセンドは答えない。

 

だが、それが答えだった。

 

エアシャカールは立ったまま拳を握る。

 

「ふざけんな……南部ようやく立て直してきたとこなんだぞ……」

 

その声には怒りだけじゃなく、焦りと、もっと嫌なものが混じっていた。

 

自分の支部が消えるかもしれない。

自分の下にいる連中を守れないかもしれない。

 

理屈じゃなく、組織の長としての恐怖だった。

 

フリオーソはメモを見つめたまま、ほとんど独り言みたいに呟く。

 

「本部人員を優先保全するなら支部から切るしかない……でも支部を削れば現地調査が落ちる……現地調査が落ちたらセブンの価値が落ちる……価値が落ちたら次の査定でまた削られる……」

 

完全に負のループだった。

 

ビリーヴは静かに言った。

 

「……人を減らせば質が落ちる。ですが減らさなければ回らない」

 

それは組織運営の残酷な真理だった。

 

誰も反論できない。

 

カレンチャンが珍しく少し真面目な顔で言う。

 

「カレン的には、削るならカワイくない仕事から削りたいけど……」

 

エアシャカールがすぐ睨む。

 

「それどこだよ」

 

カレンチャンは少し考える。

 

「……事務?」

 

フリオーソが反射で言い返す。

 

「だめです。真っ先に情報流通が詰まります」

 

「現地?」

 

「だめです。一次情報が死にます」

 

「分析?」

 

ビリーヴが首を振る。

 

「だめです。セブン協会がセブン協会でなくなります」

 

カレンチャンが黙る。

 

そのやり取りが、逆に何も削れない現実を浮き彫りにしていた。

 

トランセンドは椅子にもたれ、目元を押さえる。

 

「……まじで、どこ切っても死ぬんだよね」

 

それは愚痴ではなく報告だった。

 

フォーエバーヤングが低く言う。

 

「じゃあどうするの」

 

トランセンドはしばらく黙ってから答えた。

 

「……改革するしかない」

 

その言葉に、全員が顔を上げる。

 

「オグリさんと真正面から殴り合うのはもう無理。だから、“オグリじゃできない情報仕事”に寄せる」

 

エアシャカールが腕を組み直す。

 

「動的相関分析か」

 

「そ。現場で拾うだけじゃなくて、“都市全体の流れ”を読む方に寄せる」

 

ビリーヴも頷く。

 

「本部の機能は強化せざるを得ませんね」

 

フリオーソがまだ青い顔のまま言う。

 

「……でも、それまで持つんですか」

 

トランセンドは、その問いにすぐ答えられなかった。

 

それが全てだった。

 

持つ保証なんてない。

改革が成功する保証もない。

削減が止まる保証もない。

 

それでも、やるしかない。

 

トランセンドはゆっくり立ち上がった。

 

「……持たせるよ」

 

その言葉だけは、少しだけ協会長の声に戻っていた。

 

「セブン協会、ここで潰すわけにいかないから」

 

フォーエバーヤングも、ようやく頷く。

 

「……わかった。西部、やれること全部やる」

 

エアシャカールも低く言う。

 

「南部もだ」

 

ビリーヴは静かに手帳を開いた。

 

「本部は即日再編案を作ります」

 

フリオーソは息を整える。

 

「……わかりました。私も動きます」

 

カレンチャンは小さく笑った。

 

「じゃあカレンも、カワイイの方向で生き残る方法考えるね♡」

 

エアシャカールが頭を抱えた。

 

「その方向で本当に生き残れんのかよ……」

 

だが、誰ももう笑わなかった。

 

今この場にいる全員が、理解していた。

 

これは単なる危機ではない。

 

**初めて協会そのものが“切る側”に立たされる危機**だ。

 

敵に誰かを殺される方がまだ分かりやすい。

他組織と抗争する方がまだ単純だ。

 

だが、予算削減は違う。

 

自分たちの中から、誰かを減らす。

守るべき部下を、自分たちの判断で失わせる。

 

それはセブン協会の幹部たちにとって、

戦闘よりよほど怖い種類の戦いだった。

 


chapter:嫌う地獄

予算が四分の一消える。

 

その一言の重みは、時間が経つほど増していった。

 

最初は誰もが、規模縮小だの再編だの、そういう大きな言葉で現実を捉えようとしていた。

だが、組織に長くいる者ほど分かっている。

 

そういう言葉は、最後には必ず具体に変わる。

 

誰が残って。

誰が外れて。

どの課が縮んで。

どの席が消えるのか。

 

それが、組織運営というものだった。

 

トランセンドが「人件費」と口にしたあと、部屋の中は妙に静かになっていた。

 

誰も、次の言葉を言いたがらない。

 

誰もが同じ結論を思い浮かべてしまったからだ。

 

**こういう時に最初に切られるのは、たいてい一番下だ。**

 

つまり――

各支部の6課。

 

西部も。

南部も。

北部も。

そして東部も。

 

その認識が、まるで毒みたいにゆっくり部屋に広がっていく。

 

フォーエバーヤングが、さっきまでの勢いを失った声でぽつりと呟いた。

 

「……6課、だよね」

 

誰もすぐには返事をしなかった。

 

だが沈黙は、否定ではなかった。

 

エアシャカールが歯を食いしばる。

 

「……普通に考えりゃ、そうだ」

 

ビリーヴも目を伏せた。

 

「本部機能を維持するなら、末端課から調整が入る可能性は高いですね」

 

フリオーソの顔色が変わる。

 

「……やめてください」

 

その声は、珍しくはっきり感情が乗っていた。

 

「言葉にすると現実になります」

 

トランセンドは何も言えなかった。

 

なぜなら、彼女自身も今、同じことを考えていたからだ。

 

西部6課。

南部6課。

北部6課。

東部6課

 

そして、頭の中に“課”ではなく“顔”が浮かぶ。

 

西部の、無駄に声が大きくて、でも聞き込みの足だけは異様に速い子。

報告書は雑なのに、現場の勘だけで厄介な案件を掘り当てる子。

文句を言いながらも徹夜で資料整理して、朝になると机で寝ている子。

 

南部の、理屈っぽい上司に振り回されながらも、地道に数字を拾ってくる子。

失敗するとすぐ顔に出るのに、再調査だけは絶対に投げない子。

支部で一番遅く帰るくせに、次の日も同じ顔で出勤してくる子。

 

北部の、カレンチャンの無茶ぶりに付き合わされてる子。

「カワイイって何ですか」と本気で悩みながらも、結局その対象について誰より詳しくなる子。

現場よりも人間観察の方がうまくて、でも自分の評価には鈍い子。

 

セブン協会にいる以上、全員が超一流というわけではない。

むしろ荒削りな者も多い。

若い者もいる。

未熟な者もいる。

 

だが、だから切っていいわけではない。

 

むしろ、そういう者たちを育てて、使える情報屋に仕上げていくのが支部の役目だったはずだ。

 

それを今、自分たちは。

 

“予算が減るから下から切るしかない”

 

と、自然に考えてしまっている。

 

その事実が、幹部たち自身を傷つけた。

 

フォーエバーヤングが、両手で顔を覆った。

 

「……やだ」

 

誰に聞かせるでもない、素の声だった。

 

「アタシ、今普通に西部6課の子らの顔思い浮かんだ」

 

誰も笑わない。

 

エアシャカールも、珍しく荒い口調をやめていた。

 

「……オレもだ。南部6課、ようやく使い物になってきた奴いるんだよ。数字は遅ぇけど聞き込みは妙に筋がいいのが。切るとか言われても、じゃあそいつの何を切るんだよ……」

 

ビリーヴが静かに息を吐く。

 

「僕も、本部預かりの若手が何人か浮かびました。集中力が長く続かない子。報告の文章が下手な子。整理が遅い子。……ですが皆、少しずつ良くなってきていたんです。それを“費用対効果が悪い”の一言で切るのは……」

 

最後まで言えなかった。

 

フリオーソは、手元のメモ帳をぎゅっと握りしめていた。

 

「……東部6課にもいます」

 

彼女はずっと秘書役として動いているが、当然、課の人員も知っている。

 

「調査に出ると帰ってくるたび服を汚してくる子とか、資料の山に埋もれながらも毎回期限は守る子とか……まだ2級にもなれない、でも真面目にやってる子たちです。なのに今、私は一瞬でも“6課なら仕方ない”って思いました」

 

その声は震えていた。

 

「最低です……」

 

カレンチャンは、しばらく黙っていた。

 

彼女は普段、他の者たちとは少し違う軸で動いている。

カワイイ。

それが彼女の最優先だ。

 

だが、その彼女ですら、この空気の重さから逃げられなかった。

 

「……北部6課にもいるよ」

 

その声は思ったより静かだった。

 

「マヤノちゃんみたいに目立つ子ばっかじゃないもん。カレンが“この子ちょっと良いかも”って思う前に、たくさん走って、たくさん調べて、ちゃんと報告上げてる子たち、いるもん」

 

一拍。

 

「その子たちから切るの、カワイくない」

 

今までのどの“カワイくない”よりも、重い言葉だった。

 

トランセンドは、その全てを黙って聞いていた。

 

協会長である以上、最初に冷静でいなければならないのは自分だ。

そう思っていた。

 

だが、無理だった。

 

彼女の頭の中にも、何人もの顔が浮かんでいる。

 

自分が引っ張り上げた支部長たち。

支部長たちの下で育っている課員たち。

書類上はまだ“数”でしかない名前が、全員ちゃんと人の顔をしている。

 

都市では、人は簡単に切り捨てられる。

協会だって例外ではない。

 

そんなこと、最初から知っていた。

 

知っていたはずなのに。

いざ自分がその判断を下す側になると、想像以上にきつい。

 

トランセンドがぽつりと言う。

 

「……ウチさ」

 

全員が彼女を見る。

 

「今、普通に考えてた」

 

誰も口を挟まない。

 

「西部と南部と北部と東部、どこの6課からならまだ被害が少ないか、とか」

 

自嘲の混じった笑いが漏れる。

 

「最低だね」

 

フォーエバーヤングが顔を上げる。

 

「違う」

 

その声は弱いが、はっきりしていた。

 

「最低なのは、そう考えなきゃいけない状況」

 

エアシャカールも低く続ける。

 

「……ああ。考えた時点で終わりじゃねぇ。考えねぇと守れねぇんだからよ」

 

ビリーヴも静かに頷いた。

 

「自己嫌悪は当然です。ですが、それで思考停止してしまえば、本当にただ削るだけになります」

 

フリオーソが唇を噛む。

 

「……じゃあ、どうするんですか」

 

その問いに、部屋の空気がもう一度張り詰めた。

 

これはもう、単なる絶望確認ではない。

次の一手を決める問いだ。

 

トランセンドは少し長く黙っていた。

 

それから、ゆっくり言った。

 

「……決めた」

 

その声には、痛みも迷いも残っていた。

だが同時に、協会長としての芯も戻っていた。

 

「誰を切るか、じゃなくて。**誰も切らないために、何を捨てるか**から考える」

 

フォーエバーヤングが目を見開く。

 

エアシャカールも顔を上げる。

 

トランセンドは続けた。

 

「支部の6課から削るのが一番“普通”なんだろうね。だからこそ、そこを最後に回す。業務の整理、案件の選別、外注停止、設備更新延期、非中核部門の統廃合、役職手当の調整……まずは人以外を全部洗う」

 

ビリーヴがすぐに反応する。

 

「……できますか」

 

トランセンドは正直に答えた。

 

「全部では無理かもしれない。でも、最初から6課を生贄にするよりはマシだ」

 

その言葉に、フリオーソの目が少しだけ潤む。

 

カレンチャンも小さく言った。

 

「そっちの方がカワイイ」

 

エアシャカールが鼻を鳴らす。

 

「……珍しくまともなこと言うじゃねぇか」

 

「カレンはいつもまともだよ♡」

 

「はいはい」

 

少しだけ。

本当に少しだけ。

 

部屋の空気に息が戻る。

 

まだ何も解決していない。

四分の一削減は消えない。

最悪、人員整理が必要になる未来だって残っている。

 

それでも。

 

最初に切るのは6課

という一番安易で残酷な結論に、今この場では飛びつかない。

 

そう決められただけでも、大きかった。

 

トランセンドは最後に、壁面の投影盤を見上げた。

 

都市の情報は相変わらず流れ続けている。

そのどこかで、灰色の怪物は今日も何も知らない顔で誰かと繋がり、何かを運び、何かを変えているのだろう。

 

そのことに、少しだけ腹が立った。

 


chapter:決まる地獄

深夜。

 

協会長室の灯りは、まだ落ちていなかった。

 

いや、協会長室だけではない。

本部の上層、その一角だけがまるで昼を忘れたみたいに白く明るい。

 

普段なら、この時間はようやく一日の情報整理が終わりかける頃だ。

夜更けまで端末を叩く者は珍しくない。

都市の情報は、朝も夜もなく流れ続けるのだから。

 

だが、今夜の残業はいつもと意味が違った。

 

都市の謎を追っているわけではない。

翼や指の裏を取っているわけでもない。

ねじれ現象の後処理でもなければ、どこかの組織の抗争を追跡しているわけでもない。

 

今、セブン協会幹部たちが向き合っているのは――

**自分たちの部下の名簿**だった。

 

協会長室の大机には、端末と紙資料が山になっている。

支部別人員一覧。

課ごとの稼働率。

案件処理数。

人件費。

役職手当。

固定支出。

削減可能項目。

削減不能項目。

 

情報屋らしく、数字は綺麗に並んでいる。

綺麗すぎて、かえって残酷だった。

 

トランセンドは机に肘をついたまま、目の前のリストを見下ろしていた。

 

その視線の先にあるのは、ただのデータではない。

 

西部1課。

西部2課。

西部3課。

西部4課。

西部5課。

そして、西部6課。

 

南部。

北部。

東部。

 

どの支部も同じように、いちばん下に6課がある。

 

そして、この都市でこういう時に最初に切られるのがどこか。

そんなことは、もう全員わかっていた。

 

協会長室には、トランセンド以外にもまだ人が残っていた。

 

フォーエバーヤング。

エアシャカール。

ビリーヴ。

フリオーソ。

カレンチャン。

 

全員、帰っていない。

 

帰れるわけがなかった。

 

誰も大声は出していない。

誰も怒鳴っていない。

ただ、紙をめくる音と端末を操作する音だけが、妙に乾いて響いていた。

 

フォーエバーヤングが先に沈黙を破る。

 

「……ねえ」

 

その声が、普段よりずっと小さい。

 

「西部6課、三人減らした場合の試算もう一回出して」

 

ビリーヴが端末を操作する。

投影盤に数字が出る。

 

* 西部6課 三名整理

* 西部全体人件費削減率 7.8%

* 西部支部総稼働率低下 12.4%

* 現地一次調査能力低下 18.1%

 

フォーエバーヤングが目を閉じた。

 

「……だめじゃん」

 

誰も「そうだね」とは言わなかった。

言わなくても分かるからだ。

 

西部6課は、確かに支部の中では末端に近い。

だが末端だから価値がないわけではない。

 

むしろ雑多で細かい現場、他課が拾わない断片、足で稼ぐ下地の情報。

そういうものは、往々にして6課が拾ってくる。

 

そこを削れば、支部全体の“地面”が薄くなる。

 

それでも、削るならまずそこから。

そう計算が言ってしまう。

 

エアシャカールも、自分の前の一覧から目を離せなかった。

 

南部6課。

名前の横に、等級、勤続年数、担当分野、過去半年の案件処理記録。

 

どれも見覚えのある名前だった。

 

ひとりは、数字の処理は遅いくせに現場で人を見る目だけは妙に鋭い新人。

ひとりは、報告書が固くて読みにくいが、嘘だけは絶対に書かない若手。

ひとりは、要領が悪くてよく残っているが、そのぶん人の嫌がる後処理を黙って引き受ける子。

 

数字の上では、真っ先に“調整対象”に入りうる。

 

だが、シャカールにはもう顔が浮かんでいた。

 

昼休みに一人でパンを齧ってた姿。

詰めるとすぐ顔に出るくせに、再調査だけは食らいついてきた夜。

「次はもう少しうまくやります」と言って、次の日ほんとうに少しだけ改善してきた時の顔。

 

エアシャカールは舌打ちした。

 

「……くそ」

 

それは誰に向けたものでもない。

数字か、自分か、状況か、もうわからなかった。

 

フリオーソは東部の名簿を見たまま、ずっと無言だった。

 

彼女は秘書役だ。

本来ならこういう時、一番冷静に手続きを進める側に回らなければならない。

 

だからこそ、余計につらい。

 

画面の中の名簿が、もう名簿に見えない。

 

東部6課。

まだ5級にも届かない者たち。

調査報告の文章がたどたどしい者。

資料整理は遅いくせに、期日だけは守る者。

自信がなくて声が小さい者。

それでも命じられた仕事だけはちゃんとやる者。

 

彼女はふと、自分が以前赤を入れた報告書のことを思い出した。

誤字だらけで、論理の飛躍も多くて、正直ひどい出来だった。

でも最後にだけ、妙に丁寧な字で

 

**「次はもっと読みやすくします」**

 

と書かれていた。

 

その次の報告書は、本当に少しだけ良くなっていた。

 

そんなことまで思い出してしまう。

 

フリオーソの視界が滲む。

 

「……っ」

 

慌てて目元を押さえる。

 

泣くわけにはいかない。

まだ決定ではない。

まだ計算だ。

まだ数字だ。

 

それでも、涙腺はそんな理屈を聞かない。

 

カレンチャンは、北部の一覧を見つめたまま珍しく喋らなかった。

 

普段の彼女なら、こんな重い空気の中でもどこかで自分のテンポを崩さない。

けれど今は、それができない。

 

北部6課。

カレンが“カワイイ”に目をつける前に、その対象の身辺を洗い、噂を拾い、写真にも文字にもならない空気感を報告書に落とし込む子たち。

 

目立たない。

評価も高くはない。

でも、いなくなれば北部支部の下地が確実に痩せる。

 

カレンチャンがぽつりと呟く。

 

「……カワイくない」

 

誰も反応しない。

 

「こういうの、全然カワイくない」

 

その声は、普段みたいな軽い可愛さの話ではなかった。

ただ純粋に、嫌だと言っていた。

 

ビリーヴだけは、最後まで手を止めなかった。

 

だが、彼女が冷静だから平気なわけではない。

 

むしろ逆だ。

 

数字を見れば見るほど、救いのない現実が明確になる。

 

人件費以外の削減。

設備更新延期。

対外交際費削減。

非中核支出停止。

支部間統合。

役職手当見直し。

外部委託停止。

残業規制。

補助制度縮小。

 

全部入れても、まだ足りない。

 

そして足りない分を埋めるのは、結局――人しかない。

 

ビリーヴが静かに言った。

 

「……再計算、出ました」

 

誰もすぐに返事をしない。

 

それでも、聞かなければならない。

 

トランセンドが顔を上げた。

 

「言って」

 

ビリーヴは投影盤を中央へ出した。

 

そこには、何通りかの削減案が並んでいた。

 

A案。

人員整理最小、全体減給大。

B案。

減給中程度、支部6課中心の整理あり。

C案。

支部統廃合込み、整理大、減給小。

 

そして、そのどれもが“痛い”。

 

ビリーヴの声は静かだった。

 

「もっとも現実的なのはB案です」

 

その一言で、空気がまた沈む。

 

フォーエバーヤングがかすれた声で訊いた。

 

「……どれくらい?」

 

ビリーヴは答えた。

 

「各支部6課を中心に、少なくない人員整理。加えて、残存人員への段階的減給」

 

フリオーソが息を呑む。

 

エアシャカールが目を閉じる。

 

カレンチャンはリボンをいじる手を止める。

 

トランセンドだけが、言葉の続きを待った。

 

逃げずに聞くしかない。

 

ビリーヴは最後まで言い切る。

 

「概算上、どう調整しても」

 

「決して少なくないリストラ、あるいは広範な減給は避けられません」

 

沈黙。

 

誰も、すぐには動けなかった。

 

それは予想していた結論だった。

予想していたはずなのに、

**確定の形で言われると、まったく別の重さになる。**

 

フォーエバーヤングが、ついに机に突っ伏した。

 

「……やだ」

 

それは支部長の声じゃなかった。

ただの、人としての声だった。

 

エアシャカールも椅子に深く腰を落とす。

 

「……くそ」

 

短い一言に、怒りも、無力感も、自己嫌悪も詰まっていた。

 

フリオーソはとうとう眼鏡を外した。

 

目元を押さえながら、声を殺す。

 

「……ごめんなさい」

 

誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。

 

部下にか。

自分にか。

守れないことそのものにか。

 

カレンチャンは、いつもの笑顔が完全に消えていた。

 

「……カレン、こういうの嫌い」

 

ビリーヴは目を伏せたまま、手帳を閉じる。

 

彼女もまた平気ではない。

ただ、役割として崩れないだけだ。

 

トランセンドは、しばらく何も言わなかった。

 

協会長として決断しなければならない。

だが今はまだ、その言葉を口にしたくなかった。

 

数字の向こうにいるのが、ただの人員ではなく、

全部知っている顔だったからだ。

 

西部6課。

南部6課。

北部6課。

東部6課。

 

名前を見れば、仕事の癖がわかる。

報告書の癖がわかる。

歩き方すら想像できる。

 

それを“切る側”に、自分はなってしまった。

 

トランセンドがようやく口を開く。

 

「……今日は、ここまで」

 

誰も反論しなかった。

 

「最終決定はまだしない。でも、この数字から目を逸らさないで」

 

その声は疲れていた。

けれど、逃げてはいなかった。

 

「明日もやる。全員、自分の支部と本部の再編案を持ってきて……少しでも、切る人数を減らす方向で」

 

それだけ言うのが精一杯だった。

 

幹部たちは、誰からともなく立ち上がる。

 

だが誰もすぐには部屋を出ていけない。

 

机の上にはまだ名簿が残っている。

名簿のまま見ていたいのに、もう顔にしか見えない。

 

セブン協会は今、情報危機ではなく、

**人の危機**に立っていた。

 


chapter:決める地獄

 

翌朝。

 

セブン協会本部は、いつも通りに朝を迎えていた。

 

受付には職員が立ち、廊下には資料を運ぶ足音が響き、端末には夜明け前から集まり続けていた都市の情報が流れ込んでいる。

翼の動向。

裏路地の小競り合い。

どこかの組織の人員移動。

協会への新規依頼。

 

世界は何ひとつ止まっていない。

 

都市は今日も、何事もなかったみたいに回っている。

 

――だが、セブン協会の上層だけは違った。

 

協会長室の扉が開くたび、入ってくる者たちの顔色が揃いも揃って悪い。

 

最初に来たのはビリーヴだった。

いつもなら寸分の乱れもない身なりも、今日は完璧に整っているのに、目の下だけがわずかに暗い。

 

その後にフリオーソが来る。

こちらはもっと分かりやすかった。

髪も服装もきちんとしている。

だが寝ていない顔をしている。

たぶん一度もまともに眠れていない。

 

エアシャカールは扉を開けるなり、機嫌の悪さを隠しもしなかった。

いや、機嫌が悪いというより、疲れていた。

怒る気力で無理やり立っている顔だ。

 

フォーエバーヤングも、珍しくテンションが低い。

いつもの明るさで無理に入ってこようとして失敗した、みたいな中途半端な空気を纏っている。

 

カレンチャンは比較的表情こそ崩れていなかったが、それでもやっぱり普段より静かだった。

リボンを指先で弄る癖が、いつもより少し多い。

 

最後にトランセンドが入ってきた。

 

全員がそちらを見る。

 

協会長として、たぶん一番寝ていない顔だった。

 

目の焦点は合っている。

歩き方もしっかりしている。

だが、それだけだ。

 

一晩で立て直した顔ではない。

 

一晩、名簿と試算と再編案と睨み合い続けて、結局まだ答えが嫌なまま朝を迎えた顔だった。

 

トランセンドは席につくと、誰にも「おはよう」を言わずに開口一番こう言った。

 

「……寝れた人」

 

沈黙。

 

誰も手を挙げない。

 

トランセンドは小さく頷いた。

 

「だよね」

 

それだけで、部屋の全員が今の空気を共有した。

 

昨夜は悪夢だった。

でも朝になれば、少しは現実味が薄れるかもしれないと、どこかで思っていた。

 

実際は逆だった。

 

朝になったことで、もっと現実になった。

 

今日も部下たちは普通に出勤してくる。

いつも通り仕事の話をする。

いつも通り報告書を持ってくる。

いつも通り次の案件の相談をしてくる。

 

そして上にいる自分たちは、その誰かを切る話をしている。

 

その事実が、夜より朝の方がよほどきつかった。

 

ビリーヴが静かに口を開いた。

 

「……各支部、再編案を持ってきました」

 

誰もその声に救われなかった。

 

むしろ、“案が揃った”ことがさらに現実を進めてしまう。

 

フォーエバーヤングが、自分の端末を開きながら言う。

 

「……西部、固定費から洗った」

 

「設備更新、出張枠、雑費、非中核の外注、手当……削れるとこ全部削った」

 

一拍。

 

「それでも足りない」

 

その言葉で、全員がまた少し沈む。

 

エアシャカールも続ける。

 

「南部も同じだ」

 

「現場の回転落ちるの覚悟で案件選別も荒くした。だが、結局、人件費のラインは避けきれねぇ」

 

フリオーソは資料を見ながら、小さな声で言った。

 

「東部もです。本部補助と連携しても、6課周辺を一切触らない案だと、赤字幅が埋まりません」

 

カレンチャンも、珍しく簡潔だった。

 

「北部も無理」

 

その短い一言の重みが、逆にきつかった。

 

トランセンドは目を閉じて、それからビリーヴを見る。

 

「本部案」

 

ビリーヴは頷き、淡々と報告した。

 

「本部主導での再編、役職手当の見直し、昇給凍結、設備投資延期、外部契約縮小、全支部案件再配分――」

 

「それらを最大限適用しても、なお不足です」

 

その“なお”が重い。

 

ビリーヴは感情を排したまま続ける。

 

「昨夜の概算と大きくは変わりません」

 

「規模の大小はあれど、**人員整理あるいは広範な減給は不可避**です」

 

トランセンドは何も言わない。

 

誰も言えない。

 

昨夜の時点では、まだどこかで

 

“もしかしたら奇跡的に、数字の組み替えで誰も切らずに済むんじゃないか”

 

という希望があった。

 

だが今朝、その希望は終わった。

 

全員が案を持ち寄り、

全員が寝不足の頭で何度も見直して、

それでも結論が変わらない。

 

**人員整理をするしかない未来**が、確定したのだ。

 

フォーエバーヤングが、乾いた声で笑った。

 

「……なんかさ」

 

誰も顔を上げない。

 

「昨日の夜はまだ、“もしかしたら”があったんだよね。でも朝になって、全員が同じ結論持ってくるの、ほんと最悪」

 

エアシャカールが低く吐き捨てる。

 

「最悪だな」

 

フリオーソは資料を持つ手が震えていた。

 

「……つまり、もう“誰も切らない”は選べないんですね」

 

その問いに、トランセンドは数秒黙った。

 

答えたくない問いだった。

 

けれど協会長として、曖昧にはできない。

 

「……うん」

 

短い一言。

 

だがそれだけで十分だった。

 

カレンチャンが、机の上に視線を落としたまま言う。

 

「カレン、やだな。知ってる子がいなくなるの」

 

その言葉は、誰の胸にも刺さった。

 

知ってる子。

 

それが全てだった。

 

数字じゃない。

人件費じゃない。

定員でもない。

 

知ってる子。

名前を呼べる子。

顔を知ってる子。

仕事の癖を知ってる子。

 

その誰かが消える。

 

セブン協会の幹部たちは、初めてそれを現実として飲み込まなければならなかった。

 

ビリーヴが、珍しく少しだけ声を落として言う。

 

「……まだ、整理か減給かの配分は選べます。全てを解雇で賄う必要はありません」

 

それは慰めのつもりだったのかもしれない。

 

だがフォーエバーヤングは首を振る。

 

「でもそれって逆に、残る側の給料も削るってことでしょ……みんな傷つくじゃん」

 

誰も否定しない。

 

残すために減らす。

減らさないために広く薄く削る。

 

やり方は違っても、痛みがあるのは同じだった。

 

トランセンドは、机の上の支部6課一覧を見る。

 

西部6課。

南部6課。

北部6課。

東部6課。

 

一番下。

いちばん守られにくい場所。

いちばん最初に調整対象にされやすい場所。

 

そして、たぶん今日から本格的に、そこに赤線を引く議論が始まる。

 

胃の奥が重くなる。

 

協会長になってから、修羅場はいくらでもあった。

大きな抗争。

翼との対立。

指絡みの厄介事。

ねじれの後処理。

 

けれど今、目の前にある仕事は、そのどれよりも嫌だった。

 

敵を潰す話ではない。

味方を減らす話だ。

 

トランセンドはようやく、低く言った。

 

「……じゃあ、始めようか」

 

誰も返事をしない。

それでも、全員が端末を開く。

 

始めるしかないからだ。

 

セブン協会はこの朝、

寝不足のまま、

顔色の悪いまま、

誰もそれを望んでいないまま、

 

**人員整理をするしかない未来**へ、正式に足を踏み入れた。

 

そして部屋の隅の窓から差し込む朝日だけが、妙に綺麗だった。

 

まるで、この部屋の地獄とは無関係みたいに。


chapter:捨てる地獄

 

一晩かけて洗い出した削減案。

設備更新の延期。

外注停止。

役職手当の見直し。

支部案件の再配分。

昇給凍結。

非中核予算の削減。

 

削れるものは削った。

削りたくないものまで削る前提で試算した。

それでも、足りなかった。

 

結論は残酷なまま変わらない。

 

**人員整理、あるいは広範な減給は不可避。**

 

だから今、この部屋にいる者たちは、ついにその先へ進まなければならなかった。

 

つまり。

 

**誰の名前を削るか。**

 

その領域へ。

 

協会長室の中央に、四支部六課の名簿が並んでいる。

 

西部六課。

南部六課。

東部六課。

北部六課。

 

どれも紙でも端末でも見られるようにしてあるのに、誰もすぐには手を伸ばせなかった。

 

数字として見れば簡単だ。

等級、実績、処理件数、評価、稼働率。

 

だが、もう誰にもそれが数字に見えない。

 

全部、顔だった。

 

トランセンドが、最初に口を開こうとして――失敗した。

 

「……」

 

喉が詰まる。

 

協会長なのだから、自分が始めなければならない。

そう分かっているのに、最初の一人目を口にすることだけが、どうしてもできなかった。

 

フォーエバーヤングがそれを見て、代わりに名簿を引き寄せた。

 

「……アタシが言う」

 

声が震えていた。

 

誰も止めない。

止めたところで、誰かが言わなければ進まないからだ。

 

フォーエバーヤングは西部六課の一覧を見つめる。

 

一人目。

二人目。

三人目。

 

全員、知っている。

 

その中の一つの名前の上で、指が止まる。

 

「……この子、かな」

 

ほんの小さな声だった。

 

だが、その瞬間。

 

トランセンドが目を閉じた。

ビリーヴが視線を落とした。

フリオーソが息を呑む。

 

フォーエバーヤング自身が、言った直後に唇を噛む。

 

「……っ、いや、違う」

 

「違う違う、だめ、無理」

 

さっきまで出しかけた名前を、自分で否定する。

 

「この子、この前さ……西部の工房荒らしの案件で、朝まで張り込んで、報告書ぐちゃぐちゃだったけど、最後だけちゃんと犯人の癖掴んでたんだよ……」

 

「ようやく使い方わかってきたのに……」

 

そこで、声が途切れた。

 

涙が落ちる前に、彼女は顔を逸らした。

でも遅かった。

 

完全に泣いていた。

 

エアシャカールが低く舌打ちして、自分の南部六課一覧を引き寄せる。

 

「……オレがやる」

 

シャカールは理屈の人間だ。

数字に強く、感情を切って判断することを誰より重視してきた。

 

だからこそ、自分ならやれると思ったのかもしれない。

 

だが、一人目の名前を見た瞬間にだめだった。

 

「……」

 

その子は、報告の精度は低い。

処理速度も遅い。

数字だけ見れば、切る理由は作れる。

 

だが。

 

南部で一番遅くまで現場に残る。

失敗しても逃げない。

何度詰めても翌日ちゃんと来る。

無茶振りしても、顔を曇らせながら最後にはやる。

 

シャカールは、名前を読み上げるより先に拳を握った。

 

「……くそ」

 

それしか出ない。

 

それから、やっと言葉になった。

 

「こいつ……たしかに遅ぇし不器用だし、数字で見りゃ一番下だ」

 

「でも、切ったら絶対南部の底が抜ける……」

 

彼女は目元を押さえた。

泣くまいとしたのが、余計に分かった。

 

「……ふざけんなよ」

 

それは支部でも、協会でも、オグリでもなく、

たぶんこの状況そのものに向けた言葉だった。

 

フリオーソは、もう最初からだめだった。

 

東部六課の一覧を開いた時点で、眼鏡の奥が潤んでいた。

 

秘書役として、彼女は誰よりも“整理”の現実を知っている。

だからこそ、昨夜から一番覚悟していたはずだった。

 

でも、覚悟と実行は別だ。

 

「……この子」

 

かろうじて名前を指先で示す。

 

「書類、遅いんです」

 

「要点まとめるのも下手で……何度も赤を入れました」

 

一拍。

 

「でも、次はもっと読みやすくします、って毎回書くんです……」

 

そこで、もうだめだった。

 

声が崩れる。

 

「本当に、少しずつ良くなってたんです……」

 

「切るならここ、って、理屈では分かるのに……」

 

眼鏡を外して、完全に泣いた。

 

ビリーヴが静かに手を伸ばし、代わりに資料を整える。

だが、彼もまた平静ではなかった。

 

本部長である彼女は、誰よりも広く見なければならない立場だ。

個別の情だけで動けば組織が死ぬ。

 

そう分かっている。

 

だからこそ、余計に苦しい。

 

彼女は北部六課の補助名簿、本部連携枠、教育対象者一覧を順に開いていく。

 

「……切るなら、ここが最も“効率が良い”です」

 

言った瞬間、自分で嫌悪したのがわかった。

 

効率が良い。

 

人に向ける言葉ではない。

 

それでも、組織運営ではそういう言葉を使わないといけない。

 

ビリーヴは一度言葉を切ってから、続けた。

 

「ですが、この子は集中力こそ短いものの、初動の現場把握だけは突出しています」

 

「この子は記録速度が遅いですが、誤記が少ない」

 

「この子は……」

 

だめだった。

 

一人ずつ長所が言えてしまう。

 

切る理由より先に、残す理由が口をついて出る。

 

ビリーヴは手で口元を覆った。

肩がほんの少しだけ震えていた。

 

泣いているのか、泣くのを止めているのか、見分けがつかないくらい静かな崩れ方だった。

 

カレンチャンは、北部六課の名簿を見つめたまま、ずっと沈黙していた。

 

やがて、その中の一つの名前をなぞる。

 

「……この子」

 

誰も口を挟まない。

 

「この子、カレンが“この件カワイくないから調べて”って雑に投げた時も、ちゃんと持ってきてくれた」

 

「カワイさとか分かんないのに、一生懸命調べて、“たぶんここが支部長の言うカワイくないです”って報告してきた」

 

ふっと笑いそうになって、笑えない。

 

「かわいかったんだよ」

 

その一言で、彼女の目からぽろっと涙が落ちた。

 

「なのに切るの、やだ」

 

シンプルで、子供みたいな言い方だった。

 

けれど、それがこの部屋の本音だった。

 

トランセンドだけが、まだ誰の名前にも手をつけていなかった。

 

協会長だからだ。

 

最終的に線を引くのは自分だ。

だからこそ、最後まで逃げていた。

 

でも、もう逃げられない。

 

全員が泣いた。

全員が涙目になった。

全員が名簿を前に、理屈と情の間で崩れた。

 

そのうえで、それでも進めなければならないのは自分だ。

 

トランセンドは、ゆっくりと西部六課と南部六課、東部六課、北部六課の一覧を並べた。

 

そして、一番上に表示された数字を見る。

 

足りない額。

削減目標。

残せる総額。

 

冷酷な数字は、誰が泣いていようが変わらない。

 

「……ごめん」

 

その一言を、誰に向けたのか分からないまま呟く。

 

そして、ようやく一本、印をつけた。

 

その瞬間、部屋の空気が止まった。

 

フォーエバーヤングが息を飲む。

フリオーソが目を見開く。

エアシャカールが俯く。

カレンチャンが口元を押さえる。

 

トランセンド自身も、手が震えていた。

 

一本引いたら終わりじゃない。

足りない。

 

もう一本。

もう一人。

いや、数人。

 

全員が理解している。

 

**これは一人で済まない。**

 

その事実が、何よりきつかった。

 

部屋の中で、誰かが堪えきれず嗚咽を漏らした。

たぶんフリオーソだった。

いや、フォーエバーヤングかもしれない。

もう区別がつかない。

 

ビリーヴも顔を逸らしている。

エアシャカールは目元を腕で押さえていた。

カレンチャンは静かに泣いていた。

 

そしてトランセンドは、泣きながら線を引いていた。

 

協会長としての仕事。

そう呼ぶには、あまりにも地獄だった。

 

やがて、概算整理案の最終ラインが表示される。

 

* 少なくない人員整理

* 残存人員への段階的減給

* 支部六課の縮小

* 一部課の再編統合

 

もう否定できない。

もう希望的観測では動かない。

 

**決して少なくないリストラ、あるいは減給が確定した。**

 

その結論だけが、協会長室に重く残った。

 

誰もその瞬間、何も言えなかった。

 

泣いても、涙目になっても、自己嫌悪に沈んでも。

それでもセブン協会の幹部たちは、自分たちの手で部下の席を減らした。

 

都市の情報を扱ってきた者たちが、最後に向き合わされたのは、

いちばん見たくなかった“自分たちの内側の切断”だった。


chapter:伝える地獄

その日。

 

人員整理は決まった。

 

何度見直しても。

何度数字を組み直しても。

誰が泣いても。

誰が名簿を握り潰しそうになっても。

 

決まったものは、決まった。

 

削減対象。

縮小される課。

減給対象。

再編される支部運用。

 

数字の上では、もう整理されている。

 

けれど、それは紙の上の話だった。

 

本当に地獄なのは、そのあとだ。

 

**本人たちに伝える瞬間。**

 

---

 

西部

 

西部支部の会議室は、いつもより少しだけ静かだった。

 

フォーエバーヤングは、支部長席に座ったまま、手元の紙を見下ろしていた。

 

その紙に書いてあるのは、たった数行だ。

整理対象。

減給対象。

支部再編の概要。

 

たったそれだけなのに、読もうとすると喉が詰まる。

 

対面には、西部6課の職員たちが並んで座っていた。

 

まだ若い子もいる。

西部でようやく仕事の流れを掴み始めた子もいる。

何度か失敗しながら、それでも食らいついてきた子もいる。

 

みんな、支部長に呼ばれた理由をうっすら察していた。

 

でも誰も、口を開かなかった。

 

フォーエバーヤングは一度目を閉じ、それから言った。

 

「……ごめん」

 

その一言で、もう支部長失格だった。

 

本来ならもっとちゃんとした手順で、もっと整理された言葉で、もっと上司らしく伝えるべきなのだろう。

 

でも無理だった。

 

「来期の予算削減で……西部支部も再編が入る」

 

「その関係で……6課は縮小になる」

 

「整理対象、出る」

 

最後の一言だけ、ほとんど絞り出すような声だった。

 

沈黙。

 

誰かが怒鳴ってくれた方が、まだ楽だった。

ふざけるなと。

なんでだと。

今まで何を見てきたんだと。

 

そう責められた方が、まだ“切る側”として立っていられた。

 

けれど、返ってきたのは違った。

 

一人の課員が、少しだけ困ったように笑った。

 

「……そっすか」

 

フォーエバーヤングの胸が、ひどくざわつく。

 

その子は続けた。

 

「まあ、最近支部の空気おかしかったんで、なんとなくそんな気はしてました」

 

そして、何でもないことみたいに言う。

 

「大丈夫っすよ。西部でやってきたことあるし、事務所か別協会あたってみます」

 

別の子も、小さく頷いた。

 

「私も……再就職先、探してみます」

 

「情報整理の補助とかなら、たぶん拾ってくれるところありますし」

 

「ヤング支部長、そんな顔しないでください」

 

そんな顔しないでください。

 

その言葉で、フォーエバーヤングの何かが切れた。

 

「……むり」

 

ぽつりと漏れる。

 

「そんな顔、するに決まってんじゃん……」

 

笑おうとして失敗する。

声が震える。

目元がもうどうにもならない。

 

「アタシが切るのに、なんでそっちが気ぃ遣ってんの……」

 

そこで完全に涙腺が壊れた。

 

西部支部長としてではなく、ただの一人の上司として泣いた。

 

課員たちは誰も責めなかった。

 

むしろ逆に、慌てていた。

 

「ちょ、ヤング支部長、そんな泣かないでくださいよ」

 

「俺ら別に恨んでないっすから」

 

「そうです、こういうの都市じゃ珍しくないですし……」

 

その慰めが優しすぎて、余計にだめだった。

 

---

 

南部

 

エアシャカールは、通告の場でも一番最後まで平静を保とうとしていた。

 

保たなければならないと思っていた。

 

感情で喋るな。

理屈で話せ。

数字を示せ。

納得はされなくても、理解はさせろ。

 

そう自分に言い聞かせていた。

 

だが、南部6課の面々が座った瞬間に、その理屈の半分くらいはどこかへ飛んだ。

 

知っている顔しかないからだ。

 

詰めると顔を青くする子。

再提出を何度も食らった子。

でも結局、誰一人逃げなかった子たち。

 

シャカールは紙を見たまま言った。

 

「……予算削減だ」

 

「南部も、人員を維持できねぇ」

 

「6課は整理が入る」

 

短く、必要なことだけ。

 

それでも、言い終えた瞬間に胃がひっくり返りそうになった。

 

数秒の沈黙のあと、一人の課員が静かに言った。

 

「……わかりました」

 

怒りも、取り乱しもない。

 

ただ、受け止めようとしている声だった。

 

「南部で学んだこと、無駄にしないようにします」

 

「他所でも食っていけるよう、ちゃんと探してみます」

 

また別の子が言う。

 

「支部長、今までありがとうございました」

 

シャカールは、その言葉で完全に想定が崩れた。

 

なんで礼を言う。

 

なんでそこで感謝が出る。

 

なんで怒らない。

 

「……やめろ」

 

低く言う。

 

だが声が詰まる。

 

「そういうの……今言うな」

 

それでも課員は困ったように笑うだけだった。

 

「だって、事実ですから」

 

「支部長、怖かったですけど、ちゃんと面倒見てくれたじゃないですか」

 

それで終わった。

 

シャカールは顔を背けた。

 

腕で目元を押さえる。

喉の奥が熱い。

舌打ちで誤魔化そうとしても無理だった。

 

「……くそ」

 

「なんでお前らの方が、オレより大人なんだよ……」

 

南部支部長は、その日、部下の前で声を詰まらせた。

 

---

 

東部

 

ビリーヴとフリオーソは、最初から無理だった。

 

協会長室で振る舞うのと、東部6課の面々を前にして通告するのとでは、話が違いすぎた。

 

彼女たちは紙を持ったまま、数秒間、何も言えなかった。

 

東部6課の子たちは、そんな彼女を見て、もう半分理解していた。

 

一人が小さく言う。

 

「……私たち、ですか?」

 

その問いに、ビリーヴは頷くしかない。

 

「……はい」

 

「来期、再編が入ります」

 

「その影響で……東部本部6課も、人員整理の対象になります」

 

言えたのはそこまでだった。

 

課員たちは目を伏せたり、唇を噛んだりした。

ショックを受けていないわけではない。

 

けれど、怒りより先に出てきたのは別の言葉だった。

 

「……2人が謝ることじゃないです」

 

「そうですよ、上が決めたことなんですし」

 

「それに、私たちまだ若いですから。他探します」

 

その言葉に、2人は耐えられなかった。

 

「ごめんなさい……」

 

「本当は、もっと……」

 

もっと守りたかった。

もっと育てたかった。

もっと時間をかければ伸びたはずだった。

 

全部、言葉になる前に涙で潰れる。

 

課員たちは逆に慌てていた。

 

「ちょ、そんな……!」

 

「私たち、本当に大丈夫ですから!」

 

「減給で残る人たちの方がきついですし……!」

 

その“残る人の方がきつい”という気遣いまで飛んできて、2人の涙腺は完全に終わった。

 

東部の通告は、最終的に、

**切る側が一番泣いている**

という最悪の形で終わった。

 

---

 

北部

 

カレンチャンは、最初から最後まで笑顔を作ろうとしていた。

 

だが、失敗した。

 

北部6課の面々を前にした瞬間、いつもの“カワイイ支部長”の仮面が明らかにずれた。

 

「……ごめんね」

 

その一言から始まった時点で、もうだめだった。

 

課員たちは驚いていた。

カレンチャンがこんな前置きをすること自体、珍しいからだ。

 

「カレン、こういうの全然カワイくないと思ってるんだけど」

 

「でも、予算削減で……北部も整理しないといけなくて」

 

「6課、縮小になるの」

 

その“縮小”というやわらかい言い方が、逆に痛々しい。

 

課員たちも察して、静かに聞いていた。

 

一人が言う。

 

「……わかりました」

 

「北部でやってきたこと、他でも活かせるよう頑張ります」

 

また一人。

 

「支部長、今までありがとうございました」

 

カレンチャンの目から、ぽろっと涙が落ちた。

 

本人も落ちたあとで気づくくらい自然だった。

 

「……やだ」

 

その声は、完全に仕事の声ではなかった。

 

「みんな、いなくなるのやだ」

 

それを聞いた課員たちが、逆に困ったように笑う。

 

「いや、支部長……」

 

「泣かないでくださいよ」

 

「カレン支部長がそんな顔すると、こっちまでつらいです」

 

その優しさが、完全に止めを刺した。

 

北部支部長は、その日、

“カワイイ”の何たるかではなく、

別れのしんどさで泣いた。

 

---

 

本部・夜

 

通告が終わって、本部に戻った頃には。

 

全員、もう限界だった。

 

トランセンド。

フォーエバーヤング。

エアシャカール。

フリオーソ。

ビリーヴ。

カレンチャン。

 

誰もまともな顔をしていない。

 

怒鳴られたわけでもない。

罵られたわけでもない。

恨まれたわけでもない。

 

むしろ逆だった。

 

「大丈夫です」

「探してみます」

「今までありがとうございました」

「そんな顔しないでください」

 

そんな言葉ばかりを向けられた。

 

だからこそ、余計につらい。

 

トランセンドがソファに座ったまま呟く。

 

「……怒られた方がマシだった」

 

誰も否定しない。

 

フォーエバーヤングは目を真っ赤にしたまま言う。

 

「なんで慰めてくんの……」

 

エアシャカールは顔を覆う。

 

「ふざけんなよ……こっちが切ってんだぞ……」

 

フリオーソはもう何度目か分からない涙を拭く。

 

「優しすぎます……」

 

カレンチャンは静かに鼻をすすった。

 

「全然カワイくない……」

 

ビリーヴだけが最後まで崩れまいとしていたが、声はもう限界に近かった。

 

「……これで、終わりではありません」

 

誰も返事をしない。

 

「再就職先の斡旋、推薦状、引き継ぎ、減給組への説明……まだやることがあります」

 

正しい。

あまりにも正しい。

 

正しいからこそ、つらい。

 

トランセンドはしばらく黙ってから、低く言った。

 

「……やるよ」

 

「最後まで、こっちがやる」

 

それは協会長としての責任だった。

同時に、せめてもの贖罪でもあった。

 

だがその夜。

 

セブン協会の幹部たちは全員知った。

 

本当に組織を壊すのは、敵ではない。

 

**優しい部下の前で、切る側として立つこと**なのだと。


chapter:終わる地獄

 

翌日、深夜。

 

ようやく、すべての手続きが終わった。

 

人員整理対象者への正式通知。

退職手続き。

減給対象者への説明。

支部再編の届け出。

本部への更新報告。

他協会・事務所への推薦状。

引き継ぎ資料の整備。

未処理案件の再配分。

 

やるべきことは、山ほどあった。

そしてその全部が、今日で一通り終わった。

 

協会長室には、もうほとんど音がなかった。

 

昼間までは、紙をめくる音や端末の操作音、短い報告や確認の声が途切れなかった。

誰かが泣きそうでも、怒っていても、自己嫌悪で死にそうでも、仕事だけは流れていた。

 

だが今は違う。

 

もう、流すべき仕事がない。

 

残っているのは、机の上に積まれた処理済みの書類と、

疲れ切った幹部たちだけだった。

 

誰もすぐには動かなかった。

 

立ち上がって帰ればいい。

灯りを消せばいい。

そうすれば今日という最悪の日は終わる。

 

でも、誰もそれをしない。

 

終わったからだ。

 

**終わってしまった**からだ。

 

トランセンドは協会長席に座ったまま、最後に回収した書類の束を見ていた。

 

一番上にあるのは、人員整理の最終確定一覧。

その下には、支部別再編表。

さらにその下に、再就職先候補への推薦文の控え。

 

全部、自分たちで作った。

全部、自分たちの判断で通した。

全部、もう取り消せない。

 

その事実だけが、静かにのしかかっている。

 

フォーエバーヤングはソファに座り込んだまま、靴も脱がずに天井を見ていた。

普段なら絶対にそんなだらしない姿は見せないのに、もう気にする余裕もない。

 

エアシャカールは壁際に立ったまま動かない。

腕を組んではいるが、いつもの威圧感はない。

ただ倒れないために立っているように見えた。

 

フリオーソは書類を抱えたまま、椅子に浅く腰掛けている。

もう整える書類もないのに、抱えていないと落ち着かないのだろう。

 

ビリーヴは机の端に立ち、閉じた手帳に手を置いていた。

いつもなら次の工程を考えているはずの目が、今はどこも見ていない。

 

カレンチャンは、自分の左耳の赤いリボンを無意識に何度も触っていた。

その仕草だけが、かろうじて彼女を彼女らしく見せていた。

 

長い沈黙のあと。

 

最初に壊れたのは、フォーエバーヤングだった。

 

「……終わっちゃった」

 

その一言は、あまりにも軽かった。

軽いのに、部屋の空気を決定的に変えた。

 

誰も返事をしない。

 

フォーエバーヤングはもう一度、今度はもっと小さく言う。

 

「……ほんとに、終わっちゃった」

 

西部6課の子たちの顔が浮かんでいるのだろう。

きっと、自分で決めた再就職先の斡旋先も、もう頭に残っている。

 

あの子は工房付きの情報補助へ。

あの子は中規模事務所の調査員見習いへ。

あの子は別協会の補助枠の面接待ち。

 

全部、自分で通した。

全部、自分で署名した。

 

だからこそもう、誤魔化せない。

 

フォーエバーヤングの喉がひくりと動く。

 

「……アタシさ」

 

誰に向けるでもなく、言う。

 

「最後まで、ちゃんとして送ろうって思ってたんだよね」

 

「泣かないで、支部長らしく、“次でもやれるよ”って言うつもりだった」

 

一拍。

 

「でも、あの子らの方がちゃんとしてた」

 

そこで声が折れた。

 

「あの子らの方が、大人だった……」

 

涙が落ちる。

 

止めようともしていない。

もう無理だった。

 

それを合図にしたみたいに、エアシャカールが荒く息を吐いた。

 

「……南部のやつらもだ」

 

低い声だった。

けれど、その低さが逆に危うい。

 

「あいつら、誰も文句言わなかった」

 

「“わかりました”とか、“お世話になりました”とか、“次探します”とか……」

 

拳が震えている。

 

「なんでだよ」

 

壁に頭を預ける。

 

「なんで怒んねぇんだよ……」

 

次の言葉は、ほとんど掠れていた。

 

「こっちが切ってんのに……」

 

エアシャカールは、そこでとうとう目元を押さえた。

 

泣くな。

泣くなと自分に言い聞かせているのが、逆にはっきり分かる。

 

でも、だめだった。

 

肩が一度、深く震える。

 

「……くそ」

 

「……ほんと、くそだ……」

 

フリオーソはその声を聞いた瞬間、自分ももうだめだと分かった。

 

彼女はずっと持っていた書類を机に置く。

置いた瞬間、支えていたものが消えた。

 

「……推薦状」

 

ぽつりと呟く。

 

「最後の最後まで、“ありがとうございます”って言われました」

 

目元を押さえる。

でも涙は隠せない。

 

「こちらが、仕事を奪ったのに……」

 

「“書いていただけるだけで助かります”って……」

 

そこで嗚咽が混じる。

 

「優しすぎます……」

 

「そんなふうにされる資格、ないのに……」

 

フリオーソはもう、完全に泣いていた。

 

普段なら絶対に崩れない場所で、秘書としてではなく、ただの一人の上司として泣いていた。

 

カレンチャンは、少し遅れて壊れた。

 

彼女はずっと黙っていた。

黙って、何かを堪えていた。

 

でも、ふと小さく笑ったあと、すぐにその笑みがぐしゃっと歪んだ。

 

「……カレンね」

 

声が震える。

 

「最後に“支部長、今までありがとうございました”って言われたの」

 

リボンを握る指に力が入る。

 

「“カワイイの、ちょっとだけ分かるようになりました”って」

 

涙がぽろぽろ落ち始める。

 

「そんなの、だめじゃん」

 

「そんなの言われたら、忘れられないじゃん……」

 

彼女は自分の膝に顔を埋めるようにして泣いた。

 

「全然カワイくない……」

 

「こんなの、全然カワイくないよ……」

 

ビリーヴだけは、まだ崩れていなかった。

 

いや、崩れていないように見えただけだった。

 

本部長として、最後まで全体を見ていた。

誰がどこに行くか。

誰に何を渡すか。

どの書類をどの順で出すか。

全部、丁寧に整えた。

 

整えたからこそ、もう逃げ場がなかった。

 

「……本部の若手に」

 

そう言ったきり、しばらく言葉が止まる。

 

誰も急かさない。

 

ビリーヴは手帳の表紙をなぞりながら、続けた。

 

「“次の場所でも、ちゃんとやれます”と言われました」

 

苦笑にもならない表情が浮かぶ。

 

「僕は、その“ちゃんとやれるようにする場所”を守る側のはずだったのですが」

 

一拍。

 

「守れませんでしたね」

 

それだけ言って、彼女は静かに目を閉じた。

 

涙は大げさには流さない。

けれど、目を開けた時には、はっきりと濡れていた。

 

最後まで座ったままだったトランセンドは、全員の決壊を見ていた。

 

見ていたというより、もう一緒に沈んでいた。

 

協会長なのだから。

最後に崩れるなら自分だと思っていた。

せめて全員が吐き出すまでは立っていようと思っていた。

 

でも、無理だった。

 

机の上にある最後の書類。

 

**人員整理実施完了報告書**

 

その題名を見た瞬間、もう耐えられなかった。

 

「……あーあ」

 

その声は、驚くほど弱かった。

 

「ほんとに、やっちゃったね」

 

誰も返事をしない。

 

トランセンドは笑おうとして失敗する。

 

「ウチさ」

 

「情報で都市を変えるの、嫌いじゃなかったんだよ」

 

「でも今日やったの、都市を読む仕事じゃなくて、ただ……自分とこの子たち減らしただけじゃん」

 

喉が詰まる。

 

「最悪だね」

 

そこで、とうとう涙が落ちた。

 

それをきっかけにしたように、止まらなくなる。

 

「……ごめん」

 

「ごめん、ごめんね……」

 

誰に向けているのか、自分でも分からなかった。

 

西部6課か。

南部か。

東部か。

北部か。

残した側か。

減給させた側か。

あるいは、自分自身か。

 

全部だった。

 

トランセンドは顔を覆ったまま泣いた。

 

いつもの軽口も、余裕も、分析もない。

ただ、感情だけが残っていた。

 

その光景はあまりにもひどくて、あまりにも静かだった。

 

敵に襲われたわけじゃない。

支部が焼かれたわけでもない。

誰かが死んだわけでもない。

 

それなのに、今この部屋にいる幹部たちは、下手な惨劇のあとよりもずっと深く壊れていた。

 

なぜならこれは、自分たちの手でやったことだからだ。

 

優しかった部下たちに。

怒りもぶつけず、最後まで気を遣ってきた子たちに。

未来を探しますと、逆に慰めてきた子たちに。

 

その子たちへ、自分たちの判断で線を引いた。

 

それを最後までやりきった今、

責任感も、手続きも、理屈も、全部切れた。

 

残ったのは、ただの後悔と自己嫌悪だった。

 

深夜の協会長室には、幹部たちの泣く声だけが残った。

 

誰も止めない。

止められない。

 

もう今日くらいは、壊れてよかった。

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