ウマ娘×ProjectMoon   作:桜餅 ステラ

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別れる地獄

chapter:開始

ウーフィ協会本部、協会長室。

 

部屋の空気は、重かった。

 

まだ何かが壊れたわけではない。

まだ誰かに通告が出たわけでもない。

まだ書類の上で最終決定がされたわけでもない。

 

けれど、それでももう分かってしまう。

 

**これは、ただの予算会議では終わらない。**

 

そういう種類の重さだった。

 

協会長室の中央には、ナカヤマフェスタがいた。

いつものような気怠げな姿勢ではある。

だが、気怠いだけではない。

力を抜いているのではなく、力を入れすぎて逆に静かになっている顔だった。

 

対面には、ウーフィ協会の中核を担う幹部たちが座っている。

 

北部支部長ヘロド。

東部支部長シリウスシンボリ。

南部支部長エアグルーヴ。

西部本部長バブルガムフェロー。

 

いつもなら、ここで多少の軽口や皮肉が飛んでもおかしくない。

けれど今日は、最初から空気が違った。

 

ナカヤマフェスタが、あまりにも前置きなしに切り出したからだ。

 

「……つーわけで、ウチの予算の二割が減った。よって予算配分の見直しをするぞ」

 

沈黙。

 

誰も、すぐには反応しなかった。

 

ヘロドの眉がゆっくりと寄る。

シリウスシンボリの目つきが、一瞬で険しくなる。

エアグルーヴは背筋を伸ばしたまま固まり、

バブルガムフェローは、笑顔を作る余裕すら失った。

 

最初に口を開いたのはヘロドだった。

 

「……ナカヤマ、それは冗談か?」

 

声は低く、抑えられている。

だが、その抑制の奥にある緊張は誰にでも分かった。

 

ナカヤマフェスタは短く答える。

 

「違う」

 

間を置かず、シリウスシンボリが吐き捨てるように言う。

 

「……スーさんの野郎からか?」

 

「そうだ」

 

エアグルーヴが確認するように、しかしもう半ば答えを知っている顔で問う。

 

「……確かに二割ですか?」

 

ナカヤマフェスタは頷く。

 

「ああ」

 

バブルガムフェローが、唇を引き結んだまま続けた。

 

「……つまり」

 

ナカヤマフェスタの声は、そこで一切濁らなかった。

 

「人員整理」

 

その一言が落ちた瞬間、空気が決壊しかけた。

 

ヘロドが奥歯を噛み締める。

「……くっ」

という短い息が漏れる。

 

シリウスシンボリは椅子を蹴りそうな勢いで立ち上がった。

 

「……っざっっけんなああああ!!!!」

 

怒声が部屋を揺らす。

 

それは癇癪ではない。

組織を預かる者が、本気で踏み越えられたくない一線を踏まれた時の声だった。

 

エアグルーヴは、逆に青ざめていた。

 

「え、……私、先日支部長に昇格したのに……初めてやる大仕事が……人件費削減……?」

 

目の前の現実を、まだ言葉として受け取りきれていない。

 

バブルガムフェローも堪えきれず声を上げる。

 

「いやいや! 冗談になってないよ協会長! なんでそうなったの!?」

 

ナカヤマフェスタは、その問いに対して逃げなかった。

 

「……オグリキャップが、ウーフィ協会の仲介仕事の大半を代替できると判断された。

それで来期の予算の二割を持ってかれた。……よって、予算の見直しが必要不可欠だ」

 

その言葉に、部屋の空気がさらに沈む。

 

ウーフィ協会の本業は何か。

 

契約の仲介。

立ち会い。

条件整理。

相互不信の緩衝。

表にも裏にも完全には属さない立場で、“間”を成立させる仕事。

 

その中核を、たった一人のフィクサーに食われた。

 

しかもその理由が、

 

**約束を守る**

**信頼されている**

**個人だから小回りが利く**

**食事ひとつで動く**

 

そんな、悪夢みたいに都市向きの特性だ。

 

エアグルーヴが、ゆっくりと言った。

 

「そ、そんな……それならまず最初にしないといけないのは……」

 

ナカヤマフェスタが、先に答えを言った。

 

「……人件費削減だ」

 

ヘロドが即座に反発する。

 

「待て! それをするのは早計だ!まずは削れるところから削って……!」

 

シリウスシンボリも、怒りをそのまま押し出す。

 

「そうだ! 節約できる部分を積み重ねればきっと……!」

 

だがナカヤマフェスタは、その希望を容赦なく叩き落とした。

 

「……組織で一番固定費が掛かって、しかも削ってもそこまで大きな影響もなく、いざという時に補充できるものはなんだ?」

 

その問いに、誰もすぐには答えなかった。

 

答えたくなかったのだ。

 

でも、知っている。

 

エアグルーヴが、真っ先にその現実を口にする。

 

「……人件費です」

 

ヘロドが低く続ける。

 

「人件費だな」

 

シリウスシンボリが、立ったまま唸るように言う。

 

「……人件費だ」

 

バブルガムフェローも小さく頷く。

 

「……人件費」

 

それを聞いたナカヤマフェスタは、机を軽く指で叩いた。

 

「……しかもだ」

 

その先の話を、全員が聞きたくなかった。

 

「この二割削減は、あくまで警告予算削減に過ぎない。もし来期以降も改革がなければ……」

 

エアグルーヴの喉が鳴る。

 

「……もっと減ります?」

 

ナカヤマフェスタは、目を逸らさなかった。

 

「減る」

 

バブルガムフェローが、そこで初めて本気で顔を引きつらせた。

 

「つまり……部下の子たち切り捨てた上で、改革しろってこと!?」

 

「……そうだ」

 

部屋の空気が、そこで一段深く沈んだ。

 

もうこれは仮定の話ではない。

未来の可能性でもない。

 

**今から、自分たちが“誰を残して、誰と別れるか”を考えなければならない。**

 

しかも一支部だけではない。

 

シリウスシンボリが低く問う。

 

「……全支部か?」

 

「東部、南部、北部の支部。それに西部の本部も全部だ」

 

その一言で、全員の頭に一斉に同じものが浮かぶ。

 

各支部の下から順に並んだ課名。

業務ごとの人員数。

若手。

補助要員。

まだ育ち切っていない者たち。

だが、これから必要になるはずだった者たち。

 

ヘロドが、苦々しく言う。

 

「……人員整理となると、真っ先に思い浮かぶのは……」

 

バブルガムフェローが即座に遮る。

 

「待って待って、言わないで」

 

エアグルーヴが、それでも言葉にしてしまう。

 

「……リストラ」

 

バブルガムフェローが頭を抱えた。

 

「言わないでよー!」

 

その叫びは半分冗談みたいな声音だった。

でも、まったく笑えなかった。

 

だってそれが、いちばん正確な言葉だったからだ。

 

ナカヤマフェスタが椅子から少し身を乗り出す。

 

「良いか!?」

 

その声は、普段の投げやりさを一切含んでいなかった。

完全に協会長の声だった。

 

「全員、部下を捨てたくなかったら徹底的に費用削減や圧縮を進めろ!どんな小さい費用でもいい! 削れるだけ削るんだ!」

 

その言葉に、シリウスシンボリが即座に噛みつくように答えた。

 

「当ったり前だ! 一人も捨てねぇぞ!」

 

その叫びは、東部支部長としての意地だった。

 

バブルガムフェローもすぐに乗る。

 

「私、ひとまず今期の予算を整理するよ! 来期以降との調整やる!」

 

ヘロドはすでに頭を切り替え始めていた。

 

「ひとまず全支部の予算配分の見直しだ。それとできるだけ来期以降の業務にも支障が出ないようにするぞ」

 

エアグルーヴも真剣な表情で頷く。

 

「南部支部の固定費も洗います。支部内の無駄は全部出します」

 

けれど、その決意の下には、全員同じ恐怖を抱えていた。

 

もし。

 

それでも届かなかったら。

 

エアグルーヴが、喉まで出かかった言葉を絞り出すように言う。

 

「……もし削減分に節約費用が届かなかったら……」

 

ナカヤマフェスタは、珍しくすぐにそれを遮った。

 

「……言うな」

 

その声は低く、短かった。

 

「それは最後に言う」

 

エアグルーヴは、唇を噛んだまま頭を下げる。

 

「……はい」

 

その返事の奥にあるものは、全員が共有していた。

 

つまり――

 

**今はまだ、部下を守る前提で足掻ける。**

だが、その足掻きが足りなければ。

最後には、どうしても“別れる地獄”が来る。

 

その未来を、全員が見てしまった。

 

だからこそ、今はまだ言わない。

言ってしまったら、ほんとうにそこへ行くことになるから。

 

ナカヤマフェスタは最後に全員を見回した。

 

「……いいな」

 

「今はまだ、誰も捨てるな」

 

「まずは数字を削れ。予算を削れ。形式を削れ。見栄を削れ。支出を削れ」

 

「それでもだめだった時にだけ、最後の話をする」

 

誰も反論しなかった。

 

全員、わかっていた。

 

この会議はまだ始まりに過ぎない。

本当の地獄は、このあとにある。

 

部下の顔を思い浮かべながら、

どうやって別れを先延ばしにするかを考える日々。

 

それが、今から始まるのだと。

 


chapter:概算

 

その日、本部の灯りは最後まで消えなかった。

 

いや、正確には、消せなかった。

 

協会長室だけではない。

隣接する会議室、資料保管室、経理端末のある小部屋。

普段ならとっくに閉まっているはずの場所まで、夜中を過ぎても白々と光っていた。

 

そこにいるのは、ウーフィ協会の中核を担う幹部たちだ。

 

ナカヤマフェスタ。

ヘロド。

シリウスシンボリ。

エアグルーヴ。

バブルガムフェロー。

 

全員、帰っていない。

 

誰一人として、軽口を叩いていない。

 

机の上には資料が積み上がっている。

支部別予算。

業務別経費。

固定費一覧。

外注費。

出張費。

手当。

修繕予算。

予備費。

人件費。

そして、役員報酬。

 

都市のどの組織でも同じだ。

金がなければ、回らない。

そして組織が大きいほど、切るべき場所は大抵決まっている。

 

だが今夜、彼女たちはそこへ真っ直ぐ行かなかった。

 

行きたくなかったからだ。

 

部下を切る前に、削れるものは全部削る。

 

それが、今この場にいる全員の共通認識だった。

 

シリウスシンボリが机に身を乗り出したまま、資料を睨んでいる。

 

「……東部支部、接待交際費は切った」

 

「支部長裁量の雑費も全部削る」

 

「出張の上限も落とす」

 

ヘロドも低く続ける。

 

「北部は設備更新の延期だ。老朽端末の交換も先送りする」

 

「あと研修費も圧縮する」

 

エアグルーヴは疲れの滲んだ顔で言った。

 

「南部は補助人員の残業申請基準を見直します」

 

「案件の優先順位も詰めます。……無理が出るのは承知ですが」

 

バブルガムフェローは、いつもよりずっと小さな声だった。

 

「西部本部も再編前提で整理したよ」

 

「本部管理費、印刷費、移送費、会議費……削れるところは全部削った」

 

誰も褒めない。

褒めている場合ではないからだ。

 

全員、自分の支部も同じように削っている。

 

そしてその先で、同じことを考えていた。

 

**これで足りてくれ。**

**これで、人に触れずに済んでくれ。**

 

その希望だけで、夜を越えていた。

 

ナカヤマフェスタは、協会全体の最終概算表を前にしていた。

 

数字の集約。

各支部から上がった削減案。

本部の再編。

それらを全部まとめて、最終的な不足額を計算する。

 

つまり。

 

この表が、最後の希望を殺すかどうかを決める。

 

ナカヤマは黙ったまま、指で表をなぞる。

 

一項目ずつ確認していく。

 

削減。

削減。

延期。

凍結。

圧縮。

 

その横で、バブルガムフェローがぽつりと言った。

 

「……役員給与も削ろう」

 

一瞬、部屋が静まる。

 

誰も反対しなかった。

 

反対できるはずがない。

 

シリウスシンボリが、すぐに答える。

 

「当たり前だ」

 

「部下に我慢させる前に、上が削る」

 

ヘロドも頷く。

 

「北部支部長手当、減額でいい」

 

エアグルーヴも迷わない。

 

「南部も同じです。私の給与も削ってください」

 

バブルガムフェローが苦く笑う。

 

「私もだよ。こういう時だけ部下に綺麗事言うの、いちばんダサいし」

 

最後に、全員の視線がナカヤマフェスタへ向く。

 

ナカヤマは短く答えた。

 

「……私も下げる」

 

「協会長報酬、削る」

 

それは当然の決定だった。

 

当然であることが、逆につらかった。

 

ここにいる全員、もうとっくに自分を守る段階ではない。

守りたいのは支部であり、部下であり、組織だった。

 

だからこそ、自分の取り分なんて真っ先に切る。

 

だが、その覚悟を入れてなお、

全員どこかで分かっていた。

 

**たぶん、それでも足りない。**

 

それでも、やらずにはいられなかった。

 

ナカヤマフェスタは最終再計算を回す。

 

端末の演算表示が淡く明滅する。

 

その数秒が、ひどく長かった。

 

誰も喋らない。

誰も目を逸らさない。

喉の音すら大きく感じるほど、部屋は静かだった。

 

やがて、計算が終わる。

 

数字が出る。

 

ナカヤマは、それを見たまま固まった。

 

それだけで、全員察した。

 

シリウスシンボリが掠れた声で言う。

 

「……足りなかったか」

 

ナカヤマは、しばらく返事をしなかった。

 

したくなかった。

 

でも、しなければならない。

 

「……ああ」

 

その一言だけで十分だった。

 

エアグルーヴが、目の前の資料を握りしめる。

 

「そんな……」

 

ヘロドが低く問う。

 

「どれくらい、残った」

 

ナカヤマは画面から目を離さずに答える。

 

「役員給与の減額込み」

 

「支部固定費圧縮込み」

 

「設備更新延期込み」

 

「雑費、外注、研修、手当、全部洗った上で……」

 

一拍。

 

「それでも、届かない」

 

バブルガムフェローの肩が落ちる。

 

「……何人分」

 

この問いが、一番聞きたくない。

 

ナカヤマは静かに概算表を共有した。

 

投影盤に数字が浮かぶ。

 

* 役員給与減額後

* 支部予算圧縮後

* 固定費最大削減後

* 不足額:なお大

 

その下に、補填案が三つ並ぶ。

 

A案。

人員整理を多く取る代わりに減給を抑える。

 

B案。

整理を絞る代わりに、残存人員への広範な減給。

 

C案。

整理と減給を中程度ずつ配分。

 

そして、どれも軽くない。

 

ナカヤマフェスタが、ようやく言った。

 

「……決して少なくないリストラと」

 

喉が詰まる。

 

それでも続ける。

 

「残った人員への減給が、確定だ」

 

その瞬間、部屋から音が消えた。

 

誰もすぐには動かなかった。

 

頭では分かっていた。

昨日から、いや会議で二割削減を告げられた時点から、たぶんそうなるとは思っていた。

 

でも。

 

削れるだけ削ったのだ。

 

自分たちの給料まで切ったのだ。

 

組織の見栄も、快適さも、余裕も全部捨てたのだ。

 

それなのに。

 

**それでも、人を切るしかない。**

**残した人にも減給を強いるしかない。**

 

その現実は、予想していた以上に重かった。

 

シリウスシンボリが椅子に深く座り直す。

 

「……はは」

 

乾いた笑いが漏れる。

 

「ここまでやって、まだ足りねぇのかよ」

 

怒鳴りたいのに、怒鳴る力すらない声だった。

 

ヘロドは目を閉じる。

 

「……役員側が削れば、少しはマシになると思っていた」

 

「甘かったな」

 

エアグルーヴは唇を噛みしめた。

 

「……支部長になって最初の大仕事が、部下の首を切る準備だなんて……」

 

そこで言葉が止まる。

 

バブルガムフェローは、もう笑えていなかった。

 

「減給まで、か」

 

「辞める子だけじゃなくて、残る子にも痛い思いさせるんだね……」

 

それが、また別の地獄だった。

 

整理対象だけが傷つくのではない。

残される側もまた、減給と再編と人手不足を背負う。

 

つまり。

 

**全員が傷つく。**

 

ナカヤマフェスタは、机に肘をついて額を押さえた。

 

彼女はギリギリを好む。

危険な綱渡りも、土壇場の勝負も嫌いではない。

むしろそういう場所でこそ、生を実感する。

 

だが今目の前にあるギリギリは、全然違った。

 

これは自分が火傷して楽しむ博打ではない。

 

部下の生活と、組織の未来を賭け金にした、

**絶対に楽しんではいけない勝負**だった。

 

そのことが、何より苦かった。

 

「……くそ」

 

その一言に、全部乗っていた。

 

悔しさも。

無力感も。

自己嫌悪も。

怒りも。

 

だが数字は変わらない。

 

どれだけ感情をぶつけても、計算結果は冷たいままだ。

 

部屋の全員が、その冷たさに黙って押し潰されていた。

 

しばらくして、ナカヤマフェスタが顔を上げる。

 

その目は死んでいた。

けれど、死んだまま止まるわけにもいかなかった。

 

「……明日から、仕分けに入る」

 

誰も反論しない。

 

「まずは減給案を先に詰める」

 

「その上で、それでも残る不足分を……人員整理で埋める」

 

エアグルーヴが小さく息を呑む。

 

シリウスシンボリは拳を握る。

 

ヘロドは黙って頷いた。

 

バブルガムフェローは、目を伏せたまま小さく「うん」とだけ返した。

 

誰も納得していない。

でも、もう進むしかない。

 

ウーフィ協会はこの夜、

自分たちの給料まで削った上で、

それでもなお部下を守りきれないと確定した。

 

それは単なる財政難ではなかった。

 

**上に立つ者の覚悟ごと、数字に踏み潰される夜**だった。

 


 

chapter:名簿

その夜の本部は、妙に静かだった。

 

誰も喋らないわけではない。

端末の操作音もある。

資料をめくる音もある。

時々、確認のための短いやり取りもある。

 

それでも静かだった。

 

全員がもう、必要以上の言葉を出したくなかったからだ。

 

言葉にすると、現実になる。

そんな空気が、部屋全体に染みついていた。

 

会議卓には、減給案の試算表が何枚も並んでいる。

 

支部長手当の見直し。

本部管理職手当の削減。

昇給凍結。

基本給の段階的圧縮。

役職階層ごとの比率調整。

 

ウーフィ協会の幹部たちは、もうとっくに自分たちの取り分を守る段階を過ぎていた。

 

まず上から削る。

残る側が広く痛みを背負う。

そのうえで、それでも足りない分だけ最後に人員整理へ回す。

 

それが、今この場で共有された最後の良心だった。

 

ナカヤマフェスタが、最終減給試算の画面をじっと見ている。

 

その横でヘロドが北部支部案の数字を見直し、

エアグルーヴは南部の人員階層別試算を再度走らせ、

シリウスシンボリは東部の業績連動部分を限界まで圧縮し、

バブルガムフェローは本部配分の修正を細かく詰めている。

 

誰もが、同じことを願っていた。

 

**ここで止まってくれ。**

**ここで数字が届いてくれ。**

**これ以上は、人の名前を見たくない。**

 

だから全員、執拗なほど丁寧に減給案を削っていく。

 

たとえば本来なら維持すべきだった役職差。

たとえば士気のために必要だったわずかな上積み。

たとえば来期に回すはずだった評価反映。

 

そういうものを、一つずつ諦める。

 

エアグルーヴが、紙にペン先を押し当てたまま言う。

 

「……南部、これ以上下げると3課と4課の中堅層が揺らぎます」

 

声に疲労が滲んでいる。

けれど手は止まらない。

 

「でも今は、それでも切るしかないのですよね」

 

誰もすぐに返事をしない。

 

ヘロドが低く言った。

 

「北部も同じだ」

 

「中堅の減給は後の育成効率に響く。だが、今はその未来を切ってでも現在の不足分を埋めるしかない」

 

シリウスシンボリは机に肘をついたまま、資料を睨み続ける。

 

「東部の奴ら、ただでさえ余裕ねぇのに……」

 

「ここから更に減らすの、正気じゃねぇ」

 

それでも、彼女は線を引く。

 

消して、足して、また削る。

 

バブルガムフェローが小さく呟く。

 

「本部ももう、かなり削ったよ」

 

「これ以上は、残る子たちの生活が普通にきつくなる」

 

ナカヤマフェスタは、その全てを集約していく。

 

画面上で数字が減る。

不足額が縮む。

また減る。

まだ残る。

 

縮んではいる。

間違いなく効いている。

 

だが。

 

足りない。

 

その“まだ足りない”が、じわじわ全員の呼吸を浅くしていった。

 

やがて、ビープ音と共に更新された総計表が表示される。

 

全員の視線が、中央の数字へ集まる。

 

削減反映後の不足額。

 

そこには、確かに前回より小さな数字が出ていた。

 

かなり詰めた。

本当に、限界まで詰めた。

 

それでも。

 

ゼロではなかった。

 

部屋のどこかで、誰かが小さく息を止めた。

 

ナカヤマフェスタは、その数字を見たまま、すぐには何も言わなかった。

 

言いたくなかった。

 

でも、その沈黙自体が答えだった。

 

シリウスシンボリが先に口を開く。

 

「……残ったか」

 

ナカヤマは短く頷く。

 

「残った」

 

エアグルーヴの肩が、目に見えて落ちる。

 

「どれくらいですか」

 

数字はもう表示されている。

それでも、口で聞かなければ実感が来ない。

 

ナカヤマが答える。

 

「減給案を可能な範囲で押し進めた結果、前回試算よりはかなり縮んだ」

 

「だが、これでもまだ不足分が残る」

 

一拍。

 

「……これを埋めるには」

 

その先を、誰も聞きたくなかった。

 

ヘロドが目を閉じる。

 

バブルガムフェローが口元を押さえる。

 

ナカヤマフェスタは、ついにその言葉を口にした。

 

「……各支部と本部の6課に触るしかない」

 

沈黙。

 

今までのどんな沈黙より重かった。

 

ついに来た。

 

ここまではまだ、数字だった。

役職だった。

比率だった。

減給だった。

 

だが、ここから先は違う。

 

**名前**だ。

 

ヘロドが、机の上に置かれた北部支部の人員一覧に視線を落とす。

 

北部1課。

2課。

3課。

4課。

5課。

6課。

 

そのいちばん下の行が、急に生々しく見える。

 

シリウスシンボリも、東部の一覧を引き寄せる。

引き寄せただけなのに、その動きが妙に重い。

 

エアグルーヴは南部支部の端末画面を開いたまま、しばらく触れなかった。

冷静で厳格な彼女ですら、今は指先が止まっている。

 

バブルガムフェローは本部6課の一覧を見た瞬間に、わずかに顔を歪めた。

 

「……やだ」

 

本音がそのまま零れる。

 

「ここ、見たくない」

 

誰も同じだった。

 

ナカヤマフェスタが、自分の前に並んだ各支部・本部6課の一覧を順に表示していく。

 

西部本部6課。

東部6課。

南部6課。

北部6課。

 

どの課も、上から見れば末端に近い。

業績評価も、等級も、中堅や主力には及ばない者が多い。

 

だが、それは切っていい理由にはならない。

 

むしろ逆だ。

 

まだ育ち切っていない。

まだこれからだった。

まだ将来があった。

 

その“まだ”を、今から自分たちで削る。

 

ナカヤマは一度だけ目を閉じた。

 

ギャンブルを愛する女。

ギリギリの綱渡りを好む女。

けれど今この場で突きつけられているのは、自分がスリルを楽しむための崖っぷちではない。

 

**部下を守るために誰かを見捨てる崖っぷち**だ。

 

最悪だった。

 

「……開け」

 

誰に言ったのかも分からないくらい低い声だった。

 

けれどその一言で、全員が動いた。

 

ヘロドが北部6課の名簿を開く。

 

シリウスシンボリが東部6課の一覧を展開する。

 

エアグルーヴが南部6課の評価表を表示する。

 

バブルガムフェローが本部6課の補助要員一覧を開く。

 

そして誰もが、そこでしばらく固まった。

 

数字ではない。

 

もう完全に、顔だった。

 

あの子。

あの部下。

あの新人。

あの報告の遅い子。

あの飲み込みの悪い子。

あの不器用だけど真面目な子。

 

全員、知っている。

 

知らない名前なんて一つもない。

 

エアグルーヴが、唇を噛んだまま言った。

 

「……もう限界です」

 

その声には、珍しく明確な弱さがあった。

 

「減給の表を見ている時点で、かなりきつかった」

 

「それでも数字だから、まだ耐えられました」

 

一拍。

 

「ですがこれは……」

 

その先は言えない。

 

ヘロドが静かに引き取る。

 

「……人の顔だな」

 

シリウスシンボリが机を睨んだまま吐き捨てる。

 

「ふざけんなよ……」

 

怒りとも、泣きそうな声ともつかない。

 

バブルガムフェローは、一覧を見つめたまま動けない。

 

「ここから先、もう……」

 

「間違えたら一生引きずる」

 

その通りだった。

 

減給は戻せるかもしれない。

予算も来期で見直せるかもしれない。

でも、人を切った記憶は戻らない。

 

ナカヤマフェスタが最後に言う。

 

「……今夜で全部決める必要はない」

 

それは救いのようで、救いではなかった。

 

「だが、ここから先はもう、この名簿から目を逸らしても意味がない」

 

部屋の空気が、さらに重くなる。

 

「明日から、ここを詰める」

 

誰も反対しない。

 

できない。

 

全員、もう限界寸前だった。

それでも進むしかないところまで来てしまった。

 

その夜、ウーフィ協会の幹部たちは、

減給という痛みを最大限まで広げたうえで、

なお足りない不足分を埋めるために、

ついに6課の名簿と向き合うことになった。

 

数字の地獄は終わった。

 

ここから先は、

人の地獄だった。


 

chapter:長所しか見えない

 

室内の空気は、もうとっくに死んでいた。

 

減給案は、限界まで押し進めた。

役員給与も削った。

本部予算も、支部予算も、見栄も、余裕も、できる限り削ぎ落とした。

 

それでも足りなかった。

 

そして今、ウーフィ協会の幹部たちは、ついに各支部と本部の6課の名簿を前にしていた。

 

東部6課。

南部6課。

北部6課。

西部本部6課。

 

ここから先は、数字の話ではない。

 

もう、完全に人の話だった。

 

ナカヤマフェスタは、会議卓の中央に表示された一覧を見下ろしたまま、しばらく何も言えなかった。

 

協会長として、自分が始めなければならない。

そのことは分かっている。

 

でも、最初の一人目を候補に挙げる、その口火を切ることがあまりにもきつかった。

 

名簿に並んでいるのは、ただの人員番号や予算単価じゃない。

 

顔が浮かぶ。

話し方が浮かぶ。

失敗した時の顔。

成功した時の、少しだけ誇らしそうな顔。

 

それが全部、数字の上に張り付いている。

 

ナカヤマは、乾いた唇を舌で湿らせる。

 

「……じゃあ、始めるぞ」

 

声が掠れていた。

 

誰も返事をしない。

返事をしたら、本当に始まってしまうからだ。

 

それでも、始めなければならない。

 

ナカヤマが、西部本部6課の一覧に視線を落とす。

 

「……まず、本部から」

 

その瞬間、バブルガムフェローの肩がぴくりと揺れた。

 

本部長である彼女にとって、本部6課の面々は、いわば一番近くにいる若手だ。

資料運搬、下準備、補助交渉、細かい雑務、下位案件の一次整理。

表には出ないが、いなくなれば本部の呼吸が乱れる。

 

バブルガムフェローが、先に名簿を引き寄せた。

 

「……私が言うよ」

 

その声はもう、最初から泣きそうだった。

 

指先が、一つの名前の上で止まる。

 

けれど、次の瞬間にはその指が離れる。

 

「……無理」

 

誰も何も言わない。

 

バブルガムフェローは、息を吸って、吐いて、それでも震えながら続けた。

 

「この子、要領悪いんだよ」

 

ようやく“短所”から入った。

 

だが、その先が続かない。

 

「資料の束よく落とすし、伝達も時々遅れるし、正直、器用じゃない」

 

一拍。

 

「でもね」

 

声が壊れ始める。

 

「本部で誰もやりたがらない引き継ぎ資料の整理、いつも最後まで残ってやってくれるの」

 

「“私こういうの得意じゃないんですけど、誰かがやらないと困るじゃないですか”って笑って……」

 

そこで、もうだめだった。

 

バブルガムフェローが口元を押さえる。

肩が震える。

 

「……なんで今思い出すの」

 

「なんで切る時に、良いとこばっか浮かぶの……」

 

完全に涙声だった。

 

エアグルーヴが、自分の前の南部6課一覧を睨みながら低く言う。

 

「……私も同じです」

 

彼女は厳格だ。

規律を守り、無駄を嫌い、組織として正しいことを優先する。

 

本来なら、こういう場で最も割り切らなければならないタイプだ。

 

だが今は、その理性が逆に彼女を苦しめていた。

 

「この者は報告が遅い」

 

「この者は判断が鈍い」

 

一つずつ、短所を確認していく。

本来ならそれでいいはずだった。

 

だが、そのたびに、その先に別の記憶が浮かぶ。

 

「……ですが」

 

「一度任せた仕事を、投げたことはありません」

 

「何度差し戻しても、翌日には改善案を持ってくる」

 

「規律違反もない。遅いなりに、真面目なんです」

 

資料を持つ手に力が入る。

 

「こういう者は、育てれば必ず伸びるはずだった……」

 

“はずだった”。

 

その言い方をした瞬間、自分でも理解した。

 

もうそれは未来形ではない。

切る側の言葉になってしまっている。

 

エアグルーヴの目が潤む。

 

「……っ」

 

唇を噛み、俯く。

でも耐えきれなかった。

 

「申し訳ない……」

 

その謝罪は名簿に向けたものだった。

 

本人すらいない場所で、勝手に謝っている。

それがどれだけ無意味か分かっているのに、謝らずにはいられなかった。

 

ヘロドは、北部6課の一覧を前にして、ずっと無言だった。

 

規律に厳しい。

不確実を嫌う。

だから本来、感情に流されず判断するべき立場だ。

 

だが、北部6課の面々は、そんな彼女にとってもただの部下ではなかった。

 

一人は足が速い。

一人は聞き込みが上手い。

一人は気が弱いくせに、命じられた張り込みだけは絶対にやり抜く。

 

数字の上では、未熟だ。

評価も高くはない。

 

けれどヘロドには、それぞれの長所が細かく見えてしまう。

 

「……この者は交渉は下手だ」

 

「だが、人に嫌われない」

 

「この者は処理速度が遅い」

 

「だが、嘘を見抜く目だけはある」

 

「この者は……」

 

そこで止まる。

 

名簿の端が、わずかに濡れる。

 

ヘロドは、自分が泣いていると数秒遅れて気づいた。

 

「……情けないな」

 

誰にともなく言う。

 

「切る理由を探しているのに、残す理由しか出てこない」

 

その声の奥に、かすかな嗚咽が混ざった。

 

シリウスシンボリは、最初から荒かった。

 

東部6課の一覧を乱暴に引き寄せ、机に肘をついたまま睨む。

 

「……くそ」

 

それしか出ない。

 

彼女は裏路地育ちだ。

生き残るために切り捨てが必要な場面も知っている。

甘さだけでは回らないことも知っている。

 

だからこそ、本来は誰よりも割り切れるはずだった。

 

だが、割り切れなかった。

 

「こいつ、交渉の空気読むの下手なんだよ」

 

「声小さいし、最初は何言ってるか分かんねえし」

 

吐き捨てるように言って、それでも続ける。

 

「でも、相手が本当に困ってる時だけ、ちゃんと気づくんだ」

 

「私が見逃した細かい顔色とか、案外拾ってきてよ……」

 

鼻で笑おうとして失敗する。

 

「ったく、そういうとこだけ妙に使えるんだよ」

 

その言い方が、逆にきつかった。

 

認めている。

ちゃんと評価している。

切りたくない。

 

全部、その一言に入っている。

 

シリウスシンボリは片手で顔を覆った。

 

「……無理だろこんなの」

 

「長所しか見えねえじゃねぇか……」

 

その声には怒りも涙も混ざっていた。

 

ナカヤマフェスタは、その全部を聞いていた。

 

協会長として、ここで止めるべきなのかもしれない。

感情でやるな、と。

組織のために進めろ、と。

 

でも言えなかった。

 

だって自分も同じだったからだ。

 

彼女は名簿の中の一つの名前を見ていた。

 

西部本部6課。

まだ若い。

判断も遅い。

契約文面の理解も甘い。

 

けれど。

 

この子は、立ち会い案件のあとに必ず確認を取りに来た。

「今の条件整理、私の理解で合ってますか」

と何度も何度も聞きに来た。

 

要領は悪い。

だが、雑にはしない。

そういう子だった。

 

ナカヤマは笑った。

 

乾いて、どうしようもない笑いだった。

 

「……なんなんだろうな」

 

誰も答えない。

 

「短所なら、いくらでも並べられるんだよ」

 

「未熟だとか、遅いとか、効率が悪いとか」

 

「でも、いざ切る段階になると……」

 

そこで、声が崩れる。

 

「頑張ってたことしか思い出せねぇ」

 

協会長室が静まり返る。

 

その言葉が、この場の本質だった。

 

切る側として必要なのは、冷静な選別だ。

短所の比較だ。

効率の判断だ。

 

なのに、今ここにいる幹部たちは全員、逆のことをしている。

 

**残したい理由を一人ずつ確認している。**

 

だから進まない。

だから地獄になる。

だからなおさら、最後に線を引く時の自己嫌悪が深くなる。

 

バブルガムフェローが涙声のまま言う。

 

「……ごめんね」

 

エアグルーヴも続く。

 

「申し訳ない……」

 

ヘロドは目を閉じて俯く。

 

「すまない」

 

シリウスシンボリは吐き捨てるように、でもはっきりと。

 

「……悪い」

 

その謝罪は、本人たちには届かない。

 

まだ何も知らない部下たちに向けた、あまりにも遅くて早すぎる謝罪だった。

 

ナカヤマフェスタも、最後に言った。

 

「……ごめん」

 

そしてその瞬間、誰かの嗚咽が部屋に落ちた。

 

バブルガムフェローか。

エアグルーヴか。

あるいは自分だったのかもしれない。

 

もう分からない。

 

涙と嗚咽と謝罪と自己嫌悪。

 

会議室にあるべきじゃないものばかりが、そこにはあった。

 

それでも、名簿は机の上にある。

減らさなければならない数字も、変わらない。

誰かの長所をどれだけ思い出しても、予算不足は消えない。

 


chapter:印

 

会議室の空気は、もう限界だった。

 

減給は押し進めた。

役員給与も削った。

本部と各支部の予算も削れるだけ削った。

そして最後に、各支部と本部の6課の名簿を前にして、幹部たちは一人ずつ部下たちの長所を思い出してしまった。

 

不器用だが真面目。

遅いが投げ出さない。

要領は悪いが、誰もやらないことを最後までやる。

交渉は下手だが、人の顔色を読む。

まだ未熟だが、きっと育てば伸びる。

 

そんな言葉ばかりが出てきた。

 

本来なら、人員整理の場で出るべきではない言葉だった。

 

だが、それでも予算不足は消えない。

 

長所を思い出しても、数字は変わらない。

謝罪しても、嗚咽しても、自己嫌悪に沈んでも、計算結果は冷たいままだった。

 

そして、その現実だけが、最後には全員を同じ場所へ追い込んだ。

 

**印をつけなければならない。**

 

誰かの名前に。

 

会議卓の中央には、各支部と本部6課の一覧が並んでいる。

その端には、整理候補欄。

まだ空白だ。

 

その空白が、ひどく残酷だった。

 

まだここには何も書かれていない。

だからこそ、ここまではまだ“決まっていない”で済んでいた。

 

だが、誰かが最初の印をつけた瞬間に、全部変わる。

 

もう後には戻れない。

 

ナカヤマフェスタは、その空白をじっと見つめていた。

 

手元には、ペン。

端末にもチェック欄がある。

どちらでもできる。

どちらでもいい。

重要なのは方法じゃない。

 

**誰が最初に、人を減らすという行為を現実にするか。**

 

その一点だった。

 

ヘロドは俯いたまま、目を閉じている。

シリウスシンボリは肘をついたまま、今にも机を殴りそうな顔で名簿を睨んでいる。

エアグルーヴは姿勢こそ正しいが、唇が固く結ばれすぎて白くなっていた。

バブルガムフェローは、一覧から目を逸らせずにいる。逸らしたらそのまま逃げてしまいそうだからだ。

 

誰も、最初の一人になりたくなかった。

 

その沈黙の中で、ナカヤマフェスタがようやく言った。

 

「……私がやる」

 

声は低く、擦れていた。

 

誰も止めない。

止められない。

 

協会長だからではない。

たぶん、今ここにいる誰がやっても同じだけ地獄だからだ。

 

ナカヤマは西部本部6課の一覧を引き寄せる。

 

一つの名前の上に、視線が止まる。

 

その子は、まだ若い。

交渉の空気を読むのも遅い。

契約の整理も甘い。

経験不足も目立つ。

 

数字の上では、切る理由はある。

作ろうと思えばいくらでも作れる。

 

だが、その裏で思い出すのは、やはり長所ばかりだった。

 

何度間違えても、確認に来た。

自分なりに理解しようとしていた。

雑に済ませなかった。

不器用なりに、誰より真っ直ぐだった。

 

ナカヤマの手が止まる。

 

「……っ」

 

喉の奥で、何かがつかえる。

 

だめだ。

やれ。

協会長だろ。

でも、無理だ。

 

その全部が、数秒の中で頭を巡る。

 

バブルガムフェローが、震える声で言った。

 

「……協会長」

 

ナカヤマは答えない。

 

答えたら、たぶん崩れる。

 

バブルガムフェローは続きを言えなかった。

 

代わりに、ヘロドが低く言う。

 

「……やるしか、ない」

 

それは励ましではない。

ただの確認だった。

 

シリウスシンボリが、歯を食いしばったまま吐き捨てる。

 

「早く終わらせろよ……」

 

その声もまた、急かしているのではなく、これ以上迷うと全員壊れると分かっているからこその言葉だった。

 

エアグルーヴは目を伏せたまま、はっきりと告げる。

 

「……お願いします」

 

ナカヤマフェスタは、そこでようやく息を吐いた。

 

長く、細く、どうしようもなく重い息だった。

 

それから。

 

ゆっくりと。

 

本当にゆっくりと。

 

最初の名前の横に、印をつけた。

 

たったそれだけだった。

 

線ですらない。

丸でも、チェックでも、ほんの小さな記号だった。

 

だが、その瞬間。

 

部屋の空気が完全に変わった。

 

誰かが小さく息を呑む。

バブルガムフェローが口元を押さえる。

エアグルーヴの目から、堪えていた涙がそのまま落ちる。

シリウスシンボリは顔を背けた。

ヘロドは目を閉じたまま、眉間に深い皺を刻んだ。

 

そしてナカヤマフェスタ自身が、その印を見たまま動けなくなった。

 

「……あ」

 

それは言葉になっていなかった。

 

ただ、自分が今何をしたのかを、数拍遅れて理解した声だった。

 

最初の一人。

最初の印。

最初の切断。

 

それまで“候補”だったものが、一気に現実へ落ちた。

 

ナカヤマの手からペンが滑り落ちる。

 

カラン、と乾いた音がした。

 

その音がやけに大きかった。

 

バブルガムフェローが、とうとう泣き崩れるように声を漏らした。

 

「……やだ」

 

たったそれだけなのに、あまりにも痛かった。

 

「ほんとに、やるんだ……」

 

エアグルーヴは涙を拭うこともできず、資料に視線を落としたまま言う。

 

「……申し訳、ない……」

 

その謝罪は誰に向けたものか、もう分からない。

部下にか。

組織にか。

自分自身にか。

 

シリウスシンボリが、拳で自分の膝を強く叩く。

 

「……っ、くそ!」

 

「くそ、くそ、くそ……!」

 

怒鳴るわけでもない。

泣くわけでもない。

けれど、その罵声の全部が、自分への嫌悪だった。

 

ヘロドはしばらく無言だった。

だが次の瞬間、自分の前の北部6課一覧に手を伸ばす。

 

「……一人で背負わせるわけにはいかない」

 

その声も震えていた。

 

「北部も、やる」

 

そして、彼女もまた、名前の横に印をつける。

 

その手つきは、規律正しくも冷静でもなかった。

ただ、無理やり動かしているだけだった。

 

エアグルーヴも続いた。

 

「……南部も、進めます」

 

涙で少し滲んだ視界のまま、彼女も一人目を選ぶ。

 

本来なら、もっと論理的に、整然と、整理されるべき作業だった。

だが今この場では無理だった。

 

誰も割り切れていない。

誰も納得していない。

ただ、数字に首を締められて手を動かしているだけだ。

 

シリウスシンボリは最後まで抵抗していたが、結局は東部6課の一覧を引き寄せた。

 

「……っざけんなよ」

 

そう吐き捨てながら。

 

「こんなの、誰がやりてぇんだよ」

 

それでも、印はつける。

 

バブルガムフェローも、涙を拭きながら西部本部の残りの候補欄へ手を伸ばす。

 

「……ごめんね」

 

「ほんとに、ごめん……」

 

その言葉を繰り返しながら。

 

こうして、最初の一本は二本になり、三本になり、四本になった。

 

部屋の中にいる全員が、同じことをしていた。

 

泣きながら。

嗚咽を噛み殺しながら。

謝罪しながら。

自己嫌悪に沈みながら。

 

それでも、印をつけていく。

 

名簿の中の空白は、少しずつ埋まっていった。

 

その光景は、会議ではなかった。

仕分けでもなかった。

ましてや合理的な組織運営などではなかった。

 

ただ、壊れかけた上司たちが、

自分の手で部下との別れを確定させていく地獄だった。

 

やがて、ひとまずの概算整理対象が埋まる。

 

足りない分を埋める最低限の線。

 

それは数字としては“成立”していた。

でも、誰一人として、それを成立だとは思えなかった。

 

ナカヤマフェスタは、最後に一覧全体を見渡した。

 

印のついた名前。

まだついていない名前。

残る名前。

減給を受ける名前。

 

その全部が、自分たちの協会だった。

 

「……終わったな」

 

そう言った声は、空っぽだった。

 

だが本当は、終わっていない。

 

ここから先にあるのは、通告だ。

別れだ。

再就職の斡旋だ。

残る者への説明だ。

 

それでも、この瞬間は確かに一つの終わりだった。

 

**ウーフィ協会の幹部たちが、自分の手で部下を切ると決めた瞬間。**

 

それを境に、全員の中で何かが確実に壊れた。


chapter:通告

翌日。

 

朝は、容赦なく来た。

 

昨日までと何も変わらない顔で、都市は回っている。

裏路地では喧嘩があり、翼は仕事を回し、協会には依頼が届く。

太陽が昇れば人は働き、夜が来ればまた別の誰かが動く。

 

何も変わらない。

 

変わってしまったのは、ウーフィ協会の上層だけだった。

 

本部も、各支部も、空気がどこか妙に静かだった。

 

それは嵐の前の静けさではない。

もう嵐は通り過ぎていて、そのあとに残った瓦礫をどう片づけるかだけが残っている、そんな静けさだった。

 

昨夜、幹部たちは印をつけた。

 

誰の名前に整理候補の印が入り、誰が減給対象となり、どの部署が再編のあおりを受けるのか。

全部、自分たちの手で決めた。

 

そして今日は、その結果を本人たちに告げる日だ。

 

逃げ道は、どこにもなかった。

 

---

 

東部支部

 

東部支部長室。

 

シリウスシンボリは、立ったまま窓際に背を向けていた。

 

机の上には通告文。

簡潔にまとめられた文面だ。

業務再編。

予算削減。

整理対象。

今後の支援。

推薦状の発行。

 

どれだけ言葉を整えても、結局意味するところは一つだった。

 

**ここではもう働けない。**

 

シリウスはそれを知っている。

だからこそ、机の上の紙を見るたびに腹の底が煮えるようだった。

 

部屋の扉が叩かれる。

 

「……入れ」

 

声がいつもより低い。

怒っているのではない。

崩れないために、無理やり硬くしているだけだ。

 

東部6課の課員たちが入ってくる。

 

見慣れた顔だった。

 

報告が少し雑な子。

だが現場では足が速い子。

口数が少ないが、最後まで張り込みを投げない子。

皆、シリウスが東部支部長として面倒を見てきた部下たちだ。

 

全員、何となく察している顔をしていた。

 

そのことが、余計にきつい。

 

シリウスは椅子に座らなかった。

座ったらたぶん立てなくなる。

 

「……先に言う」

 

短く、吐き出す。

 

「来期、東部支部は再編に入る」

 

「その関係で、6課も縮小だ」

 

「整理対象が出る」

 

それだけ言うのに、喉の奥が焼けるみたいだった。

 

部屋は静まり返っている。

 

誰かが机を叩いて怒鳴ってくれたら、どれだけ楽だっただろう。

 

だが、返ってきたのは違った。

 

一人の課員が、少しだけ困ったように笑った。

 

「……やっぱり、ですか」

 

シリウスの眉が動く。

 

その子は続けた。

 

「最近、支部長ずっと顔色悪かったですし」

 

「予算の話、なんか相当やばいんだろうなとは思ってました」

 

別の課員も頷く。

 

「……大丈夫です」

 

その言葉で、シリウスの胸がざわつく。

 

何が大丈夫なんだ。

 

切る側に向かって、なんでそんなことが言える。

 

「東部で叩き込まれたことありますし、他の事務所でもやっていけるよう探してみます」

 

「推薦状、書いてくれるんですよね?」

 

「なら、十分ありがたいです」

 

ありがたい。

 

その言葉が、シリウスの心に深く刺さる。

 

彼女は思わず顔を逸らした。

 

「……やめろ」

 

掠れた声だった。

 

「そういうの、今言うな」

 

でも課員たちは怒らない。

 

むしろ、少しだけ慌てたように言う。

 

「いや、でも本音ですから」

 

「シリウス支部長、厳しかったですけど、ちゃんと現場で生き残るやり方教えてくれたじゃないですか」

 

「裏路地で雑に死なない方法とか、あれ普通の協会じゃ教わらないですし」

 

それで、終わった。

 

シリウスシンボリは、堪えきれずに机に片手をついた。

 

「……っざけんな」

 

声が震える。

 

「なんでお前らの方が、そんな落ち着いてんだよ……」

 

そこで、ついに涙がこぼれた。

 

東部支部長としてではなく、

自分の部下を守り切れなかった上司として。

 

「悪ぃ……」

 

「ほんと、悪ぃ……」

 

東部の通告は、部下を切るはずの支部長が、最後には一番取り乱して終わった。

 

---

 

南部支部

 

南部支部、会議室。

 

エアグルーヴは、最初から最後まで背筋を伸ばしていた。

 

伸ばしていなければ、自分が崩れると分かっていたからだ。

 

支部長になって日が浅い。

それなのに、最初に部下へ告げる大きな仕事が人員整理。

 

そんな理不尽があるかと思った。

 

だが、それでも彼女は南部支部長だった。

 

逃げるわけにはいかない。

 

6課の課員たちを前にして、エアグルーヴは一枚の紙を机に置いた。

 

「……来期、南部支部は予算削減に伴う再編を行う」

 

「その結果、6課にも整理対象者が出る」

 

声は固い。

文面も固い。

できるだけ感情を排した。

 

その方がいいと思った。

私情を交えれば、余計に相手を傷つけるかもしれないから。

 

だが、固く告げたからこそ、逆に課員たちの反応が柔らかく見えてしまう。

 

一人が、少し俯きながらも言った。

 

「……はい」

 

その“はい”には、失望もショックも当然入っている。

でも、怒りはなかった。

 

「正直、薄々は察していました」

 

「最近、支部の空気、いつもと違いましたから」

 

別の子も続く。

 

「私たち、まだ若いですし」

 

「他を探してみます」

 

「南部支部で教わった報告のまとめ方とか、聞き込みの基本とか、持っていけるものはありますから」

 

エアグルーヴは、その言葉で一瞬固まった。

 

教わったものはある。

持っていけるものはある。

 

つまりそれは、

**ここで過ごした時間が無駄ではなかった**

と、切られる側が逆に証明してくれているのだ。

 

そんなの、つらすぎた。

 

さらに一人が、真面目な顔で言う。

 

「支部長、謝らないでください」

 

まだ謝っていない。

だがたぶん、顔に出ていたのだろう。

 

「貴方は、ちゃんと最後まで私たちのこと見てくれてました」

 

「それは分かっています」

 

その瞬間、エアグルーヴの中で何かが決壊した。

 

ぐっと唇を噛む。

目元が熱い。

息が乱れる。

 

規律に厳格な支部長。

そうあるべきなのに、今は全然だめだった。

 

「……っ、すまない」

 

最初の謝罪が出る。

 

すると、もう止まらない。

 

「本来なら、私が貴様らを守るべきだった」

 

「それを……」

 

声が詰まる。

 

「それを、このような形で……」

 

そこでとうとう涙が落ちた。

 

課員たちは一瞬だけ目を見開いたが、誰も彼女を責めなかった。

 

むしろ、やわらかく言う。

 

「支部長、泣かないでください」

 

「私たち、そんなに弱くないです」

 

「次、探しますから」

 

その気遣いが、余計にエアグルーヴの情緒を壊した。

 

南部支部長は、通告の最後に、

深く頭を下げたまましばらく顔を上げられなかった。

 

---

 

北部支部

 

北部支部長室。

 

ヘロドは、通告の前からほとんど喋っていなかった。

 

彼女は不確実なものを嫌う。

ギャンブルを嫌い、曖昧さを嫌い、判断を誤ることを何より嫌う。

 

だからこそ、今回の件は彼女にとって最悪だった。

 

これは戦闘でも、交渉でも、業務上のミスでもない。

単なる予算と構造の問題だ。

 

誰かの努力不足ではなく、誰かの失敗でもなく、

ただ“構造上切られる側”が出てしまう。

 

そんな不条理を、ヘロドは心の底から嫌悪していた。

 

それでも、支部長として伝えなければならない。

 

「……来期、北部支部は再編する」

 

「6課は縮小だ」

 

「整理対象者が出る」

 

短く、必要なことだけ。

 

その方が良いと思っていた。

余計な情を込めると、余計に苦しめると思ったからだ。

 

けれど、返ってきた言葉はその想定を簡単に壊した。

 

「……わかりました、支部長」

 

淡々としていた。

 

あまりにも淡々としていたからこそ、逆に胸に刺さる。

 

さらに、別の課員が静かに続ける。

 

「正直、北部に残りたかったです」

 

ヘロドの胸が締めつけられる。

 

「でも、ここで学んだことは無駄にしません」

 

「支部長に叩き込まれた規律も、聞き込みの順序も、交渉の距離感も、全部使ってみせます」

 

あまりにもまっすぐだった。

 

ヘロドは、返す言葉を失った。

 

もっと怒ってくれていい。

理不尽だと責めてくれていい。

 

そう思うのに、彼らは逆に未来を見ようとしている。

 

そしてその未来に、

**北部支部で学んだことを持っていく**

と言ってくる。

 

そんなの、壊れるに決まっていた。

 

ヘロドはゆっくりと目を閉じた。

 

「……すまない」

 

その一言だけで、声がかすれる。

 

「お前たちに、こんなことを言わせたくはなかった」

 

そこで、初めて涙が一筋落ちた。

 

規律に厳しい北部支部長は、部下の前で涙など見せないと思われていた。

たぶん課員たちもそう思っていた。

 

だからこそ、その涙は重かった。

 

だが課員たちはやはり責めない。

 

「支部長」

 

「ありがとうございます」

 

その“ありがとう”が、さらに追い打ちになった。

 

ヘロドはその場で顔を背けるしかなかった。

 

北部の通告は、

最後まで怒声ひとつ出ないまま、

ただ優しさだけで支部長の心を削っていった。

 

---

 

西部本部

 

西部本部長室。

 

バブルガムフェローは、最初から目が赤かった。

 

たぶん昨夜ほとんど眠れていない。

いや、眠れていても意味がなかっただろう。

今日やることを思えば、意識を落としたところで休まるはずがない。

 

本部6課の面々が入ってくる。

 

普段よく見る子たちだ。

細かい資料整理をする子。

連絡の中継をする子。

会議準備をする子。

どこか一人欠けただけでも本部の回り方が少しずつ狂う、そういう子たち。

 

フェローは笑顔を作ろうとした。

失敗した。

 

「……ごめんね」

 

結局、最初の言葉はそれだった。

 

それだけで、課員たちの方も全部察した。

 

通告の内容を話す。

再編。

整理。

推薦状。

斡旋先。

 

全部説明する。

その間、誰も口を挟まない。

 

そして、説明が終わったあと。

 

一人の課員が、申し訳なさそうに笑った。

 

「本部長、そんな顔しないでください」

 

もう、その時点でだめだった。

 

「私たち、別に本部長のこと責めてません」

 

「むしろ今まで、すごく面倒見てもらいましたし」

 

別の子も頷く。

 

「本部でやってきたことって、地味ですけど他でも使えると思います」

 

「だから、大丈夫です」

 

大丈夫。

 

その言葉が一番大丈夫ではなかった。

 

フェローの目から、ぼろぼろ涙が落ちる。

 

「……大丈夫なわけ、ないでしょ」

 

自分でも止められない。

 

「ほんとは、ずっとここにいてほしかったよ……」

 

「本部ってさ、派手なことないけど、君たちがいないと回らないんだよ……」

 

泣きながらそう言う本部長を見て、課員たちは逆に慌てていた。

 

「いや、そんな……!」

 

「本部長、ほんと泣かないでください!」

 

「こっちまできついですって!」

 

その“こっちまできつい”という優しさが、完全に駄目押しだった。

 

西部本部長は、最後まで泣きながら通告を終えることになった。

 

---

 

本部・夜

 

その日の夜。

 

本部に戻ってきた幹部たちは、もう全員顔が死んでいた。

 

いや、死んでいたというより、

**一度限界を超えて、感情の置き場がなくなっていた。**

 

シリウスシンボリは、椅子に座った瞬間に顔を覆った。

 

「……無理だろ、あんなの」

 

エアグルーヴも、机に手をついたまま俯いている。

 

「部下の方が、こちらを気遣ってどうするんですか……」

 

ヘロドは低く吐き出す。

 

「怒られた方が、まだ楽だった」

 

バブルガムフェローは、涙の跡が残ったまま苦く笑う。

 

「“大丈夫です”って言われるたび、こっちが大丈夫じゃなくなったよ……」

 

ナカヤマフェスタは、しばらく何も言わなかった。

 

そして、ぽつりと言う。

 

「……やっぱ、だめだな」

 

全員がそちらを見る。

 

「部下に気を遣わせた時点で、上として終わってる気がする」

 

その一言に、誰も反論しなかった。

 

だって、その通りだったからだ。

 

今日、彼女たちは通告した。

そして部下たちは怒らなかった。

責めなかった。

逆に、頑張ります、探します、ありがとうございます、と言った。

 

その優しさが、幹部たちの情緒を完全に壊した。

 

ただでさえ限界だったのに、

最後の最後で部下の方が大人だった。

 

それが、何よりきつかった。

 

会議室には長い沈黙が落ちる。

 

誰も泣き叫ばない。

でも、誰ももう大丈夫ではなかった。

 

ウーフィ協会の幹部たちはこの日、

**通告を終えたことで本当に限界を迎えた。**

 

決める地獄。

印をつける地獄。

そして伝える地獄。

 

その全部を越えてきた今、残ったのはただの疲労ではない。

 

守り切れなかったという、

上に立つ者にとって最悪の後悔だけだった。


chapter:送り出す

 

数日後、ようやく、すべての手続きが終わった。

 

人員整理対象者への正式通知。

減給対象者への説明。

推薦状の作成。

再就職先との調整。

引き継ぎ資料の整理。

案件の再配分。

未処理契約の移管。

面談記録の保管。

退職日程の確定。

 

やるべきことは山ほどあった。

そしてそのどれもが、今日で一通り終わった。

 

本部の上層は妙に静かだった。

 

昼の間はまだよかった。

誰かが動いていた。

誰かが端末を叩いていた。

誰かが「まだこれが残ってる」「次はこれを確認する」と言えた。

 

やるべきことがある間は、

人はまだ感情を後ろに押しやれる。

 

でも今は違う。

 

もう、やるべきことがない。

 

つまり。

 

**全部終わってしまった。**

 

会議室の中央には、処理済みの書類束が積み上がっている。

 

推薦状の控え。

受け入れ先との連絡記録。

再編後の人員配置。

減給反映後の給与表。

退職処理の完了報告。

 

全部、終わった仕事だ。

 

その“終わった”という事実が、何より重かった。

 

ナカヤマフェスタは机に肘をついたまま、最後に押印した書類を見つめていた。

 

一番上にあるのは、再就職斡旋完了の確認書だった。

 

その紙に載っている名前は、さっきまでウーフィ協会の人間だった名前だ。

昨日まで、同じ建物の中で働いていた名前だ。

ついこの前まで、支部の空気の一部だった名前だ。

 

それが今、別の組織の欄に移されている。

 

正式に。

事務的に。

容赦なく。

 

ナカヤマは、その紙を見ているだけで胃の奥がひっくり返るようだった。

 

シリウスシンボリは、窓際に立ったまま背中を向けていた。

 

東部の再就職斡旋先一覧。

どこに誰を送ったか。

何を売り込んだか。

どんな長所を書いたか。

 

彼女は全部覚えていた。

 

あの子は聞き込みに強いから、現地調査寄りの事務所へ。

あの子は空気を読むのがうまいから、交渉補助へ。

あの子は根が真面目だから、最初は補助でもいずれ伸びると書いた。

 

全部、自分で推薦した。

 

それは正しいことだ。

切ったあとに放り出さないための、上として最低限の責任だ。

 

なのに。

 

責任を果たせば果たすほど、

**本当にもう自分の部下ではなくなった**

という実感が濃くなっていく。

 

エアグルーヴは、机の上に置いたペンから手を離せなかった。

 

最後の推薦状には、かなり細かく長所を書いた。

 

報告は遅いが、再提出を恐れず改善する。

判断は慎重すぎるが、雑に契約を扱わない。

要領は悪いが、命じた仕事を投げ出さない。

 

本来なら、支部長がこれを外部へ書く時点である程度誇らしくあるべきなのかもしれない。

自分の部下を他所でも通用すると証明するのだから。

 

でも今の彼女にあったのは誇りではなかった。

 

**だったら、どうして南部に残してやれなかったのか。**

 

その一点だけだ。

 

ヘロドは、静かに座ったまま目を閉じていた。

 

北部支部の子たちは、最後まで礼儀を崩さなかった。

通告の時も、推薦状を渡した時も、斡旋先が決まった時も。

 

「ありがとうございました」

「ここで学んだことを持っていきます」

「支部長の顔に泥を塗らないようにします」

 

そんなことを言われた。

 

そんなことを言わせた。

 

その事実が、ヘロドの中でずっと棘みたいに刺さっている。

 

規律を重んじる彼女にとって、

“最後まで立派だった部下”

という事実は、慰めではなく処刑に近かった。

 

バブルガムフェローは、もう最初から目が赤いままだった。

 

西部本部の子たちは、最後まで本部の子らしかった。

 

「本部長、これ最後の引き継ぎ資料です」

「私の担当だった部分、見やすくまとめておきました」

「次の人が困らないようにしておいたので、大丈夫です」

 

最後まで、“次に残る人のために”動いていた。

 

それが本部らしい。

あまりにも本部らしすぎる。

 

だから余計につらかった。

 

彼女は最後にその資料を受け取った時、

笑って「ありがとう」と言った。

言うしかなかった。

 

でも、本当はその場で泣きたかった。

 

いや、たぶんもう半分泣いていた。

 

そして今、その引き継ぎ資料が机の上にある。

綺麗に整えられている。

分かりやすく、優しく、次の人間のことまで考えて作られている。

 

そんなの、壊れるに決まっていた。

 

長い沈黙のあと。

 

最初に口を開いたのはシリウスシンボリだった。

 

背中を向けたまま、ぽつりと呟く。

 

「……行かせちまったな」

 

その声は、普段の荒さがすっかり抜けていた。

 

「推薦状まで書いて、斡旋先も決めて、荷物まとめさせて……」

 

「ほんとに、送り出しちまった」

 

誰も返事をしない。

 

返せない。

 

それが今この場の全員の実感だったからだ。

 

エアグルーヴが、小さく言った。

 

「……通告の時は、まだ駄目でした」

 

「ですが、推薦状を書いた時に」

 

そこで言葉が切れる。

 

少しして、ようやく続ける。

 

「……ああ、本当にここからいなくなるのだと、理解してしまいました」

 

その“理解してしまいました”という言い方が、あまりにも彼女らしくて、余計に痛かった。

 

ヘロドも低く言う。

 

「私は、斡旋先に直接話を通した」

 

「“この者は多少不器用だが、規律と誠実さは保証する”と」

 

一拍。

 

「……そこまでしておいて、まだどこかで、戻せるのではないかと思っていた」

 

それはあまりにも率直な告白だった。

 

でも、そう思っていたのだろう。

 

書類を出しても、推薦しても、斡旋しても。

どこかで全部が夢で、最後にひっくり返る余地があるんじゃないかと。

 

けれど、もうない。

 

受け入れ先が決まった。

日程も決まった。

引き継ぎも終わった。

 

現実は、そこで完全に固まった。

 

バブルガムフェローが、堪えきれずに顔を覆う。

 

「……やだ」

 

それは子供みたいな言葉だった。

 

でも、その一言に全部入っていた。

 

「やだよ、こんなの……」

 

「最後までちゃんと面倒見たら、余計にもう戻れないって分かるじゃん……」

 

そこから先は、嗚咽混じりになった。

 

「なんでみんな、最後までいい子なの……」

 

「なんで引き継ぎ資料まできれいに作るの……」

 

「なんで“お世話になりました”なんて言うの……」

 

泣き声が、静かな会議室に広がる。

 

それを止める者は誰もいない。

 

止められるはずがなかった。

 

ナカヤマフェスタは、ずっと黙っていた。

 

協会長だ。

最後に崩れるなら自分だと思っていた。

少なくとも全員が吐き出すまでは、立っていようと思っていた。

 

だが、その沈黙の中で、ふと視線が最後の書類に落ちる。

 

そこには、自分の署名がある。

 

協会長としての署名。

整理案承認。

再就職支援完了。

人員再配置決定。

 

つまり。

 

**全部、自分が通した。**

 

それを理解した瞬間、何かが切れた。

 

「……あーあ」

 

ひどく乾いた声が漏れる。

 

全員が顔を上げる。

 

ナカヤマは書類を見たまま、笑おうとして失敗したみたいな顔で言った。

 

「ほんとに、終わっちまったな」

 

その声が、あまりにも空っぽだった。

 

「ギリギリで足掻くのは嫌いじゃねぇんだよ」

 

「でもさ」

 

一拍。

 

「これは、違う」

 

喉が詰まる。

 

「これは、誰かを切って、次に送り出して、残った奴にも我慢させて……」

 

「それでようやく成立する“勝ち”だろ」

 

そこで、声が完全に崩れた。

 

「そんなの、勝ちじゃねぇよ……」

 

その瞬間だった。

 

ナカヤマフェスタの目から涙が落ちる。

 

一滴では済まなかった。

一度切れたら、もう止まらなかった。

 

「……ごめん」

 

誰に向けたのかも分からないまま、謝罪が零れる。

 

「ごめんな」

 

「ごめん、ごめん……」

 

シリウスシンボリが、窓際で顔を覆った。

 

エアグルーヴはついに机に手をついたまま肩を震わせた。

 

ヘロドも目元を押さえる。

普段なら人前でそんな弱さを絶対に見せないのに、もう無理だった。

 

バブルガムフェローは声を上げて泣いていた。

 

会議室の中で、幹部たちの感情が一斉に決壊していく。

 

通告の時はまだ、やることがあった。

推薦状を書く時もまだ、責任があった。

斡旋先を探す時も、上司としての理屈で立てた。

 

でも、全部終わった今は違う。

 

もう“次にやるべきこと”がない。

 

だからこそ、押し込めていた感情が全部戻ってきた。

 

部下たちの顔。

最後の言葉。

気遣い。

礼。

綺麗にまとめられた引き継ぎ資料。

次でもやれますという、あまりにも前向きな言葉。

 

それら全部が、一つ残らず幹部たちの心を抉っていた。

 

この夜、ウーフィ協会の幹部たちはようやく完全に理解した。

 

通告が地獄なのではない。

印をつけるのが地獄なのでもない。

本当にきついのは、

 

**最後まで責任を果たし切ったあとで、

それでも部下たちの優しさだけが残ること**だ。

 

それが、何より壊れる。

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