ヂェーヴィチ協会西部支部、支部長室。
室内にはいつものように、どこか生活感のある空気があった。
積み上がった書類。
使い込まれた机。
壁際に置かれた予備の荷物箱。
そして、その空間の真ん中では場違いなくらい穏やかな光景が広がっている。
オグリキャップが、いつものように大きなおにぎりを両手で持ち、もぐもぐと食べていた。
その正面で、アイネスフウジンの話を聞いているのはタマモクロスとナイスネイチャだ。
二人とも神妙な顔をしているのに、当の中心人物だけが変わらず食事中というのが、この場のなんとも言えない空気を作っていた。
アイネスフウジンは軽く息を吸ってから、なるべく落ち着いた声で言った。
「...ということで、オグリちゃんがフィクサーとして働いてるだけっていうのは分かって貰えたの。けどその代わり、セブン協会とウーフィ協会の予算が減らされたの...」
沈黙。
タマモクロスの眉がぴくりと動く。
ナイスネイチャも、思わず目を細めた。
「...まじなの、協会長?」
ネイチャが半ば確認するように聞く。
アイネスは頷く。
「そうなの」
再び沈黙。
それは驚きすぎた時の沈黙だった。
やがてタマモクロスが、信じられないものを見るような顔でオグリを見た。
「オグリ、お前恐ろしいな...二協会の予算削減させた上で体制まで変更させるなんて前代未聞やぞ...」
オグリキャップは口いっぱいにおにぎりを頬張ったまま、きょとんとした。
「もぐもぐ...?」
その反応があまりにもいつも通りすぎて、余計に現実味がなくなる。
アイネスフウジンは、そんなオグリを見てから、少しだけ声を落とした。
「...多分ね、オグリちゃんに恨みを持つ人、増えただろうから。まあ...気をつけてねってことは言っておくの」
タマモクロスは、椅子の背に軽くもたれながら低く言う。
「...まあ、オグリの素直さを利用して危ない目に遭わせようとする奴はいそうやな」
ナイスネイチャも頷いた。
「...一応、警戒するようにはしておこうか」
だがタマモはすぐに付け足す。
「まあオグリやったら、多少閉じ込められたり襲われたとこで大丈夫やろな」
アイネスがふと別方向の危険を思い出したように言った。
「あとは怪しいもの食べさせられたりだけど...」
その瞬間、タマモクロスは即座に首を振る。
「その点は心配ないで。オグリは経口毒に限れば絶対に効かん特殊体質やからな」
ナイスネイチャが思わず素で聞き返した。
「え、そうなの? わたし知らなかったんだけど...」
「ああ」
タマモは当然のように答える。
「オグリの奴曰く、胃腸の強さが秘訣やそうや。訳分からんけどな」
「へ、へー...」
ネイチャは若干引き気味だった。
「一応聞くけど、どんな毒も?」
「せやな...流石に毒ガスとかは分からんけど、トリカブトみたいな食事に混ぜるような毒は絶対に効かへんわ」
アイネスフウジンは真顔になった。
「それなら安心だけど...ちょっとオグリちゃんのお腹怖いの...」
「本当にね...」
ナイスネイチャも、しみじみと同意する。
オグリはそんな会話などまるで気にせず、静かに次のおにぎりに手を伸ばしていた。
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少しして、タマモクロスがふと思い出したように口を開いた。
「...そういや協会長、ルドルフの奴が会議の場で“オグリを暗殺するなら一協会の年間予算をいただく”って言うたそうやけど、ほんまか?」
アイネスフウジンは、わずかにげんなりした顔で頷く。
「そうなの。トランセンド協会長がうっかり言ったのを、至極真面目に計算してたの」
ナイスネイチャが乾いた笑いを漏らした。
「流石、命を金に変えることに関しては一流の協会だね...」
タマモも苦い顔になる。
「まあそんな金額なら依頼する奴も居らんやろ」
「そもそも払えるわけないの」
アイネスが両手を軽く広げる。
「組織ひとつ犠牲にするなんて割に合わないの!」
「ですよね〜...」
ネイチャが肩をすくめる。
だがタマモクロスはそこで、今度は純粋な興味で聞いた。
「...ちなみにオグリの暗殺価格が高いことは分かったが、それってシ協会の相場ではどれくらいなんや?」
アイネスは少し考えるように視線を上げ、それから答えた。
「うーんと...確か、翼や協会の幹部が大体五百億〜千億眼なの!」
一拍置いて、さらに重要なことを付け足す。
「ちなみに成功報酬じゃなくて一括前払いなの!」
タマ「たっっか!?」
タマモクロスが思わず椅子から少し浮く。
「えげつない金額やな!」
ナイスネイチャも素直に引いた。
「うええ...あたしらそんな金額ついてるんだ...」
アイネスはまだ続ける。
「で、戦闘など実力に優れた証の特色フィクサーになると、さらに上がって数千億から兆に迫る金額になるの!」
「兆...?」
タマモの顔が引きつる。
「特色って、ウチもか...?」
「...多分ね」
ネイチャが妙に優しく現実を突きつける。
アイネスは少しためらってから、さらにとんでもない話を出した。
「...一応シ協会って、調律者に対しても相場価格決めてるけど...聞きたい?」
タマモクロスが顔をしかめる。
「...シ協会って金さえあれば頭にも弓引くんか?」
「...頭も都市の一部なの」
アイネスの声は妙に真面目だった。
「だから平等な死の対象って、ルドルフ協会長が言ってたの」
ナイスネイチャが少し身を乗り出す。
「...ちなみにいくら?」
アイネスはため息交じりに答えた。
「...数百兆から千兆眼なの」
間。
タマモが低く言う。
「...無理やな」
ネイチャも頷く。
「無理だね」
アイネスが断言した。
「当たり前なの」
それからタマモクロスは、ようやく本題へ戻るように言った。
「それで...オグリが“一協会分の年間予算”に相当するって言うなら...いくらになるんや?」
アイネスは手元の資料を見ながら答える。
「えっと...十二協会で予算はバラバラだけど、ヂェーヴィチ協会の年間予算は、セブンとウーフィから回ってきた分を除いても二十九兆眼なの!」
ナイスネイチャの目が見開かれる。
「...それにほぼ近いのが、オグリさんの暗殺価格?」
「ルドルフさんの考えがその通りなら...そうなの」
タマモが呟く。
「...やばいな」
ネイチャが続ける。
「やばいね」
アイネスが締める。
「やばいの」
タマモクロスは額を押さえた。
「...その金額、都市の星の案件にしたとしても上澄み中の上澄みやな...」
ナイスネイチャも静かに言う。
「...多分、青い残響が率いた残響楽団も下手すると超えるんじゃない?」
アイネスフウジンはすぐに計算するように言葉を返す。
「あれ、都市の星九人に加えて団長が特色フィクサーだった犯罪団体なの。...それをオグリちゃん一人で超えるなら...」
タマモクロスは、目の前でもぐもぐしている芦毛の怪物を見た。
「...オグリの奴、青い残響以上の大物ってことか」
オグリキャップは、変わらずおにぎりを食べている。
「...もぐもぐ」
あまりにも通常運転だった。
---
その時だった。
ぶーぶー。
オグリの端末が震える。
オグリキャップが顔を上げた。
「...電話だ」
タマモクロスが尋ねる。
「誰からや?」
オグリは画面を見る。
「...ルドルフからだな」
「シ協会長から?」
タマモの声に少しだけ緊張が混ざる。
オグリは素直に通話を取った。
「もしもし?」
シンボリルドルフの落ち着いた声が返ってくる。
『やあオグリキャップ。ちょっと連絡することがあってね。よく聞いて欲しいんだ』
「なんだろうか?」
『今後、君の暗殺依頼が入った時のために、先程シ協会で君の案件相場を概算したんだが、せっかくなら本人にも知ってもらおうと思ってね』
オグリは少しだけ首を傾げた。
「...私の相場...?」
『ああ。シ協会の本部長ミホノブルボンが概算したんだが、結果はシ協会の年間予算に相当する約三十兆八千億眼だ』
一拍。
『あくまで成功確率を保証しない最低受注価格としては、な』
支部長室の全員が耳をそばだてている中、オグリだけがいつも通りだった。
「そうか、分かった」
電話の向こうで、ルドルフがわずかに苦笑した気配があった。
『...この話を聞いてもあっさりしてるのは君らしいというかなんというか...まあ、確かに伝えたよ。じゃあね』
「ありがとう」
ぴっ。
通話が切れる。
支部長室の空気が、一瞬固まった。
タマモクロスが最初に聞いた。
「...なんの電話やった?」
オグリは、ほんの少し考えてから答えた。
「...私の暗殺価格だった。シ協会で概算したと言ってたな」
アイネスフウジンが、ごくりと唾を飲み込む。
「...いくらなの?」
オグリは何でもないことのように答えた。
「最低三十兆八千億だそうだ。シ協会の年間予算に相当するらしい」
沈黙。
その重さに対して、オグリ本人だけが何も変わらない。
ナイスネイチャが、しばらくしてからぽつりと呟いた。
「...多分オグリさんの暗殺は無理だね」
「やな」
タマモクロスが頷く。
「そうなの」
アイネスフウジンも同意した。
オグリキャップは、そんな三人を見て不思議そうにしただけだった。
「? もぐもぐ」
そしてまた、おにぎりを食べ始める。
三十兆八千億眼の怪物は、
やはり最後まで、
ただのおにぎり好きのウマ娘のままだった。