ヂェーヴィチ協会西部支部、支部長室。
支部長室の中には、相変わらずどこか気の抜けた日常の空気が漂っていた。
積み上がった依頼書類、壁際の荷物、使い込まれた机。
協会の一室らしい慌ただしさはあるのに、そこにいる面々のせいか、妙に生活感がある。
その中心で、オグリキャップが端末を耳に当てていた。
「...そうか、分かった。中指の人に伝えればいいんだな。ああ、了解した」
短くそう告げて、通話を切る。
ぴっ。
そのやり取りを見ていたナイスネイチャが、頬杖をついたまま聞いた。
「...また仲介の依頼?」
オグリキャップはいつもの調子で頷く。
「ああ。親指のシンザンから、中指に伝えておきたい話があるから言っておいてくれということらしい。縄張りがどうとか」
タマモクロスが、何とも言えない顔をした。
「...親指のアンダーボスから中指にかぁ...」
ナイスネイチャも、少し引きながら笑う。
「...指同士の仲介に立つなんて、オグリさんも大物だね...」
だが、オグリ本人にはそんな自覚はまるでない。
「早速電話しないとな」
そう言って、何のためらいもなく次の連絡先を探し始める。
タマモクロスはその様子を見ながら、ぼそっと漏らした。
「...なあ、もしかしてこういうとこがウーフィやセブンの仕事奪ったんか...?」
ナイスネイチャが乾いた声で答える。
「...まあ、そういうことだろうね。オグリさん、配達中でもしっかり電話は出るんでしょ?」
「せやな」
タマモは頷いた。
「配達中でも電話対応して、指や翼のお願い聞いて、配達時間に間に合わせるマルチタスクや」
ナイスネイチャは感心半分、呆れ半分で息をつく。
「...凄いは凄いけど...」
タマモクロスは、そこで少しだけ表情を曇らせた。
「...オグリ自身の時間が減ってる気がするな....」
その言葉には、親友としての本音がにじんでいた。
ナイスネイチャも、オグリの横顔を見つめる。
彼女は今も、何の迷いもなく次の通話を始めようとしている。
頼まれたから。
必要だから。
友達だから。
その一つ一つは、オグリにとって自然な行動なのだろう。
けれど自然すぎるからこそ、周囲には危うく見える。
「...オグリさん」
ネイチャが静かに呼ぶ。
オグリキャップが手を止めた。
「なんだ?」
「辛くない?」
その問いは、我ながら曖昧だとネイチャ自身も分かっていた。
仕事が増えていることか。
いろんな組織に使われていることか。
自分の時間がどんどん削られていることか。
その全部をひっくるめた問いだった。
だがオグリは、きょとんとしただけだった。
「何がだ?」
ナイスネイチャは一瞬だけ黙り込み、それから小さく笑って首を振った。
「...ごめん、なんでもない」
「そうか」
オグリは本当にそれで納得したようだった。
ネイチャは、机の上の資料に視線を落としながら呟く。
「...多分この子なら全部出来ちゃうんだろうね」
タマモクロスが、半ば諦めたように言う。
「...優秀なのも考えもんやな。まあオグリにとっては、食事さえ奢られればあっさり受け入れるんやろうけどな...」
「...そうだろうね」
ナイスネイチャも頷く。
オグリキャップはそんな二人の会話の意味を深く考えることもなく、端末を耳に当てた。
「...ああ、確かに伝えた。...今度食事に? 分かった。ありがとう」
ぴっ。
通話が終わる。
タマモクロスがすぐに聞いた。
「...中指はなんやて?」
オグリキャップの表情がわずかに緩む。
「...伝えてもらったお礼に、今度食事を奢るそうだ。...ふふ、楽しみだな」
その素直な喜び方に、タマモクロスは顔を覆いたくなる。
「はぁ...もっとふっかければええのに...」
ナイスネイチャが苦笑する。
「...まあ、オグリさんの一回の食事って案外バカにならないし...何しろ健啖家だから...」
「それはそうやけどな...」
タマモクロスはため息をついた。
オグリキャップは、そんな二人を不思議そうに見返す。
「?」
そのときだった。
コンコン。
支部長室の扉がノックされる。
ナイスネイチャが顔を上げる。
「? どうぞ〜」
扉が開き、白地に水色のラインが入ったコートとハットを纏ったウマ娘が姿を見せた。
特色フィクサー「水色の女王」アーモンドアイだった。
「失礼するわ」
タマモクロスが、少し意外そうに目を細める。
「誰や思うたらセンクのアーモンドアイやないか。どうしたんや?」
アーモンドアイは室内の空気をひと目で読み取ったように、わずかに眉を上げた。
「オグリさんの様子を見に来たのよ。...なんか電話しても繋がらなかったから」
「ああ...」
タマモが頷く。
「オグリの奴、親指や中指と立て続けに電話しとったからな...」
「...仲介?」
アーモンドアイの視線が鋭くなる。
「仲介」
ナイスネイチャが淡々と返す。
「...対価は?」
「中指が食事奢る言うて納得したらしい」
タマモクロスが答えると、アーモンドアイは片手でこめかみを押さえた。
「...はぁ、そういうことね...」
彼女はそのままオグリキャップの正面まで歩いていく。
そして、まっすぐ見つめた。
「オグリさん、貴女はもっと自分の価値を理解した方がいいわ」
その言葉には、センク協会の特色らしい厳しさがあった。
「今の貴女、二協会を経営危機に追い込む程の価値を持ってるのよ。だからもっと強かに動いたりとか、もっと対価要求したりとか...」
オグリキャップは、やはりよく分かっていない顔をした。
「...?」
タマモクロスがすかさず口を挟む。
「アイ、ダメや。こいつ強かの意味すら分かっとるか怪しい」
アーモンドアイは深くため息をついた。
「...はぁ、筋金入りね」
ナイスネイチャが肩をすくめる。
「...正直、オグリさんって金に執着あるタイプじゃないしね。いちおうオグリさんのおかげでヂェーヴィチ協会の予算増えた分、オグリさんの給料アップしたけど...」
アーモンドアイがそこで思い出したように言う。
「オグリさんって確か、高額報酬のヂェーヴィチ協会を選んだのも母親への仕送りらしいわね...」
「せやで」
タマモクロスが頷いた。
「オグリ自身はあんまりお金使おうとしないわ。せいぜい飯買ったりやな」
アーモンドアイは少しだけ表情を和らげた。
「...オグリさんって、なんでそんなに食事が好きなの?」
オグリキャップは、その問いには迷いなく答えた。
「食事をしてる時はみんな平和だからな」
その声は静かだったが、まっすぐだった。
「美味しいものを食べて幸せな気持ちになれるのは良いことだ」
支部長室の空気が、ほんの一瞬だけ止まる。
タマモクロスが視線を逸らしながら言う。
「...きっとこいつにとっては、食事の時間=誰も敵にならないもんやと思うとるな」
ナイスネイチャも、苦い顔をした。
「...世の中そんな甘くないんだけどね...」
アーモンドアイは、オグリの横顔をしばらく見つめていた。
それから、ようやく小さく息を吐く。
「...まあ、オグリさんが幸せと思ってる以上...無理に止めるのもできないわね」
オグリキャップはまた不思議そうに首を傾げる。
「?」
その時、腹の虫が正直に鳴いた。
ぐぅー。
オグリがきっぱり言う。
「...お腹が空いたな」
アーモンドアイは、そのあまりの自然さに一瞬だけ目を瞬かせたあと、少し笑った。
「...ねえオグリさん。もし良かったら今夜どこかに食べに行かない?」
オグリの顔がわずかに明るくなる。
「...良いのか? アイ」
「...まあ、貴女の食事に付き合うのは嫌いじゃないわ」
「ありがとう」
オグリキャップが素直に微笑む。
そのあまりにも濁りのない笑みに、アーモンドアイは一瞬言葉を失った。
「...本当に純粋そのものね」
「せやな」
タマモクロスが頷く。
「そうだね〜...」
ナイスネイチャも、苦笑混じりに同意した。
オグリはやはり何のことか分かっていない。
「?」
しばらくして、タマモクロスが何気なく言った。
「...こいつ、こんなんでも三十兆八千億眼の価値があるんやけどな」
ぴくり。
アーモンドアイの眉が動いた。
「...三十兆八千億? ...何その数字?」
ナイスネイチャが答える。
「ルドルフ協会長のシ協会が、万が一オグリさんを暗殺するならその価格以上じゃないと受けないって言ってたんだよ」
タマモクロスが続ける。
「確かシ協会の年間予算らしいわ」
アーモンドアイはしばらく無言だった。
それから、呆れとも感嘆ともつかない声音で言う。
「...はぁ、規格外も良いとこね」
タマモクロスが肩をすくめる。
「食事に換算したら都市中の食料買いあされるわ」
オグリキャップは、その会話すらどこか遠くの話のように聞き流しながら、おにぎりを口に運んだ。
「? もぐもぐ」
三十兆八千億眼の怪物。
親指と中指の仲介人。
二つの協会を揺らした例外。
それでいて、今夜の食事の約束を嬉しそうにしているだけの少女。
そのあまりの落差に、支部長室の三人は、もう笑うしかなかった。