シ協会本部、本部長室。
室内は静かだった。
静かすぎる、と言ってもよかった。
シ協会の本部らしく、机上には必要な資料しか置かれていない。
だが今、そのわずかな資料の一枚一枚が、妙に重みを持っていた。
机の中央には、灰色の表紙をした仮概算書類。
表題は簡潔だ。
灰色の怪物暗殺案件 概算試算書
ミホノブルボンは、その書類を前に直立していた。
背筋は寸分も乱れず、視線は真っ直ぐ。
いつも通りの無機質さにも見える佇まいだったが、彼女の机の上に積み上がった資料の量は、今回の案件が通常の試算ではないことを示していた。
オグリキャップ。
ヂェーヴィチ協会西部一課所属。
特色フィクサー“灰色の怪物”。
ただ強いだけではない。
情報流通、組織間接続、翼・協会・指との接触、さらに都市構造への影響力。
それら全てを加味した上で、“暗殺価格”を算出しろ。
それが協会長シンボリルドルフからの指示だった。
ブルボンは一枚目の資料をめくる。
「...試算開始」
誰に聞かせるでもなく、そう口にする。
それは彼女にとって、思考の開始宣言のようなものだった。
一次試算:純戦闘能力
「対象、オグリキャップ」
ブルボンは端末に打ち込む。
「基礎戦力評価、特色フィクサー級」
ここまでは単純だった。
特色フィクサーの暗殺依頼は、そもそも都市でも最上位案件に近い。
一級や事務所長クラスとは比較にならない。
正面から当たれば支部長級でも危険。
不意打ちであっても成功率は保証されない。
「耐久力、極大」
「継戦能力、極大」
「機動力、高」
「警戒能力、中〜高」
「精神的動揺耐性、極大」
ブルボンの指が一定の速度で動く。
オグリキャップの厄介さは、単なる戦闘力に留まらない。
痛み、疲労、焦燥、揺さぶり。
普通の相手なら効くはずの要素が、彼女には通じにくい。
「単純戦闘能力のみでの試算」
ブルボンは一度計算を回した。
端末に表示された仮数字を見て、彼女は淡々と読み上げる。
「...過去の特色暗殺案件相当、基準額の約八・四倍」
その数値だけでも十分に高い。
だが、ブルボンは首を横に振った。
「不十分」
オグリキャップの危険性は、戦闘だけで測れるものではない。
むしろ問題はここからだ。
二次試算:情報的価値
ブルボンは二つ目の資料を開く。
協会。
指。
翼。
裏路地組織。
特色フィクサー。
調律者。
オグリキャップの名の周囲に、いくつもの線が引かれていた。
「対象は、戦闘能力に加えて情報結節点としての性質を持つ」
打ち込みながら、ブルボンは淡々と分析する。
「セブン協会およびウーフィ協会の一部業務代替可能性あり」
「複数勢力との個人的接点保有」
「接触先に上位組織多数」
「情報仲介、伝達、交渉補助能力を自然獲得」
彼女の目は動かない。
ただ数字だけを追っている。
「暗殺成功時の副次影響予測」
「都市内情報流通の一時的撹乱」
「複数勢力との連絡経路喪失」
「協会間・組織間交渉遅延」
「特定上位層の行動変化誘発可能性」
ここで、ブルボンは一度だけ手を止めた。
オグリキャップは、いわゆる“情報屋”ではない。
分析も整理も得意ではない。
だが彼女は、**情報が集まり、通り、信じられる**個人になってしまっている。
それはシ協会の試算基準でも前例が薄い。
「...対象の死は、対象個人の消失に留まらない」
「情報的価値損失を加算」
計算を追加で回す。
画面の数字がさらに跳ね上がる。
「純戦闘案件比、二・三倍上昇」
ブルボンはその結果を見ても顔色一つ変えなかった。
「妥当」
だが、その妥当さ自体が既に異常だった。
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三次試算:報復危険度
三つ目の資料には、オグリキャップ周辺人物一覧が並んでいる。
タマモクロス。
ナイスネイチャ。
アイネスフウジン。
各協会長。
指幹部。
翼関係者。
A社関係。
そして一部には、明確な警戒印がついていた。
ブルボンはそこを見ながら、また静かに言う。
「対象は死後報復危険度が高い」
普通の暗殺案件なら、重要なのは“殺せるか”だ。
だがオグリキャップの場合、殺した後の方がむしろ危険だった。
「近縁・友人・所属協会の反応強度、高」
「複数協会との接点による報復経路、多」
「五本指接触歴あり」
「翼関係接触歴あり」
「上位層の関心度、高」
ここで重要なのは、単純な戦力報復ではない。
オグリを殺した場合、
* 誰が得をしたか
* 誰が依頼した可能性があるか
* 誰が情報を流したか
が、一気に都市上位層の関心事になる。
つまり依頼主秘匿のコストも、通常案件とは比較にならない。
「依頼後処理費用」
「秘匿工作費用」
「報復遮断費用」
「失敗時損害補填費用」
ブルボンは一つずつ加算していく。
そして、また試算結果を出した。
「...報復危険度込み、二次試算比一・七倍」
ここまで来ると、もはや普通の暗殺案件の数字ではなかった。
四次試算:都市構造影響
ブルボンは最後の資料を開いた。
そこには最近の協会予算変動と再編案が載っている。
セブン協会、二十五パーセント削減。
ウーフィ協会、二十パーセント削減。
改革案進行中。
オグリキャップという個人の存在が、制度にまで影響を与え始めている証拠だった。
「対象は制度変動誘発因子」
この言葉を入力したとき、さすがのブルボンも一瞬だけ沈黙した。
個人に対してつけるラベルとして、かなり異常だからだ。
「対象暗殺は、協会再編・予算再配分・交渉路線再編に影響する可能性」
「成功時、複数協会の業務負荷再変動予測」
「失敗時、シ協会への注目度急上昇」
「依頼遂行後の都市的余波、特大」
つまりオグリキャップは、単に“強い人間”ではない。
死なせた場合、制度の揺り戻しが発生する。
それはもう、一個人の暗殺案件という枠から少しはみ出していた。
ブルボンは、最後の計算式を走らせた。
長くはかからない。
だがその数秒が、妙に重かった。
端末が結果を表示する。
ミホノブルボンはそれを数秒見つめ、そして無感情に読み上げた。
「...最終概算」
「灰色の怪物暗殺案件、最低受注価格」
彼女は資料をプリント出力する。
紙が一枚吐き出された。
そこに記された数字は、もはや普通の依頼主が現実的に払えるものではなかった。
「...両協会予算削減相当額を基準とした場合」
「セブン協会現行削減幅、二十五パーセント」
「ウーフィ協会現行削減幅、二十パーセント」
「それらを都市制度変動誘発危険度として換算」
「加えて特色級戦闘費用、情報的価値損失、報復危険度、秘匿工作費用を合算」
一拍。
「推定受注価格――」
ブルボンは、少しも声色を変えずに結論を出した。
「現行シ協会一協会分の年間総予算を下回らない額」
静寂。
そこには誰もいなかったはずなのに、部屋が一気に重くなる感覚があった。
つまりそれは、こういうことだ。
オグリキャップを殺すには、
ただ高いだけでは足りない。
シ協会という巨大組織一つを一年回せるだけの金額を、最低でも前払いで要求すべき案件ということになる。
ブルボンは、出力された紙を揃えた。
「...妥当」
その判断に迷いはない。
むしろ、これより安く見積もる方が危険だと彼女は理解していた。
「対象の影響力は戦闘能力ではなく、制度影響まで含めて評価すべき」
「ゆえにこの価格は適正」
そのとき、ノックの音がした。
コンコン。
「入りなさい」
シンボリルドルフが室内に入ってくる。
後ろにはユジンとジェンティルドンナもいた。
「ブルボン、どうだった?」
ルドルフはすぐに本題へ入った。
ブルボンは一礼し、紙を差し出す。
「概算完了しました」
ルドルフが受け取り、ざっと目を通す。
その表情がわずかに固くなる。
ユジンも隣から覗き込み、息を呑んだ。
「...ここまでですか」
ジェンティルドンナは、逆に少しだけ笑った。
「まあ、当然ですわね」
ルドルフは資料から目を離さず、低く言う。
「...一協会分の年間総予算か」
「はい」
ブルボンの返答は寸分の揺らぎもない。
「これ以下では、受注時の危険度と都市的影響に見合いません」
ユジンが眉をひそめる。
「つまり、理念上は受けるが、現実的にはほぼ払えない額でふるいにかけると」
「その通りです」
ジェンティルドンナが扇子でも広げるように、優雅に言う。
「美しいですわね。“誰にでも平等な死”の理念を壊さず、それでいて無謀な依頼は通さない」
ルドルフはそこでようやく資料を机に置いた。
「...ブルボン、良い試算だ」
その言葉は短いが、十分な評価だった。
「では、これを正式な基準案として保管しよう」
ブルボンはこくりと頷く。
「了解しました」
ルドルフは窓の外へ少しだけ目を向けた。
灰色の怪物。
オグリキャップ。
今もどこかで、たぶん何も知らずにおにぎりでも食べているのだろう。
その個人に、ここまでの値段がつく。
それは恐ろしいことでもあり、同時に、都市がすでに彼女を“個人以上”として見始めている証でもあった。
ルドルフは静かに呟く。
「...怪物の値段、か」
ユジンも低く続ける。
「もはや一人のフィクサーの値段ではありませんね」
ジェンティルドンナは微笑を浮かべたまま言う。
「ええ。都市構造の値段ですわ」
ブルボンはその言葉に何も返さなかった。
だが、内心では正しい表現だと思っていた。
灰色の怪物の暗殺価格。
それはもはや、
“強い個人を殺すための費用”ではない。
その個人が動かしてしまった都市の接続を、一度断ち切るための代金だった。